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投稿コメント一覧 (481コメント)

  • >>No. 4536

    オタクが以前言っていた、パーっと真空みたい、という言葉が離れなくてね。その時、あ、これあ、ダメだ、と思ったんだ。

    絶対無・空を、100%の無とおもってない?

  • >>No. 4537

    あー、モー、こんなメンドーな話はやめよー。

    みんな、おのおの修行精進してるんだから、揚げ足取りしてもつまらンよ。

    宗教にケチつけたい一心のイストランさえいなけりゃ、オタクも求道者なんだから、話は合うと思うよ。

  • >>No. 4558

    toushot さんの加入でこのトピもグッと締まってきた。テルゼ嬢の真価も見えてきたし、道夫ちゃんのスタンスも鮮明になった。

    あと問題はあの二人だが、豊かになり多彩になった議論の輪に加わるには、いささか、問題が残る。

    いずれ加わってくるだろうが、その時にはまた、不毛なやりとりが繰り返される。それを考えると、

    あんぽんたん共には、静観していてもらいたいものだ。

    「理性・光の破壊」作業に使嗾されているという自覚が全く欠けている。その意味で、悪魔的という形容がぴったりするのだが、こう言ってみたところで、

    またもや、馬の耳に念仏だ。

    これが、娑婆というものだな・・

  • >>No. 4559

    島田裕二じゃないけど、現代は「ミニ教祖」輩出の時代なんだよ。

    そこには、当然特有のカオス状態が生じる。それは仕方ない。

    フェアプレイをしてるか、力に満ち、霊的に見て美しいか、それが決めてになるだろう。

    奸計を用い、詐欺、詭弁を事とするところは、自然と消えていくだろう。

  • >>No. 9696

    素晴らしい、

    これこそ、知の王道だ。

  • No.9699

    Re: 記憶

    2012/11/27 08:57

    >>No. 9697

    これも正しいなー。どっちにしよ。

    足して二で割るか。

  • >>No. 4562

    そうだ、そうだ、

    地球温暖化の話と同じようなもんだ。あれは、米・民主党のゴアが煽って政争の具にしてる。

    昔から左翼は、こういう癖があって、なんでも自分の陣営の道具にしようとする。

    理性的でない証拠だ。

    外部からは見え見えなのに、気づかないと思ってる。漫画だ。

  • >>No. 4566

    このへんはまだ、民主党っぽいな。

    批判は差別じゃないよ。差別を人権侵害の意味で使ってるんだろ。

    んなこと言ったら、言論人は皆、人権侵害してることになるべ。

    信仰の場合も同じ。信教の自由というのは、批判・論争を禁じるものではない。

    無風状態の平和主義指向だと、澱んでしまって、しまいに腐る・・

  • >>No. 28

    現代社会は、昔のような親分、子分の関係の思想で成り立ってるわけではない。国民の義務と権利は憲法で決められ、相関関係にある。

    国民であれば、義務を果たすと同時に、権利の享受が認められる。当たり前のことだ。

    現代社会では、国の援助・庇護を受けていない国民はひとりもいない。自分ひとりで生きているものなど、どこにいる。

    すみずみまで、権利・義務の網の中で暮らしている。その網の目のことを社会制度という。

    生活保護も、そのひとつだ。

    社会制度の中で、それを利用して生きていくことの、何が恥ずかしいんだ。

    君も、何らかの制度を利用してるだろ。

    それが恥ずかしいことなのか。

    だったら、日本から、出て行け!

  • >>No. 28

    君たち(多くのものがそうだと思うからそういうのだが)、のものの言い方には、明らかに弱いものいじめ、人権侵害の響きがある。

    そこが、一番の問題だと、僕は言っている。

    いじめ文化に染まってしまった日本人の本音が、そこにある。

    これに異議を挟み、その改善を訴えていくこと。僕の運動、主張の中心は、これだ。

    文句のある奴は、束になってかかって来い!

