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投稿コメント一覧 (943コメント)

  • >>No. 25526

    >なんで神武は朱蒙とそっくりなんですか?
    神武なんて架空であり、朱蒙神話をベースに創作されたと考えた方が良い。
    そう考えられないと言う人はオカシイのではないでしょうか?

    久米も大伴も大和入りし実在。
    神武の先妻アヒラツ媛を祀ってる場所まで奈良にある。
    にもかかわらず親方の神武がいないと考える方が変。
    朱蒙神話なんてどうでもいいものをベースに創作されたと考える方がオカシイのではないでしょうか?

    >日本武尊は宋書の倭王武の話から創作された。

    四道将軍と同じで経路沿いに古墳が出来てます。
    四道将軍が事実なら日本武尊も事実。

    >女が大将になってやってきたら、三国史記に書いてあるでしょう。

    三国史記に書いてあれば事実と認められるのですね。
    ならば脱解など倭人が新羅を建国したのは事実ですね。
    古事記によると神功皇后は屈服した新羅王の門に住江神(ナカツツノオがいる)を祀った。
    脱解を娘婿にした2代目王・南解次次雄とはナカツツノオのことでしょうね。
    女が大将になってやってきて屈服させられたことはさすがに恥ずかしいので韓国側も書かなかったのでしょう。

    >中国の文献や考古と比較しているので日本ほど大幅には狂いません。

    陶質土器をどうやって中国の文献と比較なんて出来るのですか。

    >邪馬台国は九州にあったと言う事が考古学的にははっきりしています。

    笑う所ですか。卑弥呼は誰だと考えておられますか?
    わけの分からない女酋長はダメですよ。

    >庄内式甕を九州で作った人は、畿内から生口として送られて来た人。

    土師氏を見ても分かるように土器を作る工人は生口ではありません。
    くだらない差別や偏見はやめましょう。

  • >>No. 25532

    >書記に書かれたことに基づいて後付で作られた。

    何の縁もない赤の他人が、顔に刺青を入れた久米という恐ろしい男を先祖代々祀り続けるわけありません。
    子孫たち以外にありません。
    というか久米の居住地ではないと否定してる人なんていませんが。

    >高句麗人が大和政権内にいたからでしょうね。

    そんな事考える方がオカシイのではないでしょうか?

    >突然出現した陶質土器と、征服戦争が行われた形跡から陶質土器が生まれたのは新羅や伽耶が建国された時代と推測。朝鮮半島南部で征服戦争が行われたら
    中国の史書に書かれていないはずがない。書かれていないのは中国(南朝)が混乱していて半島南部から朝見の使者が着ていない時期。3世紀末から4世紀中葉までの間と考えられるということです。
    新羅・伽耶が建国したのは4世紀中葉が最も確からしい。その陶質土器が日本の庄内式土器と一緒に出たら庄内式土器の時代は4世紀中葉以降になるというのは常識的でしょう。<

    戦争と土器は関係ないし、建国と土器も関係ありません。
    日本では4世紀末から須恵器が登場しますが戦争や建国と関係ありません。

    >箸墓は早くても4世紀後半というのが妥当ですから、

    妥当ではありません。
    で、卑弥呼は誰なんですか?

    >畿内ではそうだったかもしれませんが、一般的に土器作りは身分の高くない人か、女性の担当です。

    そんな事決まってません。

  • >>No. 25546

    >久米族は居たのでしょう。久米が九州からやってきたのも事実でしょう。

    ならば神武もいたでしょうからそれでいいわけです。

    >異面の人を見慣れた人は目が大きくされているような刺青を見てびっくりなんかしないでしょう

    そういう刺青してるのは安曇と久米だけですから驚いたでしょう。

    >高倉下なんて高句麗人そのものですよ。

    残念、物部系です。

    >戦争で勝利したのは内モンゴルあたりから来た騎馬民族的集団だった。その集団が陶質土器の技術を持ってきたと想定されるのです。

    陶質土器は中国南部がルーツですが。

    >さあね、九州王朝は史書を残していないか、残した史書は機内王朝に簒奪されたのですから、わからないというのが正しい。

    結局分からないのですかw

    >記紀に書いてある人物から候補者を探すのは無理でしょう。

    平均在位からしてヒメタタライスズ媛しかいません。

  • >>No. 25555

    >久米が九州から来たのは5世紀中葉くらいだと思います。

    一緒に大和入りした大伴氏の、継体天皇擁立に尽力した大伴金村が5世紀後半ですからそれはありません。

    >三世紀の倭国ではほぼ全員がやっていたので、安曇と久米だけになったのは、それも畿内限定で、6世紀くらいではないでしょうかね。
    7世紀でも倭国では多くの人が男女多黥臂點面文身ですからね。

