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西洋哲学

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  • カフカは誤解されている
    • 1
    • 2014/10/27 06:07
    と思う
  • 掲示板利用者には
    • 1
    • 2014/10/27 06:13
    いろんなタイプがいるな
  • パンデミックが
    • 3
    • 2014/10/28 14:51
    起きる起きると言われて、何年たっただろうか? 狼少年みたいだ
  • 納豆*ニンニク*梅干し*玄米*ぬか漬け
    • 11
    • 2014/10/29 05:42
    最高の健康食品
  • ケーキ*羊羹*動物脂
    • 1
    • 2014/10/29 07:58
    健康に悪い
  • ☆ ロボットを愛せるか ☆
    • 4
    • 2014/10/29 22:36
    ☆ ロボットを愛せるか ☆  見た目は人間そのもの、振る舞いも、知能も人間と同じ。ロボットであることを指摘されなければ誰も気が付かない。当然、それを知らないで、恋に落ちる男女もいるだろう。  さて、彼女(又は彼)がロボットだと分かったら、それでも男(又は女)は愛し続けることができるだろうか。  もちろん今のところ、これは単なる空想に過ぎない。ロボットと人間では素材が違う。どんなに精巧なロボットでも傍によれば人間ではないことはすぐ分かる。そばに近寄っても分からないとしても、抱き合えば違いに気が付く。だから愛の対象にはならない。言うまでもなく、知能や感情面でも差は大きい。特に人間のような感情を持たせることは難しい。人間のような感情を持たせることができたとしても、果たして私たちはロボットに感情を持たせたいと思うだろうか。意地悪なロボット、すぐに怒り出すロボット、気に入った相手にしつこく付きまとうロボット、雰囲気を察せず一人で騒ぐロボット、そんなロボットは御免蒙ると誰もが思う。特にそのロボットが怪力の持ち主だったりしたら大変な騒ぎになる。  それでも、人間は物好きだから、人間と寸分たがわぬロボットを作ることを夢見、研究開発を続けるだろう。原理的に不可能であることが明らかでない以上、いつの日か、それと知らず男女が恋に落ちるような人間型ロボット(アンドロイド)を作り出してしまう可能性がある。そのとき、ロボットであることを知ってなおかつ、ロボットを愛することができるだろうか。  現代人のほとんどは「愛することはできない」と答えるに違いない。アニメやドラマでは、ロボットと知ってなお愛し続ける若い男、女が主人公の物語をしばしば見かける。しかし、現実には、愛情の対象は、あくまでも人から生まれた人であり、人工的に製造されたロボットではない。人を愛するとき、相手が人であることを一々意識することはないが、それは人以外でも愛せることを意味するのではなく、人以外は愛情の対象となりえないことを意味している。  愛していた相手がロボットだと分かったら、最初のうちは、戸惑いながらも愛情が残るだろう。しかし、段々と気持ちは冷めてくる。そして目の前にいるのはロボットだという事実を冷静に受け止めることができるようになったとき、大切に思う気持ちは残っても、愛は消え失せる。それで問題はないし、寧ろそれが人間として健全な態度だと言える。  しかし、将来は分からない。近代化とともに、人間は自律した個人として確立した。しかし個人であることは、必ずしも人間の本質ではない。洋の東西を問わず、前近代社会では、人間は個であるより集団の一部だった。そして、集団から個へと変容するとともに、愛情の在り方、表現方法、そして儀式が変化してきた。時代と共に、愛は変化しうる。  だから、いつの日か、ごく一部の変わり者だけではなく、普通の人が、普通にロボットを愛せる日がくるかもしれない。人とロボットの婚姻や親子関係が認められ、婚姻や親子関係が認められたロボットには人間と同等の諸権利が付与される。こういうことはありえる。現代人の多くはこういう世界は異常な世界だと感じるだろう。筆者自身も同じように感じる。しかし、個人であることが行き過ぎ、無縁社会などと呼ばれるところまで辿りついた現代、少し空想を膨らませれば、そういう時代が来ることがありえると気が付く。それどころか、高齢化が急速に進み、孤独な老人が急増している現在、寧ろそういう世界を必要とする日が迫っているようにも思える。 了 (H26/10/26記)
  • 不完全性定理の帰結 ⇒ 数学的実在論
    • 3
    • 2014/11/02 03:41
    ■『ゲーデルの哲学──不完全性定理と神の存在論』(高橋昌一郎=著/講談社 20世紀前半には、古典的世界観と人間理性を根底から覆す発見が相次いだ。物理学では相対性理論と量子力学、数学ではゲーデルの不完全性定理だ。1920年代の数学界では、厳密な構文論に基づく公理系を構築し、その無矛盾性と完全性を証明しようとするヒルベルト・プログラムが構想されていた(哲学ではフッサール現象学がそれに呼応する)。ところが、ゲーデルの不完全性定理は、いかなる数学システムにおいてもすべての真理を証明することは不可能であることを、数学的に証明してしまった。  不完全性定理は「数学の恣意性」を証明したのではない。ゲーデルは次のように述べている。「数学を生み出す原材料や基礎は、何らかの客観性を有するはずです。たとえ、数学の一部の構成要素が人間の創造であったとしても、実在論的観点なしに数学全体を考えることはできません」(p.166)。ゲーデルは唯名論を批判し、数学的実在論を立証しようとした、という著者の考察に、目からウロコが落ちる思いだった。フッサール現象学を突き抜けてハイデガーが「現存在」の分析へと向かったように、晩年のゲーデルは神の存在証明に没頭したという。
  • ☆ 数学の哲学~すべて決っているのか ☆
    • 5
    • 2014/11/02 06:49
