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No.196510
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2018/11/10 21:39
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☆ お浄め 田村隆一 の「祈り」
9
心が死んでしまったものなら
いくらよみがえらせようとしたって
無駄なことだ
彼を復活させるために
どんな祭式が
どんな群衆が
どんな権力が
どんな裏切り者が
どんな教義が
どんな空が
どんな地平線があるというのか
たぶんブリューゲルだったら
重力よりも重い色感で
大きな木を黙々と描いたかもしれない
空白をつくるためだ
空白によってしか答えられないからだ
空白の遠近感がどうしても欲しいからだ
空白にリズムをききたいからだ
ところで
行方不明になってしまった心なら
あっさり埋葬するわけにはいかない
死亡認定書も
火葬許可証も
偽造するのにぞうさはないが
心を偽造するわけにはいかない
たぶんモーツァルトなら
一本のフリュートがいるだろう
一本のフリュートの木で
巻き毛の少年は旅に出るだろう
一本のフリュートで
あらゆる生きものの国々をさまようだろう
あらゆる渇きから
少年は単一な夢をさがし出すだろう
たぶんミロなら
単一な夢に
単一な色彩をあたえるにちがいない
単一な色彩から奔放な線がうまれ
やがて線と線とが交叉し
点と点が共鳴し
ある中心にむかって
豊饒な領土を描き出してくれるにちがいない
あらゆる生物が生れ
あらゆる生物が死んでいった
黒い土
黒い土はおもいきり翼をひろげ
空と地平線を分割するにちがいない
ときには
驟雨がくるだろう
あるいは雷鳴もともなうだろう
稲妻が空間をつらぬき
無数の海豚は交接し
巨大な鯨は虹の潮を吹くだろう
しばしば
象牙海岸に貿易風がおくりこまれ
アンリ・ルッソーの
暗緑色の樹木が繁茂するだろう
東方にはまだ名づけられない星がきらめき
その光りが地上に達するまでに
ヨハネの
ジョン・ダンの
ボードレールの
マラルメの暗喩がうみだされるだろう
これらの暗喩によって
数億の日と夜はわかれ
数万の日と夜は調和と秩序をもち
おお
僕の心のなかでは
四千の日と夜が戦うのだ
4
針一本
おちているところ
光りはどこからでもくる
闇は野鳩の声のなかに
蛇の華麗なデザインのなかに
桜岩観音の手のなかに
ある
3
角笛から
ホルンへ
ブロックフレーテから
フリュートへ
楽器の歴史は光りと闇のもの
行方不明になってしまった心の
空白へ
モーツァルトからドビュッシーへ
角笛から
ホルンへ
ブロックフレーテから
フリュートへ
2
光りはリズムへ
闇は器楽的形態へ
心を追いつめるのだ
猟師が獲物を追うように
飢餓が野獣を追うように
1
針一本あるところ
沈黙がある
( 詩集 『 腐敗性物質 』田村隆一「恐怖の研究 9 」 )
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No.196520
. (どこかからのコピペ) …
2018/11/11 07:29
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(どこかからのコピペ)
【キリスト教「三位一体」批判】
「三位一体」は「三存一在」
「日本基督教団信仰告白」では、「主イエス・キリストによりて啓示せられ、聖書において証せらるる唯一の神は、父・子・聖霊なる、三位一体の神にていましたまふ」と言われていますが、自然啓示・一般啓示を排除し、特別啓示、それもキリストのみに限定しています。これは偏向した「キリスト中心主義」にほかなりません。そして、「三位一体」という定式自体、比喩です。
