「辛口な紫式部が歌を絶賛」恋に生きたある女性 清少納言に対してはパンチの利いた言葉で批判

3/3 5:51 配信

東洋経済オンライン

NHK大河ドラマ「光る君へ」がスタートして、平安時代にスポットライトがあたることになりそうだ。世界最古の長編物語の一つである『源氏物語』の作者として知られる、紫式部。誰もがその名を知りながらも、どんな人生を送ったかは意外と知られていない。紫式部が『源氏物語』を書くきっかけをつくったのが、藤原道長である。紫式部と藤原道長、そして二人を取り巻く人間関係はどのようなものだったのか。平安時代を生きる人々の暮らしや価値観なども合わせて、この連載で解説を行っていきたい。連載第9回は、紫式部が歌の才能をほめた和泉式部を紹介する。

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■和歌より漢詩が重視されていた

 「このぐらいの漢詩を作ったならば、もっと名が上がっただろうに。残念だったことだなあ」

和歌・漢詩・管弦のいずれにも秀でた藤原公任(きんとう)は、藤原道長が催した舟遊びのイベントで「漢詩が得意な人の船」ではなく「和歌が得意な人の船」に乗ったことを後悔したという。『大鏡』でつづられているエピソードだ(過去記事「「道長が対抗心むき出し」藤原公任の溢れ出す才能」)。

 といっても、何も和歌で失敗したわけではない。その逆で、船の上で作った和歌の出来があまりによかったために、「同じレベルのものを漢詩で作っておけば、もっと高く評価されたのに……」と公任は残念がったのである。

 平安時代においては、和歌よりも漢詩のほうが、男性の教養として重要視されていた。当時の公文書や学術書も、漢文によって書かれている。

 そんななか、紫式部は当時まだ新しかった「ひらがな」を用いて『源氏物語』を書いて、宮中で大評判となった。『源氏物語』には、数多くの和歌が登場する。物語内で登場人物に詠ませた和歌の数は、実に795首に及ぶ。

■和歌を詠む『源氏物語』の登場人物たち

 思いを寄せる人に和歌を贈り、相手が返歌を行う「贈答歌」や、特定の相手に向けてではなく一人で詠む「独詠歌」、そして複数人が次々と歌を詠む「唱和歌」と、『源氏物語』ではさまざまなスタイルの和歌が登場する。

 紫式部が詠んだ次の和歌は『新古今和歌集』に収録されている。小倉百人一首に選ばれて、現代でもよく知られている和歌である。

 「めぐり逢ひて 見しやそれとも分かぬ間に 雲隠れにし 夜半の月影」

 久しぶりにめぐり逢えたというのに、あなたなのかどうかもわからないほど短い時間で、あっという間に帰ってしまわれました。まるで、雲隠れする夜中の月のようでしたね――。

 メッセージを送った相手は「童友だち」だと紫式部自身が詞書きで説明している。具体的に誰なのかまではわかっていないが、時期としては紫式部が成人した頃だとみられている。

 花山天皇が突然の出家に踏み切り、父の藤原為時がようやく得た官職を失ってしまった頃だ。言うまでもなく、父の失職は娘である紫式部の生活にも大きく影響したに違いない。

 自身に降りかかる苦難にかかわらず、いや、人生がままならないからこそ、といったほうがよいだろう。紫式部は、どんなときも和歌を詠み、創作活動をし続けたのである。

 そんな和歌に優れた紫式部が、『枕草子』の作者である清少納言のことを、こき下ろしたことはよく知られている。

 紫式部もまさかこれほど後世で広められるとは思ってもいなかっただろう。改めて『紫式部日記』での該当部分を読むと、なかなかパンチの利いた書きっぷりである。

 「清少納言は得意顔をして、とんでもない人です。あそこまで利巧ぶって漢字を書き散らしていますけれど、よく見れば学識の程度も、まだまだ足りないところだらけ」

 その一方で、紫式部が高く評価した才女が、歌人の和泉式部である。

 和泉式部は、平安時代の中期に活躍したことはわかっているが、生没年も本名も明らかではない。

 紫式部も同じく本名はわかっておらず、「紫式部」の名は父の職場だった「式部省」からとられたとされている。和泉式部の場合は、夫の官職からその名が取られたようだ。夫は和泉国守を務めた橘道貞である。

 和泉式部といえば『小倉百人一首』に収録されている次の和歌が有名だ。

 「あらざらむ この世のほかの 思ひ出に いまひとたびの あふこともがな」

 現代語訳をすると「わたしはもうすぐ死んでしまうでしょう。わたしのあの世への思い出になるように、せめてもう一度だけあなたにお会いしたいものです」というもの。『百人一首』の歌の中でも情熱的な歌ともされている。 

