「触れてはいけない存在」昭和天皇崩御が露わにした日本社会の構造

4/6 15:02 配信

東洋経済オンライン

戦後80年・昭和100年の今年、2つの知性「小説家・奥泉光×政治学者・原武史」による白熱対話『天皇問答』が発売。神格化のはじまり、「大正流」の可能性、昭和の戦争と熱狂、行幸啓の変遷、宮中祭祀の内実、「平成流」の功罪、「象徴」の意味、令和の空気、皇室のこれから……など、多くのテーマや問題を縦横に語り合い、近代天皇制の本質に迫り、この国のかたちと行く末を問いかける。話題の書より一部抜粋してお届けする。

■昭和天皇崩御のときの異様な雰囲気

奥泉
 1989(昭和64)年の昭和天皇の崩御、あのときの異様な雰囲気はたいへん印象に残っています。戦後の天皇制について私たちが十分な理解をしてこなかった事実が露呈したと痛感しました。

 このことを考えるにあたって、戦後昭和を3つの時期に分けてみます。オーソドックスな分け方だとは思いますが、①占領期から復興期(1945〜1955年)、②高度成長期(1956〜1973年)、③石油ショックからバブル期(1974〜1989年)そして改元。

 社会の3つの層──支配的エリート層、中間層、一般大衆層──について言えば、支配的エリート層は、吉田茂に代表されるような、日本人の宗家としての天皇家のイメージで象徴天皇制を捉え、大衆は、内実ははっきりしないものの、戦前に引き続く支持を天皇に対してしていて、これをGHQは占領統治に利用することになった。一方で戦前戦中に最も強く天皇崇拝を内在化していた中間層は、アンチ天皇に反転する傾向が生じた。

 私は1956(昭和31)年生まれなので、物心がついたときには高度成長期のただ中だったんですが、3つの層の枠組みが一定のリアリティをもっていたのは、高度成長期くらいまでかなと思います。70年代初頭くらいまではかろうじてその枠組みにリアリティがあった。ところが70年代半ばくらいから、3つの層の区分けはそれほどくっきりしなくなっていった。

 天皇について言えば、かろうじて存在していた高度成長期の中間層は、私の印象としては、濃淡はあれ基本的にはアンチ天皇制だったと思います。もちろん逆の主張をする人たちも一部にはいましたが。他方、一般大衆はやはりよく見えなかった。

 その後、石油ショックからバブル期に入って、中間層と大衆の境界がはっきりしなくなるにつれて、人々は天皇のことをそもそも考えなくなった気がします。天皇の国事行為はもちろんあって、外交に関わる活動もありましたが、見慣れたいつもの風景というか、誰もとくに気に留めるふうはなくて、70年代半ば以降、天皇の存在感は薄れていったのではないかと思います。

 ところが、89年の崩御の際、天皇の身体というものが俄然浮かび上がってきた。そうなってみると、依然として天皇がある種のタブーとして存在していることに気づかされた。それが代替わりのときの私の経験です。タブーというのは、簡単にいうと、触れてはいけない存在ということですね。

 たとえば、道を歩いていて向こうから大谷翔平がやって来たとする。そうすると、私たちは握手を求めますよね。求めないか(笑)。少なくとも求める人はいるはずです。私も本を出すとサイン会をやったりしますが、なぜだか知らないけど「握手してください」という人がときどきいます。相手が芸能人でも総理大臣でも握手を求めることはできると思いますが、天皇と握手はしにくい。「握手してください」とは言いにくい。そう言える人もなかにはいるのかな。外国人なら平気なのかもしれませんね。

 しかしとにかく天皇は触ってはいけない存在だという感覚は、日本国民にはなんとなくある。とくに霊威を感じているわけではないが、神社などの宗教的な施設で「ここから先は神域だから絶対に不可侵ですよ」と言われると、禁を破りにくいということがありますが、これと同じような意味で、一種の不可侵性を依然として昭和天皇は持ち続けていたと思います。

■歴代天皇で初めてだった手術


 今のお話を聞いていて一つ思い出したことがあります。私は1987(昭和62)年に日本経済新聞社に入りました。その前は国立国会図書館に勤めていたのですが転職をしまして、東京の社会部に配属されました。この年の9月、天皇は戦後唯一訪れていなかった沖縄県に行くはずだったのですが、その矢先にガンが見つかったのです。もちろんそうは公表されず、「慢性膵炎」と発表されましたが、沖縄行幸は中止になり、すぐ手術だというわけで、玉体にメスを入れることになった。手術すること自体が歴代天皇で初めてで、まさにタブーを破ったわけです。

 日経の社会部にも当然ながら宮内庁担当がいます。通常はそれほど忙しくはないのですが、朝日新聞が天皇の病気をスクープしてから大騒ぎになりまして、手術を機に臨戦態勢に入りました。私は当面、交代で宮内庁の張り番となりました。張り番と言っても、実際には特オチを避けるために記者クラブで待機しているだけ。万一何かあっても、宮内庁に待機していればすぐにわかる。そのときにいないと自社だけが出遅れてしまう。だから最低1人は宮内庁にいる必要があったわけです。

