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投稿コメント一覧 (1853コメント)

  • >のこりの 5冊 ぼくに ちょうだい!!!

    ここはピラニヤの軍団か?ただだと云えば飛びついてくるけんね。
    まいいか。
    1送料着払い。
    2内容はおまかせ
    3少し時間がかかる。
    以上了解でしたら、住所しらせてちょ。

  • 【後生の一大事】^^の増井悟朗師、今年の夏に亡くなられたそうです。
    無事に【浄土】へ往生出来たのかしらね?

    そうですか亡くなられましたか。ちっとも知りませんでした。
    一遍は浄土に往生して、そこで修行し直し、肉体なき真の

  • 【後生の一大事】^^の増井悟朗師、今年の夏に亡くなられたそうです。
    無事に【浄土】へ往生出来たのかしらね?

    そうですか亡くなられましたか。ちっとも知りませんでした。
    「一遍は浄土に往生して、そこで修行し直し、肉体なき真の悟りをえた後、
    この世に還相して、縦横無尽に衆生を救うハタラキをする」というのが信者さんの気持ちでしょう。まあ信じていなければ信用できませんけどね。
    イエスも還相してハタラキづめに現にハタライテいるのでしょう?

  • 浄土真宗であるなら、「還相回向」もしかるべきではないかという、いささか不用意に増井悟朗師と「還相回向」を結び付けてしまいましたが、華光会は「信心」を前面にたてた教団であったとしか記憶にありません。
    しかし「信心」という言葉は非常にややこしい意味を含んだ言葉ではあります。衆生の方から阿弥陀仏を信ずる、という方向と阿弥陀仏が衆生を信じて
    誓願をたてられたそのお心

  • なんだかなあ。途中で触ったらしい。
    とにかく「信心」は難しい。難中の難。自力で頂けるものでもなく、ボーとしていたらなお無理というもの。ところが「信心」のものだけ往生させるというのであれば、ごく限られた者しか往生出来ない。そこで下々品の者のように「念仏だけでもよい」とハードルをぐーとさげてくだされた。
    所が人は難しいものには挑戦するけれども、簡単なものには挑戦しない性質があるので、この低い低いハードルをだれも飛び越える者がいないのです。
    もったいないこと・・・なむあみだぶつ なむあみだぶつ なむあみだぶつ

  • >親鸞が涅槃経から取り出した「大信心は仏性なり」に至りましたよ。
     

    それは有難いことですね^^
    親鸞聖人も比叡山で大乗仏典を読み込まれ、その時期には取り出していたのでしょうね。しかし比叡山を捨て、法然上人の門に入られて、初めて他力回向の「ただ念仏」に帰依されたのでしょう。「ただ念仏」こそだれでもいつでも超えることのできる低い低いハードルです。掲示板ではいつでもどちらが高いかの背比べですし、足の引っ張り合いに事欠きません。低いと「俺の方がひくい」といって言い争うこともなく、まして足をひっぱることも出来ないではないですか?自力法門が高いハードル、他力門が低いハードル。ふと思いついた譬えだけれど、以外にいけそうに思うのだけれど……。なむ

  • >阿弥陀様だって途方もなく「ねつ造」されたものですからね。

    阿弥陀さまが「ねつ造」とか゜「おとぎばなし」と見るのは、実際に気づきがないからです。あるといえるもの、真実は阿弥陀さまだけ・・・。
    その気づきの一瞬を「信心」をいただいたと言われている。ほんのちょっとした気づき。それ以外なーもいらん。なんかあるとおかしい。

    『大信心は仏性であり、仏性はそのまま如来である。」(信文類)
    一切の衆生に仏性がある。その仏性が如来という意味であり、わが身に
    はたらいている如来に気づいたら二度と忘れることはない。なむ

  • >最近はげんしょうさんまで復帰して真宗を語りはじめたので潮時かと思ってるんじゃが


    オイオイさんねさん、無責任なこと言ってもらったらこまるなア。「破邪劇」の幕をあけたのは「あなた」じゃないですか。とすると下すのも「あなた」でなければ降りない。あなたの如来から頂いた金剛力でてるぜさんをお救いください。私自身救う力のない者がてるぜさんを救うなんど、土台無理な話です。この幕を降ろすのはアナタ……
    ナンマンダブ ナンマンダブ

  • 師曰く
    「横超とは、本願を憶念して自力の心を離るなり、とは聖親鸞の吐いた新注りの叫びである。自力の心、即ち吾々の思慮、分別をはなれることねそのことが他人に法を伝えることに外ならぬ。
     然るにオレが法を説いてやらねば仏法は弘まらない、と思う心で説教すること自体が、如来の自ずからなるハタラキを妨げて弘まる法も弘まらぬようにしてしもうのである。
     説教の売り手も買い手も、心から懺悔して念仏自修の生活に法の弘まる要諦を求むべきであろう。」と。師とはありがたいものである。なむ

