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投稿コメント一覧 (273コメント)

  • >>ウソをウソと見抜ける者でなければマスコミの活用は困難なのかも知れません。

    全く同感です。
    しかし、嘘を分かりつつ報道するほど破廉恥ではないと信じております。
    もし、そうであるならば、十分納得させるだけの理由あっての事と思います。
    (甘いかな?、でも許される甘さの範囲と思っております。)

    マスコミの欠けているのは自社批判であり、自社検証だと思います。
    社内の中での批判はあろうかと思いますが、それを公の場に公開していない事だと思います。
    典型的な例は、朝日の慰安婦記事です。
    今更さらながら、謝罪記事を書き、検証記事を出す事ができないように思えます。
    国益を損ない、国民を貶める結果を導いて、未だに反省できず、正当性を主張しています。
    思い出せば、橋下市長の慰安婦発言や、河野談話における、国会での補佐官発言、
    謝罪や、検証する、好機が訪れても、自社批判を行っていない。
    むしろ、市長の場合は、揚げ足取りに集中して、言論誘導を行っていました。
    そんな状況では、果たして、社内における倫理規定がいかなるものか、疑いを持ちます。

    近頃、憲法改正の論議はするべきと発言する方が増えております。
    ようやく、「ここまでか」との思いがあります。
    GHQの統治時、僅かの期間で作られたものが、
    日本の風土、文化に根差したものであるわけないのです。
    欧米文化に彩られた、偏った憲法です。
    憲法改正に大反対を続け、今もって、憲法を批判、検証できずにいます。

    いじめがなくならないのと、平和が訪れないのは人の性です。
    特別な人を除いて、聖人になれぬのと、同様に、
    特別な国家でなければ、無防備な国の存在はないのです。
    当たり前の事を、理解しようとせず、夢を書きなぐっているように思います。

  • >>No. 4365

    お前もか!
    大統領としての資質を疑う。
    最も、朝日・毎日はそれ見た事かと尻馬に乗るであろうから
    本当の事が伝わらぬ実情(日本国)故、
    無理からぬ事かと思えば、許せる範囲か
    害悪を流し続けている事(マスコミ)を自覚させるには
    いかなる方法があるのか?
    大阪には「何でも言って委員会」があり、
    少しは啓蒙活動に寄与していると思えるが、
    残念ながら全国ネットにできない。
    なぜなら、毒舌の延長上に番組制作があるとの暗黙の了解があり、
    それは、MCであった、やしきたかじんがいて、できた番組だからです。
    もし、東京でつくるなら、MCに櫻井よしこ氏とビートたけし氏
    委員会メンバーは大阪のメンバーでよいかと思えます。

  • 2014/06/13 02:07

    正確には、何年か振りです。
    仏教とは?
    私なりの考え方を述べます。
    西欧社会(日本もそうなっていますが)
    自由の概念の違いにあると思えます。
    仏教において、「自由とは秩序(檻)の中にあるもの」
    なぜなら、秩序は自由を妨げ、物理的現象は秩序なくして存在しません。
    物理的存在とは、秩序あって存続し続けます。
    秩序が無い状態を混沌と表現すれば、「自由とは混沌」を意味しているように思えます。
    神が居て、人が存在する宗教との根本的な違いが「自由」の言葉に象徴されていると
    考えております。
    「無」の概念を日常の中に取込んだのが仏教と思います。
    つまり、主体の存在がある「自由」
    無い「無の概念」、宗教でも全く違ったものです。
    強いて、共通項を見出すとしたら、信じる事の概念でしょうか

  • >>No. 52125

    確かに、おっしゃる通りです。
    つまり、個人の内で完結させて、他者の介在を阻むのですから、
    でも、下手すると、殻に閉じこもった、頑固もんの誹りを招き、
    嫌われるどころか、社会生活不適合となる恐れがあります。
    私は、それを恐れ、本音をこのような場、もしくは、酒場でしか致しません。
    同時に、友達付合いもしなくなりました。
    誤解しないで下さい。
    人付き合いができにくくなっただけで、
    40年前の友人に声をかけたら、喜んで、語り合う事もできます。
    テレビドラマの1コマを演出し、演じれば良いだけです。
    何故なら、昔から、変わった奴と思われていて、
    若者特有の本音で付合いをしていたからです。
    社会人となると、しがらみができ、本音は出せぬものです。
    それが煩わしく一切の付合いを絶っただけです。

