2回も暴力事件を起こした「三条天皇の子」に道長が取った策。外孫を皇太子にしたい道長はどう対応?
NHK大河ドラマ「光る君へ」がスタートして、平安時代にスポットライトがあたっている。世界最古の長編物語の一つである『源氏物語』の作者として知られる、紫式部。誰もがその名を知りながらも、どんな人生を送ったかは意外と知られていない。紫式部が『源氏物語』を書くきっかけをつくったのが、藤原道長である。紫式部と藤原道長、そして二人を取り巻く人間関係はどのようなものだったのか。平安時代を生きる人々の暮らしや価値観なども合わせて、この連載で解説を行っていきたい。連載第46回は三条天皇の皇子である敦明親王の素顔と、道長とのエピソードを紹介する。
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■道長が敦明親王に「皇太子はムリ」といったワケ
藤原道長の傲慢な言い分には、三条天皇も我が耳を疑ったことだろう。退位を迫ってきて自分の孫・敦成親王を天皇に即位させようとしたばかりか、皇太子にも自分の孫を据えろと直接言ってきたのだ。
そもそものきっかけは、長和3(1014)年に2カ月連続で内裏にて火災が発生したことにある。
当時、天災は為政者の不徳に対する天罰だと考えられていた。そのため、道長は異母兄で大納言の道綱とともに「天道、主上を責め奉る由を奏す」(『小右記』)、つまり、「天が三条天皇を責めている」として、三条天皇に退位を迫るようになる。
翌年の長和4(1015)年には、三条天皇の眼病が悪化。諸国の国政に関する重要文書は「官奏」と呼ばれて、太政官から天皇に奏上されるが、それを読むことができなくなり、行政が停滞するといった事態まで起こり始めた。
道長は以前にもまして退位を促すようになり、長和4(1015)年10月2日には、三条天皇は周囲に「この何日か道長からしきりに譲位を迫られている」とこぼしている。
それだけではない。三条天皇には、娍子との間にもうけた敦明親王・敦儀親王・敦平親王・師明親王らがいたが、道長は「東宮に立てるわけにはいきません。その器ではない」と言い放ったという。
そのうえで、一条天皇の第3皇子で、自身の孫でもある敦良親王をプッシュ。天皇に孫の敦成親王を据えると同時に、敦成親王の弟・敦良親王を皇太子にしろ、と言い出したのだから、大胆不敵である。傲慢さここに極まれり。そう思われても仕方がない態度だ。
だが、少なくとも三条天皇の第1皇子・敦明親王については、かなり素行が悪く、道長の「その器ではない」という言い分ももっともだった。
■暴力事件をたびたび起こした敦明親王
長和3(1014)年、道長が三条天皇に譲位を迫った年に、敦明親王はとんでもない事件を起こしている。6月に従者に命じて、加賀守・源政職を拉致。舎屋に監禁して暴行を加えたというから、穏やかではない。
また12月1日には、藤原公任の嫡男・定頼の従者と、敦明親王の雑人との間で乱闘騒ぎが起きた。敦明親王の雑人が死去してしまうと、敦明親王は定頼を殴ろうとしたという。このケンカについては、定頼に非があったとされているだけに、自分の雑人が殺されたとなれば、敦明親王も頭に血が上っても無理はない。
だが、皇太子にふさわしい人物かといえば、確かに道長が言うように「その器ではない」という気がしてしまう。眼病を患う身で道長と対峙しながら、息子の不祥事にも頭を悩まされた三条天皇が気の毒というほかない。
しかも、敦明親王は2度の暴行騒ぎの間である10月に第1皇子・敦貞が生まれて、父になっていた。もう少し自覚があってもよさそうなものだ。
敦明親王の第1皇子・敦貞を産んだのは、左大臣・藤原顕光の娘・藤原延子だった。
道長からすれば、さぞ脅威だったに違いない。もし、三条天皇が退位すれば、自身の孫の敦成親王が天皇に即位するところまではよいとしても、皇太子に敦明親王が立てられたとすると、展開が変わってくる。
