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投稿コメント一覧 (1853コメント)

  • >念仏と信心 どちらが大切か

    信心 これは有名な話である


    有名かどうか知らんが

    親鸞さまは 念仏と信心 ふたつない

    とおおせられている。

    信心ありとも 念仏申さなきなきゃ

    せんないことやで・・・・なむなむなむ

  • >念仏とは信心なんだよ

    おーけー?


    オーケー アリガトサーーーン・・・と  

    信心則念仏 念仏則南無阿弥陀仏

    口を開けてみ名を称える。

    それを親鸞さまは念仏とおさえられている。

    きこえいるなむあみだぶつに

    疑いなんぞビリッとも交わらんぜよ・・・ナム

  • 「破邪顕正という言葉があるが、顕正は破邪であるが

    破邪必ずしも顕正ではない」

    とは師のお言葉であるが含蓄のある言葉である。

    掲示版ではいずれを見ても破邪に余念がないが、

    あまりとりつかれると顕正がどこかえいって

    ヨダレクリのような情けないことになってしまう。

    お他力の場合は凡夫に正義とか真実などはないのだが

    いただいた真実信心は専心専念に讃嘆し続けることが、

    間接的に破邪につながるような気がするのだが・・・。

    だれしもじぶんのこころより

    たにんのこころのほうがわかりやすい

    と12才にして喝破した岡真史くん

    ほんとにそうだよね!!

    よく見える他人を攻撃しあつてどうだというのだ。

    千年続けても終わりはない。

    他人を変えようなんどどだい無理な話で、

    他人を変えるよりも己が変われ。

    そうすれば、自ずと他人も変わる。

    そうではないかえ皆の衆・・・なむなむなむ

  • >浮かんできた思考はそのまま流す=只管打坐<

    人間生きて居る間は思考は限りなく続くし、思考といっても、思う、感ずる、想像するとか多種多様のかたちがまじりあってながれている。
    特に感情の部分はやつかいで、親鸞さんも憎しみ、そねみ、ねたみなどは(命尽きるまでたえず、きえず)ともらしておられる。
    「そのまま流せる」と信じるものは自力聖道を歩み、出来ないとみきりをつけたものが、他力回向の道を歩む。
    言い換えると「そのまま流す」というのは、なんにもせずにそのまま手放すということであり、他力回向の道は、阿弥陀如来をしつかり掴んで手放すことになる。つまり掴むことが手放すことなのである。この場合掴んでいるものははつきりしている。なむあみだぶつ・・・・である。
    ところが自分で流すばあい、本当に流れているのか、流れていると思えば流れているようでもあり、自分自身の判断にゆだねられている。
    ほんとに流れているの?

    「うかんできた思考はそのまま流す」という思考をつかんでいるように
    思えてならないのだが・・・ナム

  • >>「つかんできた思考はそのまま流す」という思考をつかんでいるように思えてならないのだが・・・ナム

    >「思考停止」というのが妄想です。
    「判断」は停止できても「思考」は停止できない。


    「思考停止」という言葉を使ってはいないし、簡単にいえば執着ではないのかなと思っただけである。雑多な思考はすぐにきえていくが、これはとおもうような素晴らしい思考はなかなか忘れられないものである。そして自分には自覚がなくともそれもまた執着。良いも悪いも、美も醜も、善も悪も共に
    離れさせてくださるのが他力回向の南無阿弥陀仏。はっきりと申し上げておきますが、南無阿弥陀仏は呪文でありません。   なむあみだぶつなむ

  • 追伸
       お念仏を  呪文みるひとに
                はなもなし     なむあみだぶつ

  • >>南無阿弥陀仏は呪文ではありません。

    >文をとなえるのが呪文でしょう。
    >「ありがと!」「ありがと!」という呪文だと思います。


    呪文という前提であればそうとも言えるが、お念仏は「称名」と
    いわれています。み名を称える行為を念仏と云い、親鸞さんは此の世で
    最高の行為は念仏であると云われました。「称名は最勝真妙の正業なり」
    (行巻)。そしてなによりも「南無阿弥陀仏」は我々が五感で知ることの出来
    る阿弥陀様そのもののなのです。方便法身の阿弥陀様。疑うことの出来な
    い阿弥陀様が現れたもうのです。信じられませんよねえ。