    ☆ 数学の哲学~すべて決っているのか ☆ 井出 薫  論理学、あるいは数学の体系は、公理、推論規則、定理の3つからなる。公理は証明なしで真理とされ、定理は公理や他の(公理又は他の定理から演繹規則により導出された)定理から演繹規則により導かれる。公理と演繹規則の正しさは一般的に直観と体系が無矛盾であること、つまり「Aかつ非A」のような矛盾を含まないことで正当化される。但し、直観はしばしば当てにならないし、無矛盾であることを証明することは容易ではない。どんな数学の体系でも、その内部では無矛盾であることを証明できないことは、ゲーデルの第2不完全性定理として知られている。それゆえ、論理学や数学は、その明証性にも拘わらず、それが本当に真なのかは実のところよくわからない。ただ、圧倒的な証拠、数学が他に比べるものがないほどに優れた道具として、学問において、そして実生活や産業活動において絶大なる威力を発揮し、文明を築き上げる土台となっているという現実が、数学や(数学の基礎的な一分野とも言える)論理学が真理であることを示唆している。だがそれが本当にそうなのかは分からない。 (注)現実の様々な数学分野を調べてみると、公理と演繹規則から全ての定理が導かれている訳ではないことが容易に分かる。微分幾何学、位相幾何学、関数解析などを、全数学の基礎とも言うべき自然数論に還元することは現実的にはできない。自然数論に近い代数学でも、自然数論に還元される訳ではない。各数学分野にはそれぞれ固有の原理や方法が存在して、単純に少数の公理に還元できる訳ではない。  しかし、本稿で取り上げる問題は、全数学が特定の公理体系から演繹できるかという問題ではない。私たちが関心を持つのは、もし公理と演繹規則が与えられたならば、そこから証明される全ての定理(通常、無限にある)は、あらかじめその時点で存在すると考えてよいのかという問題だ。つまり、公理と演繹規則が定まった時点で、すでに全定理は存在し、ただ、まだ私たちが定理の証明に成功していないだけだと考えてよいのか、そうではないのか、さらに言えば、公理と演繹規則自体が、それが発見(発明?)される前から存在すると考えてよいのか、そうではないのか、これが本稿で検討する課題となる。  発見されようと、されまいと、証明されようと、されまいと、公理や定理はすでに存在しており、それは発見されることを待っているだけだと考える者が多い。数学界ではこのような考えは、数学的プラトニズムと呼ばれることがある。そして、数学的プラトニズムは多くの数学者から支持されている。小川洋子氏の傑作「博士の愛した数式」に登場する記憶障害を持つ数学博士も数学的プラトニズムを信奉している。
  • ☆ 私とは特別な存在か ☆ デカルト
    • 2
    • 2014/11/02 11:57
    ☆ 私とは特別な存在か ☆ デカルト 井出 薫  新宿駅改札出口の雑踏を歩いている。視界を遮る人々がまるで私と出会うために存在しているかのような錯覚に陥る。  視界に現われる人たちはすべて私の想像物に過ぎないのではないか。デカルトは本当にそこに人が存在するかどうか疑わしいと指摘する。  では、人々を見ている(想像している)私は存在するのか。勿論存在する。存在しないとすると、たとえ錯覚だとしても「見ている」という行為が成立しない。「見ている」とは「誰かが見ている」ということだからだ。  だが私とは誰だろう。私は私の身体ではない。私は私の手を見ることができるが、この手が本当に存在するかどうか疑わしい。背中や後頭部、さらには一番気になる顔は鏡を使わないと見ることができない。だから尚更その存在は疑わしい。鏡はしばしば錯覚の原因になる。  だとすると、私とは私の身体とは別な存在、つまり精神だということになる。デカルトはそう考えた。  哲学的に考えるとデカルトの結論は拒否しがたいものに思えてくる。  だが、そのとき、私の背中を叩く者がいる。振り返ると秋田に暮らす友人がそこにいる。偶然新宿で鉢合わせしたのだ。言葉を交わし軽く食事に行く。そのとき、私はもはや特別な存在ではなくなっている。それが精神であるか身体であるかなどということはどうでもよくなっている。私と友人の非対称性など、話題になることも、脳裏に浮かぶこともない。ビールを飲み、つまみを口にするとき、私も彼もごく普通に身体を持つ存在としてレストランの椅子に腰掛けている。  哲学的にものを考えるとき、兎角、人は自分の存在と思考を過大視する。だが、日常生活において、私の思考も語る言葉も別に他の者のそれと大して変わるところはない。そして、友と語らい仕事をする日常生活こそ私を私として特徴付ける場所なのだ。私は特別な存在ではない。友との偶然の出会いと語らい、それがそのことを証明している。 了 (補足)  「私は精神だ」というデカルトの主張と「私は特別だ」という主張には飛躍がある、「私と友人の非対称性」の「非対称性」という表現が唐突だという指摘があろう。私が精神であるにも拘わらず、友人は私にとっては物(身体的存在)としてしか現われない。このことが「非対称性」の意味であり、これにより私の存在は特別なものとなる。 (H19/7/11記)
  • スピノザ
    • 2
    • 2014/11/02 14:22
    一番好き
  • 宗教は
    • 5
    • 2014/11/03 11:15
    無くならない
  • アメリカの選挙って
    • 1
    • 2014/11/03 19:18
    日本と違うな、
  • ☆ アナログとデジタル ☆
    • 1
    • 2014/11/04 16:35
    ☆ アナログとデジタル ☆ 井出 薫  15年前の話しだが、小泉元首相が(当時)郵政大臣だったころ、ある企業の視察にいき、施設の説明をしていた技術系副社長に質問した。「アナログとデジタルってどこが違うの」と。副社長は虚を突かれたのか、傍目で見ても動揺し分かりやすいとはとても言えない説明をして、小泉大臣も理解したようには見えなかった。  別に副社長や小泉元首相にケチを付けるためにこんな話をしているのではない。「デジタル」と「アナログ」という言葉が至る所で使われていながら、その違いを問われると専門家でもうまく答えられないことを指摘したいのだ。  デジタルは「0と1の集合で表現され離散的な値をとるもの」で、アナログは「連続的な値を取るもの」という説明がなされることがあるが、これだけでは何とも理解しがたい。「0と1」の2進法がデジタルを表現する基本だとみなされることがあるが間違っている。別に10進法でなくても2進法でも連続集合である実数や複素数を表現することができる。0と1はコンピュータで有名になったが別にデジタルを特徴づけるものではない。  デジタルとアナログを区別するのは離散的と連続的だが、アナログ的存在とされるもの、例えば人間や自然界は本当に連続的な存在なのだろうか。そして連続的な存在は離散的な存在と本質的な違いを持つのだろうか。  2番目の問いに対しては、離散的な無限集合、例えば自然数の集合と、実数のような連続的な無限集合を1対1対応させることができない、つまり離散的な無限集合(可附番集合)と連続集合とが異なる濃度(集合の大きさ)を持つことから肯定的に回答することができる。