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No.202
論評107へ
2013/03/02 11:32
{業務連絡・・・私はまだ新しいシステムtextreamの事がよく解りません。このトピックの表紙みたいになっているのは、私が何回も落としてしまった為に、表紙みたいになっている中途なものです。現在のベルジャーエフ著 「孤独と愛と社会」の初回(まえがき?)はコメントNo.66、,本文論評初回はコメントNo.79です。なお今回の初回はコメントNo.200です。メルアド等変わっていますのでご注意ください。マスター、・・でもこれも二番目に入るんだろうな?}
ニコライ・ベルジャーエフ著 「孤独と愛と社会」氷上英廣訳 1975
本文論評 その108 第三章 われ、孤独、利益社会
3、孤独と認識・・超越・共同体・性・宗教
{我々の世界の限界内にあって二元論は克服できない。この二元論とより高きものへ向かっての限界の超越が結びついている。愛は超越であり,人間の孤独寂寥感は自己から他者への歩み出や共同体への求めを避け難いものとするが,性の形而上学的秘密は非常に深大なので性的な孤独と憧れは愛においても完全には克服されない。共産主義にとっては社会生活の為に集団意識によって人格意識が代替され,あらゆる[われ]が解消する事によって孤独は克服され,[われ]は社会構成の中に編入される。性生活は社会機構に従属せしめられ,ここから出てくるのは優生学の意義,性の機械技術化,人格的愛の完全な否定であり,客体化社会化という方法で問題を解こうとする。これは格別新しい事ではなく,初代教父達や通常の教会的意識において同一の人格的愛の否定や社会制度としての性生活の把握を我々は見い出す。人間を社会的客体的な世界の中に沈めるものは[力への意志]であり,しかもこの意志は人間実存の最深の運命と結びついている。力はたんに客体的な世界をのみ左右する事ができるのであって孤独を克服する事はできない。宗教Religionは結合であり結ぶことを意味する。宗教は孤独の克服,自己自身の隔絶状態からの歩み出,共同性と親近さの獲得と規定でき,それが宗教の本質的なもので,存在の秘密,存在そのものとの一致を意味する。しかし孤独は宗教によって克服されず孤独は神によって克服される。まさしく神こそ私の孤独の克服,私の実存にとっての全体性と意味付与の獲得である。客体化社会化された宗教(教会)では,孤独は[われ]の世界への被投性の結果,鈍くされ依然として孤独は存在論的には克服されない。存在論的には内的実存の秩序における,原本的な生における,共同体としての教会における[われ]の神への関係によってのみ孤独は克服される}
宗教生活においても、認識や性生活やその他全てと同様なものが繰り返される。同じ二元性、同じ二つのパースペクティヴである。・・・精神と自然、自由と必然、客体化と実存あるいは原本の生の関係である。もちろん宗教は社会現象であり、それはすでに第二義的で客体化され、世界の中に投げられてある。しかし同時に宗教は啓示であり、神の声、神の具現であって、その時にはそれは第一義的であって、客体の世界、社会化された世界に属しない。(ex.ベルグソン前掲書)しかしこの事は、この場合において宗教がたんに個人的現象にとどまり、個々の霊魂の所有である事を意味していない。その反対に、むしろ宗教は私と神との結合と一致であるばかりでなく、私と他者との、隣人との結合と一致であり、共同体、共同性、Kommunionである。しかしこの結合と共同体は、一者が他者に対して客体であり、[なんじ]でなく、神さえも客体となって[なんじ]とならない利益社会における客体化とは、違った秩序をあらわす。
キリスト教の秘儀は、[われ]の孤独の克服、しかも神人キリストにおける、キリストの神秘的体軀(Corpus Christi)における克服の秘儀である。しかしキリスト教信仰への形式的信仰告白や教会への形式的所属は孤独を克服しない。孤独の克服は、外観的表面的であって、深所において遂げられない事もありうるし、表面への被投を意味するかもしれない。社会化されたキリスト教においては、愛は因襲的に記号的象徴的な性格を帯び、なんら真実在的性格を帯びる事がない。生の頂点を意味する真実在の愛のみが、孤独を克服する。
