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投稿コメント一覧 (19335コメント)

  • >>No. 58000

    >あたたかい光に包まれて生まれてきた。

    だから、あたたかい光とともに、肉体の生を終えるだろう。

    私は、それを疑ったことはない。<


    「はじめよければ全てよし、終わりよければ全てよしという信仰を持てていたら、この世界のあらゆる出来事も神の愛の目に見えるしるしとして秘蹟的に見えるようになる。時には試練を含めて。」晴佐久神父

    人間は母親の肉体を借りてこの世にオギャーと生まれて、この世の肉体の生をおえるときは天国へオギャーと生まれる旅にでる。すべては神の恩寵の光のなかの出来事です。カトリックはこれだけです。

  • >>No. 58001

    http://d.hatena.ne.jp/hiroshisj/comment/20100411/1270964007

    >この思想は、8世紀、シャンカラによって「不二一元論」にまで高められました。シャンカラによれば、個は実在せず、神においてのみすべてが実在します。さらに彼は、西洋的なあらゆる二元論を否定し、概念によって実体を把握しようとする試みを否定します。この思想は、「アドバイタ」の思想と呼ばれ、現代インドのキリスト教神学に大きな影響を与えています。

    >不二一元論のところで少し言及しましたが、インドの神学者たちは、ヒンドゥーの思想をキリスト教に取り入れようと努力しています。その代表は、ミカエル・アマラドスです。

    http://www.febcjp.com/asx/121212/mtpr121212.asx

  • >>No. 58075

    >ところで、あの、「ぼくらの街のセブンイレブン」ね。
    あれ、私もクゴさんが紹介して下さったけど、違和感がありました。

    外は闇なのだから、という部分に、教会(コンビニ)には救いがあるけれど、神様を離れた世間(コンビニの外)は、闇ばっかりという詩だな、と。 <

    教会にいても闇はあるんですよ。もちろん人間が闇に襲われることは不可避です。それでも闇を照らす光が消えることは絶対にありえない。いくら真っ暗になっても、これ以上の暗闇はありえないだろうという暗黒の闇だろうと、それを照らし出す光源の方が強いんだという、そういう信仰ですね。

    教会=キリストのからだ。これがキリスト教のキモ。キリストのからだの光を浴びているのは全人類ですよ。ただ、気づいていない人、認めたくない人がいるだけ。

  • >>No. 58032

    >>http://simple.febcjp.com/

    >>毎週水曜日に更新されます。10分以内ですから是非きいてください。

    昨日のお話は、マザーテレサを襲ったとされる「闇の体験」についてです。
    これはジャーナリズムでも興味本位にとりあげられますし、マザーは神を信じていなかった、信仰を失ったなどと、まるで的外れの批判をする人がいます。
    ヤフーでも愚かさんやイストランさんやミチオさんがトンチンカンなことをいって得々としている。

    片柳神父は、マザーの「闇の体験」の霊的な意味を非常にわかりやすく、感動的に語られています。

    この放送も一週間以内に消えますから、お見逃しなく。私としては必聴といいたい。

  • No.58082

    闇の体験

    2012/12/27 22:15

    >>No. 58080

    愚かさんの口癖に、「ネガティブ感情のかたまりになれ」「憎しみ、悲しさ、嫉妬になりきれ」というのがあるでしょう。

    マザーテレサの「闇の体験」はこれとどこかが共通するかもしれない。ネガティブ感情の固まり状態というのは、キリスト教的には、神から見放されていると感じることです。

    キリスト教は愛の宗教、コンパッションの宗教とかいわれますが、神の愛を浴びるほど受けて幸福の絶頂にいる人が、神から完全に見放されていると思い込んでいる人に向けて、「神はあなたを愛しています」と微笑みたっぷりにいってもあまりにも無力ですね。白々しいし偽善的とすらいえる。