とは言え、無限集合の公理体系を可附番集合の上で展開できることを考えると、数学的には両者が違うとは言い切れない面がある。実際、離散的(かつ有限)な集合しか扱うことができないコンピュータが実数や複素数に関わる様々な問題を解くことができる。  人間や自然が連続的な存在であるかどうかという問いには現時点では答えることができない。量子論では空間や時間を無限に分割することはできず、プランクの長さや時間よりも小さな距離や時間間隔は意味をなさないとされる。最新の物理理論では世界はプランクの長さ・時間程度の大きさの(超対称性を持つ)紐から構成されると言われている。これが正しければ、世界は離散的な存在で、ただ近似的にのみ世界は連続的だと言う方が正しいことになる。  こうして考えてくると、数学的・物理学的な意味でデジタル・アナログの違いを厳密に定義することはできそうもない。ではデジタルとアナログの違いはどのように考えればよいのだろうか。  ここでウィトゲンシュタインを引用して、これは現実社会における言葉の使用方法の問題に過ぎず、言葉の厳密な定義を求めるのは無意味なのだと答えたくなる。だが現代的な意味でのデジタルという概念が重要かつ有名になったのは、人間が発明したコンピュータが社会で巨大な力を発揮するようになったからであり、言葉の使用の問題に過ぎない、つまり別にどうでもよいという問題ではない。  デジタルとアナログの違いとは詰まる所、数学的に表現できるか、できないかの違いと言えるのではないだろうか。なるほど音声や映像をデジタル処理することはできる。デジタル処理できるものは数学的存在と言える。だが視覚や聴覚の対象である映像や音声をデジタル処理するとき、数学的存在を超えた何かが捨象されていると考えることができる。  だが難しいのは「数学的に表現することができない存在」と表現した瞬間、私たちはそれを明快に語る方法を失ってしまうことだ。およそ明快なものはすべて数学的に表現できる。20世紀の哲学者たちはこの不明確な存在を何とか表現しようとした。だが成功したとは言えない。文学や芸術はアナログなものを表現していると言えるかもしれないが、どういう意味で、どういう遣り方で表現しているのかと問われると答えようがない。  こうして元に戻ってしまう。「デジタル」とはコンピュータを駆使した現代文明の先進性と優越性を象徴する単なる「記号」に過ぎないのだろうか。こういうウィトゲンシュタイン的解説は納得しがたい。なぜかと言えば、コンピュータとそれを基盤とする現代のICTが余りにも巨大な存在となって私たちの前に立ち塞がっているからだ。  とは言え、今のところできることは考えることしかない。「考える」ということの中にアナログとデジタルの本質が隠されているのかもしれない。だが探究はこれからだ。
  • ☆ 数の世界 ☆ この文章は数学的実在論に反している誤論
    • 1
    • 2014/11/04 16:40
    ☆ 数の世界 ☆ 井出 薫  数はけっして客観的に存在するものではなく人間の発明品だ。数が純粋に観念的なものではなく、自然との関わりの中で生まれたものであり、その意味で客観的な性質を持っていることは間違いないが、太陽や月が存在するような意味で存在するのではない。人間がいなくても月や太陽は存在すると言えるが、数も存在するとは言い難い。  このことを論証するために、まず私たちが使っている数について考えてみよう。自然数は自然との関わりは明確だ。3つの石は自然数3に対応していると考えることができる。しかし自然数だけでは四則演算のうち加算と乗算しかできない。減算ができるためには0と負の整数が必要だ。しかし0や負の整数は数学的な演算により意味が明らかになるもので、自然と直接的な対応関係は存在しない。  さらに整数だけでは除算ができない。除算は有理数まで数を拡張することで初めて可能となる。有理数まで拡張すれば四則演算はすべて可能となる。  だが有理数を係数とする代数方程式を考えると有理数だけでは解が求められない場合がある、いやほとんどの場合がそうであることが分かる。X2=2というごく簡単な方程式でも有理数の中には解がない。ルート2つまり無理数が必要となる。  有理数と無理数を合わせた実数まで進むと数の完成度は高まり、任意のコーシー列の極限がその内部に存在するという所謂完備性を具備することになる。その結果、実数では微積分という近代科学の土台とも言える強力な数学的道具を使用することができるようになる。  だが実数だけでは解が見つからない代数方程式が無限に存在する。簡単な例がX2=-1で実数には解が存在しない。ここで要請されるのが虚数i、つまり2乗して-1になる数だ。虚数を導入することで数はついに完成の域に達する。実数aとbから合成される複素数a+ibへと数を拡張すれば全ての代数方程式は解を持つことが証明されている。  こうやって数が拡張されるに従って、自然数に見ることができた数と自然との対応がどんどん希薄になる。数は数学的演算との対応関係の中でのみ意味を持ち、自然との直接的な関係はなくなる。これが数は人間の発明であり自然に存在するものではないということの意味だ。  だが人間の発明品であるにも拘わらず人間の思うようには扱うことができないのが数の魅力であり奥が深いところだ。難問中の難問と言われてきたフェルマーの最終定理は解決されたが、リーマン予想など未解決のままになっている数論の問題は少なくない。さらに不思議なことに複素数よりも数を拡張することはできない。2乗すると-1になる虚数を導入することで数学は極めて豊かになったのだから、第3の数、たとえばjを導入して、超複素数a+ib+jcのような数を導入すれば数学を更に拡張することができるのではないかと思えるのだが、そういうことはできないことが証明されている。20世紀に入り無限集合に関連して超限数が発明されたが、基本的に数の世界は複素数で限界に達している。つまり数を自由に拡張することはできないのだ。  こうして、数は人間の発明品でありながら、人間の自由にはならず、商業や測量などとの関わりの中で発達してきたことから、数はけっして観念的な存在ではなく、自然や社会との関わりにおいて初めてその真の姿が現れることが示される。  主観か客観かという対立で数を捉えるのであれば、数は主観でも客観でもなく、強いて言えば第3の領域にあるということになる。だが第3の領域がどこにあるのか誰も分からない。いや、むしろ、主観と客観とを独立したものと考える二元論的な発想の限界を数という存在、私たちにとって最も身近な存在が示していると言った方がよいだろう。  20世紀哲学は主観・客観の二元論を徹底的に批判したと言われている。だが哲学的な議論を待つまでもなく、数の存在とその有用性が主観・客観二元論を否定している。