続く、マスター、合掌、 -
No.203
to コメントNo.202
2013/03/06 12:01
業務連絡・・・現在のベルジャーエフ著 「孤独と愛と社会」の初回(まえがき?)はコメントNo.66、,本文論評初回はコメントNo.79です。なお今回の初回はコメントNo.200です。メルアド等変わっていますのでご注意ください。マスター、
ニコライ・ベルジャーエフ著 「孤独と愛と社会」氷上英廣訳 1975
本文論評 その109第三章 われ、孤独、利益社会
3、孤独と認識・・超越・共同体・性・宗教
{人間を社会的客体的な世界の中に沈めるものは[力への意志]であり,それは人間実存の運命と結びついているが,力は単に客体的な世界を左右できるのであって孤独を克服できない。宗教は結合を意味し,自己自身の隔絶状態からの歩み出,共同性と親近さの獲得と規定でき,それが宗教の本質で存在の秘密,存在そのものとの一致を意味する。しかし孤独は宗教ではなく神によって克服され神こそ私の実存にとっての全体性と意味付与の獲得であり,客体化社会化された宗教(教会)では,存在論的に克服されない。宗教生活においても認識や性生活等と同じ二元性…精神と自然,自由と必然,客体化と実存或は原本の生の関係が繰り返される。宗教は社会現象であり既に第二義的で客体化され世界の中に投げられてあるが,同時に宗教は啓示であり神の声/神の具現であり,その時には第一義的であって客体の世界,社会化された世界に属しない。しかしこの事は宗教が単に個人的現象で個々の霊魂の所有である事を意味するのではなく,その反対に宗教は私と神との結合であるばかりでなく,私と他者/隣人との結合であり,共同体/共同性である。
キリスト教の秘儀は[われ]の孤独の克服,しかも神人キリストにおけるキリストの神秘的体軀における克服の秘儀である。しかしキリスト教信仰への形式的信仰告白や教会への形式的所属は孤独を克服せず,社会化されたキリスト教において,愛は因襲的に記号的象徴的な性格を帯びなんら真実在的性格を帯びる事がない。生の頂点を意味する真実在の愛のみが孤独を克服する}{全ての宗教の根源にこの関係がありますね?}
キリスト教の宗派への形式的な所属は、単に客体化の一段階を意味するに過ぎない。そして自己自身から歩み出て客体の中に入った[われ]は孤独を克服しない。それは単に自己から他者の中に入ったのであって、実在的存在論的には何ものとも結合したのではない。そのゆえ、ひとは宗教的教会的生活の中で、非常に激しい、異常な苦悩に充ちた孤独を経験する事がある。ひとは教会に属し、同信者の中にありながら、異なった信仰や信念を持った人々の中にあるよりも、さらに大きな孤独を覚える事がある。同信者との間に単に客体化された関係しか持たず、彼らを[なんじ]としてではなく、単に客体として見る事がある。
この現象は非常に胸を苦しめるものであり、悲劇的でさえあり、宗教生活の基本的な二元性を証明する。精神化の強化は、孤独の強化を意味する事がある。なぜならそれは、客体化された世界における社会的関係の断絶を惹き起こすかもしれないから。上昇の途上にあっては苦悩的な破綻は不可避である。しかし孤独の終局的克服は、いっさいが私の内にあるところの精神的象面においてのみ、神秘的体験においてのみ起こるのである。この道は客体化の道とは正反対のものである。客体化の道は、親近性を失った完全な疎遠状態の中で、連繋と結合をこしらえあげてしまう。キリスト教内部の人間的連繋と結合は、あまりにもしばしば修辞的便宜的性格を帯びる。
連繋と結合の象徴性は修辞的であり、人間社会の全生活が、そのような模倣的修辞学に基づいているのである。
精神的神秘的に到達されるものの実在論は、それに反対である。もちろん神秘主義も便宜的な修辞となりうる。その時はそれも客体化となり、社会的日常性に引き下げられる。しかしかくの如きは、神秘主義本来の意味ではない。
人間的実存の、私の実存の深所は精神的であり、客体化された強制的世界に属さず、そこに根源をもっていない。この深所においてのみ、孤独は克服されるのであり、それはかかる深所の[しるし]であり得るのである。{[ ]by 阪本}
