難しい哲学が一転しておもしろく感じるプロセス 哲学YouTuberがひもとく、哲学の秘話

4/19 14:02 配信

東洋経済オンライン

みなさんは「哲学」と聞いて、どんな印象を持つでしょうか?  「難しそう」「抽象的じゃない?」そんなふうに思う方が多いのではないでしょうか。しかし、公式や文法などが存在しない哲学だからこそ、リベラルアーツとしての面白味にあふれているのです。日本初の哲学YouTuber・ネオ高等遊民氏による最新刊『一度読んだら絶対に忘れない哲学の教科書』より、みなさんが哲学を身近に感じられるような側面をご紹介します。

■実は、哲学には“1つの”ストーリーがある! 

 「小難しい用語ばかりでおもしろさがわからない」

 「答えの出ないような抽象的な問いをこねくり回しているだけでは?」

 哲学について、このように感じている人が多いのではないでしょうか。大学院で古代ギリシア哲学を研究し、修士号を取得。その後、日本初の哲学YouTuber として約6年間(2024年3月時点)活動している私からしても、十分に納得できる感想です。

 なぜ、哲学は難解で学びにくいといわれ、よく理解できないまま途中で挫折してしまう学習者が多いのでしょうか? 

 それはずばり、「数学や語学のような教科書がないこと」「解説書の構成に問題があること」などが大きな理由です。

 哲学には公式や文法のようなルールが存在しません。そのため、みんなが納得できる答えや出発点を生み出すことがとても難しいのです。

 たとえば、哲学者デカルトが言った「我思う、ゆえに我あり」という有名なフレーズがあります。さまざまな哲学書で解説がなされているものの、実は彼が発した「思考」や「存在」という言葉をどう理解するかについて、いまだ定説がなく、共通見解も定まっていません。むしろ、多くの研究者たちが日々新しい解釈を生み出し続けているくらいです。

 さらに、「正確さとわかりやすさのバランスが取れていない解説書が多い」ことも事実です。正確さばかりを追求すると、冒頭で述べたような「小難しい」「抽象的」な本になってしまいます。

 反対に、わかりやすさだけでは、誤った理解を招くおそれがありますし、哲学の浅瀬で水遊びをしているだけの軽い知識しか得られません。

 このような理由から、哲学は初学者にとってハードルが高く、おもしろくない学問だという誤った認識が広まっているのです。

 加えて、世の中には哲学用語を順番に紹介しながら「正解」や「定説」を解説する形式の入門書が多数存在します。

 しかし、哲学を学ぶ本当の醍醐味は、正解や定説がわからなくても、疑問を持ち、「なぜか?」「よりよく生きるにはどうすべきか?」などと考えをめぐらすことです。そうした考えを通じて、私たちの生き方についても見つめ直すきっかけが得られます。つまり哲学は「よりよく生きるためのツール」だといえます。

 哲学は、古代に生まれた2つの思想から始まり、「2つの源流思想と対立軸」という構造によってその歴史が花開いていったという経緯があります。

 そして哲学の源泉である2つの思想は、同じ事柄を問いつつも異なる考えを示しました。その後、時代に応じて少しずつ哲学者たちの関心や前提が変化し、問い自体もその形を変えていったプロセスこそが哲学の歴史です。

 この構造を理解したうえで、偉大な哲学者たちの主張の最重要ポイントと、彼らが思考を深めていったプロセスをストーリーとして知っていけば、あれほどとっつきにくく感じられていた哲学が、一転して身近でおもしろい学問だと再発見できるはずです。

 それではここからは、みなさんが哲学のおもしろさを実感できるような、哲学に関する古代から現代まで、4つの哲学コラムをお伝えします。

■古代の哲学史は噓だらけの逸話集だった? 

