西洋哲学
スレッドは作成できません
-
- ☆ フレーム問題 ☆
-
- 2
- 2017/12/13 06:41
☆ フレーム問題 ☆ 井出 薫 人間並みに任意の状況に対応できる柔軟なコンピュータを実現しようとするとき、私たちの前に立ちはだかる壁がフレーム問題だ。 井出が駅に向かって歩いている。寝坊して会社に遅刻しそうだ。そこに、友人の里見がやって来て、「井出、久しぶり、元気」と声を掛ける。井出はどうするか。おそらく、「よう、元気、悪い、先を急いでいる、夕方電話するよ。」とでも返答して、駅に向かって急ぐだろう。 友人に対して愛想をとりながら、遅刻せず出社するための適切な措置を講じる、ここがポイントだ。このようなことをコンピュータやロボットにやらせることは極めて困難だ。課題が、友人への適切な対応と会社に遅刻しないという二つの条件だけならば、問題解決のプログラムを書くことは容易だ。しかし、人が道を歩いているとき、解決しなくてはならないことは無数にある。信号が赤のときは青になるまで待つ、水溜りがあればそれを避ける、人が倒れていれば声を掛ける、電車に遅れそうなときには時間を確認する、など無数の課題が存在する。 さらに、ある事象が発生したときに、適切な応対をどうやって決定するかという問題がある。私たちは知識を活用する。だが、知識も無数にある。「里見は友人だ。」、「友人には愛想よくするものだ。」、「出社時間には遅れてはならない。」、「里見は運転しない。」、「日本の首相は小泉さんだ。」など枚挙の暇がない。このうち、最初の三つの知識は問題解決に関係するが、後の二つは無関係だ。その他、この状況には無関係な無数の知識がある。ここで、どうやって、最初の三つは関係があり、後は無関係と分かるのか。問題解決に関連した知識の枠(フレーム)をどのように決めればよいのか、これがフレーム問題だ。 果たすべき課題が少数で、私たちの知識も少数なら、フレーム問題は苦もなく解決される。だが、人間が現実に暮らす世界には無数の課題があり、私たちは無数の知識を持つ。このような状況で、フレーム問題を解決して、適切な対応を取るためにはどうすればよいのか。どのようなマシンで、どのようなプログラムを書けばよいのか、これが実に困難な問題だ。 この問題は解決されていない。解決される見込みもない。お陰で、現在のコンピュータはごく限られた課題しか扱えない。コンピュータ制御のロボットはごく限られたことしかできない。 アトムやHALのようなロボットはフレーム問題を解決している。どうやって?もちろん、誰にも答えられない。 アルゴリズムを見出し、それに従いプラグラムを書き実行させるという現在のコンピュータ技術では、アトムやHALは実現できないと私は予想する。 だが、「人間だって、アルゴリズムに従い思考して行動している。人間ができることをコンピュータやロボットが実行できないはずがない。」こういう考え方が人工知能論では依然として根強い。計算主義と呼ばれる立場がその急先鋒だ。言語学者で体制批判の著名な評論家であるチョムスキーなどもその一人だ。 私は、これはドクマに過ぎないと考える。自然は数学という言葉で書かれているというドクマだ。 自然も人間も、数学という言葉で書かれているのではない。数学は、自然と人間を合理的に把握するために、人間が作り出した(非常に強力な)道具に過ぎない。しかし、それが世界を覆い尽くすことはない。このように考えたからと言って、霊魂など物質に還元されない神秘的な存在を想定しなくてはならなくなるわけではない。 では、人間はどうやって無数の課題を適切に処理することができるのか。おそらく、問題の認識⇒問題解決という図式で人間の行動と思考を捉えたのでは、謎は解けない。人間は数理論理学的シミュレーションではない。フレーム問題は疑似問題だ。 人間は自然現象だという当たり前の事実に、謎を解く鍵がある。 (H15/4/18記) -
- ボランティアの人って
-
- 6
- 2017/12/12 20:36
えらいな りっぱだな -
- ☆ ロールズと現代 ☆
-
- 2
- 2017/12/12 18:45
☆ ロールズと現代 ☆ 正義論(1971年)の著者として知られるアメリカの政治哲学者ロールズが11月24日逝去した。享年81歳であった。 ロールズは、その著「正義論」で、正義の根拠付けに取り組んだ。英米思想界では、ベンサムやミルに端を発する功利主義的倫理観が圧倒的な勢力を占めていた。そこに、ロールズは敢然と反旗を翻した。 「最大多数の最大幸福」、功利主義の原理は、何が幸福であり正義であるかという根源的な問題を回避する。経済的な富しか規準はない、しかし、数量化された富は、幸福の証ではない。それは付随的な現象だ。 正義は、富を基準とするものではない。正義は、数値化された経済的な富を超えたものである。カントは嘗て「正義はなされよ。たとえ、この世が滅びようとも。」と喝破した。ロールズは、カントの衣鉢を担いで、経済的な富と社会的成功に幸福、善、正義の証を求める世相に挑戦した。 カントは、道徳を定言命令と捉える。カントは、道徳律はそれを守らないと不利益があるから守られるべきものである、という考え方を否定して、それ自体が無条件に妥当する絶対的なものだと主張する。しかし、私たちは、カントの定言命令としての道徳律という考えでは納得できない。どのような道徳律でも、ときと場合により、善でもあり、悪でもある。カントの倫理説は、功利主義者だけでなく、偉大な後継者であるヘーゲルにより、直ちにその欠陥を指摘され破綻した。 ロールズは、社会契約説を再構築することで、正義は、富や幸福に先立つものであるというカントの主張が正しいことを論証しようとする。 ロールズは二つの原理を掲げる。 ■自由はすべての人に公平に分配されなければならない。 ■経済的・社会的不平等は、次の条件がみたされるときだけ容認される。社会の中で最も恵まれていない人にも、それが有益であること。最も恵まれない人にも、最も恵まれた地位を獲得する可能性が与えられていること。この条件を満たすときにだけ不平等は容認される。 ロールズはこの条件を社会契約の基礎に据えて、正義の根拠付けに取り組む。この二つの原理が、経済的富とは独立したものであるのは明らかであろう。ロールズは、経済に対して倫理の優位性を主張する。 ロールズが成功したかどうかは、ここでは論評しない。賛否両論が渦巻いた。どちらかと言えば否定的な意見が多かった。「正義論」が世に出てから30年が過ぎた現代、社会の様相は、ロールズの理念から遠く隔たっている。だが、ロールズのように真正面から正義を探究することをダサイと考えるような風潮が蔓延り、社会的富や栄誉の獲得だけを人間の価値基準であるかの如く語る者たちが往来を闊歩する現代こそ、ロールズの思想をもう一度問い直すべきである。 (H14/12記) -
- ☆ メディアという権力 ☆
-
- 3
- 2017/12/12 18:45
☆ メディアという権力 ☆ 井出薫 メディアは、現代社会において、間違いなく巨大な権力だ。 NHKの海老沢前会長は世論の圧力で辞めざるを得なくなったと言いたいところだが、メディアが(実質的に)辞めろと圧力を掛けたことが大きい。確かに世論調査をすれば海老沢氏は辞めるべきだという意見が多数を占める。しかし、「なぜ海老沢氏は辞めるべきなのか」と聞かれて明快な答えが出来る人は余りいない。「不祥事が起きたのだからトップは責任を取るべきだ。」としか答えられないだろう。だが、社員の不祥事でトップは常に責任を取らなくてはならないのか。辞任する、しないの境界線はどこに引けばよいのか。明確な答えはない。メディアの意向が世論に反映されるとは限らないが、影響が巨大であることは否定できない。辞めるべきか否か、その規準はメディアが決めているというのが実情ではなかろうか。 いま人気のある政治家と言えば、安部晋三氏の名前が真っ先に挙がる。一時ほどではないにしても田中真紀子氏の人気も依然として根強い。しかし、彼らの政治家としての業績や能力を国民が正しく認識しているとは思えない。彼らはメディアが作り出したアイドルと言えよう。 NHKや大新聞の駆け出しの記者が大企業の社長に取材したいと要求すれば、企業の広報担当は必ず社長取材の場を設定する。社長と話しをする機会を簡単に与えてもらうことができるのはメディアの関係者だけだ。どんな大口顧客でも、そういうことはできない。 メディアが権力であることが悪いとは言わない。メディアは、政治家や圧力団体など巨大権力と対決しなくてはならないことが多いから、それなりに力を持っている必要がある。だが、問題は、その権力を自覚していないと思えることが多いことだ。 NHKと自民党の関係が不健全だという朝日新聞の主張は説得力がある。しかし、不十分な取材で話しを膨らませることは許されない。体制を批判するという目的ならば何をしても良いというわけではない。「権力を批判することはすべて正しい」という感覚を持つジャーナリストは今でも少なくないが、彼あるいは彼女たちは、メディア自身が権力であることを忘れているように思う。メディアの権力批判はある意味では権力闘争に過ぎない。NHK会長辞任劇は正にその典型的な事例だったと言えよう。 -
- ☆ 権力の構造 ☆ 無責任な公務員
-
- 2
- 2017/12/12 18:44
☆ 権力の構造 ☆ 井出薫 5月12日(金)午後、臨海副都心の三セク3社が東京地裁に民事再生の申請を行った。3社の負債総額3400億円、債務超過は1450億円に達する。営業利益は出ているものの、売上高は220億円程度で、債務超過解消は現実的に不可能な状況にある。東京都は銀行に対して2000億円の債権放棄を求め、100%減資を実施して、3社合併、新会社設立により再建を目指す。 3社の破綻はバブルのつけで、バブルを煽った銀行にも責任がある。東京都に次ぐ大株主でもある銀行各社が債権放棄に応じることで、東京都と銀行ですでに話しがついているのだろう。銀行も金融危機を脱して儲け過ぎだと非難を浴びている最中だから、不良債権処理にもなり好都合というわけだ。 それにしても、2000億円の借金がチャラにしてもらえるのだから、東京都の権力は凄い。そして、それにあっさり応じられる銀行も凄い。心身とも健全そのもので、我ら日本人にとって実に心強い限りだ。 石原知事は記者会見で責任問題に関する質問に対してこう述べた。「バブルではほとんどの者が損をした。これもその一例に過ぎない」つまり責任は誰も取らないというわけだ。勿論銀行も責任は取らない。 さらに、驚いたのは、記者から会見の席上、こんな内容の質問が飛び出したことだ。「これで臨海副都心の開発は益々進むことになり喜ばしい限りですが、知事の臨海副都心の将来像はどのようなものですか。」これがイロニーであるのならば褒めて遣わす。だが記者は真面目にこう質問したのだ。テレビを観ていて、思わず「君は本当にジャーナリストなのか?知事に媚を売るような発言をして恥ずかしくないのか?」と突っ込みたくなった。さぞや日頃から都庁に大事にされ、石原都政の提灯記事を書いてきたのだろう。いや、心からの石原信奉者なのかもしれない。だが、ジャーナリストを名乗る者が、石原氏ごとき人物に心酔するようでは先が知れている。 バブルではほとんどの者が損をした?そうかもしれない。だが、それで皆苦労してきたのだ。東京都や銀行に、臨海副都心開発の失敗の痛みを自分で味わった者がいるのか。 額に汗して働き、よいサービス、よい製品を提供し、利用者からも高く評価されていたのに、銀行に融資をストップされて潰された中小企業がどれだけあったと思うのか。中には、個人資産のすべてを売り払い、そのお金で従業員と債権者に可能な限り弁済して、その後、自ら命を絶った経営者だっているのだ。行政、銀行、マスコミはそんなに偉いのか。中小企業の経営者や従業員が死ぬ思いで頑張ってきたのを踏み潰しておいて、知らぬ顔でそれで良いとでも思っているのか。 所得格差が問題になっている。だが、まず、こういう行政、銀行並びに大企業、マスコミという権力構造を解体することが何よりも重要だ。小泉首相はかつて「努力した者が報いられる社会を作る」と宣言した。それは、こういう恥知らずな権力を打破することを目的としていたはずだ。少なくとも小泉首相を支持した国民はそれに期待していた。だが、それは実現されていない。小泉氏が続投するのか、別の者が後を継ぐのか知らないが、日本を悪くする権力構造の打破を第一の目標に掲げて、総理の仕事を遂行してもらいたい。 (H18/5/14記) [ Back ] -
