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投稿コメント一覧 (198コメント)

  • 日本国憲法には、天皇が日本国及び日本国民統合の象徴とされているのだから、象徴に敬意を表することは、日本国憲法を尊重する意味も含まれるだろう。
    もし、日本国も日本国憲法も尊重に値しないというのであれば、別に、国籍を放棄するなり、他国に移民するなりして自由に暮らせる権利を日本国憲法は許しているのであるから、当然、そうするべきだろう。

    日本国内に留まり、国の象徴に悪態を吐く輩は、実のところ外国の諜報活動に従事していると考える方が自然である。

  • 法の支配(ほうのしはい、英語: rule of law)は、専断的な国家権力の支配を排し、権力を法で拘束するという英米法系の基本的原理である。 法治主義とは異なる概念である。

    日本国憲法における天皇条項も、英国の立憲君主制を基本にしています。つまり、「君臨すれども統治せず」という意味で天皇の統治権が制限されることを目的とした条項なのです。しかしながら、他方で皇位というものは皇族の相続権継承という私事が含まれるわけですから、そのような私事に関する部分の発言は政治的影響力を意図したものでない限り容認されて当然なのです。
    然るに、今回の陛下の譲位に関するお言葉は、高齢に伴う不可避の事由という私事ですから、特別法として承認されることが自然でしょう。

  • >>No. 2020

    君の循環論法は聞き飽きたよ。
    天皇制が違憲であるならば、天皇が裁可した日本国憲法も無効だろう。ぐだらないなぁ。

  • >>No. 2018

    なぜ、明治政府は欽定憲法を採用したのか?
    その理由について伊藤博文が滔々と述べているではないか。

    つまり、日本人は未成熟だからだよ。
    マッカーサーが日本人を「12才の子供」と喝破しただろう。

    こういう掲示版で、虚勢を張って悦に入って承認願望を満そうとする姿勢が正に子供だよ。

  • >>No. 2015

    あはは、
    君の腹芸には笑ったよ。
    そうやって、見え見えの論点ずらしの対人論証で遁走するとはね、実に面白い。大勢のギャラリーが見ているんだから、次は腹話術で楽しませてくれよ。

  • 日本国憲法は天皇が裁可したのである。この明白な事実だけで、天皇の正統性が憲法の外に存在する十分な証左である。

    どこぞのアホウが、天皇は違憲だの、憲法が天皇を正統化するだのと支離滅裂な解釈を晒しているが、この論理矛盾の戯言にコメントする価値すら見出せない。

  • >>No. 2004

    >天皇の正統性は憲法に求められるとしか言えん。この妄想太郎!


    ここで君が引用している"憲法”とは、日本国憲法を指し示しているのか?

    では、君に簡単な質問をしよう。日本国憲法を裁可したのは誰かな?
    もちろん天皇だよね。笑笑


    ところで君の論に従えば、つまり、天皇に拠って正統性を主張する憲法が、天皇の正統性を根拠付けている事になるよね?

    こうゆう日本語風の悪文を私は理解できないんだけどさぁ。

    普通は、「自己言及のパラドックス」と言って論理破綻しているんだけど。大丈夫かな?


    *参考
    日本国憲法
    朕は、日本國民の總意に基いて、新日本建設の礎が、定まるに至つたことを、深くよろこび、樞密顧問の諮詢及び帝國憲法第七十三條による帝國議會の議決を經た帝國憲法の改正を裁可し、ここにこれを公布せしめる。

  • >>No. 2003

    >それを言うなら、サクセッションだろう?笑

    宗教的サンクションで正しい。ただし、(継承)というよりも(承認)と訳すべきで、この点は訂正しておこう。

    要するに
    サンクション(承認)=大嘗祭
    サクセション(継承)=皇祖系譜

  • 天皇の権威はどの様にして成り立っているのか?

    そうゆう疑問に対し、トンデモ説が横行しているようである。
    あぁ勘違いの最有力は「血統カリスマ説」である。

    例えば日本列島に在住する人種の系統と天皇家の系譜を同一視する誤謬である。
    これに対する答えは江戸中期以降に出ているのである。つまり、天皇家の始祖(皇祖)は神武天皇であり、神武天皇による日本の統治から日本国とするのである。だから、縄文だの弥生だのと系統論をグダグダと説明する必要性がないし、そもそも、「統治」という社会的事実性を根拠とした皇祖系譜論なのである。

    しかし、この系譜論は天皇の権威を半分しか述べていないのです。もっと、重要な天皇カリスマは大嘗祭からなる一連の儀式の中にあり極めて宗教色の強いサンクション(継承)に有ります。その内容について一般には公開されておらず、国民の大多数も理解していません。

  • >>No. 1997

    過去二千年に及ぶ(神武天皇からと考える場合もあるが)日本の歴史において天皇家を存続させ続いてきた事実を文化的な価値として認められると考えるのが一般的な常識人だと思う。

    その事と、いわゆる戦争責任に関する因果関係にケジメをつけることが出来ないグレーゾーンの価値観がしばしば衝突するのではないでしょうか。

    現在の象徴天皇制に対する国民の意識は概ね好意的と考えていいでしょう。天皇や皇室が必要であるかどうかは人それぞれの価値観に委ねられるでしょうけどね。

    日本国憲法の三大原則を中学の公民で学ぶ。そうすると国民主権、基本的人権の尊重、平和主義である。は?象徴天皇が憲法第一条よ始まる事実がそっくりスルーするんだよね。

    これは立憲主義の原則からしても、あまりにデタラメな説明になっているんだよね。結局はいわゆる「菊タブー」とされるグレーゾーンの中で日本国憲法が運用され政府の恣意的解釈の余地を許す結果になるわけです。