    點面と言っても目の周りに刺青を入れてたので驚いたという話ですから。

    >物部が高句麗系でしょう。

    弥生時代、伽耶で鉄を採ってた倭人でしょう。
    伽耶に北九州系の土器が大量に出てる製鉄遺跡がありますから。
    高句麗は全く関係ない。

    >モモソ姫やジンコウ皇后でないことは確かじゃないですか?

    それには大賛成です。
    推定2世紀後半生まれの卑弥呼が祟神天皇の2世代前であるはずありません。
    1世代を50年で説明しなければいけませんからね。
    畿内説の主流派であるモモソ姫説は破綻してます。

    >架空でしょう。

    久米が九州から大和入りしたことは認めて、
    その久米の顔に驚いたヒメタタライスズ媛を認めないと言うのは話がバラバラですね。

  • >>No. 25559

    >>一緒に大和入りした大伴氏の、継体天皇擁立に尽力した大伴金村が5世紀後半ですからそれはありません。

    >どういう論理かわかりません。

    http://kodai.sakura.ne.jp/nihonnkennkokusi/tennnou.gif

    「久米が九州から来たのは5世紀中葉」などと言っておられるなら大伴も同じでしょうから、
    大伴氏ぐらいにの豪族なると、神武と共に行動した大伴道臣から始まり、味日、稚日命と続く立派な系図があるので、
    金村の前あたりの5世紀中葉から「突然」始まらないと言ってるわけです。
    他の豪族との絡みも含め否定できませんよ。

    >三世紀には刺青を全員がやっていた。その中で目が大きく表現されていたくらいで驚きませんて。すぐに刺青とわかります。

    目の周りに入れるのは久米と安曇くらい。

    >5世紀には全国あちこちに高句麗由来と思われる積石塚が現れます。(以下略)
    私は記紀に書かれたことは5世紀以降のことだと思っていますから。

    思うのは勝手ですが5世紀ではありませんから。

    >普通に考えればヒメタタライスズ嬢は畿内にいたのではなく、どこからか畿内にやってきたと考えるしかないのでは?

    お母さんは大阪の茨木ですが。

  • >>No. 25561

    >大伴は応神天皇に付随して現れた氏族でしょう。
    >応神天皇の別名にも鞆があり、大鞆から大伴になった。
    もちろん、大伴が無から生まれたのではないでしょうから、応神天皇が外国から来たのなら外国での系図もあるでしょう。

    ムチャクチャ。勝手に歴史話を作るのはやめましょう。

    >どうしてそう言えるのでしょう?

    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%A5%E3%82%8C%E5%A2%A8
    「『日本書紀』中にも、履中天皇元年四月に、住吉仲皇子の反乱に加担した阿曇野連浜子に
    『即日黥』(その日に罰として黥面をさせた)との記述[5]がある。
    この記述は、海人の安曇部の入れ墨の風習を、中国の刑罰と結びつけて説いた起源説話とされている。」

    つまり刑罰として入れられたのが起源ではなく、
    「安曇目」と言われてるように、安曇氏にも元々そういう習慣があったという説が強いようです。

    >文字による記録がない時代に500年もの記憶があるはずもないでしょうね。
    記紀は明らかな偽装がたくさんありますから、偽の系図くらいいくらでも作ったでしょう。

    文字も新聞もネットもない時代だからこそ、
    自分のアイデンティテイを記憶してたのでしょうから、
    かなりの部分が信用できます。
    古事記なんて天皇の没年が分からない場合は素直に記述してませんから。
    日本書紀は年代をムチャクチャしてますが。