    真の意味でコンパッションが成り立つためには、神から完全に見放されている絶望状態の苦しみを知っていなければならないわけです。
    怒りでも不安でも恐怖でも嫉妬でも孤独でも、ありとあらゆる神からの離反状態の悲惨さを味わいつくしていなければ、その悲惨をリアルに生きる人間にコンパッションをもつことはできないでしょう。

    これがキリスト教の逆説ですね。神の非在の孤独・絶望を経験した人でなければ、真の意味の隣人愛は不可能ということです。

    晴佐久神父は、青年時代にこの絶望をとことん体験された人でしょうね。だから活字だけみれば、「神はあなたを愛しています」と、たんなる俗物がいえば歯が浮くようなことを何度も繰り返しても、実際にあって声を聴くと揺さぶられるわけです。説教をいきなり聴いて、涙がボロボロ流してその場で洗礼を決めてしまう人が続出するわけです。

  • 2012/12/28 22:43

    >>No. 58101

    >孤独とか、絶望ということは、掲示板で語ったり、話し合うには馴染まない。

    そう感じている自分がいます。

    それがふつうでしょう。カトリックだって、一般信者にそこまで要求しないです。本格的なことは司祭やシスターにやってもらう(笑)。

  • >>No. 58126

    >心は、深い森に譬えられることがあります。心の 深みには、わたしたちがかつて閉じ込めた感情や、 昔受けた傷、さらには人類の歴史の中で心に刻まれ てきた本能というようなものが隠れています。心の 森に分け入るとき、わたしたちは、自分の心の中に 美しい花が咲いていることに気づいたり、逆に恐ろ しいけだものが隠れていることに気づいたりしま す。深い祈りの中で、わたしたちはその森に分け入 り、自分の美しさを見つけては神に感謝し、醜さを 見つけては神に助けを願いながら、時折現れる聖霊 の光だけを頼りにして前に進んでいます。ですか ら、祈れば祈るほど、わたしたちは自分が自分をど れほど知らないかを悟り、ありのままのわたしを受 け入れてくださる神の前で謙虚にならざるをえない のです。

    こういった作業を徹底的に、一週間とか一ヶ月、リトリート的にやるのが、イグナチオロヨラが創案した「霊操」ですね。
    片柳神父はイエズス会の司祭だから何回かやっているでしょう。
    去年愚かさんにすすめたら、いつかやってみたいといってましたね(笑)

    「心の深みにいるイエスキリストにであう」ということを片柳神父は頻繁におっしゃいますが、これは「霊操」の影響でもあると思います。
    ちなみに私は、まだやっていません。いずれ将来に。

  • 2012/12/29 21:36

    >>No. 58131

    >> 一般信者にそこまで要求しないです。本格的なことは司祭やシスターにやってもら う(笑)。

    >この言葉の意味はよく分かりません。

    そんなに深く、孤独や絶望を体験しなければならないわけではない、というくらいですか。司祭やシスターほど、そういうものに深く向き合う責任は、一般信者にはないということです。

  • >>No. 1030

    >座禅。
    まだやってナイけど、間違いなく
    しんどいー、で終わると思うんだよね。
    こんなんやってられるかぁー、って。
    一回やってみて、それが最初で最後になる予感がする
    どころの話じゃなく、まあ、100%に限りなく近い確率で
    最初で最後になるだろう。

    こんばんは。横から失礼します。私はカトリックだけど禅も好きですよ。
    どちらも気持ちいい。どっちをとれといえば断然カトリックだけど、禅の楽しさ、気持ちのよさも捨てがたいものがある。

    なんていうかな、坐っていると、ふだんの日常の自我・エゴに振り回される思い・言語というものが、ファーストフッドやコンビニ弁当みたいなものであることがよくわかるわけ。エネルギーを使って疲労して、不健康でたいして旨くもないものを食ってるだけの人生が、わりのあわないものであることがよくわかる。
    なんにもしないでただ坐って、呼吸だけを意識することが、心という自然の食材を生かした最高の料理を味わうことなのだと思います。