<「キリスト論的称号」を用いたイエスの位置づけばかりを強調すると、キリスト教にとってもっとも重要なのがイエスであるかのような誤解を生じさせてしまう。キリスト教の運動にとってもっとも重要なのは、もちろん神であり、そして神と人の関係であるところの「神の支配の現実」である。これとの関係で地上のイエスは一つの役割を果たしただけである。(中略)また「キリスト論的称号」を用いたイエスの位置づけに限らず、イエスを不用意に重視する立場はキリスト教の流れの中にさまざまな形で生じている。いわゆる「キリスト中心主義」(christo-centrisme)である。そして、イエスの重要性があまりに強調されているために、「キリスト中心主義」がなぜ問題視されねばならないかさえ分からない指導者も少なくない。>(加藤隆著『一神教の誕生 ユダヤ教からキリスト教へ』〔講談社現代新書〕255~256頁)
私見では、「日本基督教団信仰告白」の起草者である北森嘉蔵氏が自画自賛に満ちた「解説」で言われている「キリスト論的三位一体論」なる考えこそ、その「キリスト中心主義」の表れではないかと思われます。
「本来一つであるはずの神が異なる三つの姿をとるということは、キリスト教を多神教の方向へむかわせていく要因となっていきます。しかも、この世界を創造したとはいうものの、直接世界に働きかけてこない父なる神は、後景に退いていかざるを得ません。それに代わって前面に出てきたのがイエス・キリストです。(中略)聖霊にかんしては、後のキリスト教美術では、鳩など特有のシンボルで表現されることになりますが、基本的にはっきりとした形をとりませんから、ますますイエスが前面に出てくることになりました。」(上掲書 p103~105)
<新約聖書の中では三位一体論は、神・キリスト・聖霊の三位がその本質においてひとつであり、超越者のあり方においては三であるというような、定式的表現を得てはいない。ただ信徒への祝福の形で「主なるイエス・キリストの恵みと神の愛と聖霊の交わりとがあなた方すべてとともにあるように」(Ⅱコリ一三13)と述べられているだけである。>(八木誠一著『パウロ』〔清水書院〕p190~191)
「三位一体の神・・・この神観は、確かにキリスト教に独特のものであるが、イエスは夢にだにこういう『展開』を考えたことはなかった。こういう議論は、あの時代特有の文化史的背景のなかで、特定の意味を持っていたものにすぎず、それを実体化・永遠化・形而上学化することは、ほとんど迷信的であろう。」(高尾利数著『キリスト教を知る事典』〔東京堂出版〕212頁)
(キリスト論論争、三位一体論論争の意義」について・・・)「これは本来、実体論的な論理によって解決などできる類いのものではなかったのだ。それを実体論的な論理によって遂行しようとしたから、『わけの分からない』議論に響くのであろう。この論争は、古代のあの時期にのみ一定程度の意義があったものであり、その議論をそのまま現代にまで持ち込んで、あの時代の言語表現のままに無批判に受け入れろと言われても無理なものである>。そのことを認識しなければ、キリスト教は本当には現代世界において妥当する宗教ではありえなくなるであろうと思う。」(同上書、60頁)
福音書に証言されているイエス・キリストの言動から示されることは、キリスト教は民衆の宗教であってエリートの宗教ではないという事実です。民衆の宗教である以上、「啓示」は一般信徒にも理解できるものであって然りです。たしかに聖書の中には難しい箇所もありますが、それを平易に説明して要点を把握せしめることが説教者の役割です。聖書の内容も「民衆の神」の「啓示」である以上、信仰生活に必要なことは一般信者が理解できるようになっているはずです。その点で、一部の神学者の頭でしか理解できない「三位一体」などというドグマが「啓示」から生じているはずはなく、人為的に作られたもの、一つの解釈に過ぎないということは明らかです。もちろん、わかりやすければよいというわけではなく、「異端」とされた「三神説」または「様態説」なども「啓示」に根ざしているとfは言えません。「啓示」から導き出される「三・一」の関係とは、「正統」を自認する人々が、結局は「秘義」だの「神秘」だのと言って思考停止させる不可解な言説などではなく、イエスという人が聖霊に満たされ、その送り主である創造主なる「神」を「父」(アッバ)と呼んで親しく交わり、その関係の中に人々を招き入れようと働かれた「神の国の福音」宣教から示される「神(父)、イエス(子)、聖霊」に尽きるのであり、実に簡単明瞭、誰にでもわかることです。そこに複雑怪奇な、「位格」(ヒュポスタシス/ペルソナ)だの「実体・本質」(ウーシア/スブスタンチア、エッセンチア)といった哲学的概念は無用なのです。
