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投稿コメント一覧 (68コメント)

  • >>No. 127

    何をグダグダ 20年前に 潰しておくべき会社だった

  • 財務状況は随分改善しているのでは。321円で4000株持っています。買い増しを考えているのですが、踏ん切りがつきません。

  • 下がる下がる株価 上がる上がる利回り どこをいつどのくらい買えばよいのやら

  • 先般、3月12日の主日礼拝に出席した。マルコ4章35節~41節 ガリラヤ湖の嵐の箇所の説教であった。イエスが海に向かって「静まれ、黙れ」と言われると、風はやんで、大なぎになった。と記述されているが、この聖書箇所は、本当は弟子に向かって「静まれ、黙れ」と言われたのでは。間違っているのでしょうか。イエスの神性は十字架と復活にのみに示されているので、安直に奇跡を解釈する教会に抵抗を感じます。

  • 神はいるか・・・と問われるなら、俺はいると答えるが、それは俺の回答であって、我々全部の回答ではない。
    神とは、時間と空間と、事物の超越したものであって、永遠のかなたに存在する命、働き、救い主です。神々ではなく、自然神ではなく、偶像ではなく、語り尽くすことのできない神、絶対に知られない神です。そいう神の存在を私は信じています

  • 「聖書にそう書かれているだけです。私たちがそれを受け取るか受け取らないかだけだ」という議論は全くそのとおりだと思いますが、そういう信仰の証では宣教は成り立たないと思います。いずれにせよ嵐は必ずいつかは収まるものであり、イエスの命令や奇跡について「聖書にそう書かれているだけです。」ではなく、なぜそう書かれているのかという証が必要ではないでしょうか。

  • 復活やイエスの誕生、昇天、など現実の事象と思えない聖書の記述を「そう書かれているだけであり、私たちがそれを受け取るか受け取らないかだけだ」と突き放すのは簡単です。しかし、それでは宣教にならないし、理性に反することであり、律法に従うパリサイ人と同じになります。奇跡をどのように解釈するか、神の存在を明瞭にすべきだと思います。

  • 神とは、すべての根源であり、創造主であり、救済者である、聖なるもの。「あってあるもの」、この世の時間と空間と力を超えたところにいまし、働きたまう絶対者。太古の昔の、古くから宣べ伝えられている永遠なる神であり、人によって作られたこの世の諸力や偶像ではなく、自然力でもなく、決して神々ではなく、唯一の神、決して見ることのできない、決して語り尽くすことのできない、人には絶対に知られない絶対者です。そして、今この世で、生きること、死ぬることの意味、永遠の命の真実を、御力を、密かに、おぼろげに、その働きを、在るか無きかの徴を、間違いなく示しておられ、信仰によって、御子イエス・キリストによる確実な「神の国」の徴しを、密かに、おぼろげに、示しておられます。

  • 私は教会に出席する者です。宗教を虚構の産物でも神をシンボルとも思っていません。イエスキリストは人であって神と思っています。従って聖書のイエスの奇跡も現代人としては、肯定しつつ、しかし、否定せざるを得ない気持ちです。すべて聖書は人が自己の信仰に基づき、人の伝承を紙に記録し、太古から人々が信じてきたものです。しかし、神の創造の御業で、イエスも嵐を静め、娘を生き返らせたということは真実でしょうか。神は真理を明示する方であって、真理をゆがめる方ではありません。イエスご自身の十字架と復活は、神ご自身の神性を明示するものであって、信じていますが、他の奇跡は何と解釈すれば良いのか心にひっかかります。

  • 恐らく、古代の人々にとって、病は罪であり、死は罪の結果であり、今のように科学的、合理的な理解が出来なかったのだと思います。古代の人々は、言わば現代からすれば悪霊と恐怖と迷信の世界で生きていたのだと思います。古代の人々の感覚を無視して、聖書の記述を現代において解釈するから、訳の分からない信仰の世界の説教になるのではないでしょうか。

  • >>No. 15

    大事なのは「他者に対するやさしい気持ち」ですか? 大事なのは”原罪”に対する感覚、「神の怒りは真理を彼らの不服従の枷で虜にする人間たちの不敬虔と不服従に対し天から啓示される」(ローマ1・18)と書かれている人間の”原罪”を明確に認識することです。
    平然と献金を牧師の生活のためだけに消費する教会、見通しを間違え教会を建替えてその維持だけに追われる教会、いつまでも教会債を返済しない教会こそ、イエスの「貧しい者から騙し取る神殿の商売を見過ごすことができなかった。」の批判の対象ではないですか。