    >もし、大阪で黥面が普通に行われていなかったとするなら、畿内は倭国で無かったということなのでしょう


    (上記のリンク参照)
    だから人物埴輪を見ても分かりますが、
    黥面というのは普通にあるわけです。

    ・鼻の上に翼型の入れ墨をしたA類(畿内を中心とする西日本)
    ・顔面に環状の入れ墨をしたB類(畿内を中心とする西日本)
    ・A類とB類の合わさったC類(畿内のみ)
    ・頬に八の字の入れ墨をしたD類(関東地方)

    と、ちゃんと地域別に分類までされてるわけですから。
    で、ヒメタタライスズ媛は久米の黥「利目」に驚いたのだと何度言えば…
    分類を見ても利目は畿内や西日本にもない習慣ですね。
    利目という呼称が存在するということは、黥面の中でも特殊だったと言う事ですから。

  • >>No. 5181

    >:ってことは
     倭国大乱前の男王は大国主って感じなんだよね

    2世紀後半、奈良盆地の環濠集落が終わり、銅鐸も消え、
    後に前方後円墳もできるという文化的変化は、
    神武軍の進入以外にないと思いますが、
    記紀では神武侵入以前に奈良盆地を支配してたのは、
    八十梟師(やそたける)新城戸畔(にきとべ)居勢祝(こせのはふり)などの土蜘蛛ですね。
    どん尻に控えてたのがナガスネヒコですが、
    長い脛はアイヌを思わせますし、この人物も土蜘蛛でしょう。

    そういうわけで大国主は生きてれば三輪山あたりで生活してたのでしょうが、どうも影が薄いのです。
    謎です。

  • >>No. 1

    >記紀に囚われないなら、いろいろな事が考えられるようになります。

    記紀を無視していろいろ考えても仕方ない。

    >しかし、記紀には刑罰として黥面を施したというのですから、雄略天皇の頃には黥面は一般には無かったのでしょうね。九州には一般的にあった事。
    雄略天皇は倭国の王ではありませんね。九州こそ倭国だったのですよ。<


    時代と共にだんだん廃れていって、記紀の編纂の頃には一般的でなかったのでしょうね。
    しかし雄略の頃に個人の刑罰として顔に刺青を入れられたのなら部族単位で安曇目と呼ばれてるのもおかしい。
    したがって記紀編纂の頃まであった安曇目の起源を説明したものでしょう。


    >自分の経歴をごまかそうとしてデタラメを言う人は今でも沢山います。
    有栖川家の後裔詐称事件などもあったでしょう。

    詐欺事件があってもみんな詐欺ではありません。

    >弥生時代には埴輪なんてないのですから、弥生時代に黥面がどのようだったかはわかりませんよね。

    習俗的には古墳時代もさほど変わらないでしょう。

  • >>No. 25589

    >文献上ははっきりと高句麗は出てきませんが、五世紀になって高句麗由来の積石塚が九州から関東・東北までたくさん作られています。大きなものはありませんが、大きな積石塚は石を沢山使うので作れなかったのだと思います。
    これほど沢山の積石塚が日本全国に作られたのに、5世紀の高句麗人渡来について記紀がこれを書いてないのは逆に不自然でしょう。高句麗隠しが行われたのだろうと思います。<

    大室の合掌型石室などは半島にありません。
    したがって高句麗由来とは決まってません。
    また近くに森将軍塚など畿内系の巨大古墳があるので、
    大和朝廷の管理下にあったのでしょう。
    自分は朝廷に帰順し馬の生産をしてた蝦夷の塚だと思ってます。

    >すると刑罰として顔に刺青をしたということは身分を奴隷に下げたことを示している。
    倭国の風習ではないようです。

    西洋文明に出会ってチョンマゲが恥ずかしくなってやめたように、
    中国と比較して入れ墨が恥ずかしくなったのでしょう。
    顔に刺青をしてた久米はタギシミミの反逆後に没落してます。

    >勾玉のようなお宝は渡来人もこれをお宝としても有りうる事でしょう。

    わずかに渡来系のものがあれば、それは渡来人のもの、
    残りの在地系のものは渡来人が取り入れたというその江上論法は禁じ手です。
    それを証明しなければなりませんから。