「『ヨハネによる福音書』(10:30)にある『私と私の父とは一つである』というイエスの言葉は、決してカルケドン信条が言うような本質での一致を語っているものではなく、自分は父の意志をこの地上で実践しているのだから、自分が行い語っていることは父の意志そのものである、というイエスの主張なのである。従って、私は三位一体論も、父なる神、イエス・キリスト、聖霊の三者を信じていればよく、(聖書には元来存在しない信仰なのだから)本質的な一体を信じる必要はない、と言っているのである。」(~野呂芳男)
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No.196539
. ☆ お浄め 谷川俊…
2018/11/12 00:01
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☆ お浄め 谷川俊太郎 の「祈り 」
「 水の輪廻 」
1苔があり
心があつて
永遠に
時は余つて
2滴りは
吃りつづけて
雫に乗つて
行く彼岸
3穴に穿(うが)つ
穴を穿つ
好色な指は
見えない
4腑抜けた間
また間
また間に
鬼も
蛇も出ぬ
5うじゃうじゃけた足裏に踏む地の衣
6地下水にこもる呻きははねつるべ
はねてもはねてもとどかぬ後生
後生後生だ水を呉れと
水争いに流す血は
溺れて溜って淀んで滲みて
取った水田に誰が居る
水神(みずち)か靄々(もやもや)
水泡(みつぼ)か 靄々
それとも泣きの涙の土一揆
流す涙も水の泡
あることないこと水に流して
今日はめでたい水祝
流れ灌頂(かんじょう)の白旛に
流れたややこがしがみつき
めぐりにめぐる水車
7絞る絞りつづける
微笑の絹が汗の木綿を
水くさい水くさいと
水腹までも絞る
水牢で水責めに責め
吐かした胆汁
萎えふぐり何の秘密もないままに
腹ふくらせて死ぬ水呑の
とろうとろう死水とろう
水鏡にうつる昨日今日明日
河骨の親子代々
流れながれて
8かりそめのH2O
水とは何か
この水そのものというものは
歴史から洩れ
比喩から滾(こぼ)れ
精神から溢れ
とりとめもなく
にじんで湧いて
汚れたコップの中の日向水が
渇きをいやしてしまうので
私は水平線を跨ぐことができない
9生娘が
口漱(すす)ぐ泉
朝露に映る
三千世界
10ねじれるタービン
老いる三角州
揺れる水母(くらげ)
単細胞
( 『 未刊詩篇 』)
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No.196543
. . …
2018/11/13 00:14
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☆ お浄め terzet2 の「祈り 」
「宗教体験から信仰へ」
全部引用したくなりますが、発明さんなら全部興味深く読んで下さると思います。^^
【ちょう ど、赤ん坊が自分の運命をすべて母親に任せきって生きているように、一人の赤子の ようなものとして、我々は宇宙の中にある166」という実感が、宗教体験の内実である】
この大峯氏の言葉が、私達の宗教の原点だろうと思います。
発明さんは、脳内で【神仏】を作り出すのだとお考えですが
作り出すのでは無く【体験】で知っていくのです。
そのような【体験】をしたものが「宗教」を興して行くのですね。
その開祖のいう言葉を、私達は【信じて】求道していくのです。
その祖の「言葉」だけを【信じる】処で終わってしまう人達がまあ殆どなのでしょうが
中には、次の段階まで進んで自らが「神仏」(宇宙)と一体感を持って
覚醒していく人達もいます。
阿弥陀様を信じれば、神は阿弥陀様の顔で
イエス・キリストを信じれば、神はイエス・キリストの顔で
その人の前に現れてくださいます。
しかし、やがては親鸞の言うように「色も形もない無上仏」として
【真理】を得る者となりますね。
イエス・キリストも消え、阿弥陀様も消え^^
神(宇宙真理)と一体になった自己こそが【真の自己】なのだと・・・