■恋に生きた和泉式部

 この歌からもわかるように、和泉式部は恋に生きた女性だった。結婚後は小式部内侍という娘を産むが、そのときに人からこう聞かれたという。

 「父親は誰に決めましたか」

 ずいぶんと失礼な質問だが、それだけ男性との交流が多かったようだ。
小式部が生まれた翌年、和泉式部は、冷泉天皇の第三皇子にあたる為尊親王と恋に落ちる。夫の道貞とは離婚。さらに父からも勘当されて見放されてしまう。

 それだけでも十分インパクトのある恋愛話だが、為尊親王が病死するという不幸に見舞われると、今度は為尊親王の弟・敦道親王とも、恋仲になるという奔放ぶりを見せた。

 敦道親王が死去すると、宮仕えすることになった和泉式部。寛弘6(1009)年に、一条天皇の中宮・彰子のもとに出仕している。紫式部が彰子に仕えたのは寛弘2(1005)年頃だから、2人は同僚ということになる。

 そんな和泉式部のことを、紫式部は「和泉式部といふ人こそ、おもしろう書きかはしける」と『紫式部日記』に書いて、その文才に一目置いている。

 続いて「和泉はけしからぬかたこそあれ」と書いており、「和泉にはちょっと感心できない点があるけれども」と恋愛スキャンダルについては思うところがあるようだが、こう続けている。

 「うちとけて文はしり書きたるに、そのかたの才ある人、はかない言葉のにほひも見え侍るめり。歌は、いとをかしきこと」

 
「うちとけて文はしり書きたる」は「気軽な気持ちで手紙を書いたとき」という意味で、かしこまることなく自然と「そのかたの才ある人」、つまり、文筆の才能を感じさせるとしている。

 「はかない言葉のにほひも見え侍るめり」は「ちょっとした言葉にも、香気を放つのが見える」といったところだろう。

 さりげないところに才を感じる……というのは、歌人としても言われて嬉しい言葉に違いない。「歌は、いとをかしきこと」として、和泉式部の優れた和歌に賛辞を贈っている。

 しかし、紫式部という人物は、どうも手放しに誉めることに抵抗があるらしい。

 その後、和歌の知識や理論にいては「まことの歌よみざまにこそ侍らざめれ」(本物の歌人といふうではないですが)と苦言をいったん挟みながら、「口にまかせたることどもに、かならずをかしき一ふしの、目にとまる詠み添へ侍り。」(口をついて出る言葉の中には、必ずはっとさせる一言が添えられています。)と、やはり歌については評価している。

■紫式部は褒める時ですら辛口だった

 だれけども、和泉式部が他人の作品をあれこれいうことには「そこまであなたはわかっていないでしょう」と、意地悪な気持ちになるのを抑えられなかった。次のように書いている。

 「それだに、人の詠みたらむ歌難じことわりゐたらむは、「いでやさまで心は得じ。口にいと歌の詠まるるなめり」とぞ見えたるすぢには侍るかし。「恥づかしげの歌よみや」とはおぼえ侍らず。」

 (といっても、彼女が人の歌を批判したり批評したりするものついては、<いや、そこまで頭でわかってはいますまい。思わず知らず口から歌があふれ出るのでしょう>とお見受けしますね。ですから<頭の下がるような歌人だわ」とは私は存じません。)

 文才は認めるけれど、理論には乏しく、優れた直感で和歌を詠んでいる……それが紫式部の「和泉式部評」といえそうだ。

 和泉式部は彰子に仕える前年に『和泉式部日記』を執筆している。紫式部が読んだかどうかは定かではないが、少なからず対抗心を抱いていたのかもしれない。

 そんな褒めるときでさえ、辛口が交じる紫式部が、「頭が下がる歌人」と評した人物がいた。歌人の赤染衛門である。

 (次回につづく)

 【参考文献】
山本利達校注『新潮日本古典集成〈新装版〉 紫式部日記 紫式部集』(新潮社)

倉本一宏編『現代語訳 小右記』(吉川弘文館)
笠原英彦『歴代天皇総覧 増補版 皇位はどう継承されたか』 (中公新書)
今井源衝『紫式部』(吉川弘文館)
倉本一宏『紫式部と藤原道長』(講談社現代新書)
倉本一宏『敗者たちの平安王朝 皇位継承の闇』 (角川ソフィア文庫)
関幸彦『藤原道長と紫式部 「貴族道」と「女房」の平安王朝』 (朝日新書)
鈴木敏弘「摂関政治成立期の国家政策 : 花山天皇期の政権構造」(法政史学 50号)

真山知幸『偉人名言迷言事典』(笠間書院)

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最終更新:3/3(日) 5:51

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