ここから本文です

投稿コメント一覧 (943コメント)

  • >>No. 1

    >高句麗が竪穴式から横穴式に変化すると100年くらい遅れて日本も横穴式に変わる。高句麗が滅ぶと古墳の築造が無くなる。

    こじつけですね。

    >特に問題がありませんね。何らかの事情で相島から移動したのでしょう。

    何で長崎か説明できませんね。
    地元のそれなりの地位の人達の墓でしょう。

    >宗像氏は高句麗人だったのでしょう。

    高句麗なんぞ全く関係ないでしょう。

    >私は記紀に書かれたことは4世紀後半以降の事であり、その間に何度も政権交代が有り、それぞれの政権の系図を適当につなぎ合わせて大和政権の長い歴史を作ったのだろうと考えています。

    纏向古墳群の地層の層位だけでもそうはなっておらず連続性があるのだし、
    皇位争いはあっても、なんとか皇位について死後に墓を建てたから連続してるわけですから、適当につなぎ合わせて大和政権の長い歴史を作るなんてできないし、やってません。

  • >>No. 25683

    >もう一つ同じモノが関東の方で出ていますが、やはり近くにたくさんの積石塚があります。積石塚が高句麗由来と考えられている訳で、高句麗と無関係でないとは言えないと思いますよ。
    関東に沢山ある積石塚は相島のように海岸で、石が沢山あるから使ったのではなく、積石で墓を作ろうとしたことは間違いありません。<

    関東の積石塚は蝦夷のものとも考えられてて高句麗由来とは考えられてません。
    もし高句麗由来なら戦争捕虜でしょうね。
    http://rarememory.justhpbs.jp/emisi/b.htm

    「長野以外でも、山梨、群馬でも積石塚が見られる。
    東京にも積石塚の系統に連なる古墳がある。
    甲府市北部では長野県松代に次いで、積石塚古墳が多いことで知られている。
    なかでも八人山中腹の「横根・桜井積石塚古墳群」は
    松代の大室古墳群に次いで積石塚が群集している。全部で142基確認されている。
    墳丘は5〜8mのものが多い。最大でも10mである。
    金環、土師器、須恵器、ガラス玉などが発見されている。
    積石塚が山間部よりの環境や出土品の豪華さとの関係で、
    敗残の立場にあった高句麗系集団とは関係はなく、
    当時多く移配された俘囚集落と考えられる。高句麗の古墳の作り方とかなり違う。
    さらに高句麗系渡来人がいたとされる中巨摩郡等で積石塚が発見されていないこと、
    古墳から渡来系の遺物が出てこないこと、低いところは積土墳であり、
    積石塚のあるところは元々適当な大きさの石が多いこと等を鑑みれば、
    蝦夷文化の残影が濃い。また弥生時代初期と違い、この時代の朝鮮半島の移民は、
    内陸の山間部に追い遣られている。それで蝦夷の移配と重なったとみる」

    >土器編年は稲荷山古墳の年代が471年ではなく、531年であることが確定すれば大幅に変わってくるはずです。

    大阪北部の今城塚の6世紀前半は定点で変わりませんから、
    百舌鳥古墳群自体も変わりません。

  • >>No. 25687

    >戦争捕虜が「金環」なんて持つことが許されたのですか?

    だから高句麗ではないでしょうね。

    >これを書いた人はアホですね。
    一般の倭人の墓が土坑くらいしかなくて、「俘囚」の墓には「出土品の豪華さ」さがあると言っている。

    蝦夷の俘囚は税の免除など俘囚のイメージとは程遠い特権階級ですよ。
    時代が高句麗と合わないのだから仕方ない。

    >今城塚が再葬墓である可能性はどうでしょうね。

    全然ないでしょうね。

  • >>No. 25690

    >金は遊牧民族のものですよ。

    日本にもたらしたのは高句麗ではありません。


    .>一般人より大きな特権を持っていたら俘囚じゃないのでしょう。
    武器などもたくさん持っていたようだし。
    俘囚にそれらの特権を与えたらいつ反乱を起こすかわからない。
    元々ヤマトの支配下にはなかったのでしょうね。
    通交ぐらいはあったでしょうが。<

    国司が俘囚の監督をしてます。
    といっても反乱おこされてますが。
    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%98%E5%9B%9A
    「移配された俘囚は、7世紀から9世紀まで断続的に続いた大和と蝦夷の戦争で、大和へ帰服した蝦夷男女が集団で強制移住させられたものである。移住先は九州までの全国におよぶ。朝廷は国司に「俘囚専当」を兼任させ、俘囚の監督と教化・保護養育に当たらせた。俘囚は、定住先で生計が立てられるようになるまで、俘囚料という名目で国司から食糧を支給され、庸・調の税が免除された。しかし実際に移配俘囚が定住先で自活することはなく、俘囚料の給付を受け続けた。」