  • 過労死
    • 3
    • 2014/11/06 11:19
    年間、200人以上。 それが日本。
  • 哀れ
    • 1
    • 2014/11/06 20:48
     大手英会話学校の講師だった女性(当時22)が2011年に自殺したのは、長時間の「持ち帰り残業」が要因だったとして、金沢労働基準監督署が今年5月に労災認定をしたことがわかった。女性は一人暮らしのため自宅の作業量の裏付けが困難だったが、労基署は女性が作った大量の教材などから作業時間を推定する異例の措置をとった。過労死等防止対策推進法(過労死防止法)が今月施行されたこともあり、女性の父親は持ち帰り残業の問題性を広く訴えたいとしている。 【写真】自殺の直前に女性が送ったメール(抜粋)  女性は11年春、子ども向け英会話学校を各地で展開する運営会社「アミティー」(岡山市)に入り金沢市の学校で勤務。実家がある大阪府を離れて暮らしていたが、同年6月に自宅マンションから飛び降り自殺した。生前、持ち帰り残業の多さを聞いていた父親が労災認定を申請した。  労基署の資料や代理人弁護士によると、労基署は、女性が入社後約2カ月間で主に自宅で作成した文字カード1210枚、絵入りカード1175枚の教材に着目。丁寧にイラストなどがあしらわれ、担当者が作ってみたところ、1枚につき29秒〜9分26秒かかったという。これをもとに1カ月の持ち帰り残業時間を82時間と推定し、学校での残業を含めると111時間を超えたため、女性が長時間労働でうつ病を発症したとして労災を認定したという。
  • *テレビ*
    • 1
    • 2014/11/08 07:59
    ☆ テレビ ☆  友人が引越しを機にテレビを捨てた。さぞかし不便ではないかと尋ねてみると、「退屈することはあるけど、自分の時間が持てるようになった。ニュースはラジオで聞けるから全然暮らしに困ることはない。」とのことだ。  筆者などはどっぷりとテレビに浸かっているのでテレビなしの生活を想像することができなかったが、冷静に考えるとテレビなしでも生活はできる。ニュースはラジオで即時に知ることできるし、速報性は劣るが新聞もある。筆者のような人間にはすぐに知る必要があるニュースなどほとんどない。  テレビなしの生活が想像できないのは習慣の所為に過ぎない。家に帰るとまずテレビのスイッチをオンにすることが日々の慣わしになっているから、テレビなしの生活が想像できないだけだ。  なんだかんだ言っても、テレビは面白い。最近のドラマは詰まらないという人もいるが、そんなことはない。2時間サスペンスなど最初を見てしまうと結局最後までみることになる。サッカーや野球だって十分に面白い。贔屓のチームの負けが続くと悔し紛れに詰まらないと言うだけだ。テレビでは、日ごろなかなかお目にかかれない美男美女に出会うことができる。楽しくないわけがない。  だいぶ前の話になるが、アメリカのノーベル物理学賞受賞者が「最近の子供たちはテレビという間抜けな箱にしがみついて勉強しない。」と嘆いていたが、日本では、子供だけではなく大人もこの間抜けな箱にしがみついている。  だが、友人の話を聞くと、テレビは酒や煙草のようなものだと気がつく。テレビがなければ執筆作業も格段に捗るだろう。そろそろ、テレビを捨てることを真剣に考えることにしよう。 (H15/6/24記)
  • 欧米の寿司
    • 2
    • 2014/11/08 23:36
    寿司を天ぷらにして食うそうだ、信じられない。
  • インダス文明には
    • 5
    • 2014/11/09 22:25
    現代インド文化の諸要素が既に見られる
  • 文化風習の違い
    • 1
    • 2014/11/10 21:13
    日本人は、赤ん坊を背中におぶる。 白人は、赤ん坊を胸に相対して抱く。
  • 古代ギリシャ人
    • 2
    • 2014/11/10 23:16
    なんで、あんなに凄い文明を創造できたのか?
  • 人間は平等じゃない
    • 8
    • 2014/11/12 17:57
    当たり前
  • 心なんて
    • 5
    • 2014/11/13 02:37
    無い
  • 日本の政治家は
    • 3
    • 2014/11/14 01:40
    自分のことしか考えていない
  • 我が子を虐待する親
    • 1
    • 2014/11/14 01:45
    なんて醜いのだ
  • 反粒子の不思議
    • 1
    • 2014/11/14 05:48
    人間は、時間*空間的に有限な存在だ。特に時間の実在性は非常に疑念を持って考えるべき。 たとえば、 反電子 (陽電子ようでんし、ポジトロン、positron)は、電子の反粒子。絶対量が電子と等しいプラスの電荷を持ち、その他の電子と等しいあらゆる特徴(質量やスピン角運動量 (1/2))を持つ。 この反電子(陽電子) をファインマンダイアグラムにおいて解釈すると、この反電子は通常の電子が時間を逆行したもの、と解釈出来る。 つまり、時間反転している電子なんだ。ようするに反粒子族は、全て過去に向かって時間を逆行しているんだ。 理解が難しいだろうが、時間概念を消去した世界、それは全ての物理法則の連鎖した世界と同等なのだ。 つまり、真の実在世界は、時間概念を超越した世界と考えられるのさ。 その真の実在世界は、時間の影響を受けない、つまり全てが決定されている。 過去も未来も現在も無いんだ。
  • ☆ 慣性系の意義 ☆
    • 1
    • 2014/11/14 20:21
