日本人が体験して驚いた、イタリア「完全無料のがん治療」 そして気になる「高額療養制度見直し」の行方
2年前、長く暮らすイタリアで乳がんに罹患して治療を受けた私は、がんの治療費がすべて無料だったことに驚いた。そんな私が最近気になっているのが、日本の「高額療養費制度見直し」というニュースだ。
■日本の「高額療養費制度」とは
30年近く日本に暮らしていないので、高額療養費制度というものがあることさえ知らなかった私だが、患者が月々に負担する医療費が高額になり限度額を超えた場合、収入に応じて国が負担してくれるという素晴らしい制度だという。ところが、その限度額が段階的に引き上げられることになったという。
そのニュースを読んで私の頭にすぐ浮かんできたのは、知り合いのフリーライター仲間のことだ。シングルマザーだったその人は、数年前、乳がんと診断されたが、高額な治療費のこと、そして治療に伴って仕事もできなくなることを心配して治療を受けず、結果亡くなってしまった。
高額療養費の存在を知っていたかどうかは不明だが、知っていて利用していたとしても、彼女の年収が600万円程度だったとすると、月に8万円は自分で負担しなければならなかったのだ。1回だけ8万円というならまだしも、がんのように何カ月も、場合によっては何年間も、毎月の8万円というのは大変な負担だろう。さらに収入ストップがあればかなり厳しい状況になっただろう。
その限度額が引き上げられるという話だ。
2023年、1月。30年近く暮らした北イタリア・トリノ近郊の病院で、私は乳がんの告知を受けた。腫瘍の大きさは2センチでステージ2、転移なし。だが、その腫瘍は「悪性度が高いタイプで転移や再発の危険性が高い」という理由で、抗がん剤治療を5カ月、その後手術して乳房全摘、という治療計画だった。
「病院や検査が好き」という変わり者の私は、そのせいか、がん告知を受けてもショックはさほどなく、治療をすればさっさと治ると信じていた(実際、今のところ抗がん剤治療も手術もうまくいき、寛解している)。だから病気そのものと治療に対する恐怖は感じなかったが、告知されて真っ先に頭に浮かんだのは、治療費のことだった。そして治療に伴ってストップしてしまうだろう収入のことも気になった。
日本ではがん保険なるものが一般的に存在するぐらいだから、イタリアだってがん治療というのはさぞかし高額なのだろう、と心配になったのだ。
■がん治療費は「全部タダ」だった
イタリアの医療保険制度はホームドクター制で、ホームドクターが処方箋を書けば、どんな治療も無料、またはかなり低価格で受けられる。というのは建前で、実際は大病院での検査や専門医による診療は、公的保険制度を使う場合は予約がなかなか取れず、1年先などというケースもザラ。だから急ぐ場合はホームドクターを通さず、診察や検査を有料(保険適用外)で受け付ける医療機関を受診するというのが現実なのだ。
実際私も、2022年の年末に乳房にしこりを発見したときは、急いで診断してほしいと思ったのでホームドクターをすっ飛ばし、最終的に治療を受けることになったがんセンターに、保険適用外の予約を入れた。2週間後に診察と検査を受け、診断がついたときに支払ったのは、検査料込みで270ユーロ(約4万3000円)。
診断をつけるだけでこれだけの支出があったのだから、抗がん剤治療やら手術やら入院となったら、いったいどれだけかかるのだろう? そう思った私は、告知の面接の際にドクターに聞いてみた。治療費って、どれぐらいかかるものですかね? と。するとドクターは笑ってこういった。
「全部、タダですよ」と。
でも私はガイコクジンですよ、先生。イタリア人と結婚しているので滞在許可証はあるものの、イタリア国籍はないんです(これは日本政府が二重国籍を認めないせいで、私の過失でもイタリア国の過失でもない)と伝えると
「奥さん、イタリアに住んで税金を納めているなら外国人でも大丈夫ですよ」と。