続く、マスター、合掌、 -
No.204
to コメントNo203,
2013/03/10 12:59
ニコライ・ベルジャーエフ著 「孤独と愛と社会」氷上英廣訳 1975
本文論評 その110 第三章 われ、孤独、利益社会
3、孤独と認識・・超越・共同体・性・宗教
{キリスト教の秘儀は[われ]の孤独の克服,神人キリストにおけるキリストの神秘的体軀における克服の秘儀である。しかし信仰への形式的信仰告白や教会への形式的所属は孤独を克服せず,社会化されたキリスト教において愛は因襲的に記号的象徴的な性格を帯び,真実在的性格は帯びる事がない。宗派への形式的な所属は単に客体化の一段階を意味するに過ぎず,実在的存在論的に何ものとも結合したのではない。そのゆえ人は教会的生活の中で非常に激しい異常な苦悩に充ちた孤独を経験,教会に属し同信者の中に居ながら信者間に客体化された関係しか持たず,彼らを[なんじ]としてではなく単に客体として見る為,異なった信仰や信念を持った人々の中に居るよりも更に大きな孤独を覚える事がある。この現象は悲劇的に宗教生活の基本的な二元性を証明する。又精神化の強化は孤独の強化を意味する事がある。それは客体化された世界における社会的関係の断絶を惹き起こし,上昇の途上にあっては苦悩的な破綻は不可避である。孤独の終局的克服は一切が私の内にあるところの精神的象面において,神秘的体験においてのみ起こるのであり,この道は客体化の道とは正反対のものである。客体化の道は親近性を失った完全な疎遠状態の中で連繋を作りあげ,キリスト教内部の人間的連繋は,しばしば修辞的便宜的性格を帯びる。連繋と結合の象徴性は修辞的であり,人間社会の全生活がそのような模倣的修辞学に基づいている。精神的神秘的に到達されるものの実在論は,それに反対である。もちろん神秘主義も便宜的な修辞となり得,その時はそれも客体化となり社会的日常性に引き下げられるが,それは神秘主義本来の意味ではない。人間的実存,私の実存の深所は精神的であり客体化された強制的世界に属さず,そこに根源をもたない。この深所においてのみ孤独は克服されるのであり,それは係る深所の[しるし]であり得る} (ex.ベルジャーエフ前掲「自由なる精神の哲学」)
客体化の徹底は、孤独の問題それ自体をしりぞけてしまう。[われ]は自己を孤独と感じない。それは自己を客体に、社会に所属するものとして認識するからである。しかしこの事は、たといこの客体と利益社会への所属が(反)宗教的性格を持っていようとも、[われ]が孤独を克服した意味には少しもならない。{(反)by阪本、E・フロム[自由からの逃走]と同じ図式ね?}この事は深所の発見としての孤独の成立の後ではなくて前の状態なのである。ここに全ての領域における・・・認識生活における、性生活における、社会的および宗教的生活における・・・孤独の問題のまったき複雑性が存する。
孤独の病気は、人間運命の哲学としての、人間実存の哲学の根本問題の一つである。
これにおとらず困難な、これと関連した次の問題は、時間の病気の問題である。
第四章 時間の病気、変化と永遠
1、時間の逆説・・・その二重の意味・・・過去は存在しなかった・・
・・時間の変化・・・時間と懸念・・・時間と創造
時間の問題は、人間実存の根本問題である。現代ヨーロッパにおいて最も注目すべき二人の哲学者、ベルグソンとハイデッガーが、彼らの哲学の中心に時間の問題を据えているのは偶然ではない。(ex. ベルグソン[時間と自由], ハイデッガー[存在と時間])
実存哲学は時間の問題に対して、数理的自然主義哲学とは全く違った考察を下す。
実存哲学は時間の問題を、人間運命の問題として取り扱う。数理哲学のいう仮無限、実無限、不定、超限などの諸概念は、人間実存の哲学にとっては、単に間接の意味を持つにすぎない。人間実存の運命は、時間の中に具現化し時間の刻印を帯びる。時間が実存の諸変化を包括し決定する枠だと見る素朴実在論の時間理解は誤りである。本当は変化は時間の所産でなくて、時間が変化の所産なのである。
続く、マスター、合掌、 -
No.205
コメント No.205