- ☆ デング熱 ☆
-
- 3
- 2017/12/12 18:44
☆ デング熱 ☆ 井出薫 約70年ぶりに国内でデング熱感染が確認されたのが8月27日。代々木公園でデング熱の病原ウィルスを持つ蚊に刺されて感染したと推測されている。しかし、直後、公園の一部区域が一時的に閉鎖されたものの、すぐに解除。蚊の寿命は短く、また季節も秋に向うということで、これ以上感染は拡がらないと判断され本格的な対策は見送られた。 ところが、その後、代々木公園の複数の場所でウィルスを保有する蚊が確認され、9月4日に公園が閉鎖されることになる。並行して代々木公園の隣の明治神宮で感染したと推定される患者が確認され明治神宮も一部区域が閉鎖。さらに、9月5日には代々木公園から1キロ近く離れた新宿中央公園で感染したと推定される患者が新たに確認され、蚊の調査と駆除が開始されている。 ここに来て、漸く、厚生労働省、地方自治体など行政機関と医療機関が本格的な活動を開始した。しかし、最初の感染確認からすでに1週間以上が経過しており、明らかに初動が遅れたと言わなくてはならない。しかも、今後の感染拡大防止策が確立されていないため、これからどの程度拡大するのか、いつ終息するのか、予測が付かない。 約70年間国内で感染がないということは、日本人のほとんどが免疫を持たないことを意味する。空気感染する訳ではないからインフルエンザのように大流行することはない。しかし、誰も免疫がないのだから感染が拡大する可能性は高い。さらにほとんどの医師がデング熱の患者を診察した経験がないから、見逃す危険性も高い。幸いなことにこれまで重症化した患者は出ていないが、子どもや高齢者、病人などが感染すると、デング出血熱へと重症化し、適切な措置が受けられないと死亡する危険性もある。 これらのことを考え併せると、デング熱感染が確認された時、速やかに感染拡大防止策を策定し直ちに実行するべきだった。そしてその必要性を認識することはできたはずだ。感染から発症までに4日から7日掛かると言われる。その間に、発症前の保菌者が蚊に刺されることが当然ありえる。そもそも代々木公園の蚊が保菌者になったのも、海外で感染した者を蚊が刺したことが原因だと推測されている。同じ理屈で、患者が自宅近辺あるいは通勤先、通学先で蚊に刺され、その蚊が保菌者になっている可能性が十分にある。また、蚊の活動範囲は50メートル程度と言われるが、風に乗って遠くに飛ばされる可能性もあるし、荷物などに紛れ込んで遠くに運ばれる可能性もある。新宿中央公園の感染源の蚊については、代々木公園で蚊に刺され感染した患者が新宿中央公園で蚊に刺され、その蚊が保菌者になったと推測されているが、風で代々木公園から運ばれた可能性も否定できない。このように感染拡大の経路は少なくない。だから感染が拡大することは予測することができた。なぜ、それができなかったのか。検証の必要がある。 感染、発症しても重症化することは少ないことが初動の遅れの原因だと考えられるかもしれない。「重症者もいないのに大袈裟に騒ぎ過ぎだ。風邪の患者数と比較してみろ、珍しいだけで騒ぐほどの話しではない。」と指摘する声もある。だが、これがエボラ出血熱のような致死率の高い病気であれば、関係者が直ちに行動を開始し、感染拡大防止に成功していただろうか。正に、ここが肝心なところなのだ。そうであれば、確かに、デング熱はさほど大きな問題ではないと言えるかもしれない。しかし、行政の一連の対応をみていると、エボラ出血熱のような重大な病気でも迅速かつ的確な行動を期待することはできないと判断せざるを得ない。蚊の駆除、蚊の保菌状況調査、いずれも、泥縄式で、事前に準備された手順に従い理路整然と実行されたとは言い難い。実際、最初の調査では代々木公園にはすでにウィルスを保有している蚊はいないとされていた。だから公園の閉鎖はすぐに解除された。ところが、感染者数が増えたことを受けて実施された再調査では複数の蚊がウィルスを保有していることが確認された。最初の調査が杜撰だったことは疑いようもない。テレビで放映された蚊の駆除作業の作業員は、手袋もしておらず、あれでは作業員が感染するのではないかと心配になる。 10年前、鳥インフルエンザによるパンデミックが危惧され、その対策が世界各国の喫緊の課題となったことは記憶に新しい。そのとき、日本政府の対策は水際作戦つまり国内へのウィルス上陸阻止に偏り、国内で感染・発症者が出た時の拡大防止策ができておらず、効果に疑問がある抗インフルエンザウィルス薬の備蓄だけが唯一の国内対策だった。幸い、パンデミックには至らなかったから良かったものの、パンデミックになっていたらと考えるとぞっとする。 -
- ☆ デリダ氏の功績 ☆
-
- 4
- 2017/12/12 18:44
☆ デリダ氏の逝去 ☆ フランスの哲学者、ポストモダニズムの立役者ジャック・デリダ氏が9日亡くなった。享年74歳、早すぎる逝去だった。 デリダの最大の業績は、批評が如何に難しいかを身を以って示したことだろう。小泉首相を批判する人は多い。だが、批判することで却って小泉氏を引き立ててしまうという面がある。少なくとも首相が仕事をしていることを人々にPRする効果はある。別の選択肢が存在しない中、良くも悪くも仕事をしていることを示すことは人々の根強い小泉信仰を再生産する。読売の渡辺会長にも同じことが言えるだろう。批評は意図したことと反対の効果を生み出す。 批評そのものがその反対物を含むことがある。-「批評そのもの」という表現がデリダに言わせれば硬直した思考方法を示すものということになろうが-いや、ある意味必然的に含んでしまうとも言える。アンチ巨人も巨人ファンのうちと巨人ファンはよく言うが、一面の真理ではある。批判的論評が盲目的賞賛を孕んでしまうことがある。 1970年代半ばまで、マルクス主義的体制批判が、批評の一つの典型をなしてきた。しかし、文化大革命の4人組やポルポトを筆頭としたマルクス主義を名乗る者たちの反人権・反人道的行為がマルクス主義批評への疑念を深めることとなる。圧倒的な現実を前に「あれは本当の共産主義ではない。」などと叫んでも虚しい。本当の共産主義などどこにもないからだ。左翼的批評家は、新しい批評の在りかたを模索せざるを得なくなる。だが、良い方法は見つからない。批評そのものが必然的に孕む性質が行く手を阻むからだ。 そこで、デリダはより良い批評の枠組み・方法を探るのではなく、批評そのものを批評することで事態を打開しようと試みた。もとより批評を批評することも批評であり、その批評自身が批評されなくてはならないという隘路に陥ることになる。だが、正にこの隘路の中で書き続けることが、批評の限界を超えていく唯一の道だとデリダは考える。絶え間ない批評の連続、終着点なき道を蛇行しながら無限に進んでいく批評、この無限の脱構築運動の中にだけ光は見えてくる。デリダはそう主張する。 批評の難しさとは、単に批評という言論人の仕事の世界に留まる事柄ではない。批評の難しさは体制を変革することの難しさを意味する。多くの欠陥を孕みながら、それを巧妙に隠蔽し補強していく現代の資本主義体制を如何に変革するのか、それは極めて困難な課題であり、批評の困難はそのことと分かち難く結びついている。 だから、批評の困難を超える新しい道を模索するデリダ的な試みは必然的に政治的なものとなる。デリダは、そのことを自覚した上で、新しい道を切り開こうとする。モダニズムの枠組み-マルクス主義もそこに属する-を維持して、その中で改革を試みる者に対して、デリダはその不可能性を論じ、新しい回路の必要性と可能性を示唆する。-だから、デリダの思想はポストモダニズムと呼ばれる。- デリダの試みが成功したかどうかは分からない。モダニズムの観点から、伝統的な批評の精神を公共的な場で徹底することで事態が打開できると考えるハーバーマスは、デリダの試みを、合理性を放棄して蒙昧に道を譲るものだとして厳しく批判した。デリダの言説は、レトリックの過剰と論理の無視で読むに耐えない、このような難渋な語りに政治的改革の可能性をみることはできないと批判する人も少なくない。デリダの思想は、Aは非Aであるというヘーゲル的弁証法の現代版に過ぎないと批判する人もいる。事実、これらの批判には一理ある。 しかしながら、17世紀以来無数の人々が関与してきたモダニズムというプロジェクトの跡を顧みるとき、このプロジェクトの延長線上にすべての解決策が存在しているとは思えない。補完的な位置に留まるかもしれないが、新しい回路は不可欠だろう。 文革やポルポトの改革が最悪の反対物に堕したこと、良心的と言われたチョムスキーや小田実のような知識人が能天気に文革やポルポトを擁護したことも忘れるわけにはいかない。これらの事実はモダニズム批評だけでは不十分であることを強く示唆する。 だから、デリダの試みや主張がどんなに多くの難点・欠陥を持っていようと、その問題意識と試みの重要性が失われることはない。 多様で忙しない現代に生きる人々が、難解なデリダの本を読む必要はない。だが、批評を試みる者は、デリダの精神を忘れてはならない。デリダの精神を忘れるとき、批評家は批判しているつもりで提灯記事を書いているという茶番を繰り返すことになる。 デリダ氏の冥福を心からお祈りする。そして、デリダ氏の良き後継者達が世界で広く育つことを期待したい。 了 -
- STAP細胞問題を観察すると、
-
- 4
- 2017/12/12 18:43
愚鈍な一般大衆が、いかに騙され易いか、 そして、いったん虚偽を信じてしまえば、 いかに、その虚偽の呪縛から開放されることが困難なのか、 ということを、思い知らされる。 なお、この場合の愚鈍さは、知能指数とは無関係。 -
- ☆ スピノザとニーチェ、哲学者の気質 ☆
-
- 3
- 2017/12/11 20:10