禅は、仲介者(イエスや阿弥陀仏)の様な存在を必要とせず
その【回り道】を廃して、直に【宇宙真理】へと繋がっていきますね。
結果的には、同じ処に至るのですね。
●我ら凡夫には「仲介者」が居ると考えるのが
浄土教やキリスト教ですね。
私達は、常に【宇宙真理(神)】から、呼びかけられている存在なのです。
それに【気づき】【応えていく】事が、私達の信仰なのですね。
神は、誰でも平等に救いますけれども
その【救われている】という【確認】が持て
【確信】出来るのが信仰者なのです。
私達は【宇宙のデラシネ】ではない、
ちゃんと【神と臍が繋がっているのだ】という確信ですね。
それが信仰です。 (過去ログから)
https://textream.yahoo.co.jp/message/552019920/8187fda367708f4b5aad38483089140b/1/1481
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No.196548
. [問]キリスト教…
2018/11/13 06:12
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[問]キリスト教の人だけが救われるのか。
この問いかけは、よくあります。キリストを信じる者だけが救われるのなら、他の宗教を信じている人はどうなるのかと。
ここで、救いとはどういうことを指しているのか、その意味をはっきりさせておかないとそれぞれが救いという意味を勝手に使っていたのでは、この問題も正しく扱うことができません。
★【キリスト教でいう救いとは何かを考えるまえに、人間とはどういう実態を持っているかを知る必要があります。
例えば、正しいことを常に行うことができるか、自分の生活、職業の場、友人たちとの関わりにおいて自分の利益とは関係なく正しいことをつねに行ったり、言ったりできるか、また、戦前のように、国全体がまちがった戦争に駆り立てているとき、それを見抜くことができるか、見抜いたとしてその誤りを命がけで発言したりできるか、純粋な愛をだれにでも持つことができるか、ことに病人、老人、死が近づいているような重い病人、ハンセン病とか重い皮膚病で外見でも目をそむけたくなるような人に心からの愛をもって近づけるか、また、自分の悪口を言う人、敵対する人、陥れようとする人をも愛してその人たちのために心から祈ることができるか、朝起きてから、夜床につくまで、ずっと真実なもの、他人の幸いなどを願いつつ生きていけるか、嘘を言うのはよくないとは誰でも知っているが、真実を通すことができているか、病気や苦しみのときにも、どんな苦しみがあっても、いつも堅固な希望をもって前進できるか。】★
このような事実を考えると、人間はきわめて不信実で、愛がなく、もろいもの、頼りないものだとわかります。ことに、どんなに学問や、芸術、あるいは仕事に有能、スポーツなどができる人であっても、正義は伴わないことが多いし、すでに述べたような弱い者、醜い者、敵対する者への愛などというのは、それらとは何の関係もないのです。学問や芸術、スポーツができるからといってすでに述べたような愛があるなどとはだれも考えてはいません。
★【こうした人間の弱く醜い本性がある限り、人間には本当の幸いは有り得ない、だからそのような人間の根本的な本質を変えることこそ、真の幸いなのだ、それを受けることが救われるということなのです。】★
このいわば当然のことのために聖書という本は記されているし、キリストはそのために来られたし、十字架にかけられたのです。
★【ですから、キリスト教以外の人でも救われるのかという問は、キリスト教以外でもそのような人間の本質を変えることができるのかという問でもあります。】★
たしかに仏教でもとくに、鎌倉時代の法然、親鸞、道元、日連などといった人たちの生きた姿、あるいはその書いたものなどを調べるとき、じつに真実な生き方をしているのがわかります。これらの人たちのあとに出来た宗派とか大きい教団は、人間的な権力や金の力が入り込んだりして彼らの信仰的な真実をもみ消しているところがあります。
このことを考えると、たしかにキリスト教以外でも人間を変えることができてきた宗教もあると言えます。