    ただし、理のある話には、静かに、耳を傾ける。

  • >>No. 3197

    ナントモない、・・・なるほど。

    空の表現としては、これが一番かもしれませんね。

    対象論理でなく,主体の明知であることが、よくわかる・・

  • >>No. 1722

    よーするに、自分がサイコーって言いたいんだろ、お坊ちゃん。

  • >>No. 1725

    全てがどーでもいい、なんでもいい、

    残るは自分のエゴのみ、

    ソーでないの、お坊ちゃん?

  • >>No. 1728

    空というのは、行為的無であって、対象世界の無ではない。

    行為者としての我の否定であって、他人や世界を否定して自分だけ残り、結局、自分が一番、というような甘ったれた姿勢のことではない。

    まず最初に、自己を否定する。

    具体的には、懺悔する、ここから始めなくては、宗教の扉は、開かない。

  • >>No. 1731

    自分でやってみれば、わかるでしょ?

    人に聞くって事自体、とぼけてるんだよ。

  • >>No. 4599

    最後の論文を、苦労して読んだ。

    結論。      おなじ絶対無の弁証法といっても、

    西田の行為的直観は、優等生的な、自己評価の甘い、うぬぼれ的な行為。

    田辺の行為的自覚は、不良少年の、後悔と不安に満ちた、反省的行為。



    哲学の現代的課題という観点から見て、田辺の勝ち。

      

    まだ読んでない本がたくさん出てきて、勉強になった。サンキュウー。

  • >>No. 1733

    コンジョウ の曲がった人 だねー。

  • >>No. 4601

    田辺の文章に、ガツンとくる箇所があったので、夜にでも、引用したい。

    西田の絶対無、ハイデガーの現象学存在論、プロチヌスの発出論をまとめて批判する格好になっている。

    ところが、これがドーユーわけか、イマジン君の「アドヴァイタ」一元論、及び愚氏の「僕ちゃん」一元論に対する批判にもなっている。

    ヒジョーに面白いので、乞うご期待。ただしソートー難解なので、覚悟してもらいたい・・

  • >>No. 4621

    しかし私は,この仰視すべき先生の体系の根底について、はじめから今に至るまで、依然として疑問を抱くことを如何ともし得ないのである。//

    これは、岩波文庫、「種の論理」p365、「種の論理の意味を明らかにす」、の第3章の文章である。以下、全体がわかるように、必要な文を引用しつつ、当トピに関係する側面の説明も交えて、説明する。

    「しかし絶対無が直観せられるならば、それはすでに超弁証法の立場において有として直観せられるのである。決して弁証法的に思惟せられるのではない。弁証法においては、無は常に有の無であって、否定の作用の外にあって直接に観られることはできぬ。

    直観せられるものは常に有である。無を観るとは無を悟ることでなければならぬ。しかし無を悟るとは無として働くことの自覚であって、無を直観することであってはならぬ。

    正当には、無は観ぜられるものではなく行ぜられるものである.自己が無に成りかえって現実即自己として行為することを他にして、無を悟り、その意味において無を観ることはできない。

    行為を直観すれば、それはもはや行為とは言われない。行為が無の統一である限り、その統一は直観せられることはできぬ。」//


    行為は直感され、意識されれば、使い物にならず、ぎくしゃくする、このことは日常よく経験するところだろう。スポーツにおいても、いちいち動作を確認していては、ろくなプレーはできない。行為や活動においては、習ったことを一度全部、忘れることが大事だ。

    西田幾多郎の絶対無の場合、行為的直観によって無が把握されると言われてるのだが、これに対して田辺は、行為において直観など邪魔であって、ひたすら行為に没頭すべきであること。

    及び、それが無の把握である点については、無の把握・理解はただその実践にのみあることを強調する。

    ここで僕は、当トピにおける、種々の悟り談議を想起するのであった。

    ある人は、無とは真空の如き、パーっと何もかも消えてしまう状態であるとのたまい、またある者は、無は世俗諦のことで勝義諦においては、絶対の真理は有と言う意味を有すると弁ずる。

    田辺先生はこれらをいずれも、アンポンタンとして退けられ、真の無すなわち空とは、ひたすら実践、信仰の行、懺悔行にあると、仰せであるぞ。あー、ありがたや、ナンマイダブ・・・

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