☆ スピノザとニーチェ、哲学者の気質 ☆ スピノザとニーチェの思想はよく似ている。しかし、本質的には、両者の思想は対極的な位置にある。 ニーチェもスピノザも、自由意志を否定する。すべては必然である。人間の無知が自由意志なる幻想を作り出す。だが、自由意志なるものは存在しない。ここまでは同じである。しかし、ここから二人の思想は大きく分かれる。 スピノザは、世界は合理的であると考える。人間は有限であるがゆえに、無限の世界を認識し尽くすことはできない。知性を持ちながら、必然を知らぬことが人間の悲しみ、苦しみの源泉である。 一方、ニーチェは、世界は非合理であると捉える。必然を知ることがないのは認識能力の限界によるものではない。世界とは、もともと知的な認識能力で把握されるようなものではない。それは、奔放な肉体の意義と合致する混沌である。そこには常に「生成」という二文字がある。「生命あるところ力への意志を見る」これがニーチェの世界解釈である。スピノザの虚弱な知性は混沌のなかで道を失い滅びる。しかし、力を求める生命とそれを支える肉体は、混沌の中で絶え間ない生成へと向かう。ニーチェにとって、必然の世界こそ生命の可能性なのである。 スピノザもニーチェも、同情心は無益な感情であると考える。しかし、その論拠は大きく異なる。 スピノザは、生命の本質は自己保存にあるとする。同情心は自己保存能力を損なう。それが、スピノザが同情心を否定的に捉える理由である。 ニーチェも、同情心が力を衰弱させるものであると考える点ではスピノザと一致する。「神は死んだ。人間への同情心のために死んだ。」とニーチェは宣告する。だが、力は自己保存を目的とするものではない。生命とは絶え間ない超越である。自己を分裂させ破壊させる地点まで肉体を導くもの、それが力であり、力への意志である。同情心は力を衰退させる。だが、それにより自己保存能力が損なわれるのではない。同情心は、超越する力を衰弱させ、歪んだ力への意志=真理への意志へとそれを堕落させる。真理への意志こそがスピノザを支配するものであり、下降する意志、衰退する者の意志なのである。 スピノザとニーチェのどちらが正しいのかと問うことは無益である。ジンメルは、「哲学は世界像からみた気質であり、芸術は気質から見た世界像である。」と述べている。スピノザとニーチェが、事実認識においては一致しながらも、全く正反対の思想を展開した裏には、両者の気質の差がある。ウィトゲンシュタインとハイデガー、この20世紀を代表する哲学者たちにも同じことが言えるかもしれない。 ちなみに、私は、個人的には、スピノザとウィトゲンシュタインに共鳴するところが多い。ニーチェとハイデガーには強い反発を感じる。私の気質が、スピノザやウィトゲンシュタインに近いからかもしれない。 (H14/12記) -
- カルロスカスタネダ * イクストランへの道
-
- 115
- 2017/12/11 20:10
そんな道は、ありはしない。 -
- ☆ ボーズ博士とフェルミ氏 ☆
-
- 3
- 2017/12/11 20:09
☆ ボーズ博士とフェルミ氏 ☆ 井出 薫 この宇宙はボーズ博士とフェルミ氏が作った。ボーズ博士が作ったボーズ粒子なる代物は同じ場所に無限個の同じ粒子が入ることができるが、フェルミ氏が作ったフェルミ粒子は同じ場所に一つしか入ることができない。 (注)厳密に言うと、同じ場所ではなく同じ量子状態なのだが、本論は物理学の解説ではないのでご容赦願いたい。簡単に補足すると、ボーズ粒子はボーズ・アインシュタイン統計に従う粒子で、フェルミ粒子はフェルミ・ディラック統計に従う粒子のこと。いずれも量子力学特有の、素粒子には個別性がないという性質を共有しており、古典力学の世界では理解できない特性を示す。(「個別性がない」とは次のようなことを意味する。二つの電子が東と西から飛んできて衝突して南と北に飛び去ったとする。南に飛んでいった電子は東から来たものか西から来たものか。これは古典力学では決定可能だが、量子力学では決定不可能になる。素粒子には個別性がないために、衝突前には東と西から電子が飛んできて、衝突後は南と北に飛び去ったとしか言えない。それ以上のことを語ることはできないのだ。)数学的に表現すると、古典物理学から量子物理学へと移行するときに、ポアッソン括弧を交換子で置換することで導出される粒子がボーズ粒子で、反交換子に置換することで導出されるのがフェルミ粒子と言える。交換関係で表現されるか、反交換関係で表現されるかで、二つの粒子の統計学的な差が説明できるのだが、詳細は量子力学の教科書に譲る。 人間の身体や身の周りの品々、さらには太陽などの物体はフェルミ粒子から出来ている。お陰で人類は住宅問題に悩まされることになった。同じ場所に60億人の人間を詰め込むことができないからだ。だが悪いことばかりではない。住宅問題に悩まされる代わりに、物体がフェルミ粒子のお陰で宇宙が真っ暗にならないですんでいる。太陽のような恒星は、核融合エネルギーを費やすと重力に抗することができなくなり、どんどん小さくなる。しかし、太陽程度の質量だとブラックホールになってしまうことはなく、白色矮星として宇宙に留まる。その理由は、フェルミ粒子である電子が同じ場所に入ることができないために、一定の大きさ以下には小さくなれないからだ。太陽よりも数倍重い恒星は、電子が同じ場所に入れないことから生み出される圧力(縮退圧と呼ぶ)では重力に抗することができないために、どんどん縮小していくが、それでも電子と陽子が融合してできる中性子がフェルミ粒子なので、中性子の縮退圧で重力崩壊を止めて中性子星として宇宙に留まることができる。太陽よりも10倍の質量を持つ恒星では中性子の縮退圧でも重力に抗することができず重力崩壊してブラックホールになってしまうが、そういう星は比較的少ない。 要するに、粋なフェルミ氏のはからいで、人類は、住宅問題に悩まされるという難点はあるけれど、地上で平和?に暮らしていくことができるわけだ。 では、ボーズ博士の作ったボーズ粒子は何の役にも立っていないのだろうか。とんでもない。私たちが生きていくためには光が欠かせない。この光の正体はフォトンという名のボーズ粒子の集まりだ。地上の生態系は植物や植物性プランクトンを第一次生産者として太陽光のエネルギーで維持されている。つまり、ボーズ博士の発明のお陰で人類は生き延びている。 (注)一部の化学合成独立栄養細菌は太陽光に依存することなく生命を維持することができるが、海底や地底奥深くなどの特殊環境を除けば、化学合成独立栄養細菌の役割は極めて小さなものでしかない。 さらに、宇宙の構造とその運命を決める重力もグラビトンというボーズ粒子の集まりだと考えられている。ボーズ粒子は同じ場所に無限個の粒子が入ることが出来るので目立たないのだが、フェルミ粒子とともに人類の存在を支えている。 ボーズ博士とフェルミ氏の発明で、宇宙は発展して人類が生まれた。だが、宇宙は二人の発明家を必要としたのだろうか。 ボーズ粒子とフェルミ粒子の間には超対称性と呼ばれる対称性が存在すると考えられている。まだ超対称性粒子は発見されておらず、この考えは仮説に留まっているが、状況証拠や理論的な整合性からまず間違いないと素粒子物理学者たちは信じている。 -
- ☆ ウィトゲンシュタイン「哲学的探究」 ☆
-
- 2
- 2017/12/11 20:09
☆ ウィトゲンシュタイン「哲学的探究」 ☆ ウィトゲンシュタインの「哲学的探究」は、遺稿管理人(R.リース、N.マルコム、V.ウリクトの三名)がウィトゲンシュタインの死後、遺稿を纏めて発行した著作である。 そこには、哲学書特有の難解な用語や表現は一切出てこない。難解な哲学的用語や表現は意味がないというのがウィトゲンシュタインの考えだったから当然のことと言える。 それでも、この著作は難解だと言われている。それは、ウィトゲンシュタインが何を言おうとしているか、なぜ、このようなことをくどくどと議論しなくてはならないのか、それを理解することが容易ではないからだ。 ウィトゲンシュタイン自身が自分の著作を評して、こう言っている。「私の本は、私と同じ問題を考えたことがある人だけが理解できるだろう。」と。ウィトゲンシュタインと同じ問題意識を持ち、それを考え抜いた人、その人だけがウィトゲンシュタインの探究を本当に理解することができる。 だが、諦める必要はない。ウィトゲンシュタインと共に、私たちは考えることを始めることができる。言葉の意味とは何か、言葉はどのように使用されているのか、規則とは何か、私的な言語は可能か、感覚とは何か、知識とは何か、こういう問題をウィトゲンシュタインの探究を指南書として考えていくことが出来る。 ウィトゲンシュタインは「自分の本は、人が考えることを省くことができるようにするためのものではなく、考えることを励ますためのものである。」と述べている。ウィトゲンシュタインの考えに私たちは同意する必要はない。大いに疑問を抱き、批判をして、間違いを指摘すればよい。それこそが、ウィトゲンシュタインの望むところなのだ。ドグマは考える者の最大の敵だ。 誰もがウィトゲンシュタインの「哲学的探究」を読まなければならないわけではない。読む必要などない。だが、一つ確実に言えることがある。読む必要はないが、読みそして真剣に考えることができれば、読者にとって、それは限りなく有益であるということだ。 了 (H16/5/17記) [ Back ] -
- ☆ 科学の現実 ☆
-
- 3
- 2017/12/11 20:08
「現在のところ、STAP細胞は確認できていない。」と理研が、8月27日、再現実験の中間報告を発表した。それでも小保方氏は「STAP細胞は存在する」と自説を変えておらず11月をめどに実験を続けると宣言している。多くの専門家はSTAP細胞の存在に否定的だが、最終結論は出ていない。 理研の発表の報道を耳にして、ふと疑問が浮かんだ。素人考えだが、いちいち実験などしなくとも、スーパーコンピュータを使って細胞内の変化をシミュレーションして結論を出すことはできないのか、こういう考えが脳裏を過ぎった。小保方氏が発見したと主張する万能細胞作製方法は実に簡単で、弱酸性液に30分間浸すことで体細胞が万能細胞に変化するというものだ。細胞膜の構造と細胞内の構造はすでに解明されている。細胞膜を境界にして、外部は弱酸性、細胞内はほぼ中性という環境をモデル化して、そこで生起する現象をコンピュータでシミュレーションして、STAP細胞の可能性を評価する、それくらいのことができないのだろうか。確実な結論は導けなくとも、可能性の評価くらいはできてもおかしくない。さらに、コンピュータシミュレーションで、他の方法、たとえば圧力や熱を加える、ごく短時間過酷な環境(真空状態、極低温状態など)に細胞を晒す、など小保方氏とは別の方法でSTAP細胞を作製できないかを評価することも可能ではないだろうか。 だが、複雑極まりない細胞内の構造と働きを考えるとき、実際はコンピュータシミュレーションでは答えは得られない。だから、実験室で試行錯誤を繰り返すしかない。おそらく、これが現実だろう。科学と言うと、私たちは物理学の基礎原理のような厳密且つ普遍的な法則から、理路整然たる数学的推論を使って現象を導き、実験や観測でそれを実証する、という手続きを思い浮かべる。だが、そのようなことができるのは、ほんの一握りの分野でしかない。138億年前にインフレーションとビックバンで宇宙は誕生したとか、半世紀前に存在が予言されたヒッグス粒子が漸くLHCの実験で発見された、などというニュースを耳にすると、科学の威力は絶大で、何でも説明ができ、何でもできるように感じてしまうが、錯覚に過ぎない。 事実、精密科学の典型で、自然科学全体の基礎をなす物理学でも、理論から精確な予測や説明ができる分野はごく限られている。絶対温度数十度以上で超電導現象が出現する高温超電導は発見されてから四半世紀が経過したが、理論は完成していない。そのため、どのような物質が高温超電導になるかの予測は困難で、科学研究の不正として良く取り上げられる有機物質による高温超電導の存在が広く信じられた時期もあった。雪の美しい結晶構造も理論から精確に説明することはできない。複雑系などと呼ばれる領域では定量的な予測は困難で定性的にしか説明ができない。それどころか、問題によっては、定性的な説明すらできないこともある。その傾向は、生物学、医学、生理学などの分野になると益々顕著になり、理論とコンピュータシミュレーションの限界が露わになる。こういう分野では、試行錯誤で答えを見つけ出していくしかない。 現在広く用いられている抗うつ薬は、(理論的なモデルはあるが)なぜその薬が有効なのか、薬が効かない患者では何が問題なのか実はよく分かっていない。抗うつ薬に限らず、精神疾患関係の薬物の多くは、理論的な観点から有効性が確認されている訳ではなく、薬が効くという事実により、有効性が認められているだけの場合が少なくない。 これは別に非難すべきことではない。他に有効な治療法がない患者を救うためには、副作用が(治療のメリットを帳消しにするほど)大きくなければ、(十分な情報を提供したうえで患者の同意を得て)使用することには大きな意義がある。他の分野でも、理論がなければ、試行錯誤で研究を進めていくことで科学技術は進歩する。 -