そしてキリスト者であると口では言っていても、変えられることなく信仰なき人と同じような状態の人もいます。
聖書はこうした問題をどのように見ているだろうか考えてみます。
まず、自分でキリスト者である、といっているからと言って、あるいはどこかのキリスト教会に属しているからとか、洗礼を受けたからといってそれで救われているとは限らないことです。それは、主イエスはつぎのように言われたからです。
★【「主よ、主よという者がみな、天の国に入るのではない。天の父(神)の御心を行う者だけが、入るのである。」(マタイ福音書七・21)
とすれば、天の国に入れるかどうか、すなわち救われるかどうかは単に、言葉で表面的に主よ、主よと言ったり、教会に属しているとかではわからないのです。父なる神の御意志を行っているかどうかによって、神が決めることなのです。】★
ですから、他の宗教でも、キリスト教を知らないままで真剣に真理に従って生きようとしている人は、それが神の御心にかなう程度に応じて神が救いを与えることでしょう。
しかし、キリストのことを知らされているにもかかわらず、それより内容の低い宗教にあえて属していようとするならば、それはなぜなのか、その理由が神によって問われるでありましょう。
宗教は決してみな同じではありえません。その内容に当然のことながら、真理が完全に含まれているもの、真理の一部が含まれているもの、真理がないものなどいろいろとあります。
例えば、オウム真理教や、集団自殺したような新興宗教などもありますし、戦前のように天皇を現人神とする宗教、統一協会のようなまちがった宗教もあります。また、文化の進んでいない国には、かつて人間を生きたまま殺して捧げる風習をもっていたような宗教もあります。そのような宗教が救いを与えるというのは考えられないことです。それは神の本質である真実や愛、正義に反するからです。
真理の度合いがどれほどか、それはやはりその永遠性と、普遍性によって客観的に知ることができます。その点では、キリスト教は、二千年の長きにわたって、全世界にあらゆる状況にある人間をその信徒としてきたのです。真理の度合いは群を抜いて高いといわざるを得ません。
キリストが「私につながっていなければ、投げ捨てられて焼かれる」と言われたので、キリストを知らなかった昔の人も、現代のキリスト者以外の人も、いかに真実に生きた人でも、クリスチャンだと自称する人以外はみんな同じように滅びるのだと主張するような人もいます。
しかし、神の愛や真実はそのような性格のものとは到底思えません。単にキリストの名を知らず、従って信じていなかったといって、悔い改めもしない人殺しや裏切り者たちとともに、闇に投げ込まれて滅びるということは考えられないことです。
このキリストの言葉の意味は、キリストによって完全に表された真理につながっていなければ、最終的には滅びるということです。ギリシャ哲学や、仏教などにも真理のある部分があるはずです。それはキリストの本質のある部分ともいうことができます。
ですから、ソクラテスやプラトンのような真理を求め続けた人、あるいは真実な仏教者などであっても、キリストを全くしらなかったという、ただそれだけで闇に捨てられて滅びるというのでなく、彼らは真理そのものであるキリストの真理のある部分を示されてその真理に忠実に生きたゆえに、神がそのことを見られて何らかの救いに入れられると思われます。
しかし、私たちは、そうした他人の救いについては、確実なことは分からないのですから神にゆだね、私たち自身の救いの確信を与えられることが必要です。そしてその確信を他に知らせることによって他の人の救いがなされるようにと心から願うものです。
http://pistis.jp/textbox/hodos/txts/toki/tosyadakega-01-5-4.html -
No.196588
. ☆お…
2018/11/14 01:16
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☆お浄め C・H・スポルジョンの「 祈り 」
祈りは人の力、まさに人の呼吸、存在そのもの
祈りは恵みの戸を受け入れる黄金の鍵
祈りは摂理を受け入れる不思議なことば
