問題行動を連発「藤原伊周」道長との圧倒的な差 不穏な噂が立ち、誤解を解くべく起こした行動

4/28 5:51 配信

東洋経済オンライン

NHK大河ドラマ「光る君へ」がスタートして、平安時代にスポットライトがあたることになりそうだ。世界最古の長編物語の一つである『源氏物語』の作者として知られる、紫式部。誰もがその名を知りながらも、どんな人生を送ったかは意外と知られていない。紫式部が『源氏物語』を書くきっかけをつくったのが、藤原道長である。紫式部と藤原道長、そして二人を取り巻く人間関係はどのようなものだったのか。平安時代を生きる人々の暮らしや価値観なども合わせて、この連載で解説を行っていきたい。連載第16回は道長のライバルである、藤原伊周のエピソードを紹介する。

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■道長のライバル、藤原伊周

 「威圧されてはならない」と自分にどれだけ言い聞かせても、いざ顔を合わせれば、思わず畏怖してしまう。藤原伊周にとって、叔父の藤原道長はそんな存在だったようだ。

 よく知られているのが、2人が競弓で対決したときのエピソードである。この頃、すでに摂政・関白として権勢を振るった藤原兼家は没して、長男の藤原道隆が権力を掌握していた。

 大河ドラマ「光る君へ」では、道隆が弟の道長に「弓比べをみていけ」と競弓イベントに誘い、会場に着くと「道長、相手をせよ」とやや強引に息子の伊周の相手をさせた。

 だが、『大鏡』では様子が異なる。道長自身がアグレッシブに、伊周のところへ乗り込んでいる。伊周は「お誘いしていないのに変だ」(思ひがけずあやし)と訝しがったらしい。

 『大鏡』での道長は、競弓で伊周を圧倒。納得しない道隆やギャラリーからの声で、延長戦に渋々応じると、道長は「自分の家から天皇や皇后がお立ちになるべきなら、この矢当たれ!」(道長が家より帝、后立ち給ふべきものならば、この矢当たれ)と言って、見事に的中させた。

 続く伊周がプレッシャーに押しつぶされて的から外すと、道長は「自分が摂政、関白になるべきなら、この矢当たれ!」(「摂政・関白すべきものならば、この矢当たれ」)と言って、矢を射ったところ、またも中心にあてることに成功。次は伊周の番だが、 道隆に 「もう射るな、射るな」 と制止されている。これ以上、息子に恥をかかせたくないというわけだ。

 伊周は突如、現れた道長によって、競弓イベントを台無しにされる格好となった。2人の後継者戦いは道隆の死後、いよいよ本格化していく。

■不穏なウワサに焦った伊周の迂闊さ

道隆が43歳の若さで病死したのは、長徳元(995)年4月10日のこと。疫病が大流行する最中だったが、原因は糖尿病だったと言われている。過度の飲酒も糖尿病を引き起こす要因の1つだったようだ(過去記事「43歳で死去「道長の兄」道隆のまさかすぎる死因」参照)。

 道隆の死によって、後継者として有力視されたのは、言うまでもなく、伊周だ。伊周は道隆にとって3男だが、嫡妻との間に生まれたという意味では、長男にあたる。器量もよかったからだろう。

 道隆は期待を込めて、伊周をスピード出世させてきた。それは、父の兼家が自分にしてくれたことでもある。周囲はもちろん、伊周自身も、後継者と目されていることをよくよく理解していたことだろう。

 しかし、そこに立ちはだかったのが、道長である。あるとき、道長の耳に不穏な情報が入ってきた。何でも伊周一派が自分を追い落とそうとしているらしい。

 伊周の父、道隆が亡くなった今、後継者としての立場を固めるべく、そんな動きがあっても不思議ではない。

 ところが、当の伊周はそんな噂が立っているうえに、道長に知られたと聞いて、かなり動揺したようだ。『大鏡』によると、誤解を解かなければと、伊周は道長の屋敷にわざわざ出向いている。

 冷静に考えれば、そんなふうに動けば、相手がより優位な立場に立つことは明らかだ。噂が事実無根、あるいは、事実だとしても確たる証拠がなければ、どっしりと構えて、道長からのリアクションを待つのが、後継者候補である伊周がとるべき態度だろう。

