日本は外国人留学生に対する奨学金に力を入れている。にも関わらず彼ら外国の若者たちには、日本での就職を選ばない傾向があるという。いったい彼らはなぜ日本を離れるのか。その理由は、日本企業の人事部が無意識に持つ、「日本への同化」の期待にあった――。本稿は、デニス・ウェストフィールド『外国人には奇妙にしか見えない 日本人という呪縛 国際化に対応できない特殊国家』(徳間書店)の一部を抜粋・編集したものです。
● 外国人のアイデンティティーを 認めようとしない日本企業
筆者の知人で、中国に生まれて中学生の時に日本に渡り、東京大学を卒業して日本に帰化した優秀な人がいる。
彼の日本に関する洞察は興味深いものだ。彼によると、大学時代の彼の友人の中国人たちは、日本の大学を卒業すると、多くが日本に残らず、米国などに渡ってしまうという。
彼自身もその一人で、オーストラリアに渡ってきた。実は東大卒業後、日本の大手商社に内定したものの、あえてそれを蹴って、オーストラリアにゼロから仕事を探しに来た。学生時代にシドニーの大学に留学して、オーストラリアが気に入ったからだという。
中国人に限らず、外国からの留学生がせっかく日本で学んだにもかかわらず、日本での就職を選ばないという傾向は今に始まったことではない。しかしながら、日本で学んだ外国人留学生がなぜ日本に居続けないのかということは、日本にとって大問題であることに、日本政府は気がついていない。
日本贔屓でもある彼は、「日本人は一人ひとりは優しい人が多いが、社会全体となると閉鎖的で住みづらい雰囲気がある」と話す。居心地よく住むためには、厳然とした日本人でなければ受け入れられないような空気があるのだという。日本国籍も取りにくい。それらを嫌って、中国人留学生たちは日本からアメリカに渡っていく。彼はそれを寂しく眺めてきたと話す。
日本は、オーストラリアや米国と比べて、政府や民間を合わせ、はるかに多くの奨学金を用意し、多くの中国人学生がそれを享受している。
ところが、それを受けて日本の大学を卒業した中国人学生たちが、日本に関わらなくなる。ということは、そうした奨学金は長期的には日本社会には貢献していない、優秀な海外の人材を日本社会に登用できなかった、ということである。
実は、先の彼が大手商社の内定を蹴ったのには、もう一つ理由がある。
商社に内定後、本社の人事部長に「長年日本に住んで日本文化を理解した君なら、わが社の社風にも合って、中国本土の現地従業員との橋渡し役をやってくれると期待した」と、採用の理由を明かされ、ショックを受けたのだという。
このコメントに何か違和感を感じるだろうか。日本人が聞けば、理解ある人事部長だな、とでも思うに過ぎないのではないか。
だが彼にしてみれば、会社はあくまで彼が日本寄りだったから採用したということであり、彼の中国のアイデンティティーは日本に同化しなければならない、という大前提を感じたという。
中国のアイデンティティーを彼の個性として受け入れているわけではないのだ。
ダイバーシティーを掲げる日本の大企業が、「これからもっと国際化しようと中国出身の彼を採用した」のではなく、「日本企業のドメスティックで閉鎖的な社風に合うような、日本人寄りの外国人留学生だけを採用した」という真相を知ってショックを受けたという。
これでは、そのままその大手商社に入っても、日本人の枠組みの中には入れず、いつまでも外国人というレッテルは付いて回ることになるだろう。外国人を受け入れるということは、その風習も文化も精神面までも受け入れる、ということだろう。日本人になりきるために、外国出身者がそのアイデンティティーや個性を消し去る必要はないはずだ。
彼は「海外ビジネスに最も関わる大手商社で、しかも多彩な外国人を採用する人事部長でさえそうなのだから、日本企業の社風、日本社会はなかなか変わらないのだなと感じました」と話していた。
● 日本だけが陥っている 陳腐な「学歴信仰」
日本の社会は、肩書が重要だ。中でも、どこの大学を出たかというのは極めて重要な肩書だ。
決して「何を学んだか」「どんな資格や学位を取ったか」ではない。それが日本人にとっての「学歴」と言うらしい。そして、死ぬまでその肩書を後生大事に、肌身離さず抱え続ける。日本人全体が、陳腐な「学歴」信仰に洗脳されている。
もし日本人がオーストラリアや欧米の大人に、あなたはどこの大学を出たのかと聞いたなら、一体何の意図で聞くのかとポカンとされるはずだ。
筆者は時に、仕事の関係者から別の日本人を紹介されることがあるが、その時によく「彼(もしくは彼女)は○○大学を出た優秀な人で……」などと言われた。
「○○の資格を持つ人で」とか「○○を学んだ人で」と言われるなら納得できるが、たかが18歳時点の試験で入った大学名だけを重視する文化は理解しがたい。
しかも日本では、高校生の時点で、その本人がどんな特性があるのか、どんな職業に向いているのかを本人に見極めさせる教育をしていない。大学に行くのであれば、「偏差値」という、やはり日本でしか通用しない基準で、あいまいに受ける大学を決めているのが大半だろう。決して、あの大学なら、あの技術や知識が身に付くから決めたというわけでもない。
また、日本の新聞もその洗脳を強化する片棒を担いでいる。
新聞紙面で人物紹介の記事があると、例えばその人物が有名大学を卒業していれば、「東京大学を卒業した後……」などときちんと大学名を記す。そうでなければ「大学を卒業後……」などとぼかして書いている。有名ではない大学を出たら書くに値しない、と言外に記しているのだ。
そして、もちろん官僚の世界でも確固とした学閥はある。東京大学法学部を出ていなければ、キャリア官僚の間では肩身が狭い。民間企業でも古い体質の業界には学閥はある。学生の就職では、そもそも大学名だけで篩にかけられる。こうした動かしがたい社会システムがあるために、親は子供の受験勉強に血眼になる。海外留学などという、日本の社会システムでは無意味なことに自己投資する意味はないと信じているのだ。
「聞こえのいい大学」に入学できればいい。外国語をマスターできなくても、日本社会では関係ないから構わない。
日本人が抱える最も大きな洗脳の一つが、日本の大学制度の誤謬であり、そこに経済や社会の既得権益の源があるといっても過言ではない。従順だが無気力で、外国に関心がなく、海外に行こうともしない。日本はそうした若者を量産している。
日本の社会の状況を変えるには、大学の入試制度を改革することが必須だと思われる。そのためには、先に紹介したオーストラリアの教育制度を参考にすべきだ。
だがこの日本の社会システムの体制側が、まぎれもなく大学名を重視するシステムの既得権益の恩恵にあずかっている層であるため、このシステムを変えるのは至難の業となっている。
ダイヤモンド・オンライン
最終更新:4/18(木) 19:02
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