祈りは全能の筋肉を動かすしなやかな神経
それゆえ祈れ、ああ人よ、あなたの必要は多いのだから
あなたの思考、分別、存在、必要は
あなたを祈りに向かわせる
祈りはあらゆる思い煩いの解決法、あらゆる苦しみの万能薬
疑いを打ち壊し、荒廃をいやし、あらゆる心配を消し去る
”説教のプリンス”こと、チャールズ・ハッドン・スポルジョン(1834~1892年 英国)。
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No.196649
> >今日はサイクリングに行く…
2018/11/15 22:52
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No.196651
うす紫の花はノコンギクかな …
2018/11/15 23:00
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No.196655
また mic*****さん。 …
2018/11/15 23:17
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No.196657
> また mic*****さん…
2018/11/15 23:23
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No.196658
. 「サクラメント…
2018/11/15 23:25
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「サクラメントとは何か」
現代における神学の流れに大きな影響を与えたのは、「現代神学の父」カール・バルトのサクラメント論だ。
カトリックには、7つの秘跡・・・・サクラメントがある。神の恩恵を信徒に授ける儀式で、救済を保証するためにキリスト教徒が行う大切な儀式だ。
①洗礼
②堅信・・・・洗礼を受けた後に聖霊の力の恵みを授かる。
③聖餐・・・・ブドウ酒を飲み、パンを食べる。
④告解・・・・罪を告白して赦しを得る。
⑤病者の塗油・・・・病人をいたわり油を塗る。
⑥叙任・・・・聖職者を任命する。
⑦結婚
プロテスタントでは、このうち①と③だけがサクラメントだ。この二つだけが救済に直結していて、それ以外の5つは重視しないという立場をとっている。
ところで、バルトは①はサクラメントではない、と否定してしまう。③の、キリストの血肉であるパンを食べ、ブドウ酒を飲んだものだけが救われると。
バルトは晩年にそれまでの考え方を変え、①洗礼という制度と結びついた形でのキリスト教を否定すると主張している。①も人間が行う業だというわけだ。
③については、福音書にイエスがパンとブドウ酒を弟子たちに与えたと書いてある。①については、イエスが洗礼を受けた記述はあるが、イエスが授けたという記述はない。
バルトは①洗礼という行為自体は否定していない。カトリックの7つのサクラメントのうち⑦と比較するとわかりやすいかもしれない。⑦をサクラメントとするカトリックは、原則として離婚を禁止している。
他方、プロテスタントは⑦にサクラメントとしての地位を与えていない。離婚は奨励していないが、禁止もしていない。それはプロテスタンティズムが⑦結婚を人間的な事柄と捉えているからだ。
バルトはプロテスタント神学の立場から、⑦が人間的な事柄であると徹底的に掘り下げた。同様に①洗礼も人間が行うことだから、とサクラメント性を否定した。裏を返せば、①を受けなくても人は救われるとバルトは解釈した。
逆にいえば、カトリックでもプロテスタントでも③聖餐を受けないと人は救われない。
バルトは、サクラメントをイエス・キリストのシンボルだとした。そのシンボルは唯一③だけだ、と考えた。
新約聖書によれば、イエスはパンとブドウ酒をとって「私を思い出せ」と弟子たち語った。イエスの言葉が③にサクラメント性を与えているわけだ。
イエス・キリストがいない現状で、彼の存在を何によって想起するのか。③はイエス・キリストを思い描く役割を担っている。キリスト教徒にとって、③が行われる場に特別な力が働くと考える。それが聖霊の力だ。