2013/03/15 02:43
業務連絡・・・現在のベルジャーエフ著 「孤独と愛と社会」の初回はコメントNo.66、本文論評初回はコメントNo.79です。なお今回の初回はコメントNo.200です。メルアド等変わっていますのでご注意ください。ご意見、ご質問、ご相談ごと、いつでもどうぞ、お待ちしております。 マスター、合掌、
ニコライ・ベルジャーエフ著 「孤独と愛と社会」氷上英廣訳 1975
(コメントNo,205…現番号に変更しました)
本文論評 その111, 第四章 時間の病気、変化と永遠
1、時間の逆説・・・その二重の意味・・・過去は存在しなかった・・
・・時間の変化・・・時間と懸念・・・時間と創造
{時間の問題は人間実存の根本問題である。現代ヨーロッパにおいて最も注目すべき二人の哲学者ベルグソンとハイデッガーが、彼らの哲学の中心に時間の問題を据えているのは偶然ではない。(ex. ベルグソン[時間と自由], ハイデッガー[存在と時間])
実存哲学は時間の問題に対して数理的自然主義哲学とは全く違った考察を下す。実存哲学は時間の問題を人間運命の問題として取り扱う。数理哲学のいう仮無限/実無限/不定/超限などの諸概念は人間実存の哲学にとっては単に間接の意味を持つにすぎない。人間実存の運命は時間の中に具現化し時間の刻印を帯びる。時間が実存の諸変化を包括し決定する枠だと見る素朴実在論の時間理解は誤りである。本当は,変化は時間の所産でなくて時間が変化の所産なのである}
能動性があり創造があり非存在(ニヒト・ザイン)から存在(ザイン)への移りゆきがあるゆえに時間はあるのである。しかしこの能動性・創造は分裂的であって完全的でなく永遠に住していない。時間は諸実在や本質や実存が変化する事によって生み出されるのであって、その逆ではない。そのゆえに時間(の束縛感)は克服され超えられ(得)るのである。( )by阪本
我々の世界の堕ちた時間は、実存の深所で生ずる頽落の所産であり、客体化の所産である。一切が客体的世界となった不完全な、決定論的な相を帯びた世界の所産である。
時間の外には何ものもない、というのは素朴な見解である。時間は人間実存にとって二重の意味、二重の相貌を持っている。一方ではそれは創造的能動性の所産である。他方ではそれは分裂の所産、十全喪失の所産である。即ち懸念(ゾルゲ)と不安(アングスト)である。
ベルグソンは、時間の積極的意味を取り上げ、これを持続(デユレ)として明らかにするが、これに反してハイデッガーは、その消極的意味を取り上げ、これを懸念として明らかにする。我々は時間を、主体的であるとも客体的であるとも等しく云い得るであろう。この事は時間が主体に伴って遂げられる客体化の所産である、という事を意味する。
時間は素朴実在論がいうような意味とは別の意味で客体的である。客体は客体化の産物であって、通常信じられるように外から与えられた実在ではない。同じ事が時間についても妥当するのである。
ハイデッガーは現存在(ダーザイン)の即ち世界の中へ投げられた実存の・・・私の用語でいうなら、客体化の・・・存在論的根底を、時間性(Zeitlichkeit)において見る。彼にとっては、存在は懸念によって時間化される。しかしこれは時間化の一方の相貌にすぎない。時間化は懸念と不安によって起こるばかりでなく、創造的能動性によって生み出される変化によっても起こる。これまで存在しなかった新しいものが、時間の中で存在するもの、となる。ハイデッガーの哲学は、究極において「現存在」の哲学であって、「実存」の哲学ではない。その為にハイデッガーには、単に時間の一方の相貌しか開示されないのである。
我々の未来への関係は、懸念と不安によって決定されるばかりでなく、創造と希望によっても決定される。ここに時間の二つの相貌、その二重性がある。時間には懸念と共に創造が結びつく。(しかし) ベルグソンもハイデッガーも、この時間の二重性を十分に重要視していない。この二重性は、人間本性の静的相貌及び動的相貌のいずれをも決定的なものとして選ぶ事ができない、という事に基づいている。
続く、マスター、合掌、 -
No.206
コメントNo.206
2013/03/19 11:13