 古代の哲学者たちが書いた作品は、ほとんどが失われています。プラトンやアリストテレスのように、まとまった形で複数の作品が残っているケースは少ないです。特にプラトンは、書いたものがすべて残っており、失われた作品は1つもないと考えられています。これは、2000年以上にわたる人々の努力の結晶です。

 ここで問題となるのは、「まとまった作品が残されていない哲学者たちの思想をどのように知るのか」です。1つには、誰かが古代哲学者の言葉を引用している場合です。たとえば「パルメニデスはこのように言っている……」と書いてあれば、続く文言はパルメニデス本人の言葉だと考えてよいでしょう。こうした文言は、専門的には「断片」といわれます。

 あるいは、誰かが哲学者の学説をまとめる形で、思想の要約として後世に伝わります。その思想の要約が、古代における哲学史です。いくつか事例をご紹介しましょう。

 古代の哲学史で貴重な資料は、ディオゲネス・ラエルティオス『哲学者列伝』です。哲学者たちをイオニア学派とイタリア学派の2つに分け、古代の哲学者たちの生涯と逸話が詳しく書き記されています。

 『哲学者列伝』の著者ディオゲネス・ラエルティオスという人物が何者かはわかっていません。この本には、古代の哲学者たちの生涯と興味深い逸話が数多く収録されています。加えて、学説の要点も記されており、特にヘレニズム哲学のストア派・エピクロス・懐疑主義の教えについての記述は非常に充実しています。

 生涯や逸話は、真偽が怪しいものが多く、特に逸話についてはほとんどが作り話です。それでもまったくの荒唐無稽とはいえません。その哲学者らしさが表れていて、何らかの説得力があるのがポイントです。

 たとえば逸話で有名な哲学者に、シノペのディオゲネスがいます。ディオゲネスは特別な学説を残すことなく、さまざまな言動によって哲学を実践しました。まさに、生き方そのものが哲学といえる人物です。

 ディオゲネスは大きな甕(かめ)の中に住み、貨幣を偽造したり、公共の広場で自慰にふけったり、プラトンの学園にもぐり込んで講義を揶揄したり、昼間にランプを灯して人探しをしたりと、奇怪な言動をした哲学者です。彼の逸話の多くは、この『哲学者列伝』に書かれています。

 『哲学者列伝』のほかには、アリストテレス『形而上学』第1巻が、史上初の哲学史と見なされています。万物の原理は何であるか、過去の知者たちの意見を整理するという名目で、タレスやピュタゴラス、プラトンの学説をまとめています。

 哲学史を独立した1つの著作のように書き記したのは、テオプラストスです。彼はアリストテレスの年下の学友でした。彼は『自然学者たちの学説』という著作で、学説を収集・整理し、一体系にまとめ上げました。

 このテオプラストスの著作を原型に、後世でもいくつかの学説資料集が作られ、その一部が保存されたことで、現代の私たちが古代哲学の内容を知ることができるのです。

■古代・中世の哲学書を保存してきた名もなき人々

 中世の時代には、今でいう哲学史のような本はほとんど作られませんでした。古代では、ディオゲネス・ラエルティオスの作品があり、これが貴重な史料でした。哲学者たちの生涯や思想について、さまざまな逸話も含めて、収集し報告する形でした。

 一方で中世では、過去の哲学者たちの考えに「註解(注釈)」をつけることによって、哲学のテクストが保存されました。たとえば、イブン・ルシュドの作品は、すべてアリストテレスの著作に注釈をつけたものでした。著作の題名も『アリストテレスの「魂について」の大註解』などという名前です。これらは大学・スコラ哲学の流れです。

 これに対して、修道院では古くから「命題集」という形式で哲学者たちの作品を保存しました。代表的なものがペトルス・ロンバルドゥスという神学者の『命題集』です。これは、信仰上の疑問に対する教父たちの考えを、彼らの著作から収集したものです。たとえば冒頭は「三位一体説」がテーマで、三位一体説を理解する助けになる記述をアウグスティヌスの作品から整理しながら集めています。

 命題集は非常に重宝され、大学でも利用されます。教えるうえでの教科書としてはもちろん、特定の命題集に註解をつけることが大学の試験科目として課されたりしました。

 こうして、中世で展開された思想が保存されるとともに、ルネサンス期に古代作品の再発見がなされます。このような伝統を受けた近代において、はじめて古代からの哲学史が登場します。

 もう1つ、物理的な観点からの話もあります。当たり前ですが、作品を保存するには、それを書く紙が必要ですよね。古代ギリシア時代の紙は、主として「パピルス」という草を原料にしていました。しかし、パピルス紙は何百年単位での保存には適しておらず、新しい紙に書写し直すことで作品を保存してきました。これらを「写本」といいます。

 古代末期から中世にかけて、「羊皮紙」など、動物の皮を原料にした紙が用いられるようになりました。羊皮紙は貴重でしたが、そのぶん長期保存に適しており、重要な著作が厳選されて羊皮紙に書き写されました。書き写す仕事をしていた人々のことを写字生といい、修道院で生活するキリスト教聖職者の重要な仕事でした。