所得税や付加価値税(日本でいう消費税)は確かに払ってはいるが、それで治療費が全部タダというのは本当だろうか? だがそのときは、まずは治療をして治すことが先決だと考え、治療費についての詳細を調べることはしなかった。
■食事や薬、シリコン製乳房も無料
そして始まった5カ月にわたる抗がん剤の治療中、私が使ったお金といえば病院へ車で通うためのガソリン代だけだった。抗がん剤の点滴代も腫瘍内科の診察料も一切かからない。もちろん無料だからといって予約が取れないということもなく、がんセンターのベルトコンベアーに乗せられたように、スムーズに治療は進んでいった。
ちなみに、病院にいる間は、飲食するお金もかからない。私は抗がん剤治療中は断食をすることにしていたが、治療室までランチが運ばれ、点滴をしながらむしゃむしゃ食べている人をよく見かけた。順番待ちの間に食べたい人は、看護師さんに言えば病院内の食堂チケットがもらえるということだった。
抗がん剤治療に伴って「起こるかもしれない副作用に対処するための薬リスト」というものを渡された。多少の副作用でいちいち病院に電話されても対応できない、可能な限り自分でなんとかしなさい、というシステムなのだ。担当の腫瘍内科のドクターが書いてくれた吐き気止め、解熱剤、抗生物質、白血球の低下を抑える注射などなど山ほどの薬のリストをホームドクターにメールで送り、処方箋を作成してもらう。それを持って薬局に行くとその薬代も全部タダ。
そして5カ月の抗がん剤治療が終了し、1泊2日の入院で乳房全摘手術を受けた。新しい設備のきれいな入院棟は、全室2人部屋、各部屋にトイレ、ビデ、シャワー、テレビ完備。食事はまずくて贅沢を言えばキリがないが、これで完全無料とは本当に驚きだった。
身体の中に異物を入れる再建手術はしたくなかった私には、外付けのシリコン製乳房も無料で支給された(再建手術も保険適用、つまり無料)。普通に買えば1つ300ユーロ(約4万8000円)ほどするという、ふわふわと柔らかいシリコン製のおっぱいを2つ、ありがたくいただいた。
その後1年間、3週間に一度、再発予防のため低容量の抗がん剤の点滴治療を受けたが、これももちろん無料。治療終了から1年経った今は、定期検診や、乳がんサバイバーのほとんどが5〜10年間毎日服用するというホルモン療法の錠剤も、無料で支給されている。
この薬、アメリカでは1箱300ドル(約4万6000円)もするんですって! と定期検診中にドクターが言った。アメリカに暮らしていて乳がんになったイタリア人女性が「アメリカでは高くてやってられない」とアメリカ人の夫と共にイタリアに引っ越してきて私の患者になったのよ、と。この薬がそんなに高価なものだったとは。私が今まで受けた抗がん剤やらさまざまな薬、治療の値段は推して知るべし、といったところか。
■移民も治療を受ける“権利”がある
それにしてもイタリアのこの気前の良さはなんだろう? イタリアの医療保険制度について調べてみると、以下のようなことがわかった。
イタリアでは、裕福な人も貧しい人も外国人も、すべての医療サービスを無料、または安価に受けられることになっている、というのは前述した通り。14歳以下は完全無料。移民の子どもであろうと、たとえ不法移民でも、14歳以下ならイタリアの国民保険に加入でき、すべての治療をイタリア人同様受ける“権利”がある、ということだ。トランプ大統領が聞いたら、びっくりして卒倒してしまうだろう(大人の場合は滞在許可証を持っている、つまり不法でない移民に限られる)。
ちなみに観光客も救急の場合は無料で応急処置をしてくれる。そしてがんをはじめとする重大な病気、難病、慢性疾患等を持つ人は、イタリア国民はもちろん、私のような外国籍の長期滞在者も治療費は完全免除となる。要するに、この健康保険システムに対する、いわゆる保険料というものをイタリア国民は納めていない。
■100%医療費を賄うイタリアと38%だけの日本
