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No.4059
●またいわく、いわんやわが弥陀…
2019/01/27 13:14
●またいわく、いわんやわが弥陀はな(名)をもてもの(物)を接したまう。ここをもて、みみにきき、くちに誦するに
無辺の聖徳識心に覧入す。ながく仏種となりて、頓に億劫の重罪をのぞき、無上菩提を獲証す。
まことにしんぬ、小善根にあらず、これ多功徳にり。 (行巻)
●円融至徳嘉号は、悪を転じて徳をなす正智。
難信の金剛の信楽は、うたがいをのぞき証を得しむる真理なり、と。 『教行信証』総序
●すべての行は仏とともにあり、この上ないさとりの身を得るのである。 (真仏土巻) -
No.4058
●この如来の尊号は、たたえ尽く…
2019/01/27 12:55
●この如来の尊号は、たたえ尽くすことも、説きつくすこともね思いはかることもできないものであって、
すべてのものをこの上なくすぐれたさとりに至らせてくださる大いなる慈悲のお心のあらわれた誓願の名号
なのである。 『唯信鈔文意』
不可称 不可説 不可思議の誓願の名号であり
ことばにあらわすことも出来ないおさとりを
あえて「六字」にまでけずりにけずつて
凡愚にわかりやすく成就してくだされた
というところに
言葉にいいつくせぬお慈悲が
こもつています。
なむあみだぶつ -
No.4057
「知らなくとも限りなくおおきな…
2019/01/27 12:43
「知らなくとも限りなくおおきな利益を得させてくださる」
●名字を称すれば、念の中においてかの阿弥陀仏および一切の仏等をみたてまつる。 (行巻)
●あらゆる功徳をまどかにそなえたその名号は、往生のさまたげを消し去り、疑いの心を除いてくださるのである。
『浄土文類聚鈔』
●仏に無量の功徳います。仏の無量の功徳を念ずるがゆえに、無量のつみを滅することをえしむ、と。
(行巻) -
No.4056
「知らなくても限りなくおおきな…
2019/01/26 11:43
「知らなくても限りなくおおきな利益を得させてくださる」
「得た」かどうかわからなければ
「得た」とはいえないし、
「得させてくださる」というみ言葉も
納得することはできないというのも常識である。
しかし
「知った」「知らない」もわたしの分別の問題である。
無始いらいこの「分別」に呪縛されて生きて来たわたしの、
その「分別」から離れさせて下さるという
「おおきな利益」である。
不可思議の利益ともいえる。
の人間の知能では理解できないおおいなる利益を
一度はしらされることがあるが、
それは「ある」「なし」をこえた不可思議のせかいのことがらで、
「得た」にとらわれると執着に変質するという
ドツボにはまる危険性がある。
「おれは信心決定した」とか
「おれはサトッタ」とかを連呼している配は
みなこのドツボから叫んでいるとみて間違いない。
親鸞聖人も釘をさしてくださっている。
「阿弥陀仏は自然のやうをしらせんれうなり。この道理をこころえつるのちには、この自然のことは、
つねに沙汰すべきにあらざるなり。つねに自然を沙汰せば、義なきを義とすいふことは、なを義のあるに
にたり。これは仏智の不思議にてあるなり」と。
「得た」を繰り返すと、
なにか「得る」ものが確固として存在しているような
錯覚におちいる危険があるということで、
「ある」「なし」を超えた不思議から
遠ざかることになるということであろうか?
人間に記憶装置があるかぎり
なかなか忘れることもできないが、
忘れないままに念仏申すと
いつのまにかなむあみだぶを聞くばかり。
自ずと分別をこえしめられて
なむあみだふつ -
No.4055
「求めなくても必ずこの上ない功…
2019/01/26 10:46
「求めなくても必ずこの上ない功徳を得させてくださり」
「知らなくても限りなく大きな利益を得させてくださる」
とは常識ではかんがえられないことである。
求めるものを求めるから
それが得られたかどうか解る。
求めないで得させてくださるとは、
もとめる以前に得させてくださつている、
ということになるようだ。
つまり「浄土」というのは「わたし」をこえた場所で、
「ほたし」が知り理解しているところは
いまだ「其処」ではないということになる。
だから
「わたしは往生した」というひとは
往生していないわけで、
往生する「ひと」がどこにもいない
ということが「往生」している
ということになるようである。
蓮如上人は
「得たとおもうは得ぬのなり。
得ぬとおもうは得たのなり」
と言われたが村田和上は
「得たとおもうは得ぬのなり、
得ぬとおもうも得ぬのなり
ハハハハハ・・・」
と笑いとばされたが、
「得た」も「得ぬ」も
二つまとめて両断されて笑いとばされた。
わたしを超えたご利益は
ただ頂くばかりなり。
なむあみこだぶつ なむあみだぶつ なむあみだぶつ -
No.4054
如来の本願を信じ、ひとたび念仏…
2019/01/26 10:19
如来の本願を信じ、ひとたび念仏すれば、求めなくても必ずこの上ない功徳を得させてくださり、
しらなくても限りなく大きな利益を得させてくださるのである。つまり自然にさまざまなさとりを
ただちに開く法則だということである。
『一念多念文意』 -
No.4053
願力成就の報土には …
2019/01/25 11:09
願力成就の報土には
自力の心行いたらねば
大小聖人みなながら
如来の弘誓に乗ずなり
『高僧和讃』
阿弥陀さまの建立された報土には
自力の行者にはいたることができない。
たとえアマゾンに注文してさまざまな経典解釈を理解し、
さとったつもりのエセ覚者も
長年の行のすえに覚った覚者も、
あのひとはほんとうに人柄のいいひとだと
近所で評判の聖人も
全国的に名をはせたおこない正しい大聖人も
どれもすべて阿弥陀さまの報土には
往生できません! !
