年収1500万が中途障害で暗転「非正規雇用」の現実、58歳男性「何もできない人」と見なされる苦悩

4/6 5:51 配信

東洋経済オンライン

一定数以上の従業員を抱える事業主には、障害者の雇用が義務づけられている。全体の雇用者に占める身体や知的、精神障害者の割合を定めたものが「法定雇用率」だ。
この4月、その法定雇用率が2.3%から2.5%に変更された。従業員40人に1人は障害者を雇わねばならない。さらに2026年度には2.7%に引き上げられる予定だ。しかし、満たせない場合、納付金の支払いや行政指導、企業名の公表などのペナルティーがあるものの、従来の2.3%でさえ達成率は約50%にとどまる。

■突然の障害で職を失う

 「ただ障害者というだけで、周囲から『何もできない人』と見なされる。それが働く中で一番つらい」

 そう語るのは、神奈川県茅ヶ崎市の濱田靖さん(58歳)。肢体不自由で身体障害者手帳2級を所持する。右半身がマヒしており、上肢は親指と人さし指しか動かせず、下肢はひざから下の感覚がほとんどない。

 障害を負ったのは2004年9月のこと。茅ヶ崎市の病院で健康診断を受けた際、採血中に意識を失った。気づくとベッドの上に寝かされていたが、全身の筋肉が硬直して目も開けられない。妻に迎えに来てもらい、借りた車いすに乗って帰宅。玄関でまた昏倒し、翌日の朝まで目覚めなかった。

 療養のために実家がある佐賀県へ帰省すると、医者からは「脳に小さい梗塞のような痕跡がたくさんある」と言われた。頸椎や脊髄の損傷も発覚。約1カ月半にわたり入院し、懸命なリハビリの末に杖をつけば歩けるまで回復した。医療事故を主張したが、健康診断を実施した病院側は認めず、民事訴訟でも敗訴に終わった。

 濱田さんはそれまで、特に大病を患った経験はなかった。高校卒業後、難関大学の受験で2年浪人するも、かなわずに就職。何度か転職し、30歳で接着剤や塗料を開発するベンチャー企業の立ち上げに携わった。少人数だったため、営業や施工、新製品の研究など、多岐にわたる業務をこなした。

 激務と引き替えに事業は軌道に乗り、ピーク時の年収は約1500万円に達したという。経済的に恵まれた生活環境は、身体障害者となってから一変。事情を勤め先に説明すると、すぐにリストラされた。退職金も出ず、生活のために貯金を切り崩す毎日。佐賀では障害者向けの求人は少なく、神奈川の自宅へ戻り、ハローワークに通った。

 「体が不自由になったとはいえ、頭はハッキリしている。何か自分にもできる仕事があるはず、という思いが心の支えだった」(濱田さん)。ところが、新しい職場は決まらなかった。企業が優先的に雇いたがるのは、受け入れが容易な軽度の障害者。症状が比較的重い濱田さんは、なかなか採用に至らなかった。

■8年で4社を渡り歩く

 半年ほど過ぎたころ、「自分は誰からも必要とされていない」と心が折れた。妻に「目が死んでいる」と心配され、精神科を受診すると診断は重度の鬱病。飼い犬に癒やされて少しずつ立ち直ったが、約10年間は働けずに無収入状態が続いた。

 濱田さんの介護のため、妻は仕事を辞めてパートタイマーになっていた。子供はおらず2人暮らしだったが、その収入だけでは家計を支えきれず、貯金はやがて底をついた。改めてハローワークへ通い始めると、障害者向けの合同面接会への参加を勧められた。

 ここから濱田さんの「流浪」が始まる。再び働き始めた2015年から8年間で計4回の離職を経験するのだ。そのうち3社は上場する大企業、1社も上場企業のグループ会社だった。障害者の法定雇用率が上がり、企業の社会的責任(CSR)を重視する風潮が高まった結果、働き口は以前よりも見つけやすくなっていた。

 ただ、どの会社でも待遇はパートか契約社員だった。最初に入ったガス会社の月給はおよそ15万円、手取りで約12万8000円。低賃金以上につらかったのは、満足に仕事を与えられないことだった。入社初日に上司から言われたのは「あなたは勤務時間中、ここに座っているだけでいい」。コールセンターのオペレーターとして採用されたものの、最初から法定枠を埋めるための数合わせでしかなかったのだ。