    我が子に同じ道を歩ませようとは思いませんが、
    何某かの糧に為ればと願うのみです。

    蛇足
    論争好きの欧米人と違って、日本人には馴染まないと思うのですが、

  • 2014/06/16 05:45

    中々ご理解頂けないようですが、
    「自由とは、(所詮コップの中の嵐)と表現します」
    表現の方法は色々あるでしょうが、
    「自由の意味の解釈」が違うと思います。
    自由とは孫悟空で、所詮お釈迦様の掌での振舞いと考察しております。
    後生大事にするほどの事ではないと、断じています。
    制約がありすぎるのも問題ですが、
    制約がなくても困る事になります。
    制約は時代背景によって変遷し、自由にできる範囲も変わると思います。
    勿論、社会背景や、個人の資質によってもです。
    均等に自由を求める事はなかろうと思います。
    先進国は矢鱈自由を求め過ぎのように思えます。
    自然に対する配慮が欠ける、根本要因の一つかと推察しております。

    どのような因果があり、ご縁がネットで繋がったのか当然の如く推察できませんが、
    確かな事は、仏法との関わりがあり、ご縁ができたと思います。

    さて、
    引き籠りについてですが、
    私にも1つの見解を持っています。
    恐れが何によって引き起こされるのか?
    人を例にとるより、知能の劣る「猫」を例えると
    意識下の働きを容易に理解できるかと思います。
    話題になっている猫の駅長がなぜに傍若無人の如く振る舞えるのか、
    体験的申しますと、人間を頼る体験が乳児期にあり、
    それが心地よかったのではと想像します。
    反対にのら猫達はそのような体験がなく、
    人とは一線を画してしか付き合えぬようになると思えます。
    飼い猫でも、飼い主によって違ってきますが、
    特に猫は顕著で、飼い主の愛情があっても、押し付けは嫌がります。

    本題ですが、引き籠りになる人の傾向は気弱な自己主張の苦手な人達です。
    ところが、一歩家庭に入ると気弱であろうと、自己主張が苦手であろうと
    乳幼児期からの延長で生活できます。
    社会(学校)は様々な刺激に満ちており、小さな小競り合いの場です。
    それらを自己判断で対処しなければならず、無防備な人達は傷つきます。
    その対応が逞しくなる経験になれば良いのですが、
    傷が癒えぬうち、傷口を広げられると傷つくことを恐れ、
    引き籠りの原因になると思います。
    子供に逞しくなる方法をご両親も身近な人達も授けていなかった。
    多くの場合に当てはまる要因と考えています。
    しかし、成長してから、逞しくなるよう鍛えるのは困難を伴います。
    しからば、まず、小競り合いのない環境におくか、
    小競り合いを受止める方法を授けてくれる環境に置くしかないと、思います。
    最良の方法は小競り合いに巡り合わぬ(避ける)方法を身に付けると良いのですが、
    個性が邪魔をして、中々思うようにならぬと思います。

    飛躍しますが、韓国や中国の嫌がらせとも思える言動・行為は
    人における性が剥き出しになっているようで、
    「いじめの構造そこにあり」と、思っております。

  • No.52133

    自己分析

    2014/06/18 03:15

    同意を求める行為
    いつの頃か、会話の中で「そう思うやろ、とか、そう違うか・・・」
    等に対して、「ずるい話し方」のような意識が働くようになっている。
    話は全て、個人の中で完結させ、他人の思惑を気にしてはならぬと、
    そう思い込んでいる自分(64歳)に、ようやく思い至った。
    だからかも知れない、「自信家」と言われたり、
    「お前を使える者は居ない」などと言われた原因がそこにあった。
    話は聞くし、共同作業もできるのにもかかわらず、
    何故そんな評価をされるのか?
    意味が分からず、今日まで来たのだが、
    思い起こせば、指導者として、団体を纏める素質がない所以もそこにありそうだ。
    戦いは、「1対1で行うものと思い込んでいる」で、
    「団体競技が苦手と公言している自分が居た」
    何時の間にか、「助け合う」とか、「補い合う」ような
    助けられる自分を否定し、支えられる自分を否定している。
    「強くなければ男じゃない」
    強さの意味を未だに身に着けていない。
    死ぬまで、この性格を繋いで行くしかなかろうと思う。
    然らば、角を取り、丸くする努力がこれからの人生の課題となろうか