 宮内記者会の記者証をもたされ、宮内庁に行くときには坂下門から車で入りました。門には守衛がいて記者証を見せるわけですが、ひとたび入ると世界が変わりました。自動販売機一つ置いてありません。俗界から禁域に入る感じでしたね。

 最終版の締切が、当時は午前0時50分でした。しかし、1時過ぎくらいまではなんとか突っ込めるから、1時半くらいまではいました。そういうわけで、宅送りの車で帰宅するとどんなに早くても2時過ぎじゃないですか。しばらくそういう日々が断続的に続きました。それがもとで体を壊したのですが、あのときの記憶がかなり強烈でしてね。なぜこんなことをやっているかわからないわけです。合理的に考えれば、通信社の共同と時事に任せておけばいいのに、なぜ真夜中までいなくてはいけないのか。万一のために新聞社やテレビ局含めてみな待機しているわけです。

 しかし何もやることがない。記者クラブの窓から、富士見櫓(ふじみやぐら)の上空にかかる月を見る。お濠の向こうに丸の内や日比谷のネオンが輝いている。俗界の塵や欲望が渦巻いているように見えたものです。唯一の楽しみは張り番が終わり、車に乗って帰宅する途中、乾(いぬい)通りを経由して乾門へ向かうとき。いま乾通りは春と秋に一般公開されていますが、当時はまったく公開されていませんでした。乾門まで700メートルほど車がゆっくり進んでいくわけですが、秋には前照灯に照らされて紅葉が浮かび上がるのです。誰も見たことのない東京の風景を見ている感覚がありました。

 たとえ宮内庁が公表しなくても、天皇の真の病気はガンだというのはなんとなくわかっていました。それでEQ部屋というのがつくられました。EQというのはEmperorとQueenという意味です。いつ天皇と皇后が死去してもいいように、予定稿をつくっておくんですね。ところがそこからがものすごく長かった。

■侍医長や侍医の家の夜回りに行くと…

 宮内庁詰めをしばらくやったあとには、侍医長や侍医の家の夜回りにも行かされるわけです。なぜ行くかと言えば、その日の天皇の体温や血圧、脈拍数、下血の有無などを聞き出すためです。これをやっていると、玉体のイメージが崩れてくる。「下血」なんて言葉を聞くと、否が応でも天皇も一人の老人にすぎないことが実感されてくる。宮内庁詰めになったときとはまた違った発見がありました。

 ほかの全国紙は地方にいる記者を呼び寄せてにわかに宮内庁担当の数を増やしたりしていた。日経にはそんな体力はないので、私のような1年目の記者の負担が一番重くなるわけです。たまったもんじゃないですよ。他社の3人分くらいをこっちは1人でやっている。体が持ちません。そういう、ある意味では壮絶な体験をしました。

奥泉
 なるほど。たしかにあのとき、王の身体が日本という国の時空間を支配している現実が浮かび上がった気がしました。普段は意識しなかったことです。天皇のことなど全然考えないで毎日暮らしていた。ところが天皇の聖性はなお生きていた。戦前戦中にあった現人神としての天皇の聖性は、戦後の「人間宣言」を経てなお、戦後にも持ち越されてきたと考えていいんでしょうね。


 そうですね。

■天皇崇拝の構造

奥泉
 一君万民のイデオロギーをリードした戦前の中間層に対して、1960年代以降は天皇制否定を基調とする新しい中間層が生まれていた。戦前と戦後はかなり対照的だと言えますが、実際に天皇制はなくなったわけではない。とはいえ、天皇の帯びる聖性は薄れていっていると感じていたんですが。


 当時、社会部のデスクだった人たちは、1968(昭和43)年か69年くらいに新聞社に入った世代でした。当時はまさに大学が一番荒れた時代です。だいたい学生運動を大学でやっていて、一般企業はどこも採用してくれないから新聞社を受験して入ったという人が多かったのをよく覚えています。だから当然、反天皇が根底にある。なんでこんなことをやらなきゃいけないんだ、往生際の悪い奴だな、などとぶつぶつ言いながらやっていた。新聞社としては自社だけが特オチというのは完全な失態になるからしかたなく行きますが、だれも進んではやっていなかったのです。

奥泉
 そこが興味深いところですよね。昭和天皇は戦後の行幸でものすごく人を集めた。戦前と変わらぬ熱狂的な天皇崇拝の場が出現した。それはそうだと思います。しかしその人たちが家に帰ってどうだったか。家に帰ったら全然違うことを言っていたのではないか。公の場面では天皇を崇拝しているかのように振る舞うが、反天皇制の思想を抱く新聞社の人たちが「なんでこんなことしなきゃいけないんだ」と思いながらも、社員の役割としては天皇の病状を仔細に伝えなければならないと考えるのと同じような意味において、ある制度の枠内で、天皇崇拝というものは表現されてきたのではないか。


 戦前もそうだったのではないか、と? 

