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投稿コメント一覧 (19335コメント)

  • >>No. 7067

    こんばんは。

    >この後カラスの声は、元には戻らなくなりました。喉の酷使が原因でしょう。この時まだ35才だったのにね〜。 1960年以降のカラスは、残念ながら全盛期の抜け殻のような出来です。 諸行無常とは言え早過ぎます〜〜。

    カラスは美声ではないですからね。ソプラノを聴く身体的な快楽という点では、全盛期でも欠けるところがある。オペラに演劇的な読みの深さみたいなものを求める人向きの歌手ですね。不世出の天才ではあるにしても。

    >★そう言えば、今年は、ヴェルディ・生誕200年だね。いろいろ催しがあるようで楽しみだね^^

    imadeさんはヴェルディでは何がお好きですか。私なら、「リゴレット」「シモンボッカネグラ」「仮面舞踏会」「ファルスタッフ」かな。

    ワーグナーも同じく生誕200年です。
    「指環」といえば、ゲンルマン神話やギリシア悲劇などが消化されているのは当然なのですが、シェイクスピアの「マクベス」の影響なんかも感じますね。どう思われますか。

  • >>No. 58324

    >ものの捉え方や考え方が。
    それとも、カトリックと真宗が似てるってコトなのか。

    カトリックというのは普遍性のかたまりのわけ。人間が救われるというリアリティーを核に置くのがカトリック言説なんだけれど、真宗に限らず、仏教のどんな宗派だろうと、世界中のどんな宗教だろうと、人間が救われるというリアリティーをちゃんと掬い上げる言説をもっているなら、その限りでカトリックと矛盾なく共存できるわけ。

    もっとも、ミチオさんがいっているように、晴佐久神父が二益の法門的な説き方をしているというのは正鵠をえているだろうね。

    >それより、出たとこ勝負でこれまで生きてきた俺としては
    これからも成り行きで生きていこうと思う。
    いろいろアドバイスありがとう。

    それが一番いいかもね。出たとこ勝負や成り行きの背後で支えてくれる大いなる存在のことを、神というんだね。

  • >>No. 58280

    こちらこそよろしく。

    >あまり、レコード&CDショップに行かないし、行っても、日本人のポップス盤を眺めることが多くて、知りませんでした。

    私は音楽で嫌いなジャンルはないんですが、それでも、もっとも甘美な法悦を体験できるのは、なんといっても、沈黙・静寂ですね。禅や瞑想もある意味、沈黙・静寂をどこまできわめるかという営みでしょう。

  • >>No. 58343

    洗礼を受けるならクリスマスより復活祭(厳密にいえばその前夜に)の方がいいと思うけど。
    そうしたら、クリスマスは教会はさぼってどこかに遊びにいってもいい。

    カトリックは教会暦にしたがって生きるというのが非常に重要なんだけれど、
    はやいはなし、復活祭が本体で、あとの364日は復活祭の分身のような存在。クリスマスもベースは復活祭のコピーであって、その上に独自の意味を帯びるわけ。
    その復活祭に洗礼をうけることは、キリストと一緒に復活しちゃうという意味をもつわけ。それ以前の自分を葬り去ってあらたに永遠のいのちに生まれ変わるということ。それが体験できれば、365日が毎日、復活祭であり、キリストの十字架と復活との一体化であり、永遠のいのちに向けての誕生日であり、となるわけ。以上のことを本当に理解して、覚悟をもって洗礼を受けることができれば、圧倒的な歓喜、覚醒、感動を体験できる。禅の見性やアドバイタと共通する部分もあるでしょう。もっともこれは個人差があって、三ヶ月泣きっぱなし、多幸症状態が続く人もいれば、なんだたいしたことねえやという人もいる。それはどうでもいいことかな、個人の主観的な体験内容によっては、究極的な救いにおいて違いがまったくないのが洗礼だから。

    あくまで参考までに。洗礼を受ける受けないも、いつ受けるかも、自分で決めることだよね、もちろん。

  • >>No. 1186

    「キリストのからだ」ほど抱擁力のある容器はないわけ。なにを盛り込んでもいいんです。宇宙に存在するすべての容れてもなお余裕があるわけ。ウンコくらいなんでもない。

    ここは禅のトピだから付け加えると、キリストのからだ=無字、というとらえ方もありかな。神父によっては否定する人もいるだろうけど。
    森羅万象、生きとし生けるものすべての源泉であって、しかも自分が完全にそれと一体不可分になっているもの。これが、キリストの体の意味の一つです。