ニコライ・ベルジャーエフ著 「孤独と愛と社会」氷上英廣訳 1975
コメントNo.206…現番号
本文論評 その112, 第四章 時間の病気、変化と永遠
1、時間の逆説・・・その二重の意味・・変化・・懸念・・時間と創造
{ベルグソンとハイデッガーが,彼らの哲学の中心に時間の問題を据えているのは偶然ではない。実存哲学は時間の問題に対して数理的自然主義哲学とは全く違った考察を下す。実存哲学は時間の問題を人間運命の問題として取り扱う。数理哲学のいう仮無限/実無限/不定/超限などの諸概念は単に間接の意味を持つにすぎない。人間実存の運命は時間の中に具現化し時間の刻印を帯びる。時間が実存の諸変化を包括し決定する枠だと見る素朴実在論の時間理解は誤りで,変化は時間の所産でなく時間が変化の所産なのである。能動性があり創造があり非存在から存在への移りゆきがあるゆえに時間はある。しかしこの能動性/創造は分裂的であって完全的でなく永遠に住していない。時間は諸実在や本質や実存が変化する事によって生み出されるのであって,その逆ではない。そのゆえに時間は克服され(得)るのである。我々の世界の堕ちた時間は実存の頽落の所産であり客体化の所産である。時間は人間実存にとって二重の意味/相貌を持ち,一方では創造的能動性の所産であり,他方では分裂/十全喪失の所産,即ち懸念と不安である。
ベルグソンは時間の積極的意味を[持続]として明らかにするが,ハイデッガーはその消極的意味を[懸念]として明らかにする。我々は時間を主体的であるとも客体的であるとも云い得,この事は時間が主体に伴って遂げられる客体化の所産であるという事を意味する。
ハイデッガーは[現存在]即ち世界の中へ投げられた実存(客体化)の存在論的根底を時間性において見る。彼にとって存在は懸念によって時間化されるが,時間化は懸念と不安によって起こるだけでなく創造的能動性の変化でも起こり,これまで存在しなかった新しいものが存在するものとなる。我々の未来への関係は懸念と不安によって決定されるだけでなく,創造と希望によっても決定される。ここに時間の二つの相貌,二重性があり,時間には懸念と共に創造が結びつき,この二重性は人間本性の静的相貌及び動的相貌のいずれをも決定的なものとして選ぶ事ができないという事に基づいている}
前者を選べば不断の更新、たえず自己を新たにする創造を否定する事になる。後者を選べば変化を貫いての人間本性の不易な恒常性を否定する事となる。人格の構造そのものに、こうした二重性が変化するものと変化せざるものの結合として存在しているのである。
時間は二つの種類の変化を含む。生の高昇による変化と、死による変化である。我々が未来と呼ぶ部分においては、時間は不安と希望、恐怖と歓喜、懸念と解放である。時間は逆説であって、我々はその二元性においてこれを理解しなければならぬ。
時間は非実在であり、幻覚であり、空しきものであり、永遠からの脱落であるとする。これはインド哲学、パルメニデス、プラトニズム、またエックハルトの見解である。
これに対して、時間は存在論的意義を持ち、時間によって[意味]が露呈されるとする。
これはキリスト教の見解であり、キリスト教はそれによって歴史のダイナミズムを基礎づける。これはまた動的進化論の見解でもある。
一方は変化を空しい幻覚と見、変化しない不動のもののみを存在論的に実在だと見る。他方は変化そのものを実在と見、創造的能動性によって新しき獲得が生じ、存在の意味が増すと考える。人間実存の真の哲学(≒現存在的?)は、第二の立場によってのみ築かれるのである。{何か誘導的な論説ね?私はここでも中庸ね?何を主体的に考えるかで違ってきます?}
アウグスティヌスノ『告白』は、時間についてのすぐれた思想を含んでいる。彼は時間がいかに逆説的で、虚妄的であるかを理解していた。彼によれば、時間は過去と現在と未来に分かれる。過去はもはや存在せず、未来はいまだ存在しない。しかも(本文=ところで)現在はたえず過去と未来に崩れ落ちて、これを捉えることができない。
続く、マスター、合掌、 -
No.207
コメントNo.207
2013/03/23 14:30
ニコライ・ベルジャーエフ著 「孤独と愛と社会」氷上英廣訳 1975