  • >>No. 144900

    >他力がどーいうものなのか
    まるで 理解できなかった

    むそーいうことだから


    そーだ そーだ そーだーやのそーださん
    理解、分別をこえてあるもので
    「理解できない」と気づいたことが
    理解したこと。

    あれこれと
    幹が先か、枝があとだとか
    分別しているうちは
    理解していないということ。なむ

  • >>No. 144913

    >きみもしかし 上達したじゃーないか

    指摘が できるようになつたね


    いやいや、おほめにあずかり恐縮です。
    けど君ほどのねばりはない。
    ごくあっさりと。チクリとね・・・。

  • >指摘が できるようになったね


    指摘なら誰でも出来る。テルゼさんがサンネさんを指摘する。
    「魔光教」だと。
    サンネさんが指摘する。
    「ドボン」教であると。
    正確に相手を指摘していると思う。だが当人同志がその指摘をみとめることが出来ない。当然自力の心(われよしとする心)がある限りそんなことは認めることとなんぞ出来ない相談である。とするとその対立は永にわたって続かざるを得ないことになる。
    相手を間違い。自分が正しいという自力の心をほんの少しひるがえしたら、
    そこに広大無辺の自在の世界がひろがっているかも・・・と思ったりしてみるのだが。なむ

  • おひさしぶりです。
    PCの不具合で長文のレスを書いたのですが、投稿拒否されましたので、
    出来るだけ短文にします。

    >自分の念仏の立ち位置を明確にしておいてください。

    よく意味がわからないが。自分の念仏も他人の念仏も違いあります?
    念仏即ちなむあみだぶつ。そうそうあなたは南無不可思義光如来でしたね。


    >テルゼくんの親鸞解釈、評論はゲンショウさんの念仏から見てうけいれられるものなのか?

    テルゼさんの解釈がどんなものかよくわかりませんが、どんな高邁な解釈であろうと、それが念仏によって捨てられるものではないかと思います。


    >自分の念仏の立ち位置を明確にしておいてください!

    意味がよくわからない。自分の念仏他人の念仏の区別はない。誰がとなえても念仏即南無阿弥陀仏。さんえさんは南無不可思議光如来でしたね。

  • >どうぞ貴兄のなむあみだぶつを以て、「破邪」してくだされ。


    呪文じゃないから、他人を呪い殺したり、他人の邪を殺すなんて出来ない相談で、己の我心を殺し、さとりを下さるということではないのかな。


    >この違いを明確にしない共存は差別の娑婆世界ではありえない幻想です。

    まあ違いを明確にするなんて出来るのかねえ。一つのものでも一生かかっても極めるなんて難しいのに、おおくのものを極めつくすなぞ不可能ではないのかな?というよりも、なーんもせんままおおかくの宗教は共存しているんじゃないのかなあ。違いをもったまんま。

  • <私は「ドボン教」であると言われても、一向にかまいませんよ。
    信仰とは帰依する相手にめがけてドボンしなければ
    決して始まらないモノですからね。


    そうですか。ぼくは帰依する相手をドボンさせて、浮き上がってきたら
    足をつかんで引きずり込むものとばかり思っていた。少し違ったかな。


    >あなたも[自分が正しい]なんて処を放棄したら如何ですか(笑)


    一遍は意見として言わして貰います。色んな意見を言い合う掲示板ですよね、ここは・・・。10年も云い続けませんから(笑)

  • >「落ちるのはわが役目、救うのは弥陀の役目」

    そのようですねカズマさん。さすがにスルドイ。
    自分で「ドボン」してしまっちゃ阿弥陀さんの役目を取ってしまうことになる。最後まで「落ちる側の立場」をつらぬかれたから、親鸞聖人を尊敬できるのだと思います。そして「落ちるわが機」と「救う弥陀」の二元対立を対立のまま、横ざまに越えしめる、ということではないだろうか。なむ

  • エッエ―――ッ
    サンネさんが親鸞聖人の生まれ変わりですってー 
    本当ですかー プッ

    笑っちゃいけない。本人が本当にそう思っているならば
    そうなんでしょう。ここに信ずるという事の恐ろしさがある。
    いわゆる信じ込むということね。これがオーム事件の元凶である。
    まあ、生まれ変わりにしては仁徳がありませんね。といえば
    あちこちでアラシくんがわしをはなさないんじゃよ!
    ということになるのかな・・・なむ

  • >この[思い立つ心の起こるとき]が[信じる]であり[ドボン]でしょうね。


    ドボンというても実際にどこにドボンするのか?念仏の中ヤ。
    摂取して二度と捨てられることのない阿弥陀が一体何を意味する言葉なのかはっきりといたしました。気づかせていただきましたということ。見当がつきましたと、それからドボン。


    >これがなくてタダ落ちていても、神も弥陀も助けようがありません。


    神は知らんが弥陀にいかほどのハタラキがあると思うのですか。
    タダ落ちていく者を助ける。救いのない者を助けると誓われたのが阿弥陀様。それは信心なき者の分別です。

  • >この旅人が[どうせいき場が無いのなら白道を進もう]と[決心]したからこそ阿弥陀様と釈尊から[声が掛かった]わけですよね。

    白道を進むというのは念仏相続の生活ということで、二河白道は善導大師の創作です。実際にはいろいろな入り方があり、こうでなければというのは聊か偏狭というものではないかな。念仏そのものが阿弥陀様の声そのものであり、或る時一気に了解するか徐々にわかってくるかもひとそれぞれ。知らないうちにわかることだってありうる。

  • >この決心のないものには二尊の声は聞こえてこないのじゃないんですか。

    称えていて聞こえないということなぞありえないし、なむあみだぶつのほか二尊がいるというのも幻想ではないかな。たから南無阿弥陀仏を聞くよりほかはなーもない。なむあみだぶつ

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