  • 2014/06/19 04:24

    >「自由とは嫌われること」
    と書かれました。
    >確かに、おっしゃる通りです。
    と書きました。

    言葉足らずで申し訳けなかったのですが、
    啓発を受けた言葉である事は十分承知しております。
    短い言葉の底に和真さんがようやく掴み取ったであろうとの想いは、
    感じ取る事ができます。

    私が仏教徒であると目覚めたのは、40年近く前のインドで、
    ラジキールの日本山妙法寺に於いてです。
    それまで考えて居た事が身近な者(親兄弟・友人達)と合わなかったのが、
    なんだ、御釈迦さんは既に1千年以上前に悟っておられるではないか
    哲学書や心理学書で、納得できなかった事がすんなり納得できた事です。
    ただ仏教は心の奥底だけでなく、因果、とどのつまりは縁に尽きる事を教えています。
    縁に於いて、悪縁・奇縁・良縁・・・様々あれど、
    縁とは人智の及ぶ世界でなく、ただ八正道を歩むべしと感得したのです。
    それは、無理だとの答えはあるものの、大きく外れず歩もうと決心した者です。
    お陰様で、人の道から大きく外れることなく今日まで暮らしてきております。

    ただ、ブッダガヤで出会った、日本の禅の修行僧から、
    「棄てなさい」との言葉をもらい、己を棄てる方法を考え、
    ついに(5~6年後)、「棄てる事ができた」と思ったら、
    日常生活ができなくなりました。
    己の考えを無くす事は、己の発想で会話ができなく成る事です。
    全く無防備な赤子の如く世話されるままの状態になったのです。
    何か答えなければ会話ができぬのに、何を言っているのかもわからぬ状態になりました。
    できるのは、はい、いいえの判断しか存在しない状態です。
    不思議な事ですが、そんな自分を観察している意識が存在しているのです。
    2重人格のようなものでしょうか
    言葉を使う自分は無智で、それを意識している自分が居るのです。
    禅で言う処の魔境の一種であるように思います。
    精神病理学的には何某かの判断が下されると思います。
    さて、ここで言えるのは人であろうと獣であろうと、
    因果の中で生きる者達はその中で折り合いをつけて行くだけです。
    人は常に選択をしながら生きています。
    必要と思える知識も人それぞれです。
    何を求めるか?
    それ以前に要因があり、結果として欲求が働くと思えます。
    もし、因果の鎖を断つことができれば、
    「仏の境地では」と思います。
    私は自分の分析を初めて50年近くなります。
    心理学という言葉を知る以前から自己分析を無意識に行っていました。
    乳児期の弟(2歳違い)が母のおっぱいを飲んでいて、
    おっぱいを欲しがった自分を覚えています。
    なぜ、欲しがるのか?、母に構って貰いたがる自分を覚えています。
    そんな気持ちを我儘と意味づけた自分がいます。
    どのように、言葉の意味付けをしたのか
    殆どの人は関連付けを無意識の世界に委ねているでしょう
    言葉を満足に使えぬ乳児期の記憶を留めている人は少ないでしょうが、
    私にはあります。
    だからと思いますが、なんとなく、猫の気持ちや、
    乳児の気持ちを掴むことができます。
    娘が子育てしている時、赤子の気持ちが分からぬ娘に、
    助言したけれど、娘は普通で、寧ろ赤子の気持ちを汲取ろうとしている。
    因果を教えても、精神的に追込む結果になり、
    それは、赤子に良くないと思い、助言は求められた時にしようと
    戒めています。
    あらゆる事に因果はあると思いますが、
    正見であり、正思惟の上でなければ、因果を捉えられぬと思います。
    果である結果から、因を手繰るのは容易な事ではありません。
    過去の検証は不可能です。
    故に、推測する事になるのですが、
    その推測を言葉にすると、そこには正語の壁が立はだかります。
    言葉の壁を乗り越えて、意思を伝える事の難しさ
    最も難しいのはどのように表現したら思惟したものを言葉に乗せられるのか
    あれこれ、体験上の事を重ねながら書いても
    申し述べたい事に中々到達いたしません。
    日を改めて、申し述べたいと思います。