- ☆ 未来のイメージ ☆
-
- 2
- 2017/12/11 20:08
☆ 未来のイメージ ☆ 停止しているエスカレータは、階段と同じはずなのだが、ずっと歩き難く感じる。こういう経験をした人は少なくないだろう。 人は、無意識のうちに未来をイメージして行動している。エスカレータをみると、自動的に動いているエスカレータをイメージするようになっている。それなのに現実のエスカレータが動いていないから戸惑うことになる。 プロのスポーツ選手は、まるで予知能力があるかのようにプレーする。あれは、訓練の積み重ねで、先行的に未来を描き出す能力が身に付いているからできる。 コンピュータが人間より処理速度で遥かに優るのに、単純な計算を除けば、人間に遠く及ばないのは、この未来を先行的に描き出す能力をコンピュータで実現することが難しいからだ。今のコンピュータは、基本的に、各時点での内部状態と外部情報を基にして次の行動を決定する。コンピュータには、人間のような広がりを持つ現象学的な時間を把握する能力がないと言ってもよい。そのために、人間のように柔軟で、ファジーな状況でも精度の高い行動を取ることができない。 だが、描き出された未来のイメージが不適切なこともある。停止しているエスカレータを昇り辛く感じるのが、その例の一つだ。プロ選手が信じられないような失策をやることがあるが、たぶん先行的に描かれた未来のイメージが現実に適合しなかったのだろう。コンピュータにはこういうミスや不適合はない。 人は、次のプレーの選択というような瞬時の判断だけではなく、長期的にも未来をイメージして生活している。それは、ほとんどの場合意識されることはないが、行動に決定的な影響を与える。 もしかしたら、イラク開戦を決意したブッシュ大統領の頭には、本人は意識していなかったにも拘らず、イラクから攻撃を受けるという未来のイメージがあったのかもしれない。反米のテロリストの頭には、いつも、アメリカから攻撃を受け自分や仲間が殺される情景がイメージされているのかもしれない。 未来を先行的に描き出す能力は、人間がコンピュータを凌ぐ力を発揮する源だ。だが、描き出されたイメージが事実に反することもある。そして、事実に反するイメージに基づき自分の信念が形成されることもある。 だから、私たちは、自分の信念とその根拠を反省することを忘れてはならない。そこには、無意識のうちに歪んだ未来像が存在しているかもしれないのだ。 了 (H16/8/2記) [ Back ] -
- ☆ エネルギー保存則の意味 ☆
-
- 3
- 2017/12/11 20:08
☆ エネルギー保存則の意味 ☆ 井出 薫 物理学で最も基礎的な原理は何かと問われたら「エネルギー保存則だ」と答えるという専門家は少なくない。確かにエネルギー保存則は古典力学、電磁気学、熱統計力学、相対論、量子論などすべての基礎的な物理学理論で成り立つ普遍的な原理だ。しかし、エネルギー保存則は実験や観測から導かれた実証的な法則なのだろうか、それとも哲学的あるいは数学的な考察で導かれた思弁的な法則なのだろうか。 普通は実証的な法則だと信じられている。だが唯物論者だったエンゲルスは、19世紀の科学進歩の意義を論じているところで「エネルギーが保存されるという発見が重要なことではない。それはすでに哲学で証明ずみだ。その本当の意義は異なるエネルギー形態が相互に変換されることが明らかにされたことにある。」と論じている。エンゲルスはエネルギー保存則が専ら哲学的世界の法則だと言っているわけではないが、それは近代の実証科学的な研究を待つことなく哲学的考察で明らかにされるものだと考えていたのは事実だ。 古代ギリシャでは「無から有は生まれない」と信じられていた。この考えは何らかの保存則の存在を意味するものであり、保存されるものがエネルギーに相当すると考えてよい。エンゲルスもこの西洋哲学の伝統に則ってエネルギー保存則の意義を考えていたのだろう。 数学的に表現すると、エネルギー保存則は物理法則が時間的に不変であることと等価になる。-因みに、物理法則が空間的に不変であることと運動量保存則が、方向により変化しないことと角運動量保存則が等価になる。-正しい物理法則は自然の究極的な真理を表現するものだから、それが時間的にも空間的にも不変的だと考えることは合理的であり、その反対は不合理と言える。究極的な真理は地球が誕生したときも今も変わらないし、地球でもアンドロメダ星雲の小さな惑星でも同じであるはずだ。さもないとそれは究極的な真理とは言えない。 だとすると、エネルギー保存則は実験や観測データから実証的に導かれた法則ではなく、哲学的並びに数学的な要請から自動的に導出される法則だということになる。 だが実証的な精神に富んだ現代人ならば、このような考えはスコラ哲学的な屁理屈に過ぎず、エネルギー保存則は実験や観測で証明されて初めて正しいと認められるものであり、実際様々な実験や観測がその正しさを証明したからこそ正しい法則と信じられているのだと考えたくなるだろう。 実際、1970年代には、宇宙全体では僅かながらエネルギー保存則が破れているという定常宇宙論が少なからぬ注目を集めていた。しかし、その後の観測結果から定常宇宙論はほぼ完全に否定され、今では137億年前にビックバンで宇宙は誕生したという「インフレーション理論+ビッグバン宇宙論」が支持されている。このことはエネルギー保存則が実験や観測により証明されるべき実証的な法則であることを示していると言えるだろう。 だが、エネルギー保存則は物理法則が時間的に不変であることと等価だから、逆に物理法則が時間と共に変化することがあれば、エネルギー保存則は成立しなくなる。そのようなことはこれまでなかったし、将来もないと誰が保証できるだろうか。寧ろ宇宙や地球の歴史をみれば同じ現象は二度と生じず、物理法則も時間とともに変化すると考える方が自然にも思える。 実際、物理学者が手にしている実験や観測データの量は全宇宙と比較すればゼロに等しい。だから実験や観測だけでは物理法則の時間的不変性が証明できるはずがない。エネルギー保存則は実証的に証明された確実な法則だという保証はどこにもないのだ。それどころか証拠となるデータの量だけを数えると、確証度は0%だと言っても過言ではない。だが私たちはエネルギー保存則に絶大なる信頼を置いている。もしこの法則が成り立たないとなると、あらゆる自然科学の体系は崩れ落ちてしまう。では一体、エネルギー保存則とは如何なる身分を持つものなのだろうか。 「エネルギー保存則=物理法則は時間的に不変」という思想は、物理理論を構築するための数学的な枠組みと考えればよい。だから、その枠組みに基づき構築された理論からエネルギー保存則が導出されるのは当然のこととなる。エネルギー保存則は最初から前提されていたからだ。-エンゲルスが述べたことはあながち間違いではなかった- -
- ☆ 対称性と非対称性 ☆
-
- 2
- 2017/12/11 13:01
☆ 対称性と非対称性 ☆ 井出 薫 物理学の世界では対称性は基礎原理だ。エネルギー・運動量の保存則は、物理法則の時間・空間並進変換への対称性から演繹され、角運動量保存則は空間の回転に対する対称性から演繹される。さらに電荷の保存則は4次元時空に付随した空間での回転に対する対称性から帰結する。 これらの保存則は、物理学のみならず、すべての自然科学で通用する例外のない絶対的な基礎原理として通用している。つまり自然とは対称的な世界なのだ。 ところが、私たちの周囲には対称的なものはほとんどない。身体は見た目にはほぼ左右対称だが、厳密には左右対称ではない。内臓は明らかに非対称で、左右両側に心臓や肝臓を持つ人はいない。 対称性が基礎原理なのに、その基礎原理に従う現実世界は非対称であるのは不思議に感じられる。対称性からどうやって非対称性が生じるのだろうか。 対称性の自発的破れという現象がある。高温の液体状の鉄は磁性を持たない。だが外部から磁場を加えた状態で高温の鉄を冷却していくと、やがて一定方向に磁化される(磁石になる)。つまり対称な世界から非対称な世界=磁場の方向が特別な意味を持つ世界へと移行する。 気体から液体、液体から固体など異なる物理的状態に変化することを相転移と言うが、相転移では一般的にこのような対称性の破れが生じる。このような対称性の破れの機構により、対称性という基礎原理が支配する世界に非対称性が現われる。 対称的な世界が美しいと感じるか、非対称な世界が美しいと感じるか、人によって異なる。本当かどうか知らないが、左脳が発達した人は対称的な世界を好み、右脳が発達した人は非対称的な世界を好むという説が昔あった。現実の世界は対称性と非対称性が相互に支え合って微妙なバランスのうえに存在している。このことは、私たちが右脳と左脳の両方を鍛え、対称性と非対称性をともに愛する寛容な精神を育てることが大切だと教えているのかもしれない。 -
- ☆ アダム・スミスのリアリティ ☆
-
- 3
- 2017/12/11 13:01
☆ アダム・スミスのリアリティ ☆ 贈収賄、談合、不正経理、時代が変わっても、人間が遣ることはあまり変わらない。仏陀、イエス、ムハンマドのような偉大な世界宗教の開祖たちが、利己心を捨てることを勧め、富に固執することを厳しく戒めたにも拘わらず、人は相変わらず貪欲で身勝手だ。 アダム・スミスはアメリカ独立宣言と同じ1776年に著した「国富論」で、規制や独占を重視する重商主義を厳しく批判して、自由主義経済こそが人々を豊かにすると主張し、現代経済学の礎を築いた。スミスは、個人が自由に自分の利益を求めて行動することで、「見えざる手」(インビジブル・ハンド)に導かれて、社会の富を増進すると考える。 だが、アダム・スミスはけっして人間と社会に対して楽観的な見通しを持っていたわけではない。 「見えざる手」を語る箇所で、スミスは「公共の幸福のために商売しているふりをする人々が幸福を大いに増進させたなどという話しを聞いたことはない」と述べている。スミスには、人間とは本質的に利己的な存在であり、それを完全に克服することは不可能だというシビアな認識がある。「だからこそ自由にするべきだ」とスミスは主張する。規制や独占があると、独占している者、規制を課す者、規制を課す者と懇意で便宜を図ってもらえる者は、既得権益に胡座をかいて、自分の利益だけを追求して社会全体のニーズを軽視し、しかも蓄積に不可欠な節倹の精神を失い、社会の発展を阻害する。さらに罰せられる危険が少ないので容易に非人道的な行為を犯す。 一方自由に競争できる社会では、人々は利益を得ようとすると、他人に配慮しなくてはならない。詐欺や暴力で一時的な利益を得ても、必ず後でしっぺ返しを喰らうから、安定的に利益を得るためには良心的に振る舞う必要がある。だから、自由主義経済の方が規制や独占に頼る重商主義経済よりも遙かに豊かで公平な社会が生まれるとアダム・スミスは説く。だが、同時に完全な自由は難しいこともスミスは認識している。アダム・スミスの現代性は明らかだろう。 もちろん、現実には、自由競争と言っても、人々は同じスタートラインに立てるわけではない。豊かな者や権力を有する者がいて、その一方ではそういうものとは無縁な多数の人々がいる。そこでは公平な競争は事実上不可能だ。また競争に敗れた者が脱落していくことで独占が復活することも珍しいことではなく、スミスの時代から現在に至るまで、完全な自由競争が存在した例しはない。競争に敗れた者が見捨てられたままになる危険性もある。 また、マルクスの後継者ならば、人が私利私欲に走るのは私的所有制度が存在するからで、共産主義が実現すれば人々は社会のために働くようになる、スミスの人間観はブルジョアイデオロギーに過ぎないと言うかもしれない。 だが、現実の共産主義者は無私ではない。ブレジネフ時代のソ連には、「ブレジネフの母親が息子の豪邸に遣ってきて、その余りの素晴らしさに驚愕して、共産主義者が革命を起こしたら大変だと心配した。」というジョークがあった。たとえ、もっとよい共産主義社会が実現したとしても、個々の共有財産は生活と産業活動のために誰かが実質的にそれを占有することになるから、人々が物に執着することがなくなるとは思えない。政治経済や法制度が変化することで、人の考え方や行動が変わるのは事実だが、物欲を完全に解消することはできない。スミスの人間観が完全に正しいと言えるかどうかは別として、教条的なマルクス主義者よりも、スミスの方が人間の本来の姿を的確に捉えている。 自由な市場経済を信奉する現代世界はアダム・スミスの期待した社会に近いものだと言ってよい。だが、そこにスミスのようなシビアな人間観、社会観があるだろうか。スミスには、「人間は利己的でそれを克服することは困難」、「だから規制よりも自由がよい」、「だが自由を実現することは容易ではない」という極めてリアルな認識があった。今の自由主義者たちにそれがあるとは思えない。たとえば、安部首相や彼を支持する者たちの考え方はこうではないか。「日本人は本来美しい国に住む美しい人間で、グローバルな市場において素晴らしい業績を上げることができるのに、一部の外国崇拝者や左翼や人権屋が日本を駄目にしている」、「そういう者を教育基本法や憲法を改正することで排除するべきだ」、「そうすれば美しくて強い日本が誕生する」。驚くべき楽観主義だ。スミスの対極にあると言えよう。 -
