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コロナで考えざるをえない自分や近親者の生死

7/7 15:31 配信

東洋経済オンライン

 新型コロナウイルス感染症のパンデミック(世界的流行)は、収束の兆しが見えないどころか、気が緩みがちだったわたしたちの日常に再び暗い影を落とし始めている。7月に入って東京都で1日100人以上の新規感染者数が続くなど、全国で再び感染拡大を始めており、これが高齢者や特定の疾患を持っている者などハイリスク層へ拡大した場合、医療提供体制が逼迫することが懸念されている。

 専門家の間では、第2波、第3波のほうが第1波に比べて病原性が高くなる可能性が指摘されており、今後の状況次第ではハイリスク層の範囲が予想外に広がる恐れすらあるだろう。医療提供体制の逼迫は、すでに緊急事態宣言下で経験したとおり、救急医療をはじめ通常の外来診療や手術などにも支障を来す。要するに、「自分はハイリスク層ではないので大丈夫」では済まないのである。

■最悪は「命の選別」をも容認する風潮に加担

 だが、いまだにパンデミックを「特定の世代」「特定の疾患を持つ者」にとっての災厄とみて、程度の差こそあれ他人事のように受け流してしまっている人々は多い。これが最悪の場合、「命の選別」をも容認する風潮に加担するのである。

 これは決して日本だけにとどまる話ではなく、世界各国で多かれ少なかれ表れている傾向だ。アメリカに基盤を持つ国際的な人権NGOのヒューマン・ライツ・ウォッチは、すでに4月時点で高齢者に対する人権侵害があることを訴えていた。

ウイルスによる深刻な症状や死亡のリスクが高いことに加えて、差別が高齢者の権利を脅かしている。新型コロナウイルスの経済的影響を論じた英国のある新聞のオピニオン記事には、高齢者の死が「高齢扶養家族を減らせる」ので、有益かもしれないと書かれていた。ウクライナの元保健相は3月22日のインタビューで、65歳以上の人びとは「すでに遺体」であり、政府は新型コロナウイルス感染症対応を「まだ生きている」人に集中すべきだと述べた。(新型コロナウイルス感染症の対応 高齢者の人権侵害も/2020年4月7日/ヒューマン・ライツ・ウォッチ)

 「65歳以上の人びとは『すでに遺体』」という言葉は非常に衝撃的ではあるが、日本でも、高齢者が集中治療を若者に譲ることを想定した意思カードが話題になった。「新型コロナウイルス感染症で人工呼吸器や体外式膜型人工心肺『ECMO(エクモ)』などの高度治療を受けているときに機器が不足した場合には、私は若い人に高度医療を譲ります」と記載されたもので、賛否両論を呼んだために記憶している人もいるだろう。

 そもそも「65歳以上」「高齢者」と、特定の年齢層に単一のイメージを押し付ける作法にすでに差別の萌芽がある。「子ども」「若者」「サラリーマン」「主婦」「高齢者」といったステレオタイプに基づく言説や政策は、非常時にはなおさら悪夢のような光景をもたらす。

 なぜならそこに個々の事情がある「顔の見える他者」はいないからだ。加えて、日本は欧米のような個人主義が強くなく、先述のような意思カードが定着してしまうと、自分の意思よりも「世間体」を優先して治療を諦める人が相次ぐことが危惧される。「若い人に譲る」ことの既成事実化である。

 さらにもっと問題が根深いのは、わたしたちは「高齢者」などとひとくくりにしがちであるが、不思議なことに自らが高齢者になることは驚くほど想定されていないことだ。これは老化への反動であるアンチエイジングブームの奥底にある「時間感覚」の欠如とでも評すべきものだ。

■わたしたちは健康体ゆえの無責任な立ち位置を好む

 「時間」とは何か?  それは生成と消滅であり、誕生と死であって、誰1人この制約からは逃れられない。しかしながら、わたしたちはしばしば重大な決定をする際に「時間の外」にいるのだ。衰えたり、病んだり、死んだりしない社会的な存在として物事を判断するのである。

 自他が生物的な存在であることをケロリと忘れてしまい、よって周囲の「身体性を考慮しなくなる」厄介な思考である。ほとんどすべての現役世代が確実に介護が必要な高齢者(あるいは障害者)、つまりは「災害弱者」に仲間入りをするにもかかわらず、「生産年齢人口」という繭(まゆ)に包まれた健康体ゆえの無責任な立ち位置を好むのだ。

 例えば、個人が主体的に決める延命措置の停止(これはこれで解決が困難な課題がいくつかある)と、優先順位ありきで実質的に強制される延命措置の停止には、外見上似たような光景に映ったとしても天と地ほどの開きがある。後者は、津久井やまゆり園の事件で顕在化した優生思想的な「命の選別」を容認する空気を作り出すことだろう。

 地球温暖化による気候変動などの影響を踏まえれば、コロナ禍のようなパンデミック、いやそれ以上の規模の生物災害が、遠い将来、高齢者として生きることになる世代にも襲いかかることは明白だ。今、子どもや若者といった年齢層に区分けされている人々も高齢者になれば、同様の境遇に置かれることぐらいは容易に想像がつくだろう。