    もっとも、「キリストのからだ」は最狭義から最広義まで意味の多重な構造をもっていて、これを詳説すれば本が何冊もできる。本気でテストしたら現役神父でも落第する人が出てくるでしょう。あまり深入りする必要はまったくない。

  • >>No. 1301

    >もう一度、神仏により多くの不信心な人たちの心を向けさせたければ
    できあがったものを、一回全部取っ払って
    ナマの姿を直視させるコトなんじゃナイかと思うんだよね。

    ナマの姿を直視したときみえてくるのが、神の一方的な恵みなんだってこと。カトリックがいっているのはこれだけだろうね。恵みは人間の願望、欲望、作為とはまったく対価関係にたたない。その一方的な恵みを世界規模で伝えるサービス機関がカトリック。その趣旨に沿って組織が運営されているわけ。人間がエゴで作り出したものを絶対化するというのとは真逆にあると思うけど。

    プロテスタント神学者のカールバルトなら、人間が作り出す制度的宗教はキリスト教も含めてすべて偶像崇拝だから破壊されたっていいんだ、救いをもたらすのはイエスの御名信じることだけだという考え方をするけれど、これだとカトリック教会も当然偶像崇拝になる。また、イエスを信じなければ、天国は不可能となる。

    カトリックはそう考えない。教会はキリストのからだとして、すべての人間に感覚的に体感可能な救いを与える、神からの一方的な恵みであるとする。イエスを信じることすら絶対的な要件にはなっていない。

  • >>No. 1382

    >>何ら問題ないでしょう。クリスチャンであろうと、ノンクリスチャンであろうと、坐っているときにどういう公案理解をするかはまったく自由なこと。坐っている時にそういうことに覚醒するなら、それでいいでしょう。信仰も微塵も揺るがない。

    >つまり、わたしは神だっていうことなんですが・・・・事実、わたしはそうなんですが・・・・このとき信仰ってどうなるんですか?わたしがわたしを信仰するんですか?そして、あなたはわたしを信仰してくれます?

    信仰とはクリスチャンの信仰のことだよ、文脈からいって。どういうものか確めたかったら洗礼をうけてみればいい。

    >>あなたが無理があると思うという事実があったところで、どうということもないでしょう。あなたが思っているだけなのだから。ちがいますか。

    >それはへんでしょう。わたしはあなたが間違っていたら、あなたの勝手ですとはいいません。あなたは間違っていますといいます。

    ぜんぜんへんじゃない。いいですか、あなたが間違っていても、どんなにトンチンカンでも、救われることに間違いはないんですよ。あなたの勝手というしかないわけ。

    >わたしは太陽は東から昇るといいます。あなたは西から昇るといいます。
    あなたは、真理を言明する人間に、「どうぞご自由に」、と真理に眼をそむけるんですね

    まず、そうやって幼稚なモデルに分けてわかったつもりになっていることが間違い。小学生レベルの二元論にすぎないでしょう。

    あなたが真理を言明する人間だという主張も、まるで証明されていない(少なくとも私にはね)から、とうてい受け入れることができない。

    もっとも、あなたが真理に立っていようと、虚偽にたっていようと、どうでもいいわけ。仮に百歩譲って真理だとしたらそれでいいし、虚偽だとしてもいずれ真理がわかるようになるかもしれないし、最悪一生虚偽アタマのままで終わったとしても、神はあなたを救ってあげるから、なんの問題もないわけ。

  • >>No. 1391

    >>信仰とはクリスチャンの信仰のことだよ、文脈からいって。どういうものか確めたかったら洗礼をうけてみればいい。

    >だって、クリスチャンは神を信仰しているんでしょ?
    そして、わたしは神なんです。神が洗礼を受けるということは
    どういうことになるのでしょうか?よくわからないのですが・・・・

    ためしてみたら。神が神であることをあらためて確認したでもいいじゃない。


    >なぜ、「救われる」という表現になります?
    どうして、「すでに救われている」という表現にならないんですか?