- ☆ カントと道徳 ☆
-
- 2
- 2017/12/11 13:00
☆ カントと道徳 ☆ カントの道徳論は功利主義的な道徳論と対極的な位置にある。功利主義は行為の結果を重視する。「最大多数の最大幸福」が功利主義者の公準だ。 現代人の多くは功利主義的な道徳観を共有する。なぜ人を殺してはいけないのか。殺された人間は幸福量ゼロだ。殺人者も、たとえ捕まらなくても、いつも怯えて生きていかなくてはならないから不幸だ。殺人が許容されたら、人々は不安に苛まれながら生活しなくてはならない。殺人が肯定される社会は否定される社会より幸福量が小さい。だから、人を殺してはならない。こういう風に現代人は考える。 カントは、結果を考慮するべきではないと主張する。道徳は「それを守らないと不幸になるから守らなくてはならない」のではなく、端的に「守らなくてはならない」のだ。「正義は実行されなくてはならない。たとえ、それで世界が滅びようとも。」これがカントの道徳の原則だ。カントを道徳的原理主義者と呼んでもよいかもしれない。 カントの道徳論には同意しがたいところが多い。だが、功利主義的道徳は節操のない現状追認に堕落する危険性がある。「大量破壊兵器が発見されないことなど大した問題ではない。フセイン政権が倒れイラク国民は幸福になった。」などという理屈でブッシュ政権のイラク攻撃が肯定されかねない。 非武装中立を主張するとすぐに「侵略されたらどうする。」と反論される。だが、カントならこう言うだろう。「非武装中立が正義ならば、たとえ日本が滅びようとも、それを実行しなくてはならない。」 「そんなのは学者のお題目だ。責任ある政治家なら、理念のために日本を犠牲にするような真似はしない。」私もそう思う。ただ、節操のない功利主義的道徳や偏狭で暴力的な原理主義が幅を利かせる現代、カントの道徳論も一つの選択肢として考慮する必要がある。 -
- ☆ ウィトゲンシュタインとチョムスキー ☆
-
- 2
- 2017/12/11 13:00
☆ ウィトゲンシュタインとチョムスキー ☆ 人は言葉をどうやって理解するのか、どうやって文法に合致した言葉を作り出すのか。 ウィトゲンシュタインは、そこには解くべき問題などはない、何ら隠されたものはなく、すべてがありのままなのだと指摘する。人は、共同体の中で言葉を使い共同作業をする、ただそれだけだ。それ以上語るべきことはない。 チョムスキーはこれに反対する。人が言葉を理解して適切に言葉を使用することができるのは、脳の中に日常会話で使われる言葉の基礎となる深層文法とそれを運用するメカニズムが内蔵されているからだとチョムスキーは主張する。 哲学的に考察する限りウィトゲンシュタインが正しい。言葉を理解し適当な言葉を話したり書いたりすることができる根拠などどこにもない。ただそのような事実があるだけだ。私たちはただそれを記述することができるだけで、それを分析してより基礎的な原理やシステムを発見することはできない。しかも脳に深層文法とそれを運用するメカニズムが存在することなどありえない。なぜなら脳とは神経細胞とそれを支える細胞や血管などの集積物でしかなく、そんなものに深層文法やそれを運用するシステムがあるはずはないからだ。 しかし、ウィトゲンシュタイン流の悟りの境地に留まっている限り、言葉を聞いたり話したりしているとき脳に何が起きているのか、言葉を理解することが出来ない人や話すことができない人は何が欠けているのか、コンピュータに言葉を理解させるにはどうすればよいのか、こういう問題には全く手をつけることができない。そして忙しい現代人が関心を寄せ、社会的にも重要な課題は、哲学ではなく、こういう問題を解くことだ。チョムスキーの理論はこういう問題を解くための一つの方法的な枠組みを提供する。 チョムスキーは脳の中に深層文法が内蔵されていると信じた点で間違っているが、科学的研究への貢献は極めて大きい。一方ウィトゲンシュタインは哲学的には正しかったが、それ以外には何も残していない。 では、ウィトゲンシュタインが語ったことは無意味なのか。けっしてそんなことはない。人は悲しいときや嬉しいとき、自分の脳の中を覗き込んだりしない。そんなことは出来ないし、将来それが可能になったとしても脳細胞を見たところで何の感慨もない。人は自分の気持ちを言葉で表し、言葉に傷つき、言葉に悩む。言葉を失った人の苦しみや悲しみ、もどかしさを追体験することは困難だが、おそらく言葉が使えないという感情が苦しみを倍加しているだろう。ウィトゲンシュタインはこういう人間の在り方を自らの体験から深く認識して、そこから人々を救い出そうとした。ウィトゲンシュタインはもちろん成功していない。だが、その試みは私たちの心を惹き付けるものがある。人とはチョムスキーが考えるような単なる計算する機械ではない。 了 (H18/2/21記) -
- 時間・空間・物質の非実在
-
- 29
- 2017/12/11 13:00
時間・空間・物質は、人間の立場からすると、「存在するように思っている(観測している)」だけなのだ。人間が勝手に、そう想定しているに過ぎない。もし、人間の立場を離れることができるならば、時間も空間も物質も存在しない。我々の世界とは、(神が創造した)バーチャルリアリティーの世界と理解できる。映画「スーパーマン」のクラーク・ケントは、映画の中だけでは実在の存在なのであるが、映画の外では、実在しない存在なのである。クラーク・ケントの立場に立てば、自分の超能力も超怪力も、全て真実なのである。なぜなら、劇画作者によって、そのように創造されたからだ。我々人間も、ちょうど、劇画作者(=創造者=神)によって創造されたクラーク・ケントの立場に等しいのだ。 -
- ☆ ウィルス ☆ 生物
-
- 2
- 2017/12/11 12:59
☆ ウィルス ☆ 井出 薫 ウィルスは複製のための設計図は持っているが、複製品を作る工場を持っていない。だから他の生物に寄生しないと増殖できない。他の生物に寄生する生物はたくさんいるが、普通は自分で複製工場を持っている。そんなところから、40年ほど前、ウィルスは生物か?という議論が盛んになされたことがあった。代謝、自己増殖、変異(進化)が生命の本質とされるが、自己増殖能をウィルスがどこまで有しているのか、この辺りが議論の的になった。 今ではウィルスも生物の一つとして認められている。結局のところ、ウィルスが生物かどうかは生命の定義の問題で、一義的な答えはない。ウィルスを生物から排除するように生命を定義することもできるし、含めるように定義することもできる。生命を理解する上でどちらがより良い戦略なのか、生物学者たちの答えはウィルスも生物に含める方が良いというものだった。 ウィルスは今でもホットな議論の対象になっている。新型インフルエンザウィルスなど医学的な観点から注目されるのは当然のことだが、生物進化を理解する上からもウィルスは重要な素材とされている。 ウィルス以外の全ての生物の遺伝子はDNAだが、ウィルスではRNAを利用しているものが少なくない。現在の生物進化論では、DNAが遺伝子として定着する以前、生物がRNAを遺伝子として使っていた時代があるとするRNAワールド仮説が有力とされている。DNAはRNAより遺伝情報を確実に子孫へ伝えることができるが、蛋白質の助けを借りないと複製ができない。これに対してRNAは自己触媒機能があり、RNAだけで複製が可能になる。つまり、DNAを遺伝子として使うシステムは安定している代わりに非常に複雑な機能が要求されるが、RNAワールドは比較的単純な機能だけで済む。だから最初の生物界はRNAワールドだったという考えは理に適っている。 ウィルスは他の生物と比較して極めて単純な構造と機能だけしか持っていない。そこで最初の生物はウィルスだったという考えが浮かぶが、設計図だけで工場を持たないウィルスは最初の生物ではなく生物進化の二次的な産物に過ぎないとする意見が強かった。しかしRNAワールド説が正しいのであれば、最初の生物はRNAウィルスだったということは十分に考えられる。さらに最近、他種のウィルスに寄生するウィルスが発見されている。この事実は、ウィルスはこれまで考えられていたよりも複雑な構造と機能を有し、単なる進化の二次的産物ではないことを示唆しているようにも思える。 コンピュータウィルスという言葉が象徴するとおり、ウィルスは危険物という印象が強いが、生物進化を理解するうえでウィルスは欠かせない存在だ。人間は生物進化の過程で誕生し、その理性は生命という基盤の上で成り立つ。生命の原点にウィルスが位置するとしたら、ウィルスを理解することが人間理性の本質を解明することに繋がるかもしれない。 -
- 最近のノーベル賞授賞者は
-
- 12
- 2017/12/10 10:02
小物ばかりだ -
-
- 911陰謀論の現在
-
- 87
- 2017/12/08 23:53
2001年9月11日、ニューヨークのワールドトレードセンター北と南が、アラブ人にハイジャックされた旅客機に激突され炎上、その後、崩壊した。他のビルも破壊されている。同日ペンタゴンにも突っ込まれ、4機目はシャンクスビルで墜落した。 これらに関する公式見解は、911コミッションレポート最終およびオーソライズド版が公表されている。WEBでは無料で読むことができる。 2006年、ルース・チェンジというDVDが作成され、公式見解を否定し、有名になった。日本では数回テレビ番組となっている。このDVDによって、多くの人たちが公式見解を疑いだし、現在では膨大な情報がインターネットに発表されている。 ところが日本では、例によってジャーナリスティックな話題はすぐに消えるように、今日この話について、とくに目立って追求するという姿勢は存在しない。 だが、15年の間に911陰謀論は想像を絶する広がりと深みを獲得している。個人でこれらすべてに目を通すことはかなり難しい。以下の紹介は大海の一滴程度のものである。 -
-
- 実存主義のスレ
-
- 27
- 2017/12/07 15:26