ではその財源はどこから? というと、国民から集めた累進課税の所得税から賄っている。イタリアの個人所得税は所得額によって4段階に分かれており、その税率は年収2万8000ユーロ(約450万円)までは23%、2万8001〜5万ユーロ(約800万円)までが35%、それ以上が43%と決められている。例えば年収が4万ユーロ(約640万円)の人は、2万8000ユーロまでは23%課税され、それ以上の部分に35%の税率が適用されるという。
この所得税を財源に、イタリア政府はどれぐらい医療費を国民のために支出しているのか。医療費の分析を専門に行う非営利団体GIMBE財団の最新の報告書によると、2023年度、イタリアは国民1人当たり3574ドル(約55万4000円)を支出したとある。これはGDP比6.2%で、OECD平均の6.9%をかなり下回る、欧州内では16位、G7では最下位だ、とイタリアの経済新聞『il sole24 ore』2024年9月3日版で手厳しく批判されている。
がん治療を無料で受けることができた私からみたら、とても気前がよく見えるイタリアだが、それよりもっとすごい国が欧州にはひしめいているということか。確かにイタリアは設備が古くてボロボロの病院が多く、医療従事者不足や南北の格差など資金不足に関わると思われる問題も山積みだ。
では日本はどうなんだろう。OECDのデータによれば日本の医療支出はGDPの11.5%を占めるとなっていて、イタリアの2倍近いことがわかる(ただし算出方法の違いにより、厚生労働省のデータによれば、2022年の国民医療費のGDP比は8.24%)。だがその財源は国、および地方自治体からの支出が37.9%、保険料50%、患者窓口負担11.6%。つまり日本の医療費は約38%だけが税金で賄われ、残りは保険料や窓口負担、つまり患者負担ということだ。
100%税金で医療費を賄っているイタリアが、がんや難病の人たちに医療費完全無料を提供している一方で、公費は38%だけの日本が今、さらに高額療養費の限度額を引き上げようとしているのは、どう考えたらいいのか。
■「世界に誇る日本の医療保険制度」は本当か
試しに某SNS内の乳がん患者グループの人たちに、治療にかかった(または現在もかかっている)費用について聞いてみたところ、以下のような答えが集まった。
「毎月の治療費は4万4000円でした。私の場合はがん保険に入っていたので、お金で治療を諦めることはありませんでしたが、生活がギリギリで生命保険などに加入できない人にとって、かなり厳しい医療費だと思います」(大阪府和泉市 S.Mさん)
「ステージ4でずっと治療が必要な人には、日本の医療制度は冷たいです。シングルで、親の介護もしながらがんに罹患した知人は、病気がどんなに進行しても収入や保険がなくなることを危惧して、本当に動けなくなるまで働かざるを得なかった」(兵庫県神戸市 Kさん)
「罹患してもうすぐ7年ですが、3週間に一度の点滴をずっとしています。1回の点滴が保険適用後、高額療養費制度適用前の金額で7万8000円ぐらい。高額療養費制度の限度額が引き上げられれば、負担はさらに増えそうです」(愛知県名古屋市 R.Sさん)
健康で普通に暮らしている限り、あまり関係がないかのように見える高額療養費制度だが、2人に1人が人生に一度はかかると言われるがんは、ある日突然やってくる。その時に急に足元をすくわれないためにも、他人事と無関心でいる場合ではないのかもしれない。「世界に誇る日本の医療保険制度」という言葉をよく耳にするが、本当にそう言えるのか。厚生省は最近、がん患者ら団体からの反対を受け、長期の治療を必要とする人に限って一部の上限額を据え置くと発表したが、世界の状況を知り、注意深く見ていく必要があるのではないだろうか。
東洋経済オンライン
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最終更新:2/19(水) 11:32