 また、羊皮紙は再利用されることもあり、書かれた部分を薄く削って別の作品が書かれました。主に、古代ギリシア・ローマの作品を削り取って、キリスト教関係の作品を上書きしました。現代の科学技術によって、削り取られた部分も一部復元されて、貴重な作品が見つかったこともあります。

 たとえばプラトンの著作で、現存する最古の写本は9世紀に書かれたものです。今から1200年ほど前の書物が残っているのは驚きですよね。しかもネット上で無料公開されています。プラトンが生きていたのは紀元前4世紀ですから、今からおよそ2400年前です。プラトン作品の最古の書物は、ちょうど1200年の時を挟んで現代に伝わっているのです。

 キリスト教は、アレクサンドリア図書館の焼き討ちなど、異文化にとても非寛容で、破壊するというイメージがあるかもしれません。しかし一方で、古典作品を保存・維持する作業も連綿と行われ続けていたのです。

 今でも古代・中世の文学や哲学・科学を知ることができるのは、羊皮紙の利用と写字生の几帳面な仕事のおかげです。貴重な作品を後世へ残すという使命のもとで、伝統を守り続けてきたからです。

■哲学は人類最高の叡智の結晶!? 

 哲学史のモデルは、ヘーゲルやヘーゲル主義者、あるいは新カント学派と呼ばれる、19世紀に影響力を持ったドイツの哲学者たちによって発展した哲学史です。

 ヘーゲル『哲学史講義』の序文はかなり奮っています。哲学とは、人類の最高の叡智の結晶であるとか、各時代に現れた最大の知性の煌めきを見出すことが哲学史という学問の使命である、などと述べています。

 そこでヘーゲルが取った戦略は、1つの理念のもとに歴史を描くことでした。その理念は、絶対理性や精神の自己展開(発展)です。ヘーゲルによって、過去の哲学は単なるコレクションではなく、歴史の重要な1コマという意味を与えられました。

 ヘーゲルの哲学史によって、哲学者たちを歴史的に位置付けることはできました。しかしそれと同時に、ヘーゲルは哲学の歴史を「発展」と理解したために、過去の哲学をすでに乗り越えられたものと見なしてしまいました。いわゆる「進歩史観」です。

 そういう問題点はあるものの、ヘーゲル以後に哲学史というジャンルが爆発的に盛り上がり、多くの哲学史が出版されるようになりました。

 そして現代にいたるまで、哲学史はまったく廃れていません。むしろ哲学という学問の主要な側面としての地位を得ています。哲学史を学ぶことは、決して単なる過去の学説の調査や整理にとどまるものではありません。哲学者たちの新たな側面を切り出す創意工夫にあふれた活動なのです。

■哲学はなぜ互いに批判ばかりしているのか? 

 分析哲学は主に20世紀の英米で主流の哲学でした。対して、現象学やいわゆるフランス現代思想は、独仏で主流の哲学でした。これらは大げさに言えば相性のよくないもので、軽蔑し合うこともあります。

 カルナップ(分析哲学)が、ハイデガー(現象学)をこき下ろしたことなどが有名です。ハイデガーもそれに対して「カルナップのようなものこそ、哲学の皮相化の極みだ」などとコメントしたようです。

 つまり、分析哲学から見れば、独仏の哲学は、いたずらに難解で、深遠そうに見せかけただけの無意味な言葉の羅列のように感じるのでしょう。

 他方で、独仏の哲学から見れば、分析哲学は明晰・明快をスローガンにしながら、哲学を俗悪で陳腐なものにしていると感じるのでしょう。

 これは哲学が持つ多様な側面の表れです。まるで正反対なことを言っているようなことも多々あります。なので、ひとまず理解の見通しを与えるために、哲学は対立軸をベースに語られることも多く、「自然哲学と形而上学」「あるとない」「精神と物体」「可能と現実」「能動と受動」など、いろんな対比があります。しかし、そういう対比さえも崩そうと思えば簡単に崩せますし、安易な対比を超えた、言葉にできないものを語るのが哲学です。

 言葉にできないものを語ろうとするから、どんな語り方もできます。歴史に残る偉大な哲学者たちとは、これまでに聞いたことがないような語り方をした人物ともいえます。

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最終更新:4/19(金) 14:02

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