モチモチの木「じさま仮病説」はホント?国語の専門家が一刀両断!

5/11 10:02 配信

ダイヤモンド・オンライン

 5歳の豆太が病気のおじいさんのために1人で夜中にお医者を呼びに行く冒険譚である「モチモチの木」に、最近新たな説が出ているという。なんと、おじいさんが豆太を成長させるために仮病を装ったというものだ。これに対して著者は「深読みだ」と異議を唱える。本稿は、山本茂喜『大人もときめく国語教科書の名作ガイド』(東洋館出版社)の一部を抜粋・編集したものです。

● モチモチの木は 一種の通過儀礼の話

 モチモチの木
斎藤隆介

 豆太は、小屋へ入るとき、もう一つふしぎなものを見た。

 「モチモチの木に、灯がついている。」

 けれど、医者様は、

 「あ、ほんとだ。まるで、灯がついたようだ。だども、あれは、とちの木の後ろにちょうど月が出てきて、えだの間に星が光ってるんだ。そこに雪がふってるから、明かりがついたように見えるんだべ。」

 と言って、小屋の中へ入ってしまった。だから、豆太は、その後は知らない。

 (光村図書 小3)

あらすじ

 モチモチの木がこわくて、夜中にひとりでせっちんにも行けないおくびょう豆太の話。

 夜中、じさまがうんうん、うなっているのを知って、医者さまを呼びに行きます。

 真っ暗なとうげ道を、はだしで泣きながら懸命に走る豆太。

 やがて、医者様におぶわれて戻って行く時、モチモチの木に、灯りがいっぱいにともっているのを見ます。

 それは、勇気がある子どもだけが見ることのできる山の祭りなのでした。
 「モチモチの木」の原作は大判の絵本です。滝平二郎による切り絵が大変印象的です。「花さき山」も「八郎」も、斎藤隆介作品は、もはや滝平二郎の切り絵と切り離しては考えられないほどです。

 夜中、モチモチの木がお化けのように枝をのばしている情景、その挿絵を怖いと感じた人も多いのではないでしょうか。

 これは一種の、通過儀礼の話と言えるでしょう。「夜中に一人で医者を呼びに行く」という難題をクリアして、豆太は一歩大人に近づくことができました。

 それにしても、この話は子どもの時、夜中に野外のトイレに行ったことのある人でないと、なかなか実感できないのではないでしょうか。

 昔、田舎のトイレは家の外にありました。もちろん、水洗なんかじゃありません。下から手が伸びてきて、おしりを撫でられそうで……それはそれは怖かったものです。そもそも真っ暗な田舎の夜に、外を歩いてトイレに行くだけで十分怖かったです。

● モチモチの木と クリスマスツリーの共通点

 私は今、とある農村の古民家に滞在してこの原稿を書いています。夜になると外は真っ暗で、蛙の鳴き声しか聞こえません。静かすぎて、本当に座敷童が出てきそうです。山の中の真の闇。それを体験していないと、豆太の勇気が十分にはわからないことでしょう。

 モチモチの木に灯りがつく……、これはクリスマスツリーを連想させますね。クリスマスツリーも、元はと言えば、冬至の祭りから来ているという説があります。

 モチモチの木に灯りがつくのは、「霜月二十日」の晩のこと。現在の暦で言えば、ちょうどクリスマスの頃です。これは、日本版「聖なる夜の物語」なのでしょう。

 このモチモチの木は、「医者様」によれば、トチの木です。じさまが、餅をついている場面も出てきます。先日、私も初めて、本物のトチ餅を食べることができました。と言うのも、あんこの入ったような現代風のトチ餅は食べたことはあったのですが、トチの実だけで作った素朴なものは初めてだったのです。豆太もこれを食べたのでしょうか?

 感想は……あまりおいしくない。やはり、今は甘くておいしいものを食べ過ぎているのでしょう。

 縄文人の主食は「栗」だった、奈良時代になっても、万葉集の「貧窮問答歌」には栗の食べ物が出てくる、栗を食べるために村には栗の木をたくさん植えていた、という話を、万葉学の先生から聞いたことがあります。栗だけじゃなく、トチの実やドングリなどは保存の利く貴重な食べ物だったのでしょう。

 もう一つ、トチの木にまつわる意外なことを知りました。ある美術展で、マロニエの木を描いた絵を見ていた時、解説に「マロニエは日本のトチの木である」と書いてあるではないですか。あの、パリの並木でおなじみのマロニエが、モチモチの木の仲間だったとは(マロニエはセイヨウトチノキと言うらしいです)。

● 「じさま仮病」説は ただの深読み?

 話は変わりますが、最近は、「じさま仮病」説が有力と知って驚きました。小学校の授業でも、「じさまは本当に腹痛だったのか?」という問いで話し合い、「仮病」に意見がまとまったと聞くことがあります。豆太にモチモチの木の灯りを見せたかったから、じさまは病気のふりをしたというのです。

 いやいや、待って、と言いたくなります。たしかに、本当に腹痛だったのかどうかの決め手はありません。こういう問題について考える場合には、物語の中と外の両方から考える必要があります。

 まず、物語の外から考えてみましょう。つまり、語り手(ひいては作者)の立場から考えるのです。語り手が本当に「仮病」として読ませたいのならば、テキストにそのような「印」をつけておかなければなりません。もとより直接的に描くのではなく、さりげなく手がかりを示しておくのです。今の言葉で言うならば「匂わせ」ですね。そのような「印」を見つけて語り手の意図を読み取るのが、文学の読みなのです。

 私の見るところ、この作品にそのような指標は見つけられません。それでも「仮病」として読むことを「深読み」と言うのではないでしょうか。

 次に、物語の世界で考えましょう。山の夜は真っ暗闇です。提灯を持つことなく、数え年5才の幼い豆太は小屋を飛び出しています。これがどれほど危険な命がけの冒険なのか、暗闇を体験していない人は見落としてしまいがちです。

 今でも時々、昼間でもキャンプ場などで子どもが行方不明になる事故があります。ましてや真冬の真夜中の峠道です。一本道で麓の村に行ける保証はありません。昔の人はその危険をよくわかっていたことでしょう。たとえモチモチの木の祭りの夜だと言え、そのような危険な行動を愛する孫にさせるでしょうか。

 まずは素直に読むことが一番です。豆太がじさまを助けるためにどれだけ勇気ある行動を取ったのか、そこに目を向けるようにしたいものです。

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最終更新:5/11(土) 10:02

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