  • No.52144

    仏教の普及

    2014/06/22 11:19

    私が日蓮上人を敬うのは行動力と先見性です。
    また、藤井日達師がいて、仏縁に巡り合え、
    仏教徒である事に気付いたのです。
    藤井日達師が命懸けで普及活動をしたお蔭と感謝しています。
    ただ「法華経」を護持しても、仏の教えを実践するのは困難な事です。

    どなたもが持っているであろう予見能力。
    突発的な事が起こらぬ限り、ほぼ予見の範囲内で暮らせます。
    ただ、その範囲を広げ社会の行く末となると、
    起こっている事象が、未来にどのような現象を引き起こすのか

    例えば、「オーム真理教の事件」
    私は身近な者達が麻原彰晃の非難をしている時、
    彼も犠牲者だと言いふらしました。
    そう捉えないとマダマダ悲惨な事件が続くと予見したのですが
    その後、神戸連続児童殺傷事件(酒鬼薔薇聖斗)、
    附属池田小事件(宅間守)・秋葉原無差別殺傷事件(加藤智大)
    近くは親による幼児殺害・・・・など

    それぞれ事件の背景は異なります。
    しかし、共通しているのは、仏教の本質を知らぬ事です。
    倫理・道徳を教えれば良いという人も居ます。
    しかし、仏法を根本理念に据えての倫理・道徳が必要と考察します。
    もっとも、タイあたりのお坊さんのように、
    生臭が多くては仏教の本質を感得し辛いと思いますが、

    >世界は戦いながら調和するのであるから、
     非暴力主義だけでは平和は保たれない。

    ある作家が書いた小説の1節に、宇宙人の感想として
    「なんと醜い星であろう、命を奪わねば生きて行けない星だ」
    インドのジャイナ教の発想と同じとも思えます。
    また、「木喰さんも同じ思いで暮らしたのでは」と思います。
    ジャイナ教も木喰さんも細菌を食べている所までは考えが及んでいない。
    命を奪わねば生きて行けない業が争いの元にあろうかと推察します。

  • 2014/06/23 19:09

    釈尊は悟った時、その事を伝えられないとの想いがあったと、
    伝えられています。
    科学の世界では証明し、再現性を重んじます。
    だからここまで発達したのだと思っています。

    では、「悟り」は?
    どのように証明できるのか?
    禅では「不立文字」といわれます。
    おそらく、そうなのだと思います。
    だから、「言葉で伝えられない」

    では、証明できないのか?
    初転法輪であると伝わっているのは、
    中道とその実践法たる八正道、苦集滅道の四諦、四諦の完成にいたる三転十二行相、
    であったとされています。
    つまり、三転十二行相がその証明のように思えます。

    しかし、その相とは何を指すのか?
    仏法を説く難しさがそこにあると思います。

  • No.52161

    苦悩

    2014/06/26 03:22

    >私にとっての「相」は、法華経「寿量品」の「常住此説法」で、観音経が、
    >この「常住此説法」の具体化だと思っています。

    表現に困って、「その相とは何を指すのか」と、
    苦し紛れに書いたのですが、表現を変えれば、
    相を現した者を誰が確認するのか?
    「一芸に秀でる者は多芸に通ず」との諺があります。
    勿論、悟りと芸事を同列に論じるつもりは有りません。
    それなら、頓悟などあり得なく、漸梧のみとなります。
    しかし、修行が深まれば、それなりに感得する力があると思えます。
    例えば、十住心論の如くにです。
    つまり、相を観じとりえた者が悟りへの道を辿っているのであろうか
    ならば、一般人には説明不能、もしくは非常に難解な事です。