  • 聖書の奇跡は本当であっても、嘘であってもかまわない、信仰はそれとは関係ない、という有力な意見があります。しかし、私には、奇跡はイエスの十字架と復活のみであり、他の奇跡は単にイエスの神性を伝えたいための嘘にしか思えません。事実に基づかない思考や理性を否定する信仰は、問題だと思います。奇跡は一つであるからこそ奇跡です。嵐を静める奇跡、少女の復活、ラザロの復活はあり得ません。奇怪な復活、数々の奇跡を真実として語るのは、信仰を歪め、間違っています。もっとも世の中には間違った正義がここかしこに語られていますから、本当か嘘かの議論は永遠に続けるべきもの、なのかもしれません。

  • 信仰とは何でしょう。信仰とは「あってあるもの」、すべてのものの根源、絶対者、創造者にして救済者の神の存在を信じ、敬虔な態度で、神の啓示に服従することではないでしょうか。

  • 信仰とは何でしょうか。片方では人間の義、いわゆる道徳、倫理、戒め、正しい行為があり、片方には人間には絶対に見えない、理解しえない、到達しえない神の義、愛の神、怒りの神があって、アブラハムは片方の、神の義を絶対に疑わない信仰、神への服従に生きたとすると、信仰と奇跡の関係も説明できるような気がします。どなたか、これを上手く説明する投稿をしていただけないでしょうか。
    本日、礼拝に出席しましたが、漫談のような説教でした。

  • >>No. 108293

    毎日曜日に礼拝に出席している者です。
    教会では、神はいるか、とか、神とは何か、を議論することが少ないですね、そういうことはわかっているものとして礼拝が進行します、かなり、一般のキリスト教会も非宗教的宗教に、そこらの神社、お寺と同じに成り下がってしまった感がします。科学的、合理的思考と矛盾しない神信仰があると思いますが、残念・・・。

  • >>No. 108301

    今一つ信仰が理解できません。「アブラハムは神を信じた。神はそのアブラハムに彼の愛する一人子イサクを燔祭としてささげなさいと命じられて、アブラハムはそれに従い、イサクを縛って祭壇のたきぎの上に乗せ、刃物を執ってイサクを殺そうとした時、・・・」 有名な旧約の箇所ですが、この記述のアブラハムの信仰が理解できません。「ヨブは自分に災いが及んで友達と論争して、なお自分を正しくあろうとした」 ヨブの信仰はどことなく分かりますが、アブラハムの信仰はわかりません。アブラハムの信仰が科学的、合理的思考と矛盾しないなら、それを説明してください。聖書のイサクは、このような仕打ちを受けて、子はどのように神に向かえば良いのか、酷い話が敬虔な信仰の話として何故か伝わっているのか、混乱するばかりです。

  • アブラハムについて

    何故神はアブラハムに彼の愛するひとり子を燔祭の犠牲にささげなさいと命じられたのか。唯一の神、時間と空間と事物のすべてに超越している神は、アブラハムに絶対的な服従を求めたのでしょうか、それでは、これは神の不義です。易々と応じたアブラハムも人間として不義です。信頼関係という言葉はごくごく人間的な言葉です。神とアブラハムの関係を表した言葉ではないと思います。

  • >>No. 108347

    今日、教会の礼拝に出席しました。聖書箇所は、イエスが五つのパンと二匹の魚をさき、5000人もの群衆に給食、満足させたというマルコの福音書6章30節から44節です。
    説教は理解できませんでした。。牧師は救い主イエスを旧約聖書を引用して、熱心に論証しておられましたが、本当に牧師は理解していたのか。詰まらん。オウム真理教の麻原彰晃を連想して、甚だ不愉快な気分になった。

  • >>No. 108473

    私は現在の人間です。現在の人間の状況で神さまを知らせてください

  • >>No. 108473

    祈るって、家内安全、商売繫盛と祈ること? 祈ったことはありません。天地の造り主、全能の父である神を信じていますが。

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