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ノンフィクション、エッセイ

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  • 緑色の悪魔 (身近な料理への愛を言葉にしてみた)
    • 1
    • 2018/10/31 00:14
     …天ぷらが食べたい。  最近、こんなことをよく呟いている気がする。この無性に天ぷらが食べたくなる現象は、私が日本人だからなのかは分かりかねるが、冷たい北風が吹き始め、外に出るときはカーディガンが必須アイテムになってきたこの季節、野菜などを衣で包み熱々の油でじっくりと揚げた天ぷらは、私を心から温めてくれるのだ。  天ぷら…とはいっても、その種類はさまざまである。エビやイカなどを揚げる海鮮系、ナスやカボチャなどを揚げる野菜系の主に二つが挙げられる。  そこで今回作るのはピーマンの天ぷらである。最初に野菜の天ぷらか海鮮の天ぷらかで迷ったが、なにせ私は料理経験がまだ浅い。なので焦がさないように高度な技術を求められる海鮮の天ぷらは私が作るにはまだ早い気がしたのだ。そして、適当に作って海鮮に中っても困る。なので私は総合的に考えて今回は野菜の天ぷらを作ることにしたのである。  早速、天ぷらの準備にとりかかる。用意するものは、小麦粉、水、キャノーラ油(別に油にこだわっているわけではないが)、塩こしょうと非常にシンプルである。次に、天ぷらを揚げる際に必要な野菜の準備である。今回は少し前に書いた通り、ピーマンを使う。  ピーマン…そういえば子供の頃は本当に嫌いで一口も食べられなかったな。そんなことをピーマンの調理中にふっと思い出す。昔はよくピーマンのことを見た目が少し奇妙なことから「緑色の悪魔」と呼んでいた。そしてとにかく苦い。(あくまで私が小さい頃の感覚だが)もし、全国の小学生低学年から高学年に「あなたの一番嫌いな野菜は何ですか?」というアンケートをとったら、きっとみんなピーマンと答えるだろう。それだけピーマンは子どもに不人気なのだ。  小さい子がピーマンを嫌う理由として主に二つが挙げられる。一つ目は体の構造にある。まだ舌が敏感な子どもは普通のピーマンでも大人より苦く感じてしまうのである。  二つ目は見た目である。あの毒々しい緑色。ごつごつした他の野菜と全く似ていない奇妙なフォルム。その姿は、とても食欲をそそる見た目とはお世辞にも言えない。  まあ、ここまでピーマンのことを否定的に見てきた私だが、今の私はピーマンがとても好きである。(じゃあ、今までのピーマンへの酷評はなんだったんだ…)  …というわけで少し話は脱線したが、そうこうしているうちにピーマンの下準備が完了した。  そして、半分に切ったピーマンに水でドロドロにした小麦粉をつけ、いよいよ熱々の油で揚げていく。  グツグツグツグツ…黄金色に輝いているキャノーラ油のいい香りが私の鼻腔をつきぬけていく。  私はこの匂いを嗅ぐ度に、「これが和食の魅力なんだ」と勝手ながらに思う。やはり、和食の魅力は家庭で気軽に作れるところにあるのではないか。フランス料理のような一流のプロの料理人だからこそ作れるものとは違い、どの家庭でも作りたいときに作ることができる。そういう料理の身近なところが和食だと私は感じる。  …まあこんな説教じみた話はともかく、要は私は和食が好きなのである。(いきなりの自己主張)  そして、ひっくり返してみてピーマンに薄い焦げ色が付いていたら反対に返す。そして反対も焦げ色が付いたら、お皿に盛り付ける。これで、ピーマンの天ぷらの完成である。  いただきます!  早速一口食べてみる。…うんうん。ピーマンの独特なほろ苦さ、そして衣の優しい甘さ、これらがとてもマッチしていてとても美味。  私のつくったピーマンの天ぷらはあっという間になくなってしまった。(食べた犯人=私)  ご馳走さまでした!  今回はピーマンの天ぷらが美味しすぎてご飯を三杯も食べてしまった。(べっ、別に体型なんか気にしてませんから…)我ながらちょっと反省。  でも、これも和食の魅力ではないだろうか。自分のことも忘れ、ただ一心不乱に食と向き合うことができる。これは、なかなか出来ないことだと私は思う。  食はとても楽しい。それは言葉ではとても表せないくらいに。家族と一緒に食べる楽しさ、友達と一緒に食べる楽しさ。食事という宝箱の中はこんなに楽しいことで溢れている。  そして、私はこれからも、その先もこの感覚を忘れないようにしていきたい。  なぜって? そんなこと決まってる。  それは、これを書いている私自身が食事を、和食をこよなく愛しているから。(終)