    >私は、仏法は「根本的苦悩からの解脱」だといます。
    >苦諦という「人生まるごと苦悩」の自覚においてこそ仏法は始まると思います。

    記憶している限り、私の明確な苦悩の始まりは知性と感情の対立です。
    知性にも様々あり、内なる知性と環境にある知性。
    環境とは社会のシステム、つまり、法律や組織等です。
    人が考え、民主主義を下にした環境は人工的なものです。


    私は医者に少なからず不信感を抱いております。
    原因は様々あります。
    その一つに、恋人の腹痛があります。
    私は、精神的な病だと、医者に告げたのですが、
    医者は様々な検査をした挙句、心療内科に送りました。
    素人の考えをまるで参考にしない、その態度に不信感を持つのです。
    素人であっても、問診があるように、身近な者の意見は本人に聞くより、
    的確な場合があるのです。
    おそらく、人生経験をしても、自ら生かす訓練を怠り、
    学問に答えを見出してきたのであろうと思えます。


    あくまで、個人的な事ですが、「心理学」に対しては距離を置いております。
    理由は人だけを対象にする学問だからです。
    縁が繋がった世界の中で、人に絞り込んで、対処する所に、警戒心を抱きます。
    でも、参考とさせて頂く事も多々あります。
    それと、どなたであったか、覚えていないのですが、
    「精神疾患の治療の究極は同じ病になって、治癒法が見つかる」
    と、聞いた事か、読んだことか、その様な事を覚えています。
    大変なお仕事だと思います。

  • No.52162

    貧困

    2014/06/26 05:01

    心の貧しさをコメンテータから聞くようになって、何十年にもなります。
    発言するご本人が無自覚のまま、心の貧しさを吹聴なさっているようで、
    表面的な事しか語っておられない。
    人は想像力や創造力を養い、広げる素質が備わっているにも関わらず、
    無難なところで落ち着かせようとする心の働きと戦っていない。
    安定を求めるのも本質的に持っているのであろうが、
    安定を離れ、冒険した事がどれほどあるのであろうか?
    犯罪的行為でなく、道を外れ、社会を逸脱して、見渡せる世界に触れた事があるだろうか

    朝まで生テレビで、麻原彰晃をゲストに迎えた田原氏の対応をみて
    なんと貧しい宗教に対する意識であろうか?
    鋭い指摘で評判の氏だけれど、その本領を発揮できていない。
    インドへ行くまでの自分がそうであった。
    「宗教って何?」
    その事がわからず、わからせようと働きかけない社会に今は異常を感じます。
    宗教の本質を理解する事は大人の責務と、インドへ行って以来、そう考えています。

  • 2014/06/26 08:59

    せめて、法華七喩を小中学生に、
    中高生には般若心経くらい教材にして頂きたいものです。
    つまり、常識の範疇に経典の内容を、記憶の中に蓄えて頂きたいものです。

    また、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教など・・・
    世界の主な宗教と、成立ちくらいは常識の範疇に、あってしかるべきかと思います。

  • No.52164

    常識の範疇

    2014/06/27 22:21

    子供の中には、「何で」をよく使う子がいます。
    また、「教えて」も同義に使います。
    知的欲求なのか、誤魔化し(初期は自己防衛)に使うのか
    事の初まりは、おそらく、「何でそんな事をするの」と、
    聞かれたか、叱られたか、糺されたか・・・など
    子供にあった使い方を、無意識に身に付けたものと思えます。
    漫才師の中に、誤魔化しで使い慣れたであろう人が居ます。
    あくまで、憶測ですが、ダウンタウンの浜田氏の突込みは、
    「何で」で、鍛えたように思います。

    子供2人を連れ、4度目のインドで、出会ったのは「なぜ、なぜ、坊やでした」
    私が勝手に付けた愛称ですが、彼は職場で「何故だと聞くと」嫌われたと、言うのです。
    誠に素直な青年でしたが、それは私が行きずりの者で、無責任な立場での印象です。
    身近な、多少とも責任ある立場で、「何故」と聞かれては、責任転嫁されかねません。
    鬱陶しい人とは、こんな人の事を言うのだと思いますが、
    本人は真面目で、素直で、「知らぬ事は知らぬ」と、堂々と言っているだけです。
    普通は無智を多少なりとも恥じて、調べるか、考えてから聞くのに、