    ふだんは「すでに救われている」という表現を使っているよ。それが洗礼の意味でもあるしね。別に問題なし。でも厳密には、救いは二段階で問題になるんです。

    >わたしは、神になんか救ってもらいたくありません。わたしは、喜んで地獄に行くんです。なぜかといえば、地獄にはあなたみたいなひとがたくさんいるからです。わたしは、あなたを助けなければならないのです。それが
    わたしのミッションです。

    どうぞ地獄に行ってください。私は天国にいきますので、絶対会えないと思います。

  • >>No. 7081

    >トスカニーニが大好きなので、その絡みで、ヴェルディとワーグナーの二人は、そこそこ聴きます。(そもそも
    無視出来ない大物作曲家ですからね^^)  音楽的には、コンサート形式ながらも、トスカニーニの「椿姫」が好きです。彼が歌いながら指揮してますね。本当にヴェルディが
    好きなんでしょうね。とても印象的で、こちらまで幸せな気分になります。^^

    トスカニーニの「ファルスタッフ」は素晴らしいですね。彼の録音の中でも屈指の出来栄えではないかと思います。80歳のときのレコーディングですが、明朗快活な生命力がみなぎっています。

    >どうなんでしょうか? ゲンルマン神話からの影響は常識ですが、、、マクベスですか? 

    ワーグナーはごく若い頃の破棄された習作で、ハムレット、リア王、マクベスの影響を受けた作品を書いているみたいです。指輪も、随所に、ハムレット、リア王、マクベス、オセロを髣髴させるシーンがあるでしょう。

    ところで、マクベスの映画化として知られるのに、黒澤明の「蜘蛛巣城」があります。これいいですよ。これを観れば、最近の日本映画は弛緩した学芸会映画にしかみえなくなる。

    何をいいたいかというと、トスカニーニは日本映画の巨匠に喩えれば、芸風が黒澤明じゃないか(笑)。
    トスカニーニはデッドなモノラル録音で硬い印象ですが、輪郭はシャープで曖昧なところがない。細部が緻密。黒澤も黒白のコントラストが、どぎついほどくっきりした映像で、完全主義的にショットを組み立てる。
    しかし、トスカニーニには、ドイツの巨匠達のような深みや繊細なニュアンスはすくない。黒澤も日本人のこまやかな情緒の表現が不得意だし、芸術作品というより人間を元気にしてくれる活劇という要素が強い。他の巨匠にくらべると陰影というか深みがないというか、それでも視覚的な映画空間の構築という点で、後年のハリウッド映画に絶大な影響を与えた。

    こういうことをいってるのを聞いたことがないのですが、一面では正しいことをいっているつもりです(笑)。まあ、出鱈目な思いつきですけどね。

    なぜ「マクベス」にこだわるかというと、これは神殺しの悲劇がテーマであるとも解釈できるからです。どうでもいいか(笑)。

  • >>No. 7148

    >その部分がシェークスピアの作品のどの部分と似ているのかご指摘いただけるとありがたいのですが。

    引用といっても原型をとどめていないと思いますし、他愛ないといえば他愛ない、こじつけのようなものかもしれませんが、あくまで演劇な意味の連想を感じたのは、

    マクベスの冒頭で魔女三人の乱舞があり、王位簒奪の欲望を持つくだりと、ラインの黄金の冒頭の三人のラインの乙女の誘惑によって、アルベリッヒが指環を取得して世界制覇の欲望をいだくくだり。「指環」全体は、ヒーローとヒロインの続けざまの死によって終結するわけですが、気丈なヒロインとどこかたりないヒーローの組み合わせはマクベス夫婦を思わせるというか。マクベス夫人の自殺がブリュンヒルデの自己犠牲を連想させるというのもあるかな。女性と男性が死ぬ順番はマクベスと逆ですが。まあ、マクベスである必要はないわけですが、なぜかわたしはマクベスを連想しました。

    「ワルキューレ」における父ヴォータンと最愛の娘ブリュンヒルデの別れの場面は、「リア王」を連想しました。

    「神々のたそがれ」におけるブリュンヒルデのジークフリートへの嫉妬。これは「オセロ」と男女逆転ですが。

    「神々のたそがれ」のハーゲンの憂鬱性が「ハムレット」を連想させます。

    ディテールの精密な対応関係ではありまんが、無意識的な引用くらいのことはいえるかもしれません。当時のドイツ演劇界・文学界においては、ドイツロマン派による翻訳・研究・上演を通して、シェイクスピアが非常に高く評価されていましたから、ワーグナーが鑑賞・咀嚼していたことは間違いないでしょう。日本の洋楽におけるビートルズのような存在だったのかもしれませんね。

    ワーグナーの作品は重層的・多義的な膨大な引用によって成り立っていることは間違いないと思います。シェイクスピアはほんの一例ではないでしょうか。
    中心はやはりゲルマンやギリシアの古層にある神話群でしょう。