    ☆ 慣性系の意義 ☆ 井出 薫  ニュートンの第一法則は「力が働かないとき物体は等速直線運動をする」と主張している。これは一見したところ第2法則「加速度と質量の積は力に等しい」の特殊な事例に過ぎないように思える。力が0のとき、加速度は0となり、自動的に物体は等速直線運動をすることになるからだ。  だが、第1法則は第2法則の単なる特殊解ではない。第2法則が成立するのは慣性系だけで、地球に向って自由落下している系など非慣性系では第2法則は成立しない。力が存在していないのに存在しているように見えたり、逆に、力が働いているのに力が存在しないように見えたりする。遠心力がその実例だ。  現実の宇宙には力が全く働かない場所など存在しない。だから、現実には存在しない慣性系でのみニュートンの第2法則は成立することになる。  第1法則は、ニュートンがその力学体系を構築するに当たって、理論体系の枠組みとして慣性系を採用するということを示している。  この原理は、経験から導かれるものではなく、経験から物理学の法則を導き出すための枠組みとして存在している。-もちろん経験なくして、ニュートンの第1法則の発見=発明はありえない。しかし、それはけっして帰納法のような論理学的な手法で導出されるものではない。-  エネルギー保存則やエントロピーの増大則が理論構築の枠組みであるのと同じように、ニュートンの第1法則もニュートン力学の全体系を構成するための理論構築の枠組みになっている。そして、それはニュートンの古典力学の限界を超えた古典電磁気学、相対論、量子論、熱統計力学においても、依然として、有効な枠組みとして機能している。局所的に慣性系を想定することができるという仮定が、これらの新しい物理理論構築に欠かすことができない原理として働いている。  物理学は、このように理論構築の枠組みを普遍的な原理として定立して、その上で具体的な物理学的な問題を解決する理論体系を構築していく。その中でも、ニュートンの第1法則は、すべての原理の中で最も強力なものだと言って良いだろう。エネルギー保存則もエントロピーの増大則も、慣性系という枠組みで初めて矛盾なく導入できる。  ポストモダニズムが流行した一時期、ニューサイエンスなどという名称で、ニュートン的世界観の終焉が盛んに叫ばれたが、それは明らかに間違っていた。複雑系、カオス、フラクタル、カタストロフィーなど、ニューサイエンスが盛んに引用した理論もまた慣性系の基盤の上に存在している。つまりニュートン的世界観は依然として健在なのだ。おそらく、ニュートンの第1法則はお釈迦様の掌のようなものなのだろう。人はそこから飛び出すことはけっしてできない。
  • ☆ 唯物史観 ☆
    • 3
    • 2014/11/17 14:09
    ☆ 唯物史観 ☆ 井出 薫  筆者の学生時代、マルクスの歴史理論は「唯物史観」とか「史的唯物論」などという名称で呼ばれていた。戦後から70年代までのマルクス主義全盛時代は、これらの名称はよく使われ、至る所で耳にしたものだった。しかし、時代は変わり、若い人に「唯物史観」などと言っても通じない。マルクスの主著「資本論」が静かなブームになっても、唯物史観という名称までは復活していない。  マルクスが、その膨大な著作群の中で、「唯物史観」を体系的に論じた箇所はない。ところが、1859年に出版された「経済学批判」の序言で、ごく簡単に語ったことが、マルクスが神格化される過程で、「唯物史観」として祭り上げられ絶対的な地位を獲得することになる。だが、その反動で、マルクスが相対化されると同時に唯物史観も忘れさられる運命にあったと言ってもよい。  まず、「経済学批判」の序言から唯物史観を語ったとされる箇所の一部を引用する(注)。  『人間は、彼らの生活の社会的生産において、一定の、必然的な、彼らの意志から独立した諸関係に、すなわち、彼らの物質的生産諸力の一定の発展段階に対応する生産諸関係にはいる。これらの生産諸関係の総体は、社会の経済的構造を形成する。これが実在的土台であり、その上に一つの法律的および政治的上部構造が立ち、そしてこの土台に一定の社会的諸意識形態が対応する。物質的生活の生産様式が、社会的、政治的および精神的生活過程一般を制約する。人間の意識が彼らの存在を規定するのではなく、逆に彼らの社会的存在が彼らの意識を規定するのである。社会の物質的生産諸力は、その発展のある段階で、それらがそれまでその内部で運動してきた既存の生産諸関係と、あるいはそれの法律的表現にすぎないが、所有諸関係と矛盾するようになる。これらの諸関係は、生産諸力の発展諸形態からその桎梏に一変する。そのときに社会革命の時期が始まる。経済的基礎の変化とともに、巨大な上部構造全体が、あるいは徐々に、あるいは急激に変革される。』 (注)「「経済学批判」、国民文庫、p15-16、杉本俊朗訳、大月書店、1966」から引用。  このマルクスの説明は簡潔で分かり易い。しかも(マルクスの著作全般に言えることであるが)人の心を揺さぶる力がある。マルクスが経済学批判を出版した同じ年(1859)に出版されたダーウィンの進化論に通じるところもある。だから多くの読者を魅了したのも当然かもしれない。しかし、これはマルクスが、なぜ経済学を研究する必要があるのかを読者に説明するために使った簡単なスケッチに過ぎない。マルクスには「唯物史観」なる理論体系を確立する意図はなく、それゆえ当然のことながら、それは十分に練り上げられたものではない。
  • ☆ マルクスの考察の現代的な意義 ☆
    • 4
    • 2014/11/17 14:21
    ☆ マルクスの考察の現代的な意義 ~価値と使用価値、資本主義の限界など~ ☆ 井出 薫  マルクスは、商品の価値には、価値と使用価値という二重性があると指摘した。前者は交換価値という現象形態を取り、後者は具体的な有用性を意味している。大雑把に言えば、前者は具体的には価格という姿を纏い、後者は商品の効用を表現すると言ってよいだろう。  現代の経済学では、商品の価格は限界効用で決まるとされている。つまり、現代経済学では、価値と使用価値は、単純な比例関係にあるのではないが、明確な数学的な関係で結び付けられていると想定されている。だから、価値と使用価値をことさら区別して考える必要はない。  しかし、マルクスの観点からすると、両者の間には明確な差異があり、そこにこそ資本主義的生産様式の特徴が現れているということになる。ところが、マルクス自身が両者の関係を十分に吟味しておらず、「資本論」でも、価値が量的な側面で使用価値が質的な側面だなどという些かスコラ的な議論をしている箇所があるかと思えば、両者の間には正の相関があると論じているような箇所もある。価値の二重性は価値形態論・貨幣論で援用されているだけで、その意義は十分に展開されていない。つまり、マルクスは自分の発見の意義を必ずしも的確に把握しておらず、その結果それを十分に展開しないままに終わっている。  現実の資本主義社会では、現代経済学が前提しているように、価値と使用価値が明確な数学的な関係で結ばれているとみなせるような状況にはない。価値と使用価値の関係は極めて複雑であり、明確な数学的表現で記述できるようなものではない。  マルクスも、現代経済学も、物やサービスは使用価値であることにより価値であると前提している。もちろん、これは具体的な事実を示すものではなく、論理的な定義のようなものでしかないと考えるべきだろう。しかしこの論理的な定義は資本主義社会の現実を捉えるために適切なものとは言えない。資本主義的な市場経済においては、価格という形態を取る貨幣換算された価値の増殖が常に経済活動の目標かつ指針となる。価値増殖が実現されれば、ある意味で使用価値はどうでもよいものになる。株式取引で利益を得ても、米を育て収穫して売って利益を得ても、どちらでも構わない。両者は資本主義的市場経済においては本質的な違いを持たない。
