ノンスタ石田が明かす「漫才」と「コント」の違い コント寄りの漫才がめちゃめちゃうまかった和牛 ”漫才じゃない"元祖ジャルジャル、M-1で評価の訳

10/31 13:02 配信

東洋経済オンライン

漫才に対する分析が鋭すぎて、「石田教授」とも呼ばれているNON STYLEの石田明さん。「M-1グランプリ2023」で優勝した令和ロマンの髙比良くるまさんも石田さんから薫陶を受けたといいます。
そんな石田さんが「漫才論」をまとめた書籍『答え合わせ』から抜粋、「漫才とコントは何が違うのか」という疑問に「答え」を出していきます。

■漫才とコントの垣根を取っ払った2人組

 コント寄りの漫才をしていながらも、ツッコミが漫才らしく成立しているという点では、残念ながら解散してしまいましたが、和牛がめちゃくちゃうまかったと思います。

 ツッコミの川西(賢志郎)くんはコントの役柄としてセリフを言うんやけど、おかしな言動を繰り返すボケの水田(信二)くんに対する内面のイライラが、どのネタでもうまく表現されています。役柄を演じ切りながら、「漫才師」としての川西くんも表に出ているのがすごいなと思って、いつも見ていました。

 和牛は、かなりコント的な漫才をしていながらも、漫才師としてのスキルが抜群に高いため、見ている人に「これは漫才だ」と思わせてしまう。だからなのか、和牛の漫才をコント的だと言っている人をあまり見かけたことがありません。

 でも、実際にはコントの手法をかなり漫才に取り入れています。

 たとえば、彼らの代表的なネタ「旅館」。水田くんが旅館の宿泊客、川西くんが旅館の女将という役回りで話が進み、ネタの中盤で日付が変わります。コントだったら、いったん暗転(舞台を暗くして場面転換すること)するはずです。

 それを2人は、いったんセンターマイクから離れてから、すぐに「おはようございます」と言いつつ、センターマイクに戻るという形で表現しました。これはつまり、コントの暗転を漫才に取り入れているわけです。

 普通なら違和感が出てしまいそうですが、和牛の2人はその動作が「漫才師」然としていてうまかったので、コントではなく漫才に見えるんです。

 このネタに限らず、和牛は漫才師としての見せ方や振る舞い方が天才的にうまいコンビでした。和牛がM-1で結果を残したことで、コントと漫才の垣根が取っ払われたんやと思っています。

 そして、今ではコント師が漫才をやるのが当たり前になってきています。コント師の漫才が認められる流れを作ったのは、意外かもしれませんが、和牛の存在も大きかったんやないかと思います。

■漫才の醍醐味は「ナマの人間のエネルギー」

 共闘型の漫才やコント師による漫才が評価されるようになってきたからといって、「しゃべくり」がダメになったかというと、全然そんなことはありません。漫才の一番の醍醐味は「ナマの人間の掛け合い」を見せるところやと思います。

 ボールを息で吹いて浮き上がらせるパイプの形のおもちゃがありますよね? 漫才の掛け合いは、いってみればあのボールをずっと落とさないで互いにパスし続けるようなものです。

 一度落ちたら、そこから再び上げるのはめっちゃ難しい。だから、いかに一度も落とすことなくラリーを続けるか、徐々に盛り上げてピークに持っていくかが勝負です。

 この「素の人間同士のしゃべくりで勝負できる」というのが、漫才の強みです。

 コントでは、こういう面白味は出しづらい。場面も役柄もきっちり決まっていて、自分ではない人間を演じているので、ナマの人間そのものの掛け合いが見えづらくなるからです。

 だけどなかには、策に溺れて、漫才の強みを生かし切れていないコンビもいます。こういうコンビは、互いに言い込めたり言い込められたりの掛け合いを、辛抱強く重ねていくということができていないと思うんです。

 早く笑いのピークに到達したい。特大のホームランを打ちたい。だから、「到達したいゴール」に到達するため、「打ちたいホームラン」を打つために、策を巡らせたくなる。気持ちは痛いほどわかります。

 でも、「このゴールに到達するために、ここでちょっと布石を打っておこう」みたいなくだりをネタに入れてしまうと、とたんに予定調和になってつまらなくなってしまうんです。

 正直、もったいなく感じます。漫才師がコント師に唯一勝てるのは人間同士のしゃべくり、いわばナマの人間のエネルギーやのに、それをしっかり出せていないわけですから。

 見ている人に「このはちゃめちゃな立ち話は、いったいどこに行くんだろう?」と思わせる先の見えなさこそが、漫才の醍醐味です。

 一度もボールを落とすことなくラリーを続け、最終的にはとんでもない熱量の到達点にバコーンと上げていく。それが漫才の理想形やと僕はつねづね思ってるんです。

 僕らNON STYLEの原点は、路上で見知らぬ人たちの前でやる「ストリート漫才」です。道を歩いている人の足を止めさせ、僕らの掛け合いの「熱」で引きつける。布石としてのボケやツッコミをしている余裕なんて、少しもありませんでした。