本文論評 その113, 第四章 時間の病気、変化と永遠
1、時間の逆説・・・その二重の意味・・変化・・懸念・・時間と創造
{ベルグソンは時間の積極的意味を[持続]として,ハイデッガーはその消極的意味を[懸念]として明らかにする。我々は時間を主体的とも客体的でとも云い得,この事は時間が客体化の所産である事を意味する。ハイデッガーは[現存在]即ち世界の中へ投げられた実存の存在論的根底を時間性に見る。彼にとって存在は懸念によって時間化されるが,それは懸念と不安だけでなく創造的能動性でも起こる。我々の未来への関係は懸念と不安によってだけでなく創造と希望によっても決定される。ここに時間の二つの相貌/二重性があり,人間本性の静的/動的相貌のいずれをも決定的には選択できない。前者を選べば不断の更新,自己の創造を否定する事になり,後者を選べば人間本性恒常性を否定する事となる。人格の構造に,こうした二重性が存在し,時間は二つの種類の変化,生の高昇による変化と死による変化を含む。我々が未来と呼ぶ部分において時間は不安と希望,恐怖と歓喜,懸念と解放であり,我々はその二元性においてこれを理解しなければならぬ。
時間は非実在,幻覚,空しきものであり永遠からの脱落であるとするのはインド哲学/プラトニズムまたエックハルトの見解である。これに対して時間は存在論的意義を持ち,時間によって[意味]が露呈されるとするのはキリスト教及び動的進化論の見解であり,キリスト教はそれによって歴史のダイナミズムを基礎づける。一方は変化を空しい幻覚と見,変化しない不動のもののみを存在論的に実在だと見る。他方は変化そのものを実在と見,創造的能動性によって新しき獲得が生じ存在の意味が増すと考える。人間実存の哲学(現存在的?)は第二の立場によってのみ築かれる。アウグスティヌスは時間の逆説的で虚妄性を,時間は過去と現在と未来に分かれ,過去はもはや存在せず,未来はいまだ存在しない,しかも現在はたえず過去と未来に崩れ落ちて捉えられない,と述べた}
アウグスティヌスは三つの時間があるという結論に達した。過去の事物の現在、現在の事物の現在、未来の事物の現在である。時間はいわば割れ落ちた永遠であって、その割れ落ちた部分のいずれによっても永遠を捉える事ができない。過去も現在も未来も、永遠を捉える事ができない。人間運命はこの割れ落ちた永遠の中に、この恐るべき時間の実在性の中にあって、同時に過去現在未来の幻影の中に現成する。それゆえ人間運命はかくも無常なのである。
ベルグソンは時間と持続を区別する。持続において真の実存が開示されるものと、彼は見る。ベルグソンは世界の二元性はきわめてよく理解している。私のいわゆる[客体化された世界]…即ち堕ちた実存の世界…は、ベルグソンにあっては空間的世界である。しかしこの空間的世界はハイデッガーの考える[時間的世界]と本来同一なものである。割れ落ちた永遠は客体化された世界に変わるのであり、そこでは過去と現在と未来は引き裂かれてある。こうした状況のもとで、過去現在未来が、私の運命にどのように関係あり、この上昇し落下する実存の変化が何を意味するかを考察する事が大事である。
我々はまず「過去は真に存在したか?過去は我々の実存にとっていかなる意味を持つか?」という問題を考えてみよう。
過去は、もはや存在していない。過去の実存的存在的な内容は全て現在の中に吸収されている。過去と未来は、それが存続するかぎり、現在の部分を成す。我々の人生の過去の歴史全体は、我々の現在の中に入り込み、ただこの資格においてのみ実存する。時間の根本的逆説は、過去と未来に分落する時間の中で、私の運命が成就されてゆくという事、時間は運命を成就させるものであって、しかも同時に過去も未来も(それがなければ私の運命は成就されないにも拘らず)ただ私の現在においてのみ実存するという事である。即ち二つの過去があるわけである。・・・
続く、マスター、合掌、 -
No.208
コメントNo.208
2013/04/02 12:33
ニコライ・ベルジャーエフ著 「孤独と愛と社会」氷上英廣訳 1975
本文論評 その113, 第四章 時間の病気、変化と永遠
1、時間の逆説・・・その二重の意味・変化・懸念・時間と創造