奥泉
 そうなんです。そこがポイントです。じつは戦前も同じで、天皇と臣民という役柄構造のなかにのみ天皇崇拝はあった。それが私は言いたいのです。戦前戦中も天皇崇拝の構造は変わらなかった。


 それはそうだと思います。同時代のドイツやイタリアと比較して、イデオロギーが希薄だった。

奥泉
 中間層がアンチ天皇制になり、人々が関心を失ったように見えつつも、役柄構造に支えられた天皇の聖性はずっと持続していて、それが崩御のときに露呈した。


 そうですね。戦前と戦後がつながっているというのは、宮内庁詰めになったときにもけっこう感じたことです。そもそも宮内庁の建物自体が戦前の宮内省とまったく同じ。あそこって本当に怖いんですよ。だいたい夜7時くらいに入るのだけれども、何もやることがない。そうするとあまりに退屈なので、ちょっと建物のなかを探検してみたことがあります。灯りが点いているのは記者クラブの部屋だけなのです。ひとたび部屋を出ると何があるかわからない。ましてや外は真っ暗闇で、非常に恐ろしい。だから皇居というのは、夜になるとそれ自体が禁域であるということがひしひしと身体に伝わってくる。

 建築史家の藤森照信さんが、『建築探偵の冒険 東京篇』(ちくま文庫、1989年)のなかで皇居前広場に立ち込めている空気を「打ち消しのマイナスガス」と表現しましたが、そういう環境がタブーをつくり上げているという感じがすごくするのです。

奥泉
 なるほど。

■昭和の聖性、平成の聖性

奥泉
 昭和から平成になりますね、そこでどう変化したか。同じように天皇の聖性、天皇の身体に対する不可触の感覚は持ち越されたと考えてよいのでしょうか。


 ちょっとそれは違うような気がします。そもそも、身体が違うわけです。

奥泉
 ええ、それは決定的ですね。


 たとえば肉声。昭和天皇の肉声には独特な抑揚があった。玉音放送のあの有名な抑揚です。たとえ人間宣言をしてもそういう身体性はもちろん変わらないわけで、晩年になってももちろん変わらない。正月二日の一般参賀のときに国民の前に現れて「今年もよい年であることを希望します」と言う身体と、玉音放送で「耐え難きを耐え……」と言う身体は変わらない。

 実は国立国会図書館の職員だった1986(昭和61)年に、国会職員の特権で一度だけ開院式に臨んでおことばを読み上げる昭和天皇の肉声を生で聴いたことがあるんです。なんというか、あの肉声の感じはちょっと只者ではない。それが代替わりして、急に声が軽くなった感じがしたわけじゃないですか。それで平成の天皇は最初、ものすごく評判が悪かった。

奥泉
 そうでしたっけ? 


 はい。いまやほとんど忘れられていますが、どうしても昭和天皇と事あるごとに比較され、重々しさがないと言われたのです。

奥泉
 それを言ったのは主に右派の人たちではないですか? 


 明治から大正に変わったときに似ていると思いますが、「軽い」とか「存在感がない」とか、右派に限らず、一般的な印象としてあった。うちの父親なんかも言っていましたからね。要するに天皇といえばどうしても昭和天皇のイメージなのです。しかも大正期と同様、皇后の存在感が大きくて、その分、天皇の存在感が相対的に小さくなった。昭和が当たり前と思っていた人にとっては大きな違和感があったと思うんですね。

 オウム真理教から派生した団体「ひかりの輪」の副代表で、昭和天皇が死去した1989年1月7日にオウム真理教の信者になった広末晃敏(ひろすえ・あきとし)は、「まだ当時は認識していませんでしたが、天皇崩御によって生じた心の空隙を埋めるために入信した私は、潜在意識下で、天皇の代わりを麻原〔彰晃〕に求めたのかもしれません」(「私が起こしたオウム事件──オウム・アーレフ18年間の総括」、ひかりの輪ホームページ)と回想しています。オウム事件の遠因は昭和天皇の死去にあったとも言えるわけです。

 もう一つ決定的なのは、1991(平成3)年、雲仙普賢岳(うんぜんふげんだけ)の大火砕流の直後に天皇・皇后が日帰りで長崎まで飛行機で往復し、島原の体育館で二手に分かれて被災者にひざまずいて話しかけたという、あの場面だったと思います。明らかに昭和とは違う、平成の光景ですよね。

■流通しはじめた新しい天皇のイメージ

奥泉
 たしかにあのあたりから、新しい天皇のイメージが流通しはじめましたね。昭和には天覧という言葉があった。長嶋茂雄がサヨナラホームランを打った後楽園球場とか、大相撲とか。つまり天皇の来臨には、戦前から続く何かしらの特別感があった。平成はそういう感じではなくなる一方で、平成の天皇はべつの方向への聖性の獲得に向かったと言えそうですね。

東洋経済オンライン

関連ニュース

最終更新:4/6(日) 15:02

最近見た銘柄

ヘッドラインニュース

マーケット指標

株式ランキング