  • ☆ 芸術と人間 ☆
    • 12
    • 2014/11/18 00:03
    ☆ 芸術と人間 ☆ 井出 薫  最近は、将棋でも人間はコンピュータに勝てなくなりつつある。数年前にチェスの世界チャンピョンをIBMのコンピュータが破って話題になったが、チェスの世界ではすでに勝負はついた。将棋は取った駒を使えるためにチェスよりずっと複雑で名人に勝つことは難しいと思われていたが、近年の将棋ソフトの目覚しい進化をみていると名人を凌ぐ日は遠くないと認めざるをえない。コンピュータはプログラムに従って動いているだけで何の創造性もない。コンピュータが世界チャンピョンや名人に勝ったとしても、それはコンピュータが勝ったのではなく、コンピュータソフトの開発者が名人に勝ったと言うのが正しいとしても、これらの出来事は、あらゆる面で機械の能力が人間を凌ぐ時代が到達しつつあることを示している。あとは、自己学習能力を有して、自ら進化し自己増殖する機械が登場すれば、人間は「しかし、これは人間が作った物だ、だから人間の方が優れている」とは言えなくなる。それは人間が微生物の進化の産物だからと言って、人間より微生物が優れているとは言えないのと同じことだ。親は子より優れているとは限らない。  しかし、コンピュータに偉大な芸術作品を作り出すことができるだろうか。芸術創造を含めた人間のすべての知的な能力が数学的なアルゴリズムに分解できるならば、コンピュータは如何なる優れた芸術でも創造することができる。「オデュセイアー」や「カラマーゾフの兄弟」を凌ぐような偉大な文学、「モナリザ」を超えた絵画、「ジュピター」や「第9交響曲」以上の音楽作品、やがてコンピュータは人々を驚嘆させる偉大な芸術作品を次々と生み出すことになろう。  だが芸術創造は数学的なアルゴリズムに還元されるようなものなのだろうか。哲学者やロマンチストならば反対するだろう。芸術とは、各人固有の生の体験に基づき創造されるもので、機械的なアルゴリズムで自動的に生み出されるものではないと。  鍵を握るのは人間の脳だ。人間の活動は全て脳に支配されるものではないが、芸術創造を含む知的能力は脳で決まる。脳がもしコンピュータと同じようなデジタル情報の処理システムだとしたら、人間の脳とコンピュータとの間に本質的な違いはなく、芸術創造のアルゴリズムさえ発見できれば-それはもちろん容易ではないが-、コンピュータはどんな偉大な作品でも生み出すことができるようになる。果たして人間の脳はデジタル情報の処理システムなのだろうか。  人間の脳内で遂行される情報処理は、ニューロン間のデジタルな信号の伝達により実現されると長い間信じられてきた。だとすれば、人間とコンピュータは基本的に同じ存在だと考えることができる。しかし、最近の知見によると必ずしもそうではないらしい。ニューロン間のデジタルな信号の遣り取りだけではなく、細胞体のアナログな膜電位も大きな役割を果たしているらしいのだ。(ネイチャー6月8日号などを参照のこと)  このことは、人間の脳がコンピュータのような数学的なアルゴリズムに従い機能するだけの存在ではないことを証明するものではない。だが、人間の脳にはコンピュータでは模倣できない潜在力が秘められている可能性があることを示唆する。もちろんアナログな信号が役割を果たすと言っても、それは霊的なものではなく、物質的なものであることには変わりはない。だから人間の科学技術が進歩すれば、アナログな処理を取り込んだ機械を作り出すことが可能になるかもしれない。だが、おそらくそのような機械を作り出すということは、人間そのものを作ることと等しくなる。いまの電子回路のように、無機的な素材を組み合わせただけでは、そういう機械は作り出すことができないと予想されるからだ。  だから、科学技術が如何に進歩しても、偉大な芸術は、人間だけが生み出すものであり続ける。私たち人間が、芸術創造のためにコンピュータを利用する機会はこれから益々増えてくる。だが、それはあくまでも道具として利用するに過ぎない。筆やキャンバスの代わりにマウスやディスプレイを使うだけのことなのだ。創造性を機械に譲り渡すわけではない。人は、産業活動では、ほとんどの分野でやがて機械にその仕事を委ねるようになる。そして機械の方が人間より上手で確実に任務を遂行するだろう。だが芸術の世界では、人は永遠に機械に対して優位性を保つことができる。 (H18/6/11記)
  • ☆ 体験、表現、理解 ☆
    • 2
    • 2014/11/18 00:13
    ☆ 体験、表現、理解 ☆ 井出 薫  生の哲学者の一人と称されるディルタイは、体験、表現、理解を重視した。この三つの概念は、正しく、人の本質を示している。  コンピュータは人の知的活動を模倣する。しかし、コンピュータは体験することも、理解することも、表現することもない。ただ、物理的な信号を取り込み、物理的な信号を処理して、物理的な信号を出力するだけだ。そこには物理的な信号ではなく意味を持つ情報が問題となる体験、理解、表現は存在しない。  コンピュータは情報処理をすると言われる。だが、本当は情報処理などしていない。コンピュータを使って人が情報処理しているだけなのだ。  体験、理解、表現は人間特有の出来事と振る舞いを表わす。意味を捉え、意味を理解して、意味を生成する「人」あるいはその「生」という特異な存在、それをディルタイという人は正しく理解し表現している。そこには、生の体験が輝いている。 (H17/3/4記)
  • 定説*通説は、
    • 3
    • 2014/11/18 00:21
    疑うべし
  • 最近
    • 2
    • 2014/11/18 00:27
    雨の日が多い
  • 優良株は上がらない
    • 2
    • 2014/11/18 01:20
    これ事実
  • 神が居ても宗教とは無関係
    • 6
    • 2014/11/18 01:44
    ですよ
  • *決定論の支配*
    • 4
    • 2014/11/18 20:52
    もし、この世界が決定論に支配されていないならば、 物理法則の普遍性も担保されず、従って宇宙の秩序も維持されず、物理法則によって機能する科学でさえも成立しないだろう。 決定論が支配しているからこそ、世界は成立可能なのだ。 決定論、それは神聖なる原理なのだ。