 そんな判断も下せないほど、伊周は心を乱されていたらしい。迫力ある叔父の道長のことが、よほど怖かったのだろう。

 恐縮した伊周を迎えた道長はどうしたかといえば、噂にはまったく触れることはなかったと『大鏡』では、記述されている。

 道長は素知らぬ顔で、御岳詣での土産話などをしていると、「いたく臆し給へる御気色のしるき」とあるように、伊周があまりにおどおどしている。道長は「をかしくも、またさすがにいとほしくもおぼされて」と、そんな伊周を何だか気の毒にさえ感じたようだ。

■双六でも負かされてスキャンダル事件を起こす

 そこで道長は、不意に双六盤を持ち出した。双六は平安時代に人気があったゲームで、双六盤のほか、白コマと黒コマを15ずつ、そして振り筒、サイコロ2個を用いるものだ。

 道長は「久々に双六でもやるか」と誘い、伊周がこれに応じると、競弓のときと同様に圧勝。伊周は、またも打ち負かされて、帰路につくこととなった。

 道長が巧みだったのは、あえて疑惑を追及しなかったことだろう。証拠が不十分なことを持ちかけても、相手に攻め手を与えるだけだ。相手の態度をじっくりと見極める、道長の冷静さが見て取れる。

 一方で、伊周は疑惑の段階で、慌てて謝罪に来て、しかも、政治に関係ない遊興で惨敗するという失態を犯してしまった。

 その後、伊周は「長徳の変」というスキャンダルを犯して、勝手に転落していく。何が起きたかといえば、伊周が自分の好いた女性を花山法皇にとられたと勘違いし、弟の隆家とともに、法皇を襲撃。問題視されると、ほかの不祥事も道長に指摘され、伊周は隆家とともに失脚することとなった。

 なんともマヌケな事件だが、道長からのプレッシャーに晒されて、情緒が不安定になっていたのかもしれない。

 権力を握る環境が、父から十分に整えられていたのにもかかわらず、なぜ伊周は後継者になれなかったのか。その答えは「環境が整えられすぎていたから」ということに尽きる。

 道隆からすれば「父の兼家にしてもらったことを、我が子にもしただけ」と考えていたかもしれない。

 だが、道隆と伊周で決定的に違うのは、道隆は父の兼家がいかに不遇の時代を過ごし、そこから陰謀を張り巡らせながら、必死にのし上がったかを見てきたということ。

■道長と比べて人生経験が乏しい

 いや、ただ見てきただけではない。父・兼家の孫で、道隆にとっては甥にあたる皇太子を一条天皇として即位させるためには、花山天皇を退位させなければならなかった。そのために「花山天皇をだまして出家させる」という前代未聞のプロジェクトを兼家は考案し、道隆自身も参加。三種の神器を運び出して、東宮御所へ移す役割を果たした。

 弟の道兼にいたっては、花山天皇をだまして連れ出すという実行役を担っている。もし、失敗すれば、兼家とその家族は、すべて失うことになっただろう。

 そんな危ない橋をわたった経験を自らしているからこそ、道隆は5年という短い期間ではあったが、病死するまでの間、権勢を振るうことができたのだろう。過度の飲酒も「父のようにならなければ」というプレッシャーからではなかったか。

 順調に出世したと思われがちな道隆と比べても、伊周はあまりに人生経験が乏しかった。ましてや、5男という不遇の立場に生まれたうえに、父・兼家の出世のための死闘や、兄たちの奮闘ぶりを見てきた道長と伊周では、比べようもない。

 結果的には「長徳の変」で自滅することになった伊周。だが、そんな事件がなくても、苦労知らずの伊周は、初めから道長の相手にもならなかったのである。

 
【参考文献】
山本利達校注『新潮日本古典集成〈新装版〉 紫式部日記 紫式部集』(新潮社)
倉本一宏編『現代語訳 小右記』(吉川弘文館)
今井源衛『紫式部』(吉川弘文館)
倉本一宏『紫式部と藤原道長』(講談社現代新書)
関幸彦『藤原道長と紫式部 「貴族道」と「女房」の平安王朝』 (朝日新書)

繁田信一『殴り合う貴族たち』(柏書房)
真山知幸『偉人名言迷言事典』(笠間書院)

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最終更新:4/28(日) 5:51

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