それはすべてのものをこの上なくさとりに至らせてくださる
大いなる慈悲のお心のあらわれた誓願の名号に
乗られていたたくことによつてのみ
成就されるのです。
なむあみだぶつ -
No.4052
この如来の尊号は、たたえつくす…
2019/01/25 10:50
この如来の尊号は、たたえつくすことも、説きつくすことも、思いはかることもできないのであって、
すべてのものをこの上なくすぐれたさとりに至らせてくださる、大いなる慈悲のお心のあらわれた誓願の
名号なのである。
『唯信鈔文意』 -
No.4051
しかれば名を称するに、よく衆生…
2019/01/24 11:19
しかれば名を称するに、よく衆生一切の無明を破し、よく衆生一切の志願を満てたもう。称名はすなわちこれ
最勝真妙の正業なり。正業すなはちこれ念仏なり、念仏はすなわちこれ南無阿弥陀仏なり。南無阿弥陀仏は
すなわちこれ正念なりと、知るべしと。
『教行信証』行巻 -
No.4050
仏にしたがい、はからいを離れて…
2019/01/22 11:17
仏にしたがい、はからいを離れてさとりの世界に帰る。さとりの世界とは阿弥陀仏の浄土である。煩悩の汚れが
なく変わることのない真実の世界である。すべての行は仏とともにあり、この上ないさとりの身を得るのである。
(法事讃) 『教行信証』真仏土文類
行は仏とともにあり
行ずることにより
仏に摂取せしめられ
さとりの身を得るという不思議が
わが身におこる
それを
念仏成仏是真宗とのたまう
なむあみだぶつ -
No.4049
専修とは、本願の名号を二心なく…
2019/01/21 11:26
専修とは、本願の名号を二心なくただひとすじに称えることである。
「修」は心が定まっていない状態をととのえ直して念仏するということである。「専」は「もっぱら」ということ
であり、一つということである。「もっぱら」というのは、念仏以外の善を修めたり、阿弥陀仏以外の仏に心を
移したりすることがないのをいうのである。
『一念多念文意』 -
No.4048
「横超」とは本願を憶念して自力…
2019/01/21 11:20
「横超」とは本願を憶念して自力の心を離る。[専修といふはただ仏名を称念して自力の心をはなるる]
これを横超他力と名づくるなり。これすなわち専の中専、頓の中の頓、真の中の真、乗の中の一乗なり。
これすなわち真実なり、すでに真実行(行巻)のなかに顕しおわんぬ。
『尊号真像銘文』 -
No.4047
にかにいはんや、十方群生海、こ…
2019/01/20 20:19
にかにいはんや、十方群生海、この行信に帰命すれば摂取して捨てたまはず。かるか゜ゆへに阿弥陀となづけ
たてまつる。これを他力といふ。ここをもて龍樹大師は「即時入必定」(十住毘婆沙論巻五、易行品)といへり。
曇鸞大師は「入正定聚の数」(論註巻上)といへり。
あふいでこれをたのむべし、もはらに行ずべきなり。 (行巻)
行信とは行を信じることで、
信じるとは称えること。
大行とは非行で行ではないけれども、
行を通じて行によって非行ならしめられる。
「ただ念仏して」にならしめられる。
そこに如来の願力のはたらき場が
あたえられているのを
ぼんやりと感じるのです。
なむあみだぶつ -
No.4046
まことに【わたし】という代物は…
2019/01/18 18:00
まことに【わたし】という代物はどしぶといしろもので、
自分でなんとか出来るしろものではないと
きづかれたから「他力」に帰命するという
浄土の真宗というものがあらわれてくだされた。
自力聖道門とはたとえてみれば、
一本のひもを両手で持って
自分を引き上げようと力いっぱい引き上げようとしているみたい。
そこに「他にたよる」帰命するという
新しい視点が導入された。
「たよる」ことが同時に
「はなれることである」という転換であり、
「行」の重要性である。
五体投地ということばでいわれたが、
「行」とは実際にこの身を動かすということであり、
頭の中で「滝にうたれているイメージ」をうかべても、
それは「行」ではなく脳内イメージである。
念仏行とは私にも聞こえ
他人にも聞こえる「音声」をだして
称えることである。
この「行」と「不行」の差は実際に称え続けることによって、
おのずから「行」によつて選捨されてゆく。
なむあみだぶつ -
