「光る君へ」紫式部ゆかりの京都を巡る旅!平安神宮、京都御苑…

4/18 18:32 配信

ダイヤモンド・オンライン

 世紀の大ベストセラー『源氏物語』をつづった女流作家・紫式部が主人公となった2024年の大河ドラマ『光る君へ』。全54帖にわたる物語のほとんどの舞台であり、紫式部が生まれ育った京の都にはゆかりの場所が点在しています。1000年の時を超えるタイムトリップを一緒に楽しみましょう。(らくたび、ダイヤモンド・ライフ編集部)

● 『源氏物語』を知り、平安京の中心を訪ねる

 昔から女性の読者は多いものの、通読した男性は意外と少ない『源氏物語』。1000年の時を超えて愛されてきた超ロングセラーであり、海を越え、英語、中国語、フランス語、ドイツ語、モンゴル語、ヘブライ語……など30を超える国で翻訳され、広く読み継がれています。今年の大河ドラマを楽しむためにも、まずはどのようなお話なのか、その流れをつかんでおきましょう。 

 物語の主な舞台は、平安時代中期の宮中。時の帝(桐壺帝)の第二皇子として生まれ、輝くほどの美しさから「光源氏」と呼ばれるようになった貴公子が主人公です。

 帝の寵愛を受けた更衣(こうい)である母・桐壺は、光源氏が幼い頃に病で亡くなります。父帝が後妻として迎えた藤壺の女御に母の面影を求め、親しみを抱くようになりますが、次第にそれが恋心へと変わり、父を裏切る禁断の愛へ……。

 帝の子という申し分ない身分でイケメン。教養にも優れ、何でもスマートにこなす貴公子は、宮中の姫君たちにとっても憧れの的です。藤壺の女御(にょうご)のほかにも姫君たちと次々に恋愛模様を繰り広げ、主人公が孫の代に変わる最終章の「宇治十帖」まで、全54帖にわたる壮大なストーリーが描かれています。

 庶民から見れば雲の上のような宮中の話ではありますが、時代が移ろっても、愛と憎しみ、栄光と挫折、嫉妬、悲しみ……物語に織り込まれるさまざまな心情が、人々に共感を与え続けてきたのかもしれません。

 紫式部ゆかりの地を巡るタイムトリップの始まりは、地下鉄東西線「東山」駅から北へ徒歩10分ほど上がった、王朝のみやびを今に見る平安神宮から。平安京を開いた第50代桓武天皇と、京都での最後の天皇となった第121代孝明天皇を祀(まつ)る明治時代創建の神社です。白い玉砂利を囲むように広がる壮麗な社殿は、平安京で天皇が国家儀式を執り行った「朝堂院」を8分の5に縮尺して再現しています。

 平安神宮を訪れた人が手を合わせてお参りする正面の拝殿は、朝堂院の中の正殿(大極殿)を表し、二層になった神門「応天門」は、平安京遷都の翌年、朝堂院の正門として建てられた応天門を再現したものです。

 平安京の中心であった朝堂院は、平安神宮から4kmほど西にありました。地下鉄東西線「東山」駅から西へ五つ目の「二条」駅で降り、平安京のメインストリート千本通を北に上がること12分ほど。バス停「千本丸太町」の目の前にある内野児童公園あたりに大極殿の跡が。ここにひっそりと立つ石標「大極殿遺址跡」が、平安京の中心の位置を今に伝えています。

● 『源氏物語』を執筆するまでの紫式部の足跡 

 紫式部の生まれた年は、はっきり分かっていません。平安中期の970(天禄元)年から978(天元元)年頃といわれます。父は、和歌や漢詩に優れた藤原為時(ふじわらのためとき)、曽祖父は、三十六歌仙の一人に名を連ねた中納言・藤原兼輔(かねすけ)。上流から落ちた中流貴族で、母は紫式部が幼い頃に亡くなりました。

 紫式部の生まれた地は、第53代淳和天皇の離宮「紫野院」が前身の寺院「雲林院」が一帯を占めていた紫野(むらさきの)と伝わります。現在、洛北の大徳寺(市バス『大徳寺前』すぐ)が伽藍(がらん)を形成する一帯で、当時は貴族たちが花見や紅葉狩りを楽しむために訪れるような風流な地でした。

 大徳寺の塔頭・真珠庵には、紫式部の産湯に使ったという井戸が現存します。山門から先は通常非公開ですが、毎年秋の紅葉シーズンには特別公開が行われるので、井戸の見学は機会の到来を待ちましょう。

 続いて、紫式部が生涯のほとんどを過ごし、『源氏物語』をつづった場所へ。市バス「府立医大病院前」から西へ3分ほど、現在の京都御所東側の中川と呼ばれたあたりに紫式部の曽祖父・藤原兼輔が建てた邸宅があったといわれています。

 紫式部はここで暮らし、父の影響で幼い頃から和歌や漢詩に触れ、その才能を開花させていきました。20代半ばの頃、越前守に任命された父に同行し、越前で1年ほど(2年説も)暮らしますが、父を残して帰京。藤原宣孝(のぶたか)と結婚し、後に女流歌人大弐三位(だいにのさんみ)として知られる一人娘の賢子を授かりますが、わずか3年で宣孝が病に倒れ亡くなります。