{ベルグソンは時間の積極的意味を[持続]として,ハイデッガーはその消極的意味を[懸念]として明らかにする。ハイデッガーは[現存在]の存在論的根底を時間性に見,それは懸念と不安だけでなく創造的能動性によっても起こる。この時間の二つの相貌は人間本性の静的/動的相貌のどちらをも決定的には選択できず,前者を選べば不断の自己の創造の否定,後者を選べば人間本性の恒常性の否定となり, 我々は未来における時間を不安と希望,恐怖と歓喜,懸念と解放,その二元性において理解しなければならぬ。時間は存在論的意義を持ち,時間によって[意味]が露呈されるとするキリスト教及び動的進化論の見解は,変化そのものを実在と見,創造的能動性によって新しき獲得が生じ存在の意味が増すと考える。
ベルグソンは時間と持続を区別し,持続において真の実存が開示されるものと見る。私の[客体化された世界]は彼の空間的世界,ハイデッガーの[時間的世界]と同一で,割れ落ちた永遠は客体化された世界に変わり,過去/現在/未来は引き裂かれてある。こうした状況のもとで過去現在未来が私の運命にどのように関係あり何を意味するか?我々は[過去は真に存在したか?我々にとっていかなる意味を持つか?]という問題を考えてみよう。
過去はもはや存在せず,過去の実存的な内容は現在の中に吸収され,過去と未来は現在の部分を成す。我々の人生の過去の歴史全体は我々の現在の中に入り込み,只この資格においてのみ実存する。時間の根本的逆説は過去と未来に分落する時間の中で私の運命が成就され同時に過去も未来も只私の現在においてのみ実存する,即ち二つの過去があるわけである}
かつて存在し消滅してしまった過去と、今も我々にとって我々の成分として存在する過去である。現在の記憶の中に生き続ける過去は全く別の過去、変形され明化された過去である。我々は過去に創造作用を加えたのであり、その後に初めてそれは我々の現在の中に入ったのである。回想は過去の単なる保存でも再建でもなく常に一個の新しい過去、変貌せしめられた過去、即ち回想は創造的性格を持っているのである。
時間の逆説は結局、過去が過去としては決して真に存在しなかったという事にある。過去に実存したものは、その時は現在であり別の現在であった。過去は過去としては今日の現在にのみ実存する。過去と現在とはまったく別の実存を持つ。過去の現在は、現在の立場から見られた過去とは異なっている。過去すなわち消え去った事物や人間に対しては二重の関係が可能である。過去に還り伝統に忠実である保守的な関係か、或は過去を未来と永遠に統合し、消滅した事物と人間を復活させる能動的変形的な関係である。この第二の創造的関係のみが、あの過去の中にあった現在に似るのであって、これに反し最初の関係は常に過去となってゆく現在を反映しているに過ぎない。
過去と現在の問題、その相互の関係の問題は二重の表現を見出す。一方では問題はいかにして我々は罪あり悪しき苦痛に満ちた過去を、在らざりしものに変える事ができるか、という事であり、他方ではいかにして愛すべく美しく良かりし過去を、さらに実存し続けるものにする事ができるかという事である。
この過去への接近は、我々が現在に接近する仕方に非常に似ている。我々は我々の愛する美しい現在を恒久化したいと思う。それが我々を去り或は消滅するのを見て悲しむ。また我々は醜悪、苦痛に満ちた現在を忘れようと努める。我々が最も愛惜し尊重する現在を永久に持ち続けたく、それを過去たらしめる未来を来らしめないように努める。まさしく未来こそ現在を過去にするものであり、そこに過去と未来の間の致命的な関係がある。
時間は病気死病であり、それは断腸の悲しみを沸かせる。時間が過ぎゆくのは、人の心に絶望を与え、人の視線を悲哀をもって充たす。
続く、マスター、合掌、 -
No.209
コメントNo.209
2013/04/07 02:01
ニコライ・ベルジャーエフ著 「孤独と愛と社会」氷上英廣訳 1975
本文論評 その115, 第四章 時間の病気、変化と永遠
1、時間の逆説・・・その二重の意味・変化・懸念・時間と創造