 そこで作り上げた2人のエネルギーを全力でぶつけるスタイルがあったからこそ、M-1でも優勝できたんやと思っています。

 今までの賞レースを見ていても、いろいろなスタイルがあるなかで、最終的には「一番の熱量を帯びていた漫才師」が優勝しているように感じます。コント師の発想力や設定の作り方はすごいけど、競り勝つには、やっぱり漫才やと僕は思う。

 でも、これからはわかりません。

 ここ何年かのM-1でも、共闘型のコント漫才が毎回かなりいいセンまでいくようになってきているので、近い将来、コント師の漫才が頂点に立つ可能性は十分あるでしょう。ただ、僕としては、「漫才師のみんな、がんばれよ」と思ってしまいますね。

■「漫才じゃない」の元祖ジャルジャル

 「漫才じゃない」ともっとも言われてきたのは、おそらくジャルジャルでしょう。それが特に顕著だったのはM-1ですね。

 決勝まで進んでも、いまいち点数につながらない。2010年に初めて決勝進出したときにも、審査員の松本(人志)さんから「これを漫才と取っていいのかどうか?」と、はっきり言われていました。

 世界観と展開がコント的、なおかつ独特すぎて、「これは漫才じゃないんじゃないか」という見る側の引っかかりが壁になってしまう。そのために何度、彼らは悔し涙を飲んだことか。

 それが2018年のM-1決勝の1本目、ずっとジャルジャルに厳しかった中川家の礼二さんが高得点をつけました。

 「ジャルジャルは漫才の振りで入るコント」というのが、礼二さんの当初からのジャルジャル評。礼二さんはジャルジャルの面白さを前々から認めていましたが、ご自身にはずっと大切にしてきた王道の漫才スタイルがあります。面白いとは思っても、M-1のような舞台でジャルジャルに安易に高得点をつけるわけにはいかなかったんやないかと思います。

 「おもろいのはわかってんねんけど、自分たちの漫才があるから、ジャルジャルの審査が一番難しい。石田やったらどうする?」と、直接聞かれたこともありました。

 一方で、僕はジャルジャルからもいろいろと相談を受けていました。

 彼らは彼らで、面白いネタは作れるんやけど、やっぱり「漫才じゃない」と言われ続けていることを気にしていました。「どうしたらもっと漫才っぽくなるんかな」と試行錯誤していたんです。

■ジャルジャルが見せた安堵と感激の涙

 そういう経緯があるなか、迎えたのが2018年のM-1でした。

 1本目のネタは「国名分けっこ」。オリジナルの変なゲームを持ち込んだ福徳(秀介)くんに、後藤(淳平)くんが「わけわからへん」っていうリアクションをとりながら、最後までしっかり振り回されていました。

 文句なしに面白かった。「漫才じゃない」と言われ続けたジャルジャルですが、このネタを見て、僕はこれはめちゃくちゃ漫才やなと思いました。

 しかも、ただシステマティックに変なゲームを見せるだけではなく、ネタの本筋とは違うところで後藤くんのかわいげを見せる。そういうナマの人間臭さを垣間見せることで「設定外の笑い」をとれていたのもよかったと思います。

 時代の変化も味方したのかもしれません。

 もともと漫才師だけの大会だったM-1が、第2期の2015年以降、その枠外からコント師も参入する「何でもあり」の大会に変化し、2018年は、それが見る側にも受容されてきたくらいのときでした。

 だからジャルジャルも、決勝でいい戦い方ができたんちゃうかなと思います。そして何より、ネタの入り方から終わり方まで、彼らなりの漫才に対するリスペクトが感じられました。

 あくまでもジャルジャルらしいスタイルは貫きつつ、しっかりと「面白い漫才」に仕上げた。そこを礼二さんも感じ取って、あっぱれと思ったからこそ高得点をつけたんやと思います。他の審査員の方々も軒並み高得点でした。

 あのとき、福徳くんの目にはうっすら涙が浮かんでいたんです。

 それが僕には「やっと漫才として認めてもらえた」という安堵と感激の涙に見えて、思わず、もらい泣きしそうになりました。残念ながら優勝はできなかったけど、彼らにとっては記念すべき大会になったと思います。

東洋経済オンライン

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最終更新:10/31(木) 13:02

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