    中学3年の同級生に同じ様な友人が居て、見た目も、行動も普通ですが、
    勉強もそれなりにしているのに、成績が良くない。
    その彼に付き合って、一度だけ宿題を一緒にした事があります。
    「1+1=2」でも、「1個のリンゴ+1個のリンゴ」は、
    なんで2個のリンゴなのであろうか?
    同じようなリンゴが2つあっても、同じ物はないのに、
    それなのに、なんで同じ扱いをするのか?
    私が小学1年生の時に持った疑問を、解消することなく、
    中学3年になっても問題を抱え、未消化のまま多くの定義を抱えていたのです。
    つまり、抽象的概念が苦手な人なのです。
    具体的な答えを求めているのです。(私も同じ傾向があります)

    さて、前置きが長くなりました。
    つまり、数学に於ける定義が、社会に於いては、常識に当たるのでは?
    との考察を述べたのです。
    で、今社会にあって、無批判に承認されている常識に
    多少疑問を提示してみたいと、思っています。
    コンサートや何々ショ-に多くの人達が集まり、感動、感激しております。
    多くの人が集まり、興奮して、それがまた興奮につがって、
    一時的な快楽を求めているように思います。
    禅的な表現ですが「魔境に誘い込まれた状態」のように思います。
    であれば、決して健全な集まりと思えぬのです。
    私の子供の頃は多少なりとも、「そんな集まりは不健全だ」と、
    言っていたように思います。
    子供の頃、東映の時代劇をみて、興奮した事を覚えています。
    現代人はいつまで、子供っぽい感情を引きずるのでしょうか
    刺激を求め、娯楽を求める心を富裕層のゆとりと考えているようです。
    おもちゃを求める子供が大人になって、箱ごと買うような印象を受けます。
    子供と違い、規模が大袈裟になっただけのように思えます。
    趣味なら、もう少し文化的な匂いがあっても、と思います。
    さて、今は過度期と解釈して、眺めておくかな

  • 初めまして、少し、突込みを入れさせて頂きます。

    >人は皆世界平和を願っています。
    本当でしょうか?
    本音は傷つく事を恐れ、争う事を避けているだけと思えます。
    例えば、今、現在、中東では争いが絶えません。
    その原因を探った事のある人は幾人日本にいるでしょうか?
    つまり、対岸の火事の如く、大多数の人は報道を受け入れているだけです。
    勿論、私も同様で、その原因を考察しても、その結果を実践する程の気力が湧きません。
    一人だけ、一国だけが平和を願っても実現しないのは自明の理で、
    それで、平和を願っているといえるでしょうか?
    「自分だけは平和な中で暮らしたい」と、願って居るのかも知れませんが

    結論から申しますと、「自己が一番大切」と思う社会認識がある限り、
    本当の平和は訪れないと思います。
    SMAPが「NO.1にならなくてもいい、もともと特別なONRY ONE」と歌っています。
    自分だけが平和であればいいと、歌っているように聞こえるのは私だけでしょうか?

  • >>No. 23357

    初めまして、ペガサスさん
    久しぶりにスレッドを眺めているうち
    自分自身、無意識に受け入れている言葉に疑問を持ち
    「多くの人も同様だろうか」との問いかけです。

    小学校の就学前、耳にしたのが「お陰様で」との言葉です。
    母親に意味を問いかけ、返事をもらっても、理解できなかった事を覚えています。
    その事を思い出したのが二十歳を過ぎたころです。
    そうなんだ、自分には過去幾千人者の連綿と続いた歴史があり、
    その人々も、今の私と同じように、政治、経済、習慣、掟・・・等の中に身を置き、
    現在の自分がある。
    これを単純に個人と呼んで良いのだろうか?
    そんな物質的な呼称で済むものだろうか?
    人はどのような場合であれ、一人ではないと確信したのです。
    「お陰様」の意識がもっと一般的になればと願って居ます。