    >日本書紀は信用ならないですからね。

    編纂されてた時期の7世紀に近くなるほど信憑性は増しますね。
    6世紀前半の継体天皇の話もほぼ事実でしょう。

  • >>No. 25693

    >それこそ時代が違うでしょう。
    「俘囚(ふしゅう)とは、陸奥・出羽の蝦夷のうち、朝廷の支配に属するようになったもの。」

    大和朝廷の蝦夷征伐は昔からありますから。
    7世紀に来た高句麗人は積石塚を作ってないのだから仕方ない。
    蝦夷は見島のジーコンボ古墳群に見られるように、その頃にも積石塚を作ってます。

    >武烈天皇が57歳(帝王編年記や皇代記)で崩御し、その姉と崩御後に結婚して子供を作ったなどと、考えられないようなことが書いてある物を信用できますかね。

    武烈天皇が57歳で崩御したなど誰も信用してないでしょう。
    『扶桑略記』『水鏡』のように18歳でなくとも若死には確かでしょう。

    >継体天皇が即位した樟葉宮と言うのも橿原ににて、また高句麗のカソヴァルに似ています。

    枚方にある樟葉(くずは)宮ですね?
    全然似てませんが。

  • >>No. 25695

    >高麗郡に1700人配したとか言う記述はありますが、それ以前からその周辺には積石塚が作られていてそこに高麗人が居住していたのです。

    関東の高句麗人は7世紀に高句麗が滅亡した時の渡来人ですから、それ以前の積石塚は高句麗と関係ありません。

    >>蝦夷は見島のジーコンボ古墳群に見られるように、その頃にも積石塚を作ってます。

    >それが本当の高句麗難民でしょう。
    記事が無い所を見ると朝廷には属していず、独自の勢力を保っていた。文化的には倭人と交流があったのでしょう。

    何で高句麗が蕨手刀を持ってるのですかw
    mutouhaさんの何でも高句麗病は至急治すべきです。

    >なんで年齢を書かないのでしょう。

    記憶できなかったから。

    >「くずは」「かしは」   ・・・ 言語学上は非常に近いものです。

    全然近くないです。
    樫の木のある原だったから橿原、あるいは大阪の柏原。

  • >>No. 25701

    >高句麗が滅亡する前に来ていましたね。
    信濃の国といえば積石塚が沢山あるところなので、本当は推古天皇の時代より早く来ていたと考えるのが妥当でしょう

    高句麗が滅亡する前に来てますね。
    しかし大室古墳の始まる5世紀後半ではないですね。
    卦婁真老らが【推古天皇・舒明天皇の時(飛鳥時代593〜641)に入国帰化】したのなら、
    仏教が入ってた頃なので古墳は作らないでしょう。
    したがって古墳を作ったのは仏教に帰依してなかった蝦夷でしょう。

    >蕨手刀のルーツは定かでありませんが、日本製とも考えにくい。

    蝦夷なので日本製ですが。

  • >>No. 25703

    >信濃の5世紀末の「八丁鎧塚出土の帯金具」の獅子の顔と4世紀後半の「高句麗の安岳3号墳の柱の壁画」の獅子とはそっくりだそうです。
    少なくとも八丁鎧塚古墳の主は高句麗人だったでしょう

    鮮卑族の鞍や鐙が出ても鮮卑族の墓とはなりません。
    だいたい5世紀といえば大和朝廷が高句麗と戦ってた頃です。

    >東北藤原氏は粛慎の末裔でしょうか?
    >ワタシ的には粛慎人が主導権を持って蝦夷軍を率いていたと思います。

    東北には室内に貯めた小便で顔を洗う文化があるのですか?
    19世紀の朝鮮にはあったみたいですが。

  • >>No. 25706

    >誰かがそれを持ってこなければ日本には来ませんよ。誰かが持ってきた

    単なる交易でしょうに。

    >外国の史書にはそのように書いてありますが、ヤマトの史書にはそれほど戦った様子がありませんね。
    倭とヤマトは別物でしょう。

    三韓征伐がありますね。

    >少なくとも私の生きている頃にはそういう文化はありません。
    と言うより、粛慎とか靺鞨がそう言う風習があったのでしょうか?