実存主義(じつぞんしゅぎ、フランス語: existentialisme、英語: existentialism)とは、人間の実存を哲学の中心におく思想的立場。あるいは本質存在(essentia)に対する現実存在(existentia)の優位を説く思想。実存(existenz)の元の邦訳は「現実存在」であったが、九鬼周造がそれを短縮して「実存」とした。語源はex-sistere(続けて外に立つの意)。 キェルケゴール、ヤスパース、ニーチェ、ハイデガー(存在と時間)、サルトル等の哲学について語るスレです。 -
- ☆ 自然の絶妙のバランス ☆
-
- 2
- 2017/12/02 18:08
☆ 自然の絶妙のバランス ☆ 井出 薫 動物は植物の光合成のお陰で生きている。ところで植物は空気中の窒素を直接利用することができず、硝酸やアンモニアなどの窒素化合物でないと吸収することができない。土壌の肥沃度は窒素化合物の含有量に依存するところが大きく、窒素肥料が重要であるのはこのためだ。 農業では穀物など大量の植物を育てるために土壌の窒素化合物が不足気味になる。だから窒素肥料で補うことが必要になるのだが、窒素化合物は、肥料で補給しなくても、土壌(並びに海洋)に暮らす窒素固定細菌が大気中に最も豊富に存在する窒素分子から作り出してくれる。痩せた土地でもマメ科の植物は比較的よく育つが、これはマメ科の植物が根に根粒菌という窒素固定細菌を共生させることで、窒素化合物を調達することができるからだ。 窒素固定細菌は肥沃な土壌を作る大変貴重な生命体だ。だが一方でアンモニアや硝酸を分解して窒素に戻してしまう脱窒細菌と呼ばれる微生物も土壌(並びに海洋)にはたくさん暮らしている。彼らは貴重な窒素化合物を窒素に戻して植物が利用できないようにしてしまうから、有害な微生物だと思われるかもしれないが、そうではない。アンモニアや硝酸は植物の生育に欠かせないが、濃度が高くなりすぎると有害になる。枯れた植物を消化分解して土壌に戻すことで豊かな大地を育む地中の多くの小動物や微生物にとって高濃度のアンモニアや硝酸は極めて危険な物質だ。それは人間にとってもこれらの化学物質が有害であることからも分かるだろう。植物にとっても濃度が高すぎると有害になる。それを防いでくれるのが脱窒細菌なのだ。窒素固定細菌と脱窒細菌の両方が暮らすことで自然環境は維持される。このような関係はメタン生成細菌とメタン酸化細菌、硫酸還元細菌と硫黄細菌(硫酸還元細菌が作りだす硫化水素を酸化する細菌)の間にも成り立っている。実に見事な組み合わせだ。 このように自然は絶妙のバランスでその生態系を維持している。科学技術の進歩は素晴らしいなどと人間は自惚れているが、人間にはこのような自然の精巧な技術をとうてい真似することはできない。だから、人間の活動は、森林と土壌を破壊し、河川、湖、海洋を汚染し、無数の生物を絶滅させたのだ。 農耕を始めたことで人類は飛躍的に進歩した。だが、その一方で、農耕を始めたときから、人間は自然環境を擾乱して自然破壊をするようになった。その後、産業は著しく発展して生活は便利で安全になり、人類は地上で大繁栄を謳歌している。だが、その一方で自然の絶妙なバランスを破壊してきた付けが貯まりに貯まって、人類の未来に暗雲を投げ掛けている。ここら辺りで、自然の営みの素晴らしさをよく観察して、そこから謙虚に学び、人類の未来を設計していかないと文明の崩壊は意外と近いかもしれない。 -
- ☆ 法の位置 ☆
-
- 5
- 2017/12/02 18:08
☆ 法の位置 ☆ 井出 薫 ヘーゲルは、法を客観的精神の現象だとみなした。マルクスは、法は政治と並んで、生産力に規定された生産関係という現実的物質的な土台(下部構造)に規定される上部構造の一部だと主張した。ヘーゲルでは法は社会における中心的な存在で、マルクスでは法は二次的な存在となる。では、現代において、法は如何なる地位を占めていると考えるべきなのだろう。 現代の立憲民主制において法は卓越した地位を占める。「法の支配」は民主制社会の基本であり、保守派の安倍首相も外交で「法の支配」を強調している。「法の支配」を強調した思想家として(保守派と目される)ハイエクを挙げることもできる。人ではなく法が統治者を含め全ての者を支配することで、専制政治を回避し、全ての者の人権を擁護することが可能となる。そして、不完全とは言え、先進国を中心に多くの国で法の支配という思想が社会に浸透している。それゆえ、現代世界において、法はヘーゲルの構想通り、歴史と広く市民のコンセンサスを土台とする客観的な精神という性質を帯びており、社会に巨大は影響を与えていると評価できる。 しかし、法そのものは、明文法にしろ不文法にしろ、記号の集合体でしかなく、それ自体が何か力を持つ訳ではない。人々が遵法精神を発揮して初めて法はその威力を示す。それでは人々が遵法精神を発揮するのは何故だろう。ヘーゲルにおいては、それは世界の本質に基づく歴史的必然だということになる。しかし、法の支配が世界に浸透しつつも、常に不法行為が後を絶たないこと、何が正しい法かという問題に明確な解決が得られないことから、ヘーゲルの答えをそのまま肯定することはできない。 では、マルクスに倣って、法は生産関係という現実的土台に規定された二次的存在に過ぎないと考えるべきなのだろうか。資本制は奴隷制や封建制のように、権威や暴力による勤労大衆の直接的な支配、搾取という形態を取らず、対等な人間関係という見かけの下で、ソフトに支配と搾取を行う。そして、このソフトな支配と搾取を可能とするのが、法の支配という思想であり、その下で育まれた人々の遵法精神だ。こういう見方も確かにできる。だとすると、現代社会における法は、その本質として、資本主義社会に固有なイデオロギーに過ぎないということになる。そして如何なる社会形態においても、法とは二次的な存在に過ぎないということになろう。封建制や奴隷制では法とは支配者の意志や観念の表現でしかなかった。未来の共産制では、全ての者は強制ではなく自然に協力し合うようになり、法は便宜的なものでしかなくなる。「赤信号では停止」これが法の典型例となろう。 だが、このような考えにも同意はできない。現代社会において、法は資本家階級や大企業の利益だけを代弁している訳ではない。法は人々に支配者と闘う武器を与えている。また、教育の普及やメディアの拡大、情報アクセスの容易化で、人々の認識能力は高まっており、一方的に資本主義的イデオロギーに洗脳されることはない。法は経済的領域の無力な反映ではない。 法なしには如何なる生産関係も安定的なものとして存在し得ない。生産関係だけではなく、社会そのものが成り立たない。社会とは実は(単純な規則の集合体を含めた広義の)法の体系をその不可欠の要素として成立している。法が在って初めて、人間の集団は自然の群れから社会的存在となる。そして個体は個人になる。つまり、法は自然的な人間集団を社会へと昇華させる鍵となっている。だが、それはヘーゲル的な人間を超越した精神の存在を意味するものではない。人間集団を超えて法が存在する訳ではなく、人間活動の様々な相の一つとして法が在る。 -
- ☆ 正義の相対性と民主制 ☆
-
- 3
- 2017/12/02 18:07
☆ 正義の相対性と民主制 ☆ 井出 薫 絶対的な正義はない。現代の日本では多くの者がそう考えるだろう。私的所有制度はロックや自由主義者には神聖なる権利とされるが、マルクスなど共産主義者にとっては搾取と貧困の元凶とされる。どちらも一理ある。私有制は国家権力に対抗する手段となり、自分のものだからこそ大切するというのも人間の本性だと言ってよい。成田闘争や公害事件では、行き過ぎもあったが、農民や公害被害者や支援する市民は土地の所有権や一株株主としての権利行使で権力や大企業に抵抗した。現在でも自然破壊に繋がる公共事業に対して市民が土地を購入することで抵抗することがある。私的所有権が広く認められていなければ一般市民が権力の恣意に対抗することは難しい。かつてのソ連・東欧の共産主義国家がそうだったし、現在の北朝鮮でも同じことが言える。しかし、その一方で、私的所有制度が存在する社会では、1千億円を超える大資産家や年収が10億円を超えるような高額所得者が存在する一方で、生活費もままならぬ者、医者の診察を受けるお金もない者が存在する。世界に目を向ければ飢餓に瀕している者が10億人以上存在する。この不公正の原因が専ら私的所有制度にあるとは言えないが、重要な要因の一つであることは間違いない。 他にも、自由の権利と生活の安定とどちらがより重要か、格差はどこまで是認されるか、国家と宗教の関係はどうあるべきか、動物の権利はどこまで尊重されるべきなのか、こういう意見の一致をみることがない論争が多数存在する。時代と共に、人々の意見が変わることもごく普通にある。また多数意見が必ずしも正しいとは限らない。過去を振り返ると、当時は当然と思われていたことが現在では不適切なことだと考えられることもあるし、その逆もある。 正義は、物理法則のように自然を研究することで発見できるようなものではない。身体的あるいは心理学的な研究でも正義が発見されることはない。必然的かつ普遍的な歴史法則が存在するとしても、それに従うことが正義に適うということにはならない。そもそもそういう法則の存在自体が甚だ怪しいし、存在したところでそれに従わないといけないということにはならない。人類が核戦争で滅亡することが歴史の必然だとしても自ら核戦争を始めるのは愚かな行為だ。 こうして考えていくと、現実的にも、理論的にも、正義の相対性は否定しようもない。ファシズムやナチズム、スターリニズムのような独裁体制よりも民主制が優れていると大多数の日本人は信じているが、それを立証する確固たる証拠などない。実際、日本や米国の政治家はしばしば、「民主」、「人権」、「市場」を普遍的な理念だと表明するが、普遍的な理念であることを証明した者はいない。ただ日本や米国ではそれが広く支持されているという事実があるに過ぎない。 では、民主制や人権擁護の優位性は単なる一部の者たちの神話に過ぎないのだろうか。数学のような厳密な証明を欲する限りは「その通り」と答えるしかない。しかし絶対的な正義を構想するのではなく、「よりましな政治的なシステムは何か」と問い方を変えるとき、正義の相対性という事実が寧ろ民主制の優位を強く示唆する。絶対的な正義が存在しない以上、ある集団Aの意見と別の集団Bの意見が対立したときに、正義論に訴えて意見対立の解消又は裁定をすることはできない。だとすると、AとBが広く市民の前で自らの主張が妥当であることの根拠を語り、(第3者を交えた)討議を行い、最終的に市民の判断を仰ぐという民主的な方法が最も妥当な判定に至ると期待できるだろう。勿論、市民の最終判定が間違っていたあるいは必ずしも妥当なものではなかったことが後々明らかになることはある。だがそのときは同じように民主的な手続きを経て最初の判定を見直せばよい。 こうして判断が間違う可能性に留意しながら、意見の収斂が得られないときには多数決で決めるという民主制のルールが最も望ましい(少なくとも悪くない)ことが明らかになる。民主制においては民主制を否定する意見も含めて極めて多様な意見が認められ、自由の自説の正当性を人々の前で主張することができる。そして、ある日は少数意見でも将来多数意見となることもある。このような多様性と柔軟性を持つ制度は現時点では他には見当たらない。 -
- ☆ 日本経済の行く末 ☆
-
- 3
- 2017/12/02 18:06