 独り身の寂しさを紛らわすようにつづり始めたのが『源氏物語』だといわれています。面白い物語だと宮中で評判が広まって、時の権力者・藤原道長の目に留まり、道長の娘で一条天皇に嫁いだ彰子(しょうし)に仕え、知性と教養を育む家庭教師のような役割を担うことになったのです。

 紫式部が暮らしたという邸宅跡地には現在、第18世天台座主の元三大師良源が開いた廬山寺(ろざんじ)があります。創建当初の洛北・船岡山の南から、度重なる火災を経て天正年間(1573~92年)に現在地へ移転しました。境内には、今から60年ほど前に造営された源氏庭があります。毎年6~9月、白砂と苔(こけ)が織り成す端正な庭に、紫式部を彷彿(ほうふつ)とさせる紫色の桔梗の花が彩りを添えます。

 大河ドラマ『光る君へ』で紫式部の初恋の人にして生涯のソウルメートとして描かれる藤原道長ゆかりの地へも立ち寄ってみましょう。廬山寺から西へ徒歩3分ほどの清和院御門をくぐって京都御苑へ。木々に囲まれた芝生の上に「土御門第(つちみかどてい)跡」の碑が立っています。ここには宇多天皇の系統を継ぐ左大臣・源雅信の屋敷がありました。

 左大臣家に婿入りした道長は、ここで妻の倫子と暮らしました。出世が見込めない五男として生まれた道長ですが、兄が相次いで病死したため、権力を掌握。3人の娘を3代にわたる天皇に嫁がせ、天皇家の外戚として栄華を極めました。かの有名な「この世をば 我が世とぞ思ふ望月の 欠けたることも なしと思へば」という歌を詠んだのも、この屋敷で催された酒宴の席だったといいます。

 土御門第のすぐ東側には、道長が創建した巨大な寺院「法成寺(ほうじょうじ)」が存在していたことを示す石碑も立ち、道長の栄華のほどがうかがえます。

● 紫式部亡き後のミステリーを探る

 紫式部は『源氏物語』の他にも、中宮彰子の出産や宮中の様子などをつづった『紫式部日記』、自身の和歌130首を収めた歌集『紫式部集』を残しました。作品や資料が途絶えた40代の半ば(50代の説も)で亡くなったと考えられています。

 紫式部の墓所は、市バス「北大路掘川」から堀川通を南へ下がってすぐ、島津製作所紫野工場の敷地に囲まれた一角。かつて紫野で広大な寺域を誇った雲林院の境内だった場所にあります。気付かず通り過ぎてしまいそうな路地を奥へと進むと、紫式部のお墓が立っています。その隣にもう一つのお墓が。紫式部の夫・宣孝でしょうか?一人娘の賢子でしょうか?それとも、ソウルメートといわれる藤原道長……?

 この墓石、実は紫式部より100年ほど前の平安初期に活躍した貴族・小野篁(おののたかむら)のものなのです。篁は、昼は朝廷に役人として仕え、夜は冥界に通って死者の罪を裁く閻魔(えんま)王に仕えたというミステリアスな人物で、小野小町は篁の孫に当たるとされています。とはいえ、いったいなぜ、紫式部と小野篁が同じ場所に祭られているのでしょうか? 

 その理由は――紫式部が『源氏物語』というとんでもないフィクションを創作し、多くの人々の心を惑わした罪を負い、死後は極楽浄土ではなく地獄に落ちたといううわさが世に広まったから。不憫(ふびん)に思った人々が、紫式部を地獄から助け出すべく、小野篁に救いを求めたのだといわれています。

 この紫式部の墓所から鞍馬口通を西へ20分ほど歩くと、千本通に引接寺(いんじょうじ)という真言宗の寺院が見えてきます。「引接」とは、「浄土に往生させる」の意。連載第3回で遅咲きのフゲンゾウザクラ(普賢象桜)をご紹介した「千本ゑんま堂」です。

 平安京三大葬送地の一つであった蓮台野(れんだいの)の入り口で、小野篁が定覚(じょうかく)上人を住職として招き、あの世へ通じるこの場所に死者の生前の罪を裁く閻魔王を祀りました。本堂の閻魔王に手を合わせたあと、境内西端にある高さ6mの供養塔で、紫式部ゆかりの京都巡りを締めくくりましょう。

 この塔が建立されたのは南北朝時代の1386(至徳3)年のこと。亡くなってから370余年を経ても、このような供養の対象になるのは、紫式部の存在と彼女の残した『源氏物語』の壮大なストーリーが、多くの人の心に深く刻み込まれ続けてきたという証しです。

【本文で紹介した名所ほか関連リンク集】
京阪宇治線「宇治」駅 NHK大河ドラマ『光る君へ』 地下鉄東西線「東山」駅 ・「二条」駅 平安神宮 大極殿跡 雲林院 大徳寺 廬山寺 法成寺址 引接寺(千本えんま堂)

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最終更新:4/19(金) 10:36

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