  • >>No. 23361

    はじめまして、青の事情さん
    >今、「不信の時代」と、言われているようです。

    そうですね、基本的に私自身は自分に信頼を置いていません。
    おそらく、失敗の経験があるからと思います。
    それと、感情を極限まで自制できないからと、自己分析しています。
    多くの人も同様ではないかと思っております。
    しかし、心に仏が住んでいるのでは?と思う事はあります。
    例えば、良心と呼ばれるものが、自分にもあるように思えます。
    日本では、多くの人が良心をお持ちと思います。

  • 私の見解

    韓国が我が国に歴史認識を問うています。
    我が国はこれまで、侵略戦争であったと言い続けています。
    では、自衛の為に起こした戦争の側面はなかったのか?
    その様な報道は一部の知識人、一部の報道の中にあるだけです。
    戦争責任を全て背負わされて70年、責任が我が国だけでない事も報道してこそ、
    中立的な報道姿勢と思います。
    戦争を戒める為に、悪しき側面ばかりを報道しています。
    アジアは民族単位で国土を保っています。(中国を除けば)
    なぜアジアにだけが歴史の継承をなし得たのか?
    その事に日本が深く係っている事を重視しないのか?
    大東亜戦争と言い続ける人達の根拠はそこにあると思っています。

    蛇足ながら、チベットやウイグル地区は中国の植民地です。
    台湾もしかりで、高砂族の国なのに我が領土と主張しています。
    横暴も極めりです。(この現状は連合国の責任と思っています)

    さて、世界を眺めてみると、現在紛争が起こっている現場は、
    かつて、連合国が支配し、連合国の秩序を持込んだところばかりです。
    連合国の都合で領土の線引きをした国々です。
    根深い問題があると思います。
    韓国の我が国に対する非難など些末の事としか思えません。
    韓国の非難を収める事すらできず、中東問題に口出しすべきでないと思います。
    まず、韓国の非難を抑えるべく、情報戦を挑むべきと愚考しています。
    そこから学んだ方法が中東でも使えるのでは?
    韓国の慰安婦像は情報戦の一つと考えています。
    そろそろ、武器なき戦いを我が国もしなければ、
    「世界の秩序が回復しないのでは」と思う今日この頃です。

  • >>No. 14

    お久しぶりです。

    大阪都構想はご存知でしょうが、その経緯は伝わっていないと思います。
    そこで、私見を交えながら、現在の状況を書いておきます。

    たかじんの何でも言って委員会のメンバーであった橋下徹氏が
    たかじんに推され大阪府知事になったのが始まりです。
    この構想の真偽は定かでないのですが、
    堺屋太一氏が企画・提案をしたと言われています。
    当時、様々な知識人が集まり制度設計に携わったようです。
    おそらく、橋下氏は構想実現まで5年程度と予測していたと思えます。
    ところが、民主主義の欠点でもあり、長所でもある少数意見の配慮、
    及び多数決の論理によって、未だに構想実現に至って居ません。
    大阪市議は自分達の生活に関わる議員の席を失うのですから、・・・
    いまや、都構想以外の議案も、維新の会が提出したものは反対の立場からしか検討を加えません。
    それ故、法定協議会(都構想の原案を作成)の審議が進まず、
    法廷協議会のメンバーを入れ替える為に
    民意を聞くとの立場で市長選をすると言ったところ、
    大義なき選挙とマスコミ各社が報道したのです(NHKも含め)。
    現在法定協議会のメンバーは維新の議員が過半数を占めるています。
    そして、都構想の原案ができ、議会に諮った所、審議拒否で否決されています。
    そこで、住民投票で都構想を実現するか否かを問う署名活動をしています。

    マスコミ(特に、朝日・毎日)やNHKも含めた放送局も議会内容を伝えなくなっています。
    (例えば、議員報酬を3割減から1割減にもどしたり、政務調査費のネット公開を否決)
    大切な事を報道せず、橋下氏が怒りを露わにして記者に立ち向かう処は報道をしています。
    実情を知る者は記者達です。
    それでも朝晩、記者の前に立ち、質問の受け・答えをしています。

    橋下氏のおかげで、改めてマスコミの実態を実感しています。
    朝日新聞の誤報道が起こった原因は、公正な報道の前に、
    自社の都合に合わせる姿勢にあると思えます。
    記者が記者である前に自社の都合に合わせた質問ばかり行っています。
    また、裏付ける証を調査せぬまま、風評に従った報道をしています。
    嘆かわしい、「記者魂よ何処に」と思います。
    少年期に新聞を読めと教師に教わり、
    思春期になったら、新聞記事を鵜呑みにするなと兄に諭されのを思い出します。
    「記者達よ!、事実の切り貼りを止めよ!」と言いたい。