  • 宗教には
    • 2
    • 2014/11/18 22:49
    良い面と悪い面がある。 しかし、悪い面の方が大きい
  • ☆ 可能性への眼差しを ☆
    • 2
    • 2014/11/20 11:02
    ☆ 可能性への眼差しを ☆  有望企業の買収で市場の注目を集め、株の分割で株を購入しやすくして、株価の上昇を促し事業資金を作り出す。実に上手い方法だ。ライブドアは明らかにやり過ぎだったし、脱法行為は許されない。だが、こういう遣り方自体はけっして悪いことではない。これまでは社会に貢献する良いアイデアを持ち、それを実現する能力もありながら、金もコネもないために夢を実現できないで終わった人間がたくさんいた。だが、これからは違う。金も学歴もコネもなくても、アイデア、能力、挑戦する気概があれば事業を立ち上げ社会に貢献することができる。これまでは大きな夢を実現することができる分野はスポーツ、芸能、芸術、学問などいわゆる文化の領域に限られていたが、ビジネスの分野でもそれが可能になったのだ。  ところが、経営トップから一介のサラリーマンまで、筆者と同世代並びにその上の世代のおじさん連中は、ライブドア事件の悪しき面ばかりを取り上げて、株価の上昇を促す行為をまるで悪徳商法であるかのように言い立てている。証券取引法違反の罰則強化が検討されているが、こういう新しい可能性を潰してしまわないか心配だ。罰則強化をする前に適切な監視体制を確立することが大切なのに、遣るべきことが違っている。  一昨年ファイル共有ソフトWinnyの開発者が著作権法違反で逮捕され、現在公判中だが、これも同じような事例に思える。Winnyそれ自体は著作権違反を目的としたものではなく、インターネットで効率よくファイル共有を実現する非常に優れたツールだ。それを開発者の挑発的な言動を過大視して著作権法違反で逮捕・起訴したのは明らかに行き過ぎだった。おかげでソフトイーサなどの例外はあるが、若い能力あるソフトウエア開発者達の意欲を明らかに殺いでしまった。ソフトの世界ではマイクロソフトの独占状態が続いているが、それでも多くの挑戦者がいる。アメリカやヨーロッパだけではなく韓国、中国、インドなどアジア諸国にもたくさんいる。ところが、日本人が能力的に劣るわけではないのに、日本の中枢に座するおじさん連中が頑固で無知なために人材を育て能力を発揮させることができない。できないどころか寧ろ阻害しているのが実情だ。  著作権の問題にしても、Winnyの開発者は中間マージンをとっている連中を批判していただけで、本当の著作者、作曲家・作詞家、演奏者・演技者、作家などの権利は最大限尊重されるべきだと言っていた。いや、寧ろ著作者を守るために中間マージンを減らそうと提唱していたのだ。実際ネットが普及すれば旧来の仲介業者の役割はどんどん減っていく。iPODの普及とそのインパクトもその実例だろう。それなのに、いまだに日本では、著作者の権利を守ると称して、中間マージンを取っている者たちの既得権を守ろうとしている。その挙げ句に、ソフトの開発者を逮捕・起訴するという事態を招き、日本発の優れたソフトを世界に普及させるという機会を失った。  自分がそうだからよく分かるが、歳を取ってくると、自分の知識や経験に固執して、自分が理解できないものは何でも排斥しようとする傾向が強くなる。読売の渡辺会長なども首相靖国神社参拝批判などではさすがジャーナリストというところを発揮するが、スポーツやビジネスの話しになると途端に頑迷な守旧派になってしまう。自分が知らないこと、分からないことを理解しようとせず、頭から否定して掛かる。そして、これは渡辺氏に限ったことではなく、50代以降の男性に共通した傾向と言わなくてはならない。
  • ☆ 水の神秘 ☆
    • 2
    • 2014/11/22 08:34
    ☆ 水の神秘 ☆  人間の身体の60%から70%は水だと言われている。クラゲなどは90%以上が水で、干上がるとほとんど跡形もなくなる。水くらい身近でありふれた物質はない。  ところがこの最もありふれた水がなかなか面白い。最近NHKの番組で条件次第でお湯の方が冷たい水より速く凍るという実験が紹介され、その真偽を巡って専門家が大真面目に論戦を交えている。水はとても不思議な性質を持つ。  ほとんどの物質は液体から固体になると体積が減少する。ところが氷が水に浮くことから分かるとおり、水は固体になると体積が増える。水素結合の影響で固体になると蜂の巣のような構造となり空洞が生じ体積が増えるそうだが、実に奇妙な性質だ。水は他にも非常に高い比熱容量、高い比誘電率、反磁性など奇妙な性質に満ちている。  しかし、だからこそ水は生命という神秘に満ちた存在を生み出すことになった。水の神秘と生命の神秘は繋がっている。ところで生命の神秘の中でも心ほど神秘的なものは他にない。心の神秘性はどこから生じているのだろう。水に精霊が棲み、それが生命に宿り心として現象した、などと言うと皆から笑われる。だが、そういう物語は昔からたくさんあるし、科学が発達した現代でも似たような物語をよく耳にする。人は水という存在にいつも魅了されてきた。生命にとって水は単なるH2Oの集合体ではなく、心と自然が一体になるかけがえのない接点だ。水を飲むことは渇きを癒すだけではなく、魂を取り込むことなのかもしれない。  夏になると水が恋しくなる。燦然と輝く太陽は生命に不可欠の存在だが、水があって初めて生命を育むことができる。水のない水星や金星は生命にとっては不毛の地だ。夏になるとビールが格別に美味くなるが、たまにはビールではなく水で乾杯しながら、生命と心と水の神秘に思いを寄せ、水に感謝の気持ちを捧げるのも悪くはない。きっと心が軽やかになる。 了 (H20/8/4記)
  • どんな衆議院解散にも、
    • 1
    • 2014/11/22 08:38
    大義なんて無い。 政治に大義なんて無いんだ。
  • ユダヤ脅威論が叫ばれる真因
    • 5
    • 2014/11/22 23:19
    それは、彼らが、あらゆる分野で、ルールを策定するからだ。 他の民族は、彼らが策定したルールを守らなくては、ならない。
  • みんなが、ユダヤ教を実践すれば良い。
    • 11
    • 2014/11/22 23:20
    世界中の人々が。 それが、貧富の差を無くすための第一歩。
  • あほくさ 宗教規範倫理 考察
    • 42
    • 2014/11/22 23:40
    不合理で不可解な宗教規範と、宗教倫理を考察したい。 特に、旧約聖書とユダヤ教を対象として。
  • なぜ、サッカー日本チームは弱いのか?