キリスト教には、神とイエス・キリストと聖霊がいる。この三位一体論はキリスト教徒にとって当たり前のことだが、そこが日本人にはわからない。だから、なぜパンとブドウ酒を授かる③が特別な意味を持つのかもわからない。
キリスト教徒にとって聖霊の働きは呼吸するのと同じくらい自明だが、キリスト教徒以外の人にとってわからない。
多くの人は次のような疑問を持つだろう。パウロの手紙を書いたパウロは人間だ。なぜ人間の手紙を通してキリストの言葉を述べる福音書を解釈できるのか、と。
キリスト教徒はたぶん「パウロに聖霊が働いていたから」と答えるだろう。マリアは処女のままイエスを懐妊したとされる。ここにも聖霊が働いているわけだ。しかし、聖霊が働いていたことは、どのように弁証されるのか、キリスト教徒以外の人を納得させるのは難しいことは確かだ。
□佐藤優『あぶない一神教』(小学館新書、2015)/共著:橋爪大三郎
https://blog.goo.ne.jp/humon007/e/234d77d97f7dfe4050c900ab696165b4






. ☆お浄め 山村暮鳥の…
2018/11/09 00:08
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☆お浄め 山村暮鳥の「祈り」
「走馬燈」
ぐるぐる
ぐるぐる
ぐるぐる
ぐるぐる
――走馬燈がまはりはじめた
ぐるぐる
ぐるぐる
ゐなかのおぢさん
だいじな、だいじな
帽子を風めに
ふきとばされたよ
さあ、たいへん
ぐるぐる
ぐるぐる
ぐるぐる
ぐるぐる
ゐなかのおぢさん
くるりとまくつた
お臀がまつくろけだ
鍋底みたいだ
すたこら,すたこら
ぐるぐる
ぐるぐる
おうい、おうい
おいらのちやつぽだ
だいじなちやつぽだ
けえしてくんろよ
すたこら,すたこら
ぐるぐる
ぐるぐる
それでも風めは
へんじもしなけりや
みむきもしないで
とつとと逃げてく
どうしたもんだべ
ぐるぐる
ぐるぐる
ぐるぐる
ぐるぐる
ゐなかのおぢさん
あんまり
心配しないがよかんべ
鴉が笑つてら
ばかあ、ばかあ
ぐるぐる
ぐるぐる
と云つてちやつぽが
けえつてこねえだら
それこそ
嬶どんの大かいお目玉
どうしたもんだべ
ぐるぐる
ぐるぐる
いたずら風めは
浮気な奴だで
ちよいとだまして
つれてはゆくけど
すぐまた捨てるよ
ぐるぐる
ぐるぐる
それではちやつぽは
風めの野郎と
逃げてつたんかい
そうとはしらなかつた
ああん、あああん
ぐるぐる
ぐるぐる
ゐなかのおぢさん
泣きながらおつかけた
おつかけながら泣いた
なんちうせわしいことだがな
ああん、あああん
ぐるぐる
ぐるぐる
ぐるぐる
ぐるぐる
ぐるぐる
ぐるぐる
たうたうそれでも
ふん捕まへたよ
ふんづかまへたが
帽子はびしよぬれ
どうしたもんだべ
それもそのはず
溝渠があつたので
飛び越えようとした時
どうしたはづみか
ばつたりおつこつただ
ぐるぐる
ぐるぐる
風めは薄情で
それをみるなり
どこへか行つちやつた
薄情でなくとも
どうしようもないのだ
ぐるぐる
ぐるぐる
ゐなかのおぢさん
びしよぬれちやつぽを
頭蓋のてつぺんさ
ちよこんとのつけて
にこにこにこにこ
そして言ふのさ
(これでも親爺の
ゆづりのちやつぽだ
親爺の頭は
ほんとにでかかつた
おいらがかぶると
すつぽりと肩まで
はいつてしまふだ
それを智慧者のうちの嬶どんが
新聞紙まるめて
つツこんでくれただ
いまもいまとて
ぬれてはゐるけん
かうしてかぶつてゐるまに乾くと
もともとどほりの
立派なちやつぽだ
それにつけても風の野郎め
油断はなんねえ
いつまた、こつそり
くるかもしれねえ
これは
なんでもかうして両手で
かぶつた上から
年ケ年中
おさへてゐるのに
かぎるやうだ)
ぐるぐる
ぐるぐる
(これだけあ
子どもに
このまた帽子をゆづるときにも
よく云つてきかせて
やらずばなるめえ)
ぐるぐる
ぐるぐる
(なにがなんでも
無事で
帽子がもどつてよかつた
ぐるぐる
ぐるぐる
ぐるり
ぐるり
ぐ……る……り……
――走馬燈、ぴたりととまつた
(『土の精神』/ 素人社書屋/1929年)
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