  • >>No. 1403

    >新約聖書に「私を見る者は神を見るのである」、そして「私と父とは一つです」と記載されています。
    更に「アブラハムが生まれる前から、わたしはいる」とも記載されています。
    (当然この場合の「私」とは特定の個人を指しているのではありません)

    このことの真の意味が分かった時、救いが不要であることを知るでしょう。
    そして、それこそが救いなのです。

    そういうことでいいと思います。カトリックのミサはこの真理を開示する礼拝でもあるのです。

  • >>No. 1394

    >>ためしてみたら。神が神であることをあらためて確認したでもいいじゃない。

    >こんどやってみますか・・・、ただ、神父さんにわたしは神ですっていって
    洗礼してくれるんですか?

    それは神父さん次第でしょう。

  • >>No. 1420

    >そこで、あなたは、「わたしは神だ」といえます?

    その前に自分で答えてください。あなたは、「わたしは神だ」といえますか?

    キリスト教の神とは、どんな罪悪まみれの人間であっても、地獄から天国に救い出す全能の力をもつ存在のことです。あなたは地獄で苦しんでいる人を救ってあげるためにあえて地獄に行くのでしたよね。ヒットラー、麻原、角田美代子・・・こんなんじゃきかないな、歴史上のありとあらゆる極悪人を赦し、回心させ、天国に引き上げることができますか。それが可能であることを証明できれば、あなたを神であると認めます。

    それだけじゃないか。先の東日本大震災の被災者全員、遺族全員を天国に導いてあげる力をあなたはお持ちですか。神とはそういうことができる存在です。それを証明できれば、あなたを神であると認めます。

  • >>No. 1465

    >>先の東日本大震災の被災者全員、遺族全員を天国に導いてあげる力をあなたはお持ちですか。神とはそういうことができる存在です。それを証明できれば、あなたを神であると認めます。<

    >そう言う神に貴方は出会われたんですか?

    教会で渡される小さなウェハスがそれですね。

  • >>No. 1462

    >おもしろいでしょう。あのちっちゃなウェハスのなかに自分も含まれるようになるとイメージすることもできる。

    ほんとうのことをいえば、ここに住みついているのは、キリスト誕生以前からのすべての人間。条件づけによる分断は趣旨に反する。

    >ただし、カトリックは人間の自由意志を尊重するから、この天国行きの大船から下りて地獄にいく自由も認めるわけ。罪の生活に戻ることは当然認めるし、それは当たり前で、そのくらいであれば大船に戻る道はいくらでもあるわけだけれど、大船に戻るという赦しの誘いを拒否して地獄に行く人の自由意志を否定することは絶対ないわけ。
    充さんは是非とも地獄にいきたいというのだから・・・

    大船から出る、戻るというのは、形式的にカトリックやその他のキリスト教会を出たり、戻ったりするということではなくて、みずから救いを完全拒否する道を選ぶこと。

  • >>No. 1468

    >では、そのウエハスが先の震災に出会った人々全員を天国に導いた、と、貴方は認めておられる、と言うことでしょうか?

    そうです

  • >>No. 1488

    >そりゃオールマイティみたいな神を欲しいのはわかりますが、

    オールマイティな創造主体を神というわけ。その似姿として創造されたのが人間だから、人間の自由意志は侵すべからざるものなわけ。

    >天国というのは、いまここにあるんです。

    いまここにあるよ。それで?そんなのは入り口でしょう。

  • >>No. 1490

    >神が全能ならなぜ、被災者、犠牲者を作るのか。
    答えられますか?

    全能者の意思を推し量ることは、普通の人間には不可能ですね。
    ただいえることは、この世ですべてが完結するという思考は絶対にしないのがキリスト教ですよ。死んだら終わり、物質的・生物的な基盤が破壊されたら終わりにはならない。人間は神の似姿として不死の存在として創造されたというのが、絶対譲れない原理なわけ。被災や地震くらいでこわれるようなヤワな生き物ではないわけ。

  • >>No. 7177

    この絵は私にとってはティツィアーノらしからぬ色づかいですね。

    ワーグナーのパルジファルが好きなのですが、この曲のもつ、くすんだようでいて、官能的で高雅な金色のハーモニーが、ティツィアーノの地味でありながら芳醇な色彩を連想させますね。

    あとで知ったのですが、これは偶然ではなく、ワーグナーはティツィアーノを愛好していたらしい。

    たとえば、「聖母被昇天」に感動したことが「マイスタージンガー」の完成の機縁になったとされています。

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