 濱田さんが「ちゃんと働きたい」と訴えると、ようやく業務が割り振られた。ただ、障害への無理解も感じた。例えば、大量の書類を運ぶように指示されても、濱田さんは持てない。「できない」と言うと、「業務をより好みしている」と受け止められてしまう。心理的に落ち込み、約3カ月で退職した。

 かつての経験を生かそうと、営業職の求人を探した。だが、障害者枠では見つからない。一般枠での応募も考えたが、それで採用されると、障害への合理的配慮を受けられなくなる懸念があった。濱田さんは低気圧の日に体調を崩しがちで、通院が必要になる。急な欠勤を認めてくれる職場でなければ、働くのは難しい。

 結局、事務職で貿易やコンサルなどの会社を転々とした。この間の年間最高収入は約260万円にとどまる。濱田さんは「戦力になれる自信はあったのに、社会は中途障害者に冷たいなと感じた」と振り返る。

■対話で関係性築きやりがいも

 1カ所だけ、やりがいを感じられる職場もあった。2016年から契約社員として3年間在籍した種苗メーカー、サカタのタネだ。造園を担当する部署(現在は分社化し、サカタのタネグリーンサービス〈GS〉)に配属された。

 当時の上司だった富張公章・現サカタのタネGS常務取締役は、「入ってきたばかりの時は正直、どう接したらいいのかわからなかった」と打ち明ける。トラブルを避けるため、最初の半年間は当たり障りのない、簡単な軽作業ばかりを頼んでいた。

 濱田さんもフラストレーションをためていたのだろう。怒りっぽくなり、計20人ほどの部署内で腫れ物のように扱われていた。転機となったのは、2人で酒を飲みに行った際、濱田さんが「障害者でも働ける。自分の価値を認めてほしい」と直談判したことだった。富張さんは「それなら会社に『欲しい』と思われる人材にならなきゃいけない」と返答。腹を割って話し合い、富張さんは濱田さんの半生や悔しさを知った。

 部署内では各々が自分の抱える案件を管理し、どの施工がどこまで進んでいるのかを俯瞰する手段がなかった。改善案を求めると、濱田さんはエクセルで工程を管理する表を作成。そのうち、部内の全員が濱田さんに情報を上げ、進捗状況を一元化するようになった。

 さらに濱田さんは独学でPCスキルを学び、行政機関の報酬基準などを基に、造園工事の見積もり額を自動で算定するシステムを構築。いつしか部署にとって、なくてはならない戦力となっていた。「精神的にも安定したのか、とっつきにくさが減った。同僚からの信頼も徐々に得ていた」(富張氏)。

 濱田さんは障害のため、パソコンの操作に健常者より時間を要した。「仕事が遅い」と不満を募らせる社員も当初はいたが、コミュニケーションが深まるにつれて、文句を言う人はいなくなった。特性の1つだと周囲が理解したのだ。

 富張氏はこう語る。「濱田さんは今も仲間だと思っている。相手の状況を知り、立場に沿って対応を考える大切さを学んだ。健常者だろうと障害者だろうと、その重要性は変わらない。部下と接するうえで、共に働いた経験はずっと役立っている」。

 会社側も濱田さんを評価し、雇用契約の無期転換を提示。だが、分社化に伴う事業再編で決まりかけていた昇給が白紙となり、条件面で折り合わずに退社した。それでも濱田さんは「障害者になった後、初めて自分を認めてくれた」と深く感謝している。

■障害者の働き方を研究

 濱田さんはサカタのタネに勤務していた2018年、早稲田大学人間科学部のeスクール(通信教育課程)に入学。亡くなった母親が「いつか大学に再チャレンジするために」と残してくれた遺産を学費に充てた。

 終業後や休日に受講を進め、少しずつ単位を取得。福祉工学のゼミでは障害者の労働環境の改善方法を調べた。2023年3月に当時の職場で雇い止めされてからは学業に専念し、「リモートワークや支援機器が運動機能障害者の働き方をどう変化させるか」というテーマの卒論を提出、今年3月に卒業した。

 現在は月に4~5件ほど採用面接を受けているが、まだ就職先は見つかっていない。これまでの経験や大学で得た知識を基に、企業と障害者を仲立ちするような事業を始められないか構想中という。

 障害当事者の目線から働きやすい職場環境を説く講演活動にも取り組みたい考えだ。濱田さんはこう強調する。

 「私は自分が障害者になるなんて、夢にも思っていなかった。つまり、誰の身にも起こりうるということ。障害を持つ労働者がいい意味で特別扱いされず、『やればできる』という可能性を広く認められる社会にしていきたい」

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最終更新:4/7(日) 11:08

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