    • 10
    • 2014/11/22 23:41
    馬鹿だからだ
  • イスラエル=神と戦う者
    • 99
    • 2014/11/24 21:38
    神 対 人間 の闘いを意味する。
  • ☆ 薬と副作用 ☆
    • 20
    • 2014/11/24 21:46
    ☆ 薬と副作用 ☆  脳梗塞の特効薬で死亡した人が48人もいると報じられている。危険性は認識されており使用基準も定められているが、必ずしもきちんと守られていなかったようだ。医療関係者には基準の遵守が求められるが、基準は万能ではないし、時とともに変化する。患者から薬の使用を強く求められることもある。この辺りは医療関係者としても判断が難しいところだろう。  どんな薬にも副作用がある。漢方薬は副作用がないと信じている東洋医学信奉者をときどき見かけるが、漢方薬でも副作用で死者が出たり重い障害を患ったりすることはある。第3世代の抗鬱薬と呼ばれ日本でも7年前に認可されたSSRIと呼ばれる薬は、それまでの抗鬱薬に較べて格段に副作用が少ないと言われたが、近年、未成年者ではSSRIの服用が自殺を増加させるという調査結果もあり、若年層への投与は要注意とされている。  薬と副作用はトレードオフの関係にある。薬を使用しないで病気が悪化するリスクを負うか、副作用のリスクを負うか、いずれかを選択しないといけない。辛い選択だ。だが、命に関わる病気の場合には少々副作用が危惧されても薬の使用を選択する。  難しいのは薬を使用しなくても治る可能性が高いが、回復までに時間が掛かる、あるいは、確率は低いが悪化した場合に後遺症が残る可能性があるというような場合だ。  こういうときにどういう判断をすればよいだろうか。日本人の医者に対する信頼は信仰心と言ってもよいほどに篤く、筆者も含めて医者に任せるという人が多い。だが、自分の健康に最終的に責任を持つのは自分自身だ。薬を処方されるとき、自分の体質や副作用の経験、服用中の薬などをよく説明して、薬の効果と副作用を確認することを心がける必要がある。 了 (H18/10/30記)
  • 日本は最悪の
    • 3
    • 2014/11/24 22:27
    地震国だ
  • ☆ 自然法 ☆
    • 3
    • 2014/11/25 11:58
    ☆ 自然法 ☆ 井出 薫  自然法なるものが存在するだろうか。物理法則と同じような意味で存在するわけではない。人は、「(正当防衛と認められる場合や戦場での戦闘員同士の戦闘を除いて)人を殺してはいけない」という法ですらしばしば破るが、物理法則を破ることはできない。  自然法など存在せず、具体的な規範や法は、それぞれの時代と地域に恣意的に登場するものに過ぎないのだろうか。だが、そうだとすると、私たちは道徳相対主義を認めることになる。殺人が犯罪ではない社会がありえるし、そういう社会と出会っても、原理的にその社会を批判する根拠がないことになる。だがそれは私たちの直観に反する。  自然法は共通の理念として社会に存在すると考えることができる。自由な社会では、人により理念は様々だが、それでも、多数の者が賛同する理念とそうでないものとの差ははっきりしている。  「政府は私企業や個人の経済活動に介入してはならない」、「自然保護は他の如何なる目的よりも優先されなくてはならない」こういう理念は賛同する者も反対する者もいて、どちらが正しいかを決定することは困難で、時と場合によるという面もある。  しかし、「人を殺してはならない」、「人の物を盗んではいけない」こういう理念は大多数の者が賛同する。民主的な社会ではこれらの理念に反対しても罰せられることはないが、理念に反するような行動を取れば罰せられる。また理念に反する行動を取ると予測できる正当な根拠があれば、行動の自由が制限されることもある。そしてそういう措置を大多数の人が支持する。  このように理念には2種類あり、後者のような理念を自然法とみなすことができる。そして自然法は全ての者を拘束する大原則と捉えることで、社会の秩序と人々の平和が維持され、罰則を規定する法、罰則を決定し執行する組織の正当性が基礎付けられる。  但し、自然法は、時間的にも空間的にも普遍的な自然法則とは異なり、時代と地域、思想、宗教などが異なることで違いが生じることは認めなくてはならない。だから正義の名の下に紛争が生じることもある。  人は自然法則に従うのに教育はいらない。自然法則を知らなくても自然法則に従う。だが、自然法を現実化するには実定法として制度化することが先ず必要で、その権威を維持するには、絶え間ない教育と説得、法の正当性に関する吟味と協議が欠かせない。そして合意形成に失敗して法が崩壊し社会が混乱することもある。  だが、それでも「自然法は存在する」と考えるべきではないか。「自然法などない、あるのは恣意的な権力と法律だけだ」ということになると、私たちは暴力から身を守る思想的な道具を有しない無力な存在になる。自然法を神格化することなく、その存在を認めていこう。
  • 戦争や病気は必要。
    • 7
    • 2014/11/25 12:20
    戦争や病気が無いと、人口が減らないから。 戦争や病気は、人間にとっては、悲惨で辛い。 でも、魚や鳥や牛や植物から見たら、人間の数が減った方が良いに決まっている。 戦争や病気は、人間にとっては辛いが、他の生物にとっては有り難い。 人間の数が減るから。
  • ☆ まだ、フランス思想? ☆
    • 5
    • 2014/11/26 22:34
    ☆ まだ、フランス思想? ☆ 井出 薫  書店の哲学書・思想書コーナーを覗くと、現代フランス思想とそれに決定的な影響を与えたハイデガーとニーチェの著作がずらっと並んでいて、カントとヘーゲルの著作と解説書と合わせると、哲学書・思想書コーナーの書棚の大部分を占有していることが多い。  現代哲学は、フランスとドイツを中心とする超越論的哲学と英米を中心とする分析哲学の二つが主要潮流をなすと言われている。だが、日本では、前者その中でもフランス哲学思想が圧倒的に優勢である。分析哲学の著作などほんの申し訳程度に並べてあるだけだ。カルナップ、クワイン、デイビットソンなど重要な分析哲学系の哲学者の翻訳書は極めて少ない。唯一の例外がウィトゲンシュタインであり、ハイデガーやデリダ、フーコーなどと匹敵するくらい多くの著作が発刊されている。だが、日本では、ウィトゲンシュタインは分析哲学者というより、フランス流のポストモダニズムの先駆者として評価されている場合が多い。  だから、日本の出版界では、ウィトゲンシュタインも含めて、ポストモダニズムという名称で括られることが多いフランス現代思想とその関連の著作が、哲学思想書の大多数を占めていると言っても過言ではない。 (注)尤も、ウィトゲンシュタインが生きていたら、自分がデリダの先駆者だなどと言われたら激怒するだろう。ウィトゲンシュタインが最も嫌悪したのが現代フランス思想のような衒学的な思想なのだ。それに呼応してか、日本やアメリカでは、ウィトゲンシュタインはポストモダニズムの先駆者という観点で論じられることが多いが、本家本元のフランスではウィトゲンシュタインは、筋金入りのアンチポストモダニズムのブーヴレスなど一部の哲学者を除くと評価は低い。最近は少し様子が変わってきたらしいが、ウィトゲンシュタインはフランスでは無視されてきた。デリダやドゥルーズ、フーコー、バルドなどフランス現代思想の代表人物の主要著作を読めば、それは容易に理解されよう。ウィトゲンシュタインが引用されていることは皆無である。  だが、フランス現代思想はそれほど優れたものなのだろうか。20世紀後半から21世紀にかけて生まれた哲学思想の中で最良のものなのだろうか。  意見は分かれるだろう。だが、私の考えでは答えは明確に「ノー」である。サルトルが世界的な評価を得て、日本でも熱狂的に受容された学生運動華やかしき時代1960年代以降、マルクス主義と並んで、構造主義、ポスト構造主義、脱構築など一貫して日本の言論界はフランス思想を積極的に受容してきた。ほとんど無批判にそれを消化吸収してきたと言っても過言ではない。  もちろん、英米の分析哲学に着目しフランス思想に批判的な哲学者も少なくはなかったが、その声が世間に響き渡ることはなかった。英米流の分析哲学は、論理分析を主要な方法として言葉の意味や行為に関する瑣末な議論に終始する、およそ哲学という名に相応しい気宇壮大な思想を展開しない詰まらない学派として無視された。
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