敦成親王に何かあれば、敦明親王が即位し、皇太子に第1皇子の敦貞を据える可能性が出てくるからだ。そうなれば、自分の一族は、どんどん皇統から離れていくことになる。
自身の娘・妍子が三条天皇との間にもうけた子が、皇子ではなく娘だと知ると、道長はあからさまに落胆したというが、まさに道長にとって恐れていた事態が起きたといってよい。
それでなくても素行が悪い敦明親王を皇太子にすることだけは、何としても阻止したい。道長が次期天皇だけではなく、皇太子までも自身の孫を据えようとしたのは、そんな背景があった。
■敦康親王の衣を脱がせる「乱痴気騒ぎ」
そんなふうに三条天皇の第1皇子である敦明親王を警戒した道長は、なかなか面白い行動に出ている。
長和3(1014)年10月6日、前述したように敦明親王のもとに、第1皇子・敦貞が生まれると、道長はよほど焦ったのか、その数日後の25日、道長の宇治邸において 敦康親王を招いての宴が開催されている。
そこで道長は、当時16歳だった敦康親王に衣を脱ぐように促すと、遊女に与えてしまった。そして「親王様も脱いだのだから」と、みなにも衣を脱ぐように言い、みな遊女たちにあげてしまうという、乱痴気騒ぎを起こしている。
そんな様子を藤原隆家から聞いた実資は「軽々の極みである」と苦言を呈したという。だが、道長はただふざけたわけではなかったのかもしれない。
NHK大河ドラマ『光る君へ』で時代考証を担当する倉本一宏氏は、このときの道長の行動について、こんな推測を行っている(『三条天皇』ミネルヴァ書房より)。
「皇位を諦めさえすれば、このように皇子を優遇するという事例を、三条や娍子にみせつけるという意図もあったものか」
この宴に「極めてよくないことだ」と憤慨した三条天皇は、その後も道長から執拗な攻撃を受けながらも、譲位と引き換えに、自身の第1皇子・敦明親王を皇太子に据えることに成功する。長和5(1016)年正月29日のことだ。
三条天皇の退位により、道長の孫の敦成親王が後一条天皇として即位することになったが、まだたったの9歳である。健康面も含めて、まだこれからどうなるかわからない。
一方の皇太子の敦明親王は23歳と、すぐにでも帝になれる年齢だ。状況次第では、皇位が敦明親王のもとに転がり込む可能性は、十分にあったといえるだろう。
■「北風と太陽」作戦で敦良親王を皇太子に
だが、三条天皇は寛仁元(1017)年5月9日に崩御してしまう。後ろ盾を失った敦明親王は皇太子を自ら辞退し、結局、皇太子には道長の孫の敦良親王が立てられた。
さぞ、敦明親王は無念だったことだろう……と思いきや、敦明親王には「小一条院」という称号が与えられて、道長からずいぶんと手厚い待遇を受けている。
やはり、道長は三条天皇に「皇太子の座も自分の孫によこせ」と直談判する一方で、敦康親王を遊女との宴で遊ばせることで、敦明親王にも「退位したら穏やかで、こんな贅沢な暮らしが日々できるよ」と揺さぶりをかけていたのだろうか。
まるで「北風と太陽」の逸話のようだが、道長は見事に乱暴者・敦明親王のコートを脱がしたのであった。
【参考文献】
山本利達校注『新潮日本古典集成〈新装版〉 紫式部日記 紫式部集』(新潮社)
『藤原道長「御堂関白記」全現代語訳』(倉本一宏訳、講談社学術文庫)
『藤原行成「権記」全現代語訳』(倉本一宏訳、講談社学術文庫)
倉本一宏編『現代語訳 小右記』(吉川弘文館)
今井源衛『紫式部』(吉川弘文館)
倉本一宏『紫式部と藤原道長』(講談社現代新書)
関幸彦『藤原道長と紫式部 「貴族道」と「女房」の平安王朝』 (朝日新書)
倉本一宏『三条天皇―心にもあらでうき世に長らへば』 (ミネルヴァ日本評伝選)
真山知幸『偉人名言迷言事典』(笠間書院)
東洋経済オンライン
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最終更新:11/24(日) 7:32