  • >>No. 25595

    >百済にはあるようですよ。

    日本のほうが早かったはずですね。

    >白石さんはこれが九州で先に発生して長野に伝わったと言っている。
    積石塚は九州が先なのです。

    九州の積石塚ってどこなのですか。

    >前方後円墳とは言い難い変な格好をしていますね。

    前方後円墳です。

    >積石塚を国内発生などという人はいませんよ。

    積石塚は三内丸山にあります。
    石、土、木しかない時代なのだから何も変ではないですよ。
    環状列石はY染色体のC系の遺物だと思いますけどね。

  • >>No. 5192

    >:ってことは
     神武は国譲りの時代の5世代後の人物なんで
     1世代20年程度とすると
     国譲りから100年後の人物ってことかもね

    神武は天孫降臨の5代後ですね。

    >:国譲り(卑弥呼共立)は2世紀末なんで
     神武の即位は3世紀末頃ってことかもね

    いやいや神武が2世紀末でしょう。

    >:そーすっと
     神武と崇神は同時代って事になり
     同一人物って感じになるよね

    3世紀前半の纏向石塚古墳までありますので無理でしょう。
    もっともそれらは大王家の墓ではなくニギハヤヒ系でしょうが。

  • >>No. 25606

    >相島
    竪穴式から横口式、横穴式まで変遷した様子が見えます。
    早いものは4世紀末と考えられたいます。<

    youtubeで見ましたが、単なる石室です。
    土盛りがないため、横穴式石室が積石塚に見えるだけです。
    つまり日本人の墓です。

    >それより箸墓は積石塚らしいですよ。
    前方後円型積石塚。
    http://d.hatena.ne.jp/ougon_teishoku/20120909/1347188637
    44年も前に分かっていたのに秘密にされていた<

    こんなの何も問題ない。
    ホケノ山も埋葬部分に石を大量に積んでたはず。
    むしろホケノ山と箸墓の時代がさほど変わらなくなりますよ。

  • >>No. 25610

    >そんなことを言う人はあなただけです。

    なんのことはない竪穴式石室や横穴式石室が普通にありましたが?
    4世紀末〜6世紀後半というのも石室の編年でしょう。


    >やはり前方後円墳型積石塚と言っていいのでしょう。

    石室に石があるのは当たり前ですから、それで積石塚になるなら全部積石塚です。
    それより四国の萩原墳墓と近いのなら箸墓は3世紀代になりますがそれでいいのですか?

  • >>No. 25623

    >積石塚以外の表現は出てきません。

    石が豊富にあるのであるので石で作っただけでしょう。
    しかしながら画像にあるように横穴式は積み石でしょうが、
    竪穴式石室は「塚」でさえありません。

    >倭人の墓「封土作冢」とは全く別のもので、高句麗の墓「積石爲封」と全くよく一致しているのですよ。よしんば畿内に倭国があったとしても、箸墓やホケノ山は三世紀中葉のものではない、ずっと後のものである可能性が高い事が分かるでしょう。
    >三世紀末あたりに楽浪で作られた画文帯神獣鏡が出土していますから、四国の萩原墳墓は三世紀末までなら遡れる可能性は否定しません。
    ですが私はこの鏡は楽浪が高句麗によって滅された、4世紀前半以降にもたらされたと考えています。<

    ほとんどが土盛りなので、
    高句麗の墓「積石爲封」と一致してません。
    それより箸墓とホケノ山は立地的にも時代的にも繋がってることが分かりました。
    やはり3世紀でしょう。

  • >>No. 25629

    >誰かが盗掘したあとでは?