  • >>No. 1

    【私見「偏見と差別の出処(いずるところ)」】

    幼児はよく「なんで?」を口にする。
    しかし、「なんで偏見があるの?、差別があるの?」
    と、考えるのは思春期の頃かと思う。
    しかし、答えを持たぬまま大人になり、
    1+1=2の如く、「偏見:偏った見方」で終わる。
    大人は既に「なんで?」が無くなり、語彙として使う。
    ところが、「なんで?」を手繰ると、少し世の中が見えてくる。
    少し、正しい認識に近づく。

    余談ですが、
    面白いのは、精神科医である某女性です。
    ご本人は当然偏りがある事を知っています。
    ところがどっこい、それを性格と割り切っているような節があります。
    学識は有っても、未発達の精神医学に頼っています。
    もし、精神医学が未発達である事を認めつつ利用していたとしても、
    (プライド故、未発達であると認めていないのかもしれません。)
    「使い方に問題あり」とまで自覚していないようです。
    なぜ、そんな使い方しかできないのか?
    一言で申せば「内観」が足りないのです。
    内観とは、己の辿って来た道を検証する事に始まり、心象風景を観る事です。
    心象風景を観る所まで行けば、孤独を離れた己との付合いが始まります。
    この境地の事を、空海は『秘密曼荼羅十住心論』で表現しています。

    閑話休題、
    偏見の故郷は認識機能が与える心にあります。
    認識機能は眼から、耳から、鼻から、舌から、身から、意識から
    の刺激によって働きます。
    しかし、眼・耳・鼻・舌・身・意は完全な情報を認識機能に与えません。
    それぞれに限界があり、真実を全て認識機能に送れないのです。
    つまり、人は偏見でしか認識できない事を意味しています。
    最近、錯覚を使った絵が放映されています。
    これは、意識が情報操作している事を示す例で、自覚の限界を示しています。
    差別と分別の違いは、差別意識に囚われるかどうかです。
    例えば、アレルギー患者かそうでないかです。

    差別意識の強い者は心に闇を抱えています。
    闇の素は偏見です。(強いプライドは差別意識です)
    分別の足りない者が陥る心の闇です。
    その闇を照らすのは「内観」です。
    偏見や差別意識を薄める、最良の処方箋と、私は思っています。

  • >>No. 13

    ministopiceさん、はじめまして

    「心のプリズム」ですか、機会があったら読んでみようと思います。

    基本的に、科学とは距離を置いています。
    勿論、信頼していますが、瑕疵が必ずあると思っています。

    何年か前、ヒッグスが「ヒッグス機構」を提唱した。
    「質量はどのようなしくみで発生するのか」の1つの解です。

    この発表を聞いた時、「自由」と同じ構造であると思ったものです。
    つまり、「自由」が発露されるのは、制限がある時だからです。
    一般的には「自由=無制限」と理解されていますが、
    私は「制限の中に自由あり」と思っています。
    自由が発露される時は、必ず制限を取り除く時に限られるからです。
    このことは質量の発生と同じ仕組みです。
    私は、自由の言葉に違和感を覚え、意味を探求した結果、導いた解です。
    「存在は不自由である」との考えを持っていたので、ヒッグス場の理論は納得できます。
    同時に、物理もそこまで極めた驚きがあります。
    私なんぞは頭の中をこねくり回して、ようやく至った答えなのに、
    まるで、次元の違った所と一致した事に驚いたものです。

    偉そうな事を書いていると思われたら、それは誤解です。
    科学は人の発想の後に、証明されてゆくものだからです。
    違った表現をするなら、証明はとても難しいのです。
    発想はどなたでも出来ますが、証明は難しいのです。

    例えば、論理は科学の出発点と思いますが、
    左翼と右翼を一致させる提案は容易にできません。
    何故なら、前回書いた、偏向を証明し、改めるまで一致できないからです。

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