☆ 日本経済の行く末 ☆ 井出薫 アベノミクスの最大の成果は何か。株価が上昇したことだ。リーマンショックで(日経平均)7千円台まで下落した株価が1万5千円台にまで持ち直している。リーマンショック直後の株安時に大量に株を購入し大きな利益を上げた者も少なくない。 株価上昇で儲けた者はそれを消費に回す。それにより需要が増加し景気が好転する。株で利益を得ていない者でも、景気が良くなれば賃金が上がり、株価上昇の恩恵を受ける。そして、同じように消費に回すお金が増えて需要増を生み出し景気を好転させる。景気が良くなれば、株価は上がるから、日本経済に好循環が生まれ好景気となる。 90年代のバブル崩壊以前の日本であれば、このシナリオどおりになっただろう。しかし、今はそう簡単には話しが進まない。好循環に与ることができない者たちが多数存在する。年金だけが頼りの高齢者、非正規雇用の労働者、資産のない母子家庭など低所得者層がそれに該当する。収入は増えず、その一方で消費税増税とインフレで生活費は嵩む。彼(女)たちは株を購入する余裕などなく、好循環の中から弾き飛ばされている。 株価上昇の恩恵を受けることがない者たちの割合が増えると、株価上昇の効果は薄れ景気を刺激する力が低下する。株価の上昇や企業の好業績にも拘わらず、はっきりと景気が改善したとは言えない現状がそれを物語っている。大企業や富裕層は確かに利益を上げている。しかし、中間層からの下の層への還元は限られており、寧ろ生活が苦しくなっている者も少なくない。だから、はっきりと目に見えるほどの景気の改善が見られない。そのことは、街をぶらぶらと歩いてみればすぐに分かる。リーマンショックの当時に比べれば賑わっているとは言え、その程度は微々たるものでしかない。ショッピング街では短期間で閉店する店が相変わらず多く、いつの間にか消えた老舗もある。客より店員の方が目立つ店も少なくない。そういう店は、たいていのところ、少し経つと店員の数が減り、やがて閉店することになる。 消費税増税で4月から6月期のGDPは予想通り大きく落ち込んだ。政府関係者や政府に近い経済学者、アナリストなどは、GDPの下落は想定内に収まっており景気の悪化が懸念される状況ではないと言う。企業、特に大企業の業績を見る限りは景気の悪化を窺わせるものはない。だからこそ株価も安定している。しかし、それを支えているのは、株で大きな利益を得ることができるような大企業と富裕層だけで、日本全体の経済状況が改善しているとは言えない。 一番警戒しないといけないことは、インフレ率やGDP、失業率、企業業績、株価などのマクロ経済学的な指標が好調であるにも拘わらず、その一方でじわじわと貧困が拡大し、しかもそれが隠蔽されることだ。それは資本主義的搾取の隠蔽という伝統的マルクス主義の主張を意味するものではない。政府、メディアなどが街の様子、人々の暮らしなどアナログな現実に目を遣ることなく、ICT機器に表示されるデジタルな統計資料だけを見て、景気は継続的に改善していると誤って判断することを意味する。つまり悪意なく貧困の拡大を見落とすことが何よりも懸念される。そして、それはすでに現実になっているように思われる。大都会の喧騒の裏では、孤独な貧しい老人や都会の派手な生活から疎外された非正規雇用の労働者たちが急増している。地方では、東京など大都会に本社を構える大企業の好業績や株価の上昇などは、別世界の出来事だと感じている者が多い。こういう生の現実、生の感覚が極めて重要なのだが、統計資料では捨象されてしまう。だから、デジタルな統計数値ばかりに気を取られていると、重要なアナログデータが捨象されていることに気が付かなくなる。ここに一番のリスクがある。それでも高度成長時代ならばこのリスクは大したものではなかったかもしれない。しかし急速な少子高齢化が進む日本では重大なリスク要因となる。 今のままでは、やがて、生活保護や様々なケアを受けなくてはならない者が増大し、財政悪化に拍車が掛かり、慢性的な不況に悩まされることになる。アベノミクスが駄目だと言うのではない。インフレ率、GDP、失業率、株価や企業業績などのマクロ経済学的な指標を見るだけで景気判断をしてはいけない時代が到来している。そのことに早く気が付かないと道を誤ることになる。 了 (H26/8/17記) -
- ☆ 一般相対論の美学 ☆
-
- 2
- 2017/12/02 18:06
☆ 一般相対論の美学 ☆ 井出 薫 ランダウなど多くの偉大な物理学者たちが、アインシュタインの一般相対論を最も美しい理論だと評している。 アインシュタインの一般相対論をここで解説することはできないが、物理学に関心のある人であれば、理論の中心である重力方程式を確かに美しいと感じるだろう。 方程式の左辺には時間・空間の幾何学を決定する時空テンソルが簡素でエレガントに配列され、右辺にはエネルギー・運動量テンソルが簡潔な姿を持って配置されている。重力方程式の中で自由なパラメータは二つしかない。一つは重力定数で、もう一つは宇宙定数と呼ばれる量だ。後者は全宇宙的な規模では大きな意味を持つが、太陽のような普通の恒星程度では無視することができる。つまり、実験で重力定数さえ決定すれば、原理的には、素粒子など量子論を必要とするミクロの現象を除けば、森羅万象をこの重力方程式から導き出すことができる。 姿が簡素で美しく、曖昧さがないこと、これが一般相対論の美しさの源泉だ。おそらく、その美しさは、日本伝統のわび・さびの精神にも通じるところがあるだろう。事実、多くの日本の物理学者たちもその美しさを賞賛している。 しかも、一般相対論はただ美しいだけではなく、空間・時間の幾何学が物質の存在と不可分であることを教えている。ニュートンにとっては、空間と時間は物体を納める単なる箱のようなもので、物体が存在するかどうかには全く関係しないものだった。だが、アインシュタインの一般相対論はそれが間違いであることを示した。特殊相対論で時間と空間の相対性はすでに証明済みだったし、音速に関する研究とその独特の感覚主義哲学で著名だったエルンスト・マッハがすでに、ニュートンの絶対空間・絶対時間に対する手厳しい批判を展開していたとは言え、時間・空間と物質が不可分であることを理論的かつ実験的に証明したのは一般相対論が初めてだった。正に、それは物理学のみならず、私たちの思想に決定的な転回をもたらすものだったと言える。 20世紀の物理学革命のもう一つの主役である量子論と異なり、一般相対論は現実生活や産業活動に役立つことはほとんどない。だが、ブラックホールや重力レンズ、宇宙全体の構造やその歴史など、私たちのインスピレーションを限りなく刺激してくれる一般相対論の文化的価値は極めて大きい。残念ながら一般相対論は易しいとは言えず、完全に理解するのは物理の専門家でないと難しい。しかし、ランダウや佐藤文隆氏などに優れた啓蒙書があり、その基本思想を理解することはできる。冬の夜長に、一般相対論の啓蒙書を紐解き、空想の世界に遊びながら頭をリフレッシュさせることをお勧めしたい。 了 (H17/12/16記) -
-
- Let'sPensées! IV
-
- 9
- 2017/12/02 17:09
Ovidのような感じですね・・・ -
-
-
- 生活原理主義の論理と心理
-
- 643
- 2017/11/23 21:00
m9(^Д^)プギャー -
-
-
- カミュ・DEUX
-
- 3,426
- 2017/11/23 05:13
カミュのスレッドをこちらに移動します。 スレッド主は愚さんです。 どうぞよろしく -
-
- *アダム.スミスの見えざる手*
-
- 2
- 2017/11/20 18:48
☆ 見えざる手 ☆ 井出 薫 現代社会において、アダム・スミスの「見えざる手」(注)ほど有名で影響力を持つ言葉はないだろう。スミスの主著「国富論」のたった一箇所に登場するだけのこの言葉は、スミス自身にとっては一寸した気の利いた言い回しに過ぎなかったと思われるが、現代人の思考と行動パターンに決定的な影響を与えている。規制を緩和して自由に生産して自由に交易することが富の増進、生活の向上に繋がることは、共産主義を原則とする中国のような国の人々ですら認めている。 (注)Invisible hand:しばしば「神の見えざる手」と訳される。 だが、なぜ見えざる手が上手く機能するのか、その理由はよく分からない。だから同時に見えざる手の限界、たとえば貧困、環境破壊、資源浪費、経済戦争など市場経済のマイナス面が生じる理由とその実体も良く分かっていない。 スミスは、人間には他人に配慮する性質があり、それが見えざる手が働く根拠と考えていたと推察される。人は他人を無視して自分勝手に振舞うことはなく、他人との友好関係を重視する。たとえ自分の利益を追求するときでも、無意識のうちに他人に不利益になるような行動は避ける。だから各人が自由に利益を求めても結果的には全体の利益を増大させる。 だが、人間はそれほど善良かという疑問は別としても、スミスの主張は、市場が機能する理由の説明としては十分ではない。なぜなら、市場は個人の活動の単純な総和ではなく、個には分割できない全体的なシステムだからだ。 システムを分析するために、第1次近似として個人の性質と行動様式から出発することは可能であるが、その方法には限界がある。物理学では相互作用のない(仮想的な)物理系で成立する理論を組み立て、それを出発点として相互作用のある(現実的な)物理系を説明する理論を構築する。しかし、この方法は相互作用が小さいときだけ有効で、相互作用が強い系には通常適用できない(注)。市場というシステムは相互作用が強い系と考えるべきであり、独立した個人の集合として社会全体を考えるような立場では十分な解明はできない。 (注)厳密に言えば、物理学では常に相互作用のない理論が利用できる。それは相互作用のない理論から導出されるエネルギー保存則など様々な保存則と(それに対応する)対称性があらゆる自然現象で厳密に成立することに基づく。だが厳密な保存則に類するものが存在しない経済学など社会科学では、物理学のような訳にはいかず、個人から出発する理論は学の基礎とはならない。 現代経済学は、自由競争の下で各消費者と企業がそれぞれ消費者利得と生産者利得を最大化しようと努めることで、最も効率的な分配が実現され、利潤を得た企業はより多くの利潤を求めて生産を拡大し、社会全体が豊かになると説明する。だが、これは「見えざる手」を数学的に定式化したに過ぎず、「見えざる手」の説明にはなっていない。問題は経済的利得を最適化するように人々を強いるものが何かということなのだ。だが経済学はそれを全く説明していない。人間社会が経済的合理性を追求するのは必然的な本性などではなく、資本主義社会特有の現象に過ぎない。資本主義以前の社会には経済的な合理性より遥かに重要なものが存在した。そして資本主義を超えた時代が到来すれば経済的合理性は二次的な意味しか持たなくなるだろう。現代経済学は成功した学問分野だが、マルクス主義者が主張しているとおり時代的に制約された学問であることは否定できない。 「見えざる手」それは市場という現代人が崇拝する存在の象徴と言える。だが、その実体はいまだ解明されていない。 -
- ☆ 近代科学思想の正当性と目的論の復権 ☆
-
- 4
- 2017/11/20 18:48