 仮に、先の「65歳以上の人びとは『すでに遺体』」という極端な考えを「生産年齢人口」的な立場から肯定した場合、その時点で「(高齢者となる)未来の自分自身」をも「遺体」として扱われる側になることに同意したということになるのだ。これは「生産性」という尺度の暗黒面といえる。

 前出の記事に登場するヒューマン・ライツ・ウォッチの高齢者の権利担当調査員ベサニー・ブラウンが、「高齢者の平等権が無視されれば、それはわたしたち全員が危機に直面しているということにほかならない」と警告したのは、このような「時間」経過によるブーメランの側面も含意されていたと考えるべきだろう。

 目下、「withコロナ」(コロナとの共生) に関する議論が盛んに繰り広げられているが、そこで重要になるのは「新しい生活様式」「ニューノーマル」などという表層的なフレーズで表されるものではなく、先述したようにわたしたちが普段語ることを避けている「生と死の問題」への向き合い方である。

 今回の感染症による日本での死者数は、現状では欧米諸国などに比べて多くはないとされているが、とくに4月上旬から5月下旬にかけて発令された緊急事態宣言の状況下などにおいては(実際のリスクの有無に関係なく)「もし自分が感染して死んでしまったら……」といったふうに、「死の可能性」を考えた人は少なくなかったと思われる。

■「身体の限界」を突きつけられる

 もちろん、さまざまなメディアが批判しているとおり国家レベルの過誤によって助かる命も助からないという人災の側面も当然あるわけだが、「生と死の問題」の本質は、感染症対策を徹底していても感染・発症することが起こりうること、適切な検査や治療が施されても助からない場合がありうるという部分にこそある。このような「身体の限界」を突きつけられる局面は、何も新型コロナウイルス感染症に限ったことではない。

 イギリスのウェールズ・カーディフ大学の緩和医療教授で、医師でもあるイローラ・フィンリー氏は、コロナ禍という状況下で万が一の場合に備えて、「もし自分が死んだらどう扱ってほしいのか、誰もが考えて、近親者に伝えるべきだ」と言った。

「これまでは何でも自分の思うとおりに準備できると思っていた人たちがいよいよ、気づいたわけです。私たちは常に不確かな状態で生きていると。今ではその現実を、真正面から突きつけられているのです」と、フィンリー医師はBBCに話した。

「そこで今や考えなくてはならないわけです。『本当に大事なことは何なのか』と。大切な人たちとどういう話をしておくべきなのか。それも今。明日とかあさってではなく。そして何と言っておくべきなのか」(「死について話をしておいて」 新型コロナウイルスで英医師たち/2020年3月31日/BBC News)

 大半の人々は常日頃、「明日死ぬかもしれない」などと切迫感を抱いて生きているわけではない。しかし、突然の事故や病気などによって生命を絶たれることは誰にでも起こりうることだ。いわばコロナ禍はそのうちの1つにすぎないわけである。

 わたしたちの多くは一時的にせよ、コロナ禍をめぐる報道やソーシャルメディアの情報に接しながら、死という最悪の事態を身近なものとして感じ取るだけでなく、生きることそれ自体に内在する根源的な不安に気づく、いわゆる「実存のスイッチ」がオンになった。

 それは、「自己の身体」と称しているものが社会的な装飾と概念に覆われたものにすぎず、究極的にはコントロールが不可能な自然の産物であることを受け止めることにつながる。コロナ禍がなかったとしてもわたしたちの生命は例外なく終わりを迎えるからだ。しかもどのような終わりを迎えるかはまったく不確実である。「私たちは常に不確かな状態で生きている」というフィンリーの至言は、まさにこの真理を率直に物語っている。

■withコロナ時代はwithデス時代の小さな再興

 だからこそ「本当に大事なことは何なのか」という感慨に至るのである。コロナ禍によって仕事や人間関係、ひいてはライフスタイルそのものを根本的に考え直す人々が増えているのは、経済的な理由だけではなく、前述の「実存的な理由」も少なからず影響しているだろう。

 「明日死ぬかもしれない」という境地から導かれる内省は、必然的に「今の生き方」の妥当性を問いかけるからだ。「withコロナ」時代は、「withデス」(死とともに歩む)時代の小さな再興でもありうるのである。

 いみじくもカミュは、『ペスト』をこのような言葉で締めくくっている。

ペスト菌は決して死ぬことも消滅することもないものであり、数十年の間、家具や下着類のなかに眠りつつ生存することができ、部屋や穴倉やトランクやハンカチや反古(ほご)のなかに、しんぼう強く待ち続けていて、そしておそらくはいつか、人間に不幸と教訓をもたらすために、ペストが再びその鼠(ねずみ)どもを呼びさまし、どこかの幸福な都市に彼らを死なせに差し向ける日が来るであろうということを。(カミュ『ペスト』宮崎嶺雄訳、新潮文庫)

 わたしたちは、コロナ禍があぶり出した固定観念という盲点に敏感であり続ける余裕を持ちながら、自分自身や親しき者の死すべき運命に背を向けずにしぶとく生きてゆくほかはなさそうだ。

東洋経済オンライン

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最終更新:7/7(火) 15:31

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