    そうゆう、有象無象の社会が日本の特徴とも言えるんだけどね。

  • >>No. 1994

    それはチョット違うな。
    日本人は、というか人間は何らかの神輿を担ぎ上げて、事あるごとに辺境にあるモノやヒトを屠りたがる性があるんだよね。いわゆるスケープゴートはどんな社会集団においてもあり得ること。たまたま、社会的不満が溜まってきたら、聖なるモノの威を借りて悪事を正当化したがる輩はどの時代でもどんな国でもあり得ることだよ。

    戦前の日本は、「鬼畜米英」なんてスローガンを掲げてたのに、マッカーサーがテンノーを救ってくれたと国会で感謝の意を決議して以来、親米社会に手のひらを返しているんだよね。

    つまり、テンノーを利用する側が問題の本質だってことはだよ。
    悪事を働く側のクズさ加減をテンノーに責任転嫁しても解決するわけないじゃん。テンノーが居ても居なくても、クズはどこまでもグズとして存在するんだよ。

  • 何一つとして反駁出来ず、遂には論点ずらしの対人論証で遁走するつもりですか?

    君の腹芸にしては、あまりに陳腐過ぎて失笑を買うことになりますよ。次は腹話術でもして楽しませていただきたいですね。

  • >>No. 546

    縄文時代の約一万五千年間は殆ど戦争が無いとされている。それは狩猟採集社会の特徴であり、かつ日本列島が天然資源に恵まれた環境であったから、争いよりも協調する方が遥かに利益となるからである。ところが弥生時代になり農耕社会になると開墾する為の土地が必要となり備蓄による資源の流動化が損なわれた結果として紛争による土地の摂取や資源の掠奪が始まるのである。それが戦争の主な理由である。
    要するに、戦争を防ぐ手立ては資源を流動化する事である。現在行われている米中経済戦争も資本の流動化や情報の流動化を巡る紛争なのである。
    中東地域において紛争が絶えない理由も砂漠地帯に資源が少ない上に石油資源が偏っており流動化が損なわれているからである。哲学や形而上学など無関係である。渋谷のスクラブ交差点を観るまでも無く、中東においてもドバイやサウジ等資源国の現況を見れば経済環境と治安維持の相関関係が一目瞭然である。

  • >>No. 550

    >「星の世界」はあるが、「星の社会」はない。この差わかるかね。


    星新一の小説でも読んでなよ。
    グダラない。ガンダムの世界観に行けば星々が連合して紛争する社会観が描いてある。その様な空想の中では「星の社会」が描かれているぞ。

    アホ臭くて付き合ってられんぞ。

  • >>No. 545

    では、星は戦争場所ですか?
    地球という固有名詞により時間や空間を特定すれば、地球は戦争場所と表現できるでしょう。

    では、社会とは星と同じく一般名詞です。
    「社会は戦争場所ですか?」という表現は、「星は戦争場所ですか?」という質問と同じです。
    時間や空間を特定しなければまるで意味がない文字の羅列に過ぎない。

  • >>No. 542

    社会は記号である。集団であり仲間を示す言葉に過ぎない。社会には実体がないの集団の繋がる形式によって様々な〇〇社会が存在する。世間戦争が無いように社会戦争もあり得ない。バカげた君の主張と同じである。
    社会は一般名詞であるという常識がないのか?
    星や植物と表現する使い方と同じである。

  • >>No. 533

    >ところで、欧米の「個」の土着イデオロギーの代わりに日本では、日本での「世界」や「世間」の荒波に揉まれながらできた人間を称して「人物」という概念がある。


    「対立する社会」という表現は、いささか誤解を招く言い回しである。
    要するに、人間には規範意識というものが存在する。フロイトによれば自我という領域と無意識という領域が存在しており一般的には自我意識において「物事を考え判断する」のである。ところが共同体集団においては、其れ自体が規範意識体として機能することから「物事を考え判断する」という対象物が存在しないのである。故に「対立する社会」が成り立たないのだ。

    つまり、日本において「人物」とは正に「物事を考え判断する」という対象物が存在しない人間を意味するのである。
    欧米の「個」は自我意識の領域において活動する「人格」として顕在化するのである。

  • >>No. 531

    集団においては、二種類に分類できる。機能集団と共同体集団である。

    例えば、欧米において会社は機能集団であり、宗教的共同体を形成している。日本においては明治以前まで地縁共同体を形成しており、故に古来日本における「個」の形成は、いわゆる村落共同体や世間体の中で形成された世界である。

    明治維新後において政府の政策的意図により、村落共同体を崩壊させ都市部における産業化や近代文明の発達を強化したのである。その過程で、様々な思想操作により廃仏毀釈や尊王教育を行い国家という概念を刷り込んでいくのである。
    翻って戦後日本においては、会社が共同体集団として台頭するのである。

    つまり、欧米において会社は単なる機能集団であり、その意味では人間が対立する社会集団である。ところが日本において会社は共同体集団としても存在する為に人間が対立しない社会集団なのだ。

  • >>No. 529

    そもそも「社会」という文字は、外国語を翻訳する為の和製漢語として幕末から明治初期に使われた文字。そして明治中期以後は「social」の訳語として定着した。つまり、記号でしかなく概念としてはラテン語のソキウスに語源を持つ「集団」や「仲間」を示す言葉である。

    要するに「社会」は世間でもあり、世界でもある。概念としては日本古来の言語とさほど変わらない。

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