    まあ、私はファーストフッドもコンビニ弁当も好きだしバカにする気持ちはまるでないのですが、あくまでものの喩えです。

  • >>No. 1051

    >昨年、神冥窟に行きましたが、よかったです。
    今年もお世話になるつもりですが・・・よろしかったらどうぞ・・・

    それはよかったですね。いつかご一緒になるかもしれませんね。

  • >>No. 1058

    >入る前から既に及び腰だものなぁ。
    カトリックは怖いし、禅は厳しそうだし。
    イヤになっちゃうよ、ホント。

    なにごとも、真にたのしいもの、奥が深いものは、とっつきにくからね。
    カトリックが怖いというのはちょっとわからないな。別名マリア教といわれるくらい、聖母マリアの安らぎの波動に満ちているのがカトリックという気がする。

    >片柳神父だっけ?あの話、興味深かったよ。

    http://www.rokko-catholic.jp/Training/tuesdayclass2010/tuesdayclass2010-rejime-index.html

    http://www.rokko-catholic.jp/Training/tuesdayclass2009/tuesdayclass-rejime-index.html

    http://www.rokko-catholic.jp/Training/tuesdayclass/tuesdayclass-rejime-index.html

    洗礼のための知識ならこれで十分だね。おつりがくる。ここまでいらない。

    もっとも、洗礼で必要なのは、「神父から渡されるウェハスがキリストのからだそのもの」であることを認めること、この一点だけといってもいい。それ以外のことについてどれだけ知識があって理解していても、この一点を真向から否定すれば、たとえ、世界的な聖書研究家、大神学者であっても、クリスチャンとして非の打ち所のないプロテスタントの信仰者であろうと、カトリックとしての洗礼の許可はおりない。一方、聖書なんか一行も読んでいなくても、聖書の登場人物はイエスしか知らなくても、この一点、「ウェハスがキリストのからだそのもの」であることを認めれば、たぶんカトリックとしての洗礼の許可がおりると思う。


    カトリックにおける聖書の位置は、教会>聖書です。

    教会が新約聖書を編纂したのだから文句あっか、ぐちゃぐちゃ聖書を研究するのもいいけど、新約聖書そのものの源泉が教会なんだよ、というもの。
    そのカトリック教会に加入する手続き・儀式が洗礼でしょう。聖書を教会の上に置くことはしないのですね。もちろん聖書は日々の信仰生活になくてはならないものですが、このことはそれとは別の話。



    >ファーストフードやコンビニ弁当としか例えよーがねー
    なんて後に言ってたりして。
    しかも、ケンタッキーというよりマクドやね、とかさ。
    唐揚げ弁当より幕の内弁当って感じ、なんてね。

    ヘンな油が入っていたり、刺激が強すぎる味付けは、禅体験の比喩にはならないでしょうね。

  • >>No. 58190

    >「洗礼式なんて、例えて言うなら結婚式のよーなもんで
    受けたからって、それで幸せになるってもんじゃありません。
    カトリックでの洗礼っていうのは、カトリック2000年の歴史で形作られた
    よーするに、形式的なものであって、受けようが受けまいが
    あなたは既に救われています」
    それって、まんま晴佐久さんなんだケド、そう言ってくれたらイイのによ。

    早い話、洗礼受けなくてもクリスチャンってコトだからね。<

    そういうことです。カトリックは形式がうるさいけれど、その意味は、「人間が作る一切の形式的な区別にかかわらず、あなたは既に救われています。それを伝えたのがイエスですが、そのイエスを信じることを神の前で形式的に宣言しますか」ということ。あらゆる形式、差別、差異を超えた救いをすべての人間に伝えたのがイエスなんだけれど、そのイエスを信じた証拠だけは形式として未来永劫に残しておきましょう、ということ。あくまで形式なんですが、世界で12億人いるカトリックとなると、形式的な統一だけは絶対骨抜きにできない事情があるのです。