No.4045
ともかくも私というものが虚偽で…
2019/01/18 17:34
ともかくも私というものが虚偽であり、輪転であり、無窮であることは間違いないと知ることができる。
その時私たちに五体投地ということが起こります。いままで不信を本質とする私をたて、その上に真も偽も
正義をも悪をも立てていた。その一切が虚偽の相をもって見抜かれるわけです。そういう行為として顕れた
ものが、虚偽としてくつがえされる。それが行為として顕れたのが五体投地ということです。
五体を投げ出す。それを別のことばで表したものが「帰命無量寿如来」の「帰命」ということです。
以上引用おわり -
No.4043
それを離れるということが助かっ…
2019/01/17 20:21
それを離れるということが助かったという意味です。しかし離れるといつても、離れようと思って離れるものでは
ありません。嘘だとわからないかぎり離れることができないのです。これはたいへん骨が折れることです。
私を元にして考えながら、私を離れるということはできる相談ではないのです。 -
No.4042
曇鸞大師は、この三界はどういう…
2019/01/17 20:13
曇鸞大師は、この三界はどういう相であるか、どういう姿をしているかについて三つの相を出して、一つは虚偽の
相、二つは輪転の相、三つに無窮の相であるといっておられますか。
われわれが私を保つために他のものをたよる、頼みにするということの意味は、本質的に私が私を信じられない
ということにあります。それは虚偽の相です。
立てた以上はそれを立て続けなければなりません。私にとって一番致命的なでき事は私が無くなっていくという
こひとです。だから私というものを無すわけにはいきません。ちょうど輪が転がっていくようなもので、転がる
には立っていなければならないし、立つためには転がらなければならない。そういう姿が輪転の相です。
そしてもっとも恐ろしいのは、それが終わることが無いという無窮の相です。 -
No.4041
したがって、私はどこまで行って…
2019/01/16 11:34
したがって、私はどこまで行っても満ち足りることがない。なぜならその「私」について私ははじめから不信を
抱いているのです。外をどれ固めようと、何を杖にしようと、根本のところが不信になっているから、私が充実
する、私が満足するということは永劫にあり得ないのです。そういうわれわれの私という構造わ見破って、私を
離れるというところに、われわれが求め続けている満足なり充実が可能になるのです。
不信を本質とするような私を固めたり真実のように見せかけたりするのではなしに、光明、寿命といわれるものを
もって自己自身とする。そういう自己の実現を「帰命無量寿如来」「南無不可思議光」ということばでお述べに
なられたのです。 -
No.4040
私たちは、ともかくも生きて満足…
2019/01/16 11:19
私たちは、ともかくも生きて満足したいということを思って生きています。乱暴な言い方をすれば、私が満存する
ためなら使えるものは何でも杖にし柱にし網にする。逆に言えば、そのことはいかに私というものが頼りない
ものかということです。そしてそれは、そういうものを頼りにしなければならないほど、私は私を信じていない
ということであります。われわれの「私」というものは、はじめから不信の上に成り立っているのです。

●ただ仏名を称念して自力の心を…
2019/01/27 13:43
●ただ仏名を称念して自力の心をはなるる。 (化身土巻)
●善とも悪とも、浄とも穢とも、行者のはからいなき身とならせ給いて候えばこそ、義なきを義とは申すことに
候へ。 (善性御消息)
ひとつをふたつにみるのが迷い。
ふたつをひとつにみるのがさとり。
誓願は迷いの凡愚に照準がさざだめられて
わたしとほとけふたつない
というさとりの立ち位置ては
弥陀にたよる帰命はなりたたない。
み名を称え聞くことが
おのずからわたしとほとけとが
南無阿弥陀仏にならしめられるという
み名そのものの功徳によつて
二辺をこえしめられるという不思議が
当来する。
「知る」ばかりではなく
その身に「ならしめられる」ということが
法則のように自然にならしめられるという
不思議がわたしに至るのである。
なむあみだぶつ