{ベルグソンは時間の積極的意味を[持続]として,ハイデッガーはその消極的意味を[懸念]として明らかにする。ハイデッガーは[現存在]の存在論的根底を時間性に見るが,それは懸念と不安だけでなく創造的能動性によっても起こる。この時間の二つの相貌は人間本性の静的/動的相貌のどちらをも決定的には選択できず,我々は未来における時間を不安と希望,恐怖と歓喜,懸念と解放,その二元性において理解しなければならぬ。時間は存在論的意義を持ち,時間によって[意味]が露呈されるとするキリスト教及び動的進化論の見解は,変化そのものを実在と見,創造的能動性によって新しき獲得が生じ存在の意味が増すと考える。
過去はもはや存在せず,過去の実存的な内容は現在の中に吸収され,過去と未来は現在の部分を成す。我々の人生の過去の歴史全体は我々の現在の中に入り込み,只この資格においてのみ実存する。現在の記憶の中に生き続ける過去は常に変貌せしめられた過去で,時間の逆説は過去が過去としては決して真に存在しなかったという事にある。過去即ち消え去った事物や人間に対しては二重の関係が可能であり,過去に還り伝統に忠実である保守的な関係と過去を未来と永遠に統合し消滅した事物と人間を復活させる能動的変形的な関係である。過去と現在の相互関係の問題は二重の表現を見出す。一方では問題はいかにして我々は罪あり悪しき苦痛に満ちた過去を在らざりしものに変える事ができるかという事であり,他方ではいかにして愛すべく美しく良かりし過去を更に実存し続けるものにできるかという事である。我々は愛する美しい現在を恒久化したいと思いつつ,醜悪苦痛に満ちた現在を忘れようと努め,我々が最も愛惜する現在を永久に持ち続けたく,それを過去たらしめる未来を来ないように努める。まさしく未来こそ現在を過去にするものであり,そこに過去と未来の間の致命的な関係がある。時間は病気死病であり,それは断腸の悲しみを沸かせる}
プルーストが、逃れゆく時間の追及、回想による過去の芸術的再建をおのれの創作の根本主題にした事は偶然ではない。彼はその創作活動の最後に失われた時間を新たに発見し回復したと信じ、その[見出された時]の第二巻でほとんど宗教的情熱にまで高まっている。
時間の問題は哲学にとっても芸術にとっても根本問題となった。それは宗教にとって特にキリスト教にとって根本問題であった。罪の告白と赦しの秘儀、死と復活の秘儀、終末の秘儀、黙示録の秘儀は、時間の秘儀、過去と現在と未来の秘儀である。(ex.グリーゼバッハ『現在、批判的倫理学』)
時間の病気とその絶望的な悲哀は何によるのであろうか?現在の充溢と歓喜を永遠の達成として体験する事ができないという事、どんなにそれが価値の高い、歓喜に満ちたものであろうと、現在のこの瞬間においては、過去と未来の毒、過去の悲哀と未来への不安から免れることができないという事、それによるのである。瞬間のよろこびは永遠の達成としては体験されない。それはひたむきに去りゆく時間によって毒されている。瞬間は去りゆく時間の分子として、時間の悩乱と苦悩そのもの、過去と未来への永遠の分割を含んでいる。そして只永遠への参入としてのみ瞬間は別個の質を持っている。いっさいが無常で迅速にうつろいゆくという思想には深い憂愁がある。過去を想うこと、未来を想うことは、憂愁に人を沈める。人は憂愁なしでは、いな恐怖なしでは未来を想うことができない。この憂愁この恐怖は、未来を考える時打ち勝つことができない。ただ現在の創造的能動性においてのみ、未来が運命として、必然的な決定力としてでなく顕れる時にのみ克服されるのである。我々は時間の中で我々の運命を実現し、人格の充実を実現する。しかも我々は時間を引き裂くものとして、分裂せしめるものとして、死として憎悪する。
続く、マスター、合掌、 -
No.211
待ち人さん、
2013/04/13 16:33
待ち人さん、遅くなりましたが、ようこそいらっしゃいました。
さて、
>世界の平和共存とこころの健康
なんでこの二つ連結するの?
リンクするの?
>>とのご質問ですが、リンクしますよ。
通常、世界は様々な民族・国家により形成された社会から成り立っていますね?
そして社会は様々な宗教・思想に基づいた多様な主義・主張を持った個人から成り立っています。
ただ個人の社会・国家に対する影響力、国家の個人に対する