  • 2013/01/04 22:29

    他のトピで紹介されていた佐村河内守の曲、心を揺さぶるいい曲だと思いました。私の好きなタイプの曲だな。
    ちなみに指揮者の大友直人さんはカトリックです。

  • 2013/01/04 22:42

    >>No. 1101

    カトリックの座禅会では必ずミサが行われます。何かの事情で座ることは中止になることがあっても、毎日のミサだけはなにがなんでも執り行う。

    モーツアルトのレクイエムが好きな人は多いと思いますが、レクイエムとは、カトリックの葬儀ミサで歌われるものです。
    そしてミサは、どんなものでも本質において、葬儀ミサです。
    今これから行うミサで死に切ってしまう。キリストと共に死に切って、キリストと共に復活する。

    こういうことを理解していれば、座禅会のなかでミサが持つ意味の大きさがわかってくるでしょう。

  • >>No. 58256

    >真の洗礼かぁ。だとしたら、偽の洗礼もあるってワケかぁ…

    ないです。洗礼と認められる以上は、すべて100パーセント完全な洗礼です。
    この点においてはすべての洗礼は同等です。ローマ教皇が受けた洗礼も、マザーテレサが受けた洗礼も、わたしが受けた洗礼も、まったく差異がありません。カトリックの全歴史を通しての、全信者の洗礼も同じです。だからこそ、形式的な手続きを備えさせるのだともいえますが・・

  • >>No. 58258

    >よーするに、どういうコトなんやろか。
    洗礼は受ける必要がナイ、ってコトでエエんやろか。

    洗礼を受けても受けなくても、誰であっても人間は肉体の生命を終えた後は、天国で真のミサにあずかるべく神によって招かれる。本番中の本番はその時。この世のミサは、天国のミサの先取り、リハーサル。そこに主体的に参加したい人は洗礼を受けてくださいということ。
    おれは、いきなり本番の準備をしているから、リハーサルなんかいらねえよ、そういう人は、カトリックの洗礼を受けなくても、別にどうということもないのかも。

    まあ、すべての人は、?カトリックの洗礼を受ける、?プロテスタントの洗礼を受ける、?洗礼を受けない、のいずれかの道を選ぶしかないわけですが、どうぞどれでも好きな道をお選びください、ということです。カトリックからはいずれの道を進んでも、救いの結論を左右しないのですから、どうしても?を、という人だけが洗礼を受ければいいでしょうね。


    >キリストの体と神の祝福を、いちいち分ける意味がわからんよ、マジで。

    キリストのからだは、カトリックという巨大で精妙な生き物のDNAともいうべき構造体です。この本質的な部分を改変することはカトリックの同一性を破壊してしまいます。カトリックの構成員にならないうちは、DNAの同一性を証明できないから、祝福しか与えることができないのです。

  • >>No. 58296

    >一切を選ばないという 不可思議な教え

    それだけだよ

    聴聞とは 疑いがなくなる

    竜樹菩薩様  疑うと 開きません

    誰でも選ばない 世間一般では信じ難い教え


    疑うとどうなるのですか。

  • >>No. 58305

    >疑う人、開けてない人、素直でない人は地獄ですか。

    これは仏教なら

    無知と五欲により ということになるな

    相応しいところに赴くだけ <

    浄土にはいけないのですか。

  • >>No. 58307

    >浄土にはいけないのですか。


    これでいけるといっているのが カズマのとんでも近代の教え

    これは邪教  本覚思想ということになる

    理論なら 縁起 因縁の生起だから 必然しかたのないことだ

    だから 死んだら みな 仏

    これなら みんな なにも 気にする必要なし

    らくちん らくちん  宗教も必要なし

    まぁ 精一杯 傲慢かませて 暴れようぜ


    近代の教えの浄土とはどこにあるのですか。死後ではないのでしょう。
    いまここが浄土というのが近代の教えですか。

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