    あったんじゃないですか。朝鮮人には引き継がれてますね。

  • >>No. 25716

    >日本書紀は外交史に関してはどこかの史書を参考に書かれたので、参考書に書いたないことは書かれなかったのでしょう。

    日本書紀の三韓征伐と好太王碑文の帯方郡への進入が応神天皇陵の鮮卑の鞍に現れてます。


    >他人や他民族の文化や価値観について、ああだこうだ言っても仕方ないのでは?

    そう思うなら今でも人尿洗顔を続けてればいいのにね。
    何故止めたのでしょうね?

  • >>No. 25718

    >好太王碑文をヤマト人は見なかったのでしょうね。みたらしっかり書いたでしょう。

    だから見てないのに三韓征伐と書いたのだから、帯方郡侵入は本当の事でしょう。

    >日本でもちょん髷を止めたり、お歯黒を止めたりしていますからね。

    恥ずかしくなったからでしょうね。

  • >>No. 8

    >庄内土器、三雲が最古とするのは渡来順路として無理のないところですね。
    突如として河内というのはあまりにも唐突です

    庄内土器は畿内?様式や?様式から発展した土器で九州発祥ではありません。

  • >>No. 1

    神武の皇后ヒメタタライスズ媛は大物主の娘あるいは孫と言われてるので、
    推定、2世紀末ごろには神武、ニギハヤヒ、大物主の3者が同時存在してた可能性が高いと思います。
    この3人の誰が一番上と言う事でなく、
    権力、武力、宗教的権威をこの3者がうまく分け合ってたのではないでしょうか。

  • >>No. 181851

    >記紀からして、3世紀末に神武がいたなら卑弥呼=天照説が当てはまる。

    いやいや応神天皇元年390年として天皇平均在位を計算すると11年。
    神功皇后を1代とし15代遡って計算すると神武即位は3世紀前半。
    実際には4世紀代は父子継承が多いので神武即位は3世紀丁度くらいかと思います。

    そういうわけで卑弥呼は初代皇后ヒメタタライスズ媛。
    卑弥呼=「ヒメ」子ですね。
    トヨは4代威徳天皇の皇后である天豊津媛命。

    もはやこれ以外なし。

    畿内説の主流、ヤマトトトソモモソ媛は4世紀頃の祟神天皇の2代前なので、
    2世紀後半生まれの卑弥呼とするのは絶対無理。

  • >>No. 25723

    >稲飯命は新羅王の祖であるとする異説を載せている。
    兄弟の神武も当然、新羅王の縁戚であろう。

    稲飯命は実際には水死でしょう。
    でもそれじゃ格好つかないから新羅の王の祖先になったとしたのでしょう。

    >むしろ、新良貴と名付けたからには、新羅から来た人である事を示している筈。
    新羅王の祖先だから新良貴と言う事は普通にはないことだから。

    いや新羅が倭語でしょう。
    日本に白木と言う地名が多いですがほとんど崖や岩に関わってるそうです。

  • >>No. 29

    >東洋最早の製鉄・鍛鉄文化
    >高度に発達した甲冑、武具、水軍が確認されています

    邑婁の甲冑とはどのような物ですか。
    鉄製ですか。
    日本では鉄の甲冑は3世紀後半ですが時代は合いますか?

  • >>No. 25729

    >また根拠もない噂のたぐいの流言ですね。
    岩や崖などどこにでもありますから。

    アイヌ語だというソースありましたが失念です。

    >全国に多く存在している白木という地名のほとんどは、古代に新羅であったものの転訛である。したがって古くは新羅人の居住区であった。北は岩手県から福井県、石川県、三重県、大阪府、広島県、福岡県、熊本県など広く見られる

    新羅人はそんなたくさん住んでません。
    こじつけでしょう。
    白い木の意味もあるでしょう。

  • >>No. 38

    日本の初期鉄製短甲は縦剥板であって小札ではないし、
    纏向遺跡の始まる3世紀前半には鉄製短甲が見られないということは、
    邑婁である可能性などほぼありませんね。
    竪穴の住居跡もないし、邑婁が得意の吹き矢もないしあきらめましょう。

  • >>No. 44

    >O2b1 21.2% 邑婁

    遠い遠い昔に枝分かれしたO2b1が、
    大陸で「邑婁」と呼ばれた集団にも多くいたと言う事でしょう。
    邑婁が3世紀の纏向遺跡と関係してるなどと言う話とは全然関係ないです。

  • >>No. 25742

    >河南町も新羅人伽耶人が多く住んだのではないですかね。

    双円墳である金山古墳がありますね。

    白木神社の祭神は素盞鳴命とあるように、
    スサノオ絡みの里帰り倭人でしょう。
    スサノオは新羅人ではありません。

本文はここまでです このページの先頭へ