    (無量寿経)またいはく、われ仏道をなるにいたりて、名声十方にこえん、究竟してきこえるところなくば、ちかふ、正覚ならじ、と。(行巻)

    だから衆生にお誓いになったお念仏で、称えてているのに聞こえなかったらば、仏にはならないと誓われているのです。なむあみだぶつと聞こえているならばそれは仏になられた証拠であり往生の定まっている時である。
    だから念仏は阿弥陀様であり、阿弥陀様のオサトリの表現でもあると
    こう考えるのですが、信じられないでしょうね・・・・なむなむ

    いやいや、久しぶりに勉強させてもらいました。ありがとうございます。

  • >「称名」はインドではマントラといいます。
    真言ともいいます。

    >南無阿弥陀仏は真言(マントラ)です。

    そうですか。勉強になります。けれどあなたは
    >南無阿弥陀仏は呪文だ。
    とおっしっやつたから、私見をのべたまでで、いつの間にか
    「呪文」が「真言」にすり替わっていますね。
    呪文と真言は別でしょう。けれど因みに「呪文」で引いてみると
    現代の呪文の一例として
    「なんまいだぶ、なんまいだぶ」(南無阿弥陀仏からの転用)とあった。
    さすがに現今では縁起の悪いことに出会った時、なんまいだぶと
    称えるひとも皆無だろうけどね。

    けど別段「称名」を漢語で真言や、サンスクリットでマントラと
    きどらずとも「称名」や「み名」で十分に通じると思う。

    頂上にあがればみな同じにしても、歩いている道はそれぞれ違う。
    その違いを出し合えば、参考になる所もまたあるのではなかろうか。

  • >私は仏教学からしての見解を述べたまでです。

    別に仏教学からの意見というほどのことも云っていない。
    ただ「称名はマントラ(真言)である」と云っただけ。
    つまり同じことばを変えてみただけの説明にすぎないので、何も言って
    居ないのに等しい。そんな仏教学の見地から分析てきな意見は、信心の
    世界とはなじまないようだ。特に他力浄土教について、「阿弥陀」とい
    う救主は不可欠である。その不可視の救主の方便法身である念仏の重要さはいうまでもないのです。親鸞聖人はうやうやしく「称えたてまつる」と
    左訓されているほどである。それをいとも簡単に、「念仏はマントラと一緒だよ」と云っても何の意味もないよね。そこに信仰者と観察者の違いが
    ありそうである。
    ということで「念仏とは呪文でも真言でもマントラでもなく、となむあみだぶつ・・・・である」と、言いたい。

  • >仏教学からしてのマントラの意味付け。
    >真宗からしてのマントラの意味付け。

    凡夫が勝手に意味をつけたら、マントラとしての意味はなくなる。
    とんな意味も理屈解釈も付け加えずそのまま聞くのが作法である。
    「よろこびの念仏」という「よろこび」すらいらない。
    ただ念仏の、なむあみだぶつ

  • >要は、信心は同じだが、対象の置きどころが〈自分の内・自力〉か、〈自分外・他力〉かの違いだけである。


    親鸞聖人は自力の心を捨てるということは
    ●自らが身をよしと思う心をすて

    ●身をたのまず

    ●あしき心をさかすしく省みず

    ●人のよしあしと思う心わ捨てて……

                 『唯信抄文意』

    と、自力を抑えておられる。ここからしか地獄一定はうまれてこない。

  • >だからね自力も他力も計らわずに、迎えに来てくれるを信じてね、この娑婆世界で動かずに待つ。


    自力も他力も計らわず待っているならば、お迎えが「ある」か「ない」か
    の判断中止の状態のはず。「きてくれる」と信じることも、あなたの「よしとする」計らい心の表れとみえるのだが・・・・。
    その自力の心は誰の心にも平等にあたえられていて、しかも自分では気づくことが甚だ困難である。「仏を自分の心の中に求める道と、自分以外に求める道(浄土教)との違い」とそのような区分けをされていたが、自分以外に仏をたてる浄土教が、自分の中に潜んでいる「自力の心」を見出し、二種深信
    として掲げたことは不思議な現象に思えるのだが、他の宗派はどうなのかよくわからない。ナム