  • オレンジふあん倶楽部
    • 2,365
    • 2018/12/25 00:51
    心あたりのある方、何でも書いてね♪
  • note 1.5
    • 1,370
    • 2018/12/25 12:22
    興味のあることなどを note に・・・。 仕切り直しです。。
  • できな
    • 54
    • 2019/01/01 02:27
    できな
  • ぶらり昔旅
    • 1,017
    • 2019/01/02 19:12
    ぶらり昔旅 石川島(一) 天明年間(1781〜1789)は飢饉の時代であった。穀物が収穫できない年が続いた。関東周辺の農民は翌年の種籾も食糧として消費してしまい、その土地に留まる希望がなくなり、文字どおり水飲み百姓となって食糧難民として江戸の町に流入してきた。 町では米価の暴騰により諸物価も値上がりし、商店のなかには奉公人を雇い止めにし、店を縮小したり閉めるところもあった。米価の値上がりを見込んで米問屋は売り惜しんだため、庶民のなかには打ち壊しにはしるものもあった。 住む家の無い者たちは、町家の軒下に筵を敷き菰を被って夜露を凌ぎ、薦被りとよばれた。隅田川の河原には水だけを飲んで日を過ごす者たちがたむろしていた。 現代の東京では、鉄道のどこかの駅で人身事故は日常的に発生しているが、当時も行倒れ、野垂れ死に、土左衛門は日常的であり、犯罪が急増した。 寛政(1789〜1801)の世になり、 田沼意次に代わって老中筆頭となっていた松平定信は、世情が騒然とするなか、南北奉行など市中取締りの幹部たちに、無宿人・非人の対策を具申した。格別の妙案が出ないなかで手を挙げる者があった。彼は 「非人の多きは国の恥なり」 と言った。火付盗賊改の長谷川平蔵であった。 その案とは、隅田川河口の佃島に隣接する石川島に彼らを収容する施設を作るというものであった。平蔵の意図したその施設は「授産場」であった。「授産」とは手に職を付けさせるという意味であり、職業訓練センターであった。石川島人足寄場とよばれた。 寄場内には諸々の仕事を用意していて、どの職業を習得したいかは本人に選択させる。 百姓をしたい者たち(農地を棄て離農して江戸へ流れて来た者たちであったろう)には、筑波山の麓に土地を用意していて就農させる。 彼らが生産した物品は町で販売し、その代金は三年間の訓練が終了したときに、独立資金として本人に支給する。農業訓練をしていた者はそのまま独立させることにする。 無宿人・非人を収容して職業訓練し生業に就かせ、離農した農民には再び米を生産させ、ひいては徳川家の増収にもつながる案であった。 寛政の改革の一環として松平定信の採用するところとなり、開設費用として金五百両米五百石、次年度以降の運営資金として年三百両米三百石の予算が付けられた。 現代の日本政府は、生活保護費の名目で現金を配っているが、平蔵は仕事を配ろうとしたのである。
  • 孤独の館
    • 97
    • 2019/01/18 20:58
    読書で癒やそう“厄介”な “孤独“ 書く内容、自由気ままに。
  • 向田邦子
    • 117
    • 2019/01/23 09:17
    エッセイの巧い(好きな)作家、脚本家を語りましょう。 先ずは、向田邦子氏から始めよう。
  • 小さく白く
    • 315
    • 2019/01/25 18:50
    咲きますように
  • 夜の航海日誌
    • 23,197
    • 2019/01/28 01:09
    朝の溜息、昼の呟き、夜の嘆息。 まとまったものなら身辺雑記、紀行文、 文芸・音楽・美術・映画の鑑賞記など。 なんでもお好きなことをお書きください。 できれば写真も添えて。 みなさんのエッセー集&フォト・アルバム。
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