    石なんか盗んでどうするのですか。

    >「積石爲封」でしょう。
    >箸墓は少なくとも「封土作冢」ではありませんから、箸墓が三世紀に作られていたら畿内は倭国ではありません。

    先日、箸墓を見てきましたが普通の土盛りです。
    埋葬部分が大量の石であろうが関係ありません。

    >楽浪で三世紀末に作られた鏡があるのですから、ホケノ山は早くても三世紀末を遡るのは無理。

    勝手に決めちゃいけません。
    漢鏡7期でしょう。
    だいたい箸墓古墳の地層の層位が、
    4世紀初め〜前半の渋谷向山、西殿塚、桜井茶臼山古墳よりおおよそ1段階前だと判明してますので、理屈こねても無理です。

  • >>No. 25632

    >そういえば朝鮮の土器が出ているので、渡来人の墓であることは確かなようですね。

    須恵器ですか?須恵器なんて渡来人の象徴でもなんでもないですよ。
    まぁ航海途中で亡くなった人の墓なら渡来人もいたでしょうけど。

    >下のほうが土でも主体部が「積石爲封」・・・石を積んで封じています。間違いないでしょう。

    箸墓は後方部の端(へり)が高い讃岐型前方後円墳というもので、
    纏向型前方後円墳とは違う系統のものです。
    したがって高句麗の前方後円墳と称する偽物とももちろん違います。
    つまり高句麗は関係ありません。

    >中国の学者が認めていない「漢鏡7期」を勝手に作ったのが日本のトンデモ学者ですよ。
    後漢の時代に画文帯神獣鏡は確かに作られていますが、呉の地域でです。洛陽には入ってきていない。(以下略)

    そんなのは小説です。

    地層の層位で4世紀前半の西殿塚・桜井茶臼山より箸墓が古く、
    続いて矢塚・中山大塚・東田大塚となり、
    少し間が空いて勝山、さらにホケノ山、
    そして最古が纏向石塚と判明してます。
    箸墓は3世紀末かもしれませんがホケノ山は3世紀中頃が確実です。
    いい加減あきらめましょう。

  • >>No. 25643

    >箸墓が卑弥呼墓だとういう仮定は、14^C年代測定の結果(AD250+-10)、確定だよ

    安本さんのような高名な人物と間違えてくれて恐縮だが、
    発掘してない箸墓の何がAD250+-10だったのだ?

  • >>No. 25646

    >>発掘してない箸墓の何がAD250+-10だったのだ?//
      >御前さん、知らんのかね。無論、後世の攪乱混入物なんぞを測定したわけじゃないぞ。

    14^C測定で「+-10」なんて出るのか。
    そんなに精度があるのか?
    発表した側の恣意だろう。

    >14^C測定は正確でないなぞと云いながら、後世の攪乱混入物の測定結果が4世紀と出たから箸墓やホケノ山は4世紀だ、なぞとホザいてるんだからな。

    それはあんたに賛成。
    Wスタになるからな。

    >御前は何を以て3世紀末だなぞとホザいてるのかね。

    古事記での祟神の没年がAD318年で間違いないだろうと思ってる。
    祟神陵が行燈山であったとして、
    箸墓は地層の層位が行燈山より一段階前のようだから、
    3世紀後半から末ではないだろうか。
    ということは伝承通り、箸墓の被葬者は祟神の1世代か2世代前のヤマトトトヒモモソヒメだろう。
    しかし彼女は卑弥呼ではない。
    祟神の1世代か2世代前で卑弥呼の推定生年180年頃を説明できない。

  • >>No. 25659

    >高句麗の古墳も初期には竪穴です。少しも変ではありませんねえ。

    高句麗の初期なら時代が合いませんね。
    それよりこの積石塚、長崎の曲崎古墳群。

    http://www1.city.nagasaki.nagasaki.jp/bunkazai/bunkazai/bunkazai/133.html

    「石室構造には竪穴系横口式石室の特徴をもつものが見られ、
    北部九州に分布する同種の石室構造をもつ古墳群と同様で、
    このことからこの地域が北部九州の文化圏に属していたことが判明した。」

    石がある場合には石を使う。
    こんな事当たり前です。
    積石だから渡来系なんて単純すぎます。
    この曲崎古墳群は誰の墓かわかりませんが、相島はおそらく宗像氏でしょう。

    >前にも話しましたが、巨大古墳は記紀に書いてある大王よりもはるかに多いのですから。おそらくは大王の墓だけではなく、大王の兄弟や、イトコハトコまで巨大古墳を作ったのだろうと思います。すると大王級の墓の数が多いことも説明できます

    全く賛成だし、説明できるのなら非実在説なんて言わなくていいではないですか。

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