  • >祖師信仰の心の狭さにはうんざりされられます。


    そうでしょうね! でもね、他力教というのは「帰命」の宗教ではないかとぼくは思ったている。祖師に帰命の仕方を教わり、いきているよき人に帰命の
    仕方を実地に見せていただく。独学の人が万巻の書籍を読み学ぶとしても
    それを身につけることは出来ないのではなかろうか・・・。
    唯円大徳も『歎異抄』序文で
    『幸に有縁の知識に依らずば、争でか易行の一門に入ることを得んや。
    全く自見の覚悟を以て、他力の宗旨を乱ることなかれ』と云っておられる。

    まあ、うんざりを楽しんでいただければ幸いです、と。

  • さんねさんねおひさです。
    >このままを地獄一定も何もなくいただくを純粋他力と申します!


    そうですか。「純粋他力」ですか?「他力」と「純粋他力」とは違いますか。そこんとこよくわかりませんが・・・ナム

  • >tytさんは昔のhnではどなたかな?

    京都にいる時はゲンショウとなのりました♪

    まあそれにしてもpc買い替えて、久しぶりにのぞいてみたら
    まだやっとるんですなあ・・・・なむ
    「去りなされ・・・消えなされ」と。
    何か近々幕のおりそうな話でしてが、わたしは永劫に終わることはないと見ております。「あなた」が去らないかぎり。いや、「あなた」が去ったとしても、「あなた」の中で決着はついていない限り、幕がおりたとはいえないと思う。それほどに「自力の執着」は手強いし、自力によっては如何ともしがたいゆえに、他力の御慈悲にすがるというのが浄土の道ではないだろうか。「しかれば、念仏まふすのみぞ、すえとおりたる大慈悲心にてさふらうべきか云々。」と歎異抄にみえていますが・・・・なむあみだぶ なむあみだぶ なむあみだぶ

  • >無義=空=無執着です!(^^)

    その様ですね。けれども生身の人間にはそれ以外の欲望、執着、自力の心(自らをよしとする心)がある。と言ってもそんなものが対象的にどこかにあるというものでもなく、どこにもないからどこにでも出て来る。そして何にでも化ける。無執着はサトリの立場であり、タテマエとしてはただしいが、生身の人間には、同時に執着をも持ち合わせているのではなかろうか。それを受けにれるかどうかが、自力宗と他力宗の分かれ目になるように思うのです。

  • >京都にいた頃とありますが、今はどちらですか?


    なんまんだぶなんまんだぶなんまんだぶなんまんだぶなんまんだ゛

  • ミッチーくん。
    たしか一度本あげると云ったっけ。よく覚えてるなー。題名はなんだったったかなー。増井五郎さんの本もたくさんあるでよー。ほしけりゃくれーと言ってくれー。

  • >よかよか 後生の一大事の本家のようなところかもしれないな


    みちお君 増井吾郎師の本確かに届きましたね。よかったよかった。
    こんな風に「即」の時に届いてとしまう不思議は信心をいただいたものしか
    わからないんだね。本は完全に彼のもとに届き終わったのである。
    その上に、本を梱包し、くろねこに持って行くなんどは、もはや蛇足というほかない。
    みちおくん 一冊200円にしとくから、5 冊で1000円送金しておいてくれたまえ。なに 送った それはありがとう

  • >増井吾郎じゃなくて、増井悟朗やんか^^

    失礼しました。実は華光会にも通ったこともありますが、一年ほどでやめました。その後東京に念仏道場のあることを知り、今に至っています。華光会は「信心」ひことすじで「念仏」はほとんどとなえません。よつてたかって
    信心をとらせるなんどということは、何か集団催眠ににたものを感じやめた記憶があります。その時に買った本が十冊ほどありますが、ぼくもあまり記憶に残って居ません。まあ「信心」なんてないのでしょうね。なむあみだぶつの声をいただき通しということですか。なむあみだぶつ

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