☆ 近代科学思想の正当性と目的論の復権 ☆ 井出 薫 アリストテレスは運動の原因を目的から説明した。全ての物体は地上に静止している状態が最も自然で理に適っている。だから、空中にある物体は地上に落下する。運動している物体はいずれ静止する。 アリストテレスの目的を運動の原因とする思想はルネッサンスの時代まで西洋を支配した。しかし、17世紀に入ると、ガリレオ、デカルト、ニュートンなど、新時代の思想家たちが、物体の運動は、目的ではなく、機械的な力により引き起こされるという新しい思想を提唱した。運動している物体は自然に停止するのではなく、何らかの力が働くから停止する、何の力も働かなければ物体はそのまま運動を続ける。物体が落下するのは地上で静止した状態が自然だからではなく、地球による引力が働くからだ。世界は、観念的な目的により動いているのではなく、人間の意識から独立した機械的な自然法則に従って動いている。新しい思想家たちはこう主張した。ここに近代科学思想が誕生した。 21世紀に生きる私たちは、この近代科学思想を信じている暮らしている。世界は目的ではなく人間の意識から独立した数学的・機械的な自然法則に従って動いていると信じている。 生物学は物理学のように数学的に厳密な方法で生物の運動を記述することはできない。だが、定性的な説明しかできない場合でも、その根底には数学的に厳密な物理法則が働いていると生物学者は考えている。化学者、地質学者、考古学者、みな同じ考えである。 こういう近代科学思想に疑問を抱き、それを否定する人たちも少なくなかった。哲学者の多くが自然科学の万能性に疑問を投げかけ、独自の思想を提案した。ヘーゲルはニュートン力学の普遍性に異議を唱え、疑似生物学的な記述法を取り入れながら、絶対精神の自己運動として世界を把握しようとした。20世紀に入っても、ベルグソンが自然科学の客観性・普遍性に異議を唱え独自の世界観を提起した。 ヘーゲルやベルグソンのような哲学者たちの世界観は独創的で魅力に溢れたものだった。だが、現実の世界は彼らが述べているようにはなっていない。20世紀に入り、自然科学は様々な領域で大発見を成し遂げた。かつては人知の及ばない領域と思われた分野でも発見が続いた。科学の応用は良くも悪くも人間社会を一変した。人口は20世紀一世紀で一桁増加した。ありのままの自然はどんどん消滅して人間が制御する領域が格段に増大した。人間の産業活動と消費活動はいまや地球全体の環境を左右するまでになった。 このような人類の飛躍の根底には、近代科学思想が控えている。たしかに、ニュートンの力学そのものは、電磁場の理論や相対論、熱統計力学、量子論により大きな修正が加えられた。ニュートンやカントにとっては自明の真理だったユークリッド幾何学は、いまでは、非ユークリッド幾何学の一形態にすぎない。宇宙がユークリッド幾何学的であるかどうかは観測結果に依存する。生物学や生態学、地質学などが扱う問題は単純に方程式をみつけてそれを解くという遣り方では解決できない。すべてはニュートン力学で説明できるとする単純な機械的自然観は過去のものとなった。だが、それでも、17世紀の偉大な思想家たちが生み出した近代科学思想の有効性は少しも損なわれていない。現代社会はその揺るぎない基盤のうえにある。もちろん、社会的な諸問題は自然科学で解決することはできない。社会の諸制度や組織、道徳、人間の生に関わる問題には独自のアプローチが必要だ。しかし、世界は物理学を基礎とする自然科学により解明される存在であるとする近代科学思想の有効性は健在だ。 だが、こういう近代科学思想が気に入れらない人は依然として少なくない。さすがに、ヘーゲルやベルグソンのような壮大な観念論体系を提唱する人はいなくなった。科学にいくら疑いの目を向けても、電気、自動車、列車、飛行機、電話、テレビなど文明の利器なしで暮らすことは難しい。農業や水産業など第一次産業も近代科学技術の恩恵なしには増大する人口を養っていくことはできない。現代の医学が過去の医学より遥かに進んでいることも否定できない。 だから、哲学者を中心とする現代の反科学主義者は迂回戦術を取る。科学の理論を引用して科学にケチをつけるという遣り方をする。最近は、複雑系やカオスなどが盛んに引用される。反科学主義者によると、これらの最新の科学理論はニュートン的世界観の崩壊の徴だそうだ。一時期流行ったポストモダニズム的なニューサンエンスの宣伝者たちは、科学はニュートン的パラダイムからポストモダン的パラダイムへと変換しつつあると予言した。 -
- *アーレント*
-
- 2
- 2017/11/20 18:48
☆ アーレント ☆ 井出 薫 アーレントはハイデガーの愛弟子で、一時期愛人でもあった。ハイデガーがナチに関与したことで、アーレントはハイデガーと決別し、ユダヤ人に対する迫害を逃れてアメリカに渡り、その地で後世に残る偉大な著作を多数残している。 決別したとは言っても、アーレントの著作にはハイデガー哲学の影響が色濃く漂っている。彼女の主著で、おそらく最も多く引用される「人間の条件」は、ハイデガーの教えを受けていなければ書くことができなかった。 「人間の条件」でアーレントは、人間の能動的活動を、労働、仕事、公共的な活動に分類し、その条件として、人間の生命、世界性、複数性(多数性)を挙げる。そして、労働を最も低次元の活動とし、公共的な活動を最高位に据える。ナチが登場する歴史的・社会的背景を詳細に分析し、ナチとナチが生み出された背景を徹底的に批判したアーレントの著作は、ナチへのコミットを示唆する箇所が含まれる「存在と時間」を主著とするハイデガーのそれとは大きく趣が異なる。しかし「人間の条件」で語られる能動的活動の3つの類型とその分析・評価は、「存在と時間」において人間存在を「世界=内=存在」として捉えるハイデガーの思想なしにはありえない。日常生活に埋没し無自覚で怠惰なダス・マン(中性名詞として表現された低次元の人)から、生の有限性を先駆的に自覚した実存としての人間への昇華、これはハイデガーが主著「存在と時間」で目指したものであるが、アーレントの「人間の条件」も同じ思想的傾向を有している。また、そこで使用される用語や叙述法は、ハイデガーのそれに大きく依存している。こうして、アーレントは、ナチを徹底的に批判し人々が二度と同じ過ちを犯さないための思想と体制を模索しながらも、ナチにコミットし終生その事実を克服できなかったハイデガーの思想圏を抜け切れていない。そこにアーレントの思想の矛盾や限界がある。 -
- ♥20年間も相対性理論に悪戦苦闘している馬鹿、よく読め♥
-
- 27
- 2017/11/20 18:47
リヴァイ君、勘違いしてるぞ 小保方 晴子 豚 2014/07/11 21:15 0 0 >>No. 2650 前と後ろに同時に光を発射した場合どうなるの?って思うわけね。 ロケット内は問題ない。 ボールやなんかとと同じ動きをするだけ。前も後ろも同じ速度で移動し同距離にある。 しかし静止者から見たらどうなる? ロケットの速度を0.5cとするならば、光は一秒後には前方には0.5cで進んだ距離、後方は1.5cで進んだ距離にないとなんない。 ********** たとえば、このロケットが、地上A地点に到達した時に、光線を前後に発射したとする。 そうすると、地上系(静止者)で観測すると、一秒後に光線は、A地点から1Cの距離を進んでいる。 ロケットの移動を考慮する必要はない。 あくまでも、地上系(静止者)のみで観測する訳だから。 *************************** ロケットの速度を0.5cとするならば、光は一秒後には前方には0.5cで進んだ距離、後方は1.5cで進んだ距離にないとなんない。 *********** ↑ これが当て嵌るのは、ロケット系。 でも、時間の伸縮で相殺されて、光速は不変になる。 -
- ユダヤ系が映画産業を独占している理由
-
- 2
- 2017/11/20 18:47
ユダヤ人は アイデアに優れているからだ。 -
- 黒人って
-
- 2
- 2017/11/19 19:29
可哀想だな。 -
- 宇宙と数学
-
- 8
- 2017/11/19 19:28
人間が数学構造を作ったのではない、 数学構造が、人間(や宇宙)を作ったのだ。 このことが理解できない限り、物理も宇宙も理解できない。 物理が数学を導くのではなく、数学が物理を導くのだ。 主従関係で言えば、数学が主で、物理(物質)が従なのである。 -
- なくならない人種問題
-
- 5
- 2017/11/19 19:28
アメリカの黒人が、同国の白人の2倍以上、人種差別を懸念しています。 ロイター通信によりますと、アメリカのピュー研究所が行った世論調査の結果、アメリカ人の黒人5人のうち4人が、ミズーリ州ファーガソンで18歳の黒人少年マイケル・ブラウンさんが警察に射殺された事件は、彼らにとって重要な問題であり、これは追及されるべき問題だと語ったことが明らかになりました。 こうした中、白人回答者のうち、ブラウンさんの殺害が重要な問題だとした人の割合は、40%に留まっており、このことは、アメリカの世論にとって、人種がどれほど重要であるかを示しています。 ファーガソン市の住民は、ブラウンさんの殺害は、この町の黒人に対する少数派の白人の不公正な態度の象徴であると考えています。 この世論調査では、また、アメリカの黒人の76%以上が、ブラウンさんの射殺事件に関する警察の調査を全く信頼していないか、あるいは少しだけ信頼しているとしている、としています。 -
- ほとんど俺のスレッドだな
-
- 9
- 2017/11/19 19:27
笑い -
- 日本人の国民主権なんて幻想。
-
- 13
- 2017/11/19 19:27
主権があるとしたら、アメリカ主権か、天皇主権。 日本国は、半永久的に、アメリカの奴隷国家。 変えられない。 -
- 詩
-
- 2
- 2017/11/19 19:27
どうして 神が呪わない者を、呪うことができよう。 どうして 神が祝福する者を、呪うことができよう。 彼らから、祝福の光が齎せられる。 彼らから、救いの光が齎せられる。 諸国民は、彼らによって、喜びの道を知るに至る。 彼らから、尊い法が流れ出る。 彼らから、全地をあまねく、法が流れ出る。 神は、私の舌に命ぜられる。 彼らを祝福しろと。 彼らの苦しみを、誉れ讃えよと。 彼らの負った罪科は、必ず、雪がれる日がくる。 その日に、諸国民は言うであろう 「私達は、実に盲であった。世の救い手を貶し、彼らに不当な非難を浴びせたのだ」と。 彼らの道は、永遠に至る道。 彼らの道は祝福に至る道。 ああ、どうして讃えずにいられよう。 ああ、どうして祝福せずにいられよう。 彼らを非難する者は、恥をかき 彼らの敵は、叩き潰される。 それは、神が決められたのだ。 誰にも変えることができない。 どうか、私の唇、私の舌が、いつまでも彼らを褒めたたえるように。 -
- イジメ問題には人口密度が密接に関係している
-
- 2
- 2017/11/19 18:24
可住地域が極端に少ない日本列島。 面積はアメリカの25分の1であるが、 可住面積で考えれば、100分の1ぐらいしかないだろう。 この人口密度の高さが、イジメ問題を誘発する最大の要因なのだ。 -
- 宗教を信じる人間と、信じない人間の間には、
-
- 92
- 2017/11/19 18:24
接点が無い。 永久に平行線。 -
- 武士道精神とイジメ精神は、コインの裏表だと思う。
-
- 4
- 2017/11/19 18:23
だから、武士道精神が根づく日本で、 最も陰惨なイジメが起きるんだよ。 -
- ユダヤの諺
-
- 3
- 2017/11/19 18:23
人間には隠せないものが3つある。 咳 恋 貧乏 -
- ☆最も誤解されている書物☆
-
- 2
- 2017/11/19 18:23
旧約聖書 新約聖書 -
- カフカ文学は
-
- 2
- 2017/11/19 18:22
本当は叙情文学なんだ。 意外だろ? -
- 人間にとっての神秘*神にとっての超神秘
-
- 3
- 2017/11/19 18:22
人間にとっての神秘は、誰にでも、すぐ思い浮かぶ。 自然現象の中に。 だが、神にとっての超神秘は、なかなか思い浮かべることが出来ない。 しかし、神にとっての超神秘は、人間にとっての神秘と同じ構造を持っているのだ。 いわば、人間にとっての神秘は、神にとっての超神秘の雛形なのだ。 だから、人間が人間にとっての神秘を解明できれば、神も神にとっての超神秘を解明できることになる。 そのために、神は人間を創造したのだ。 人間を実験道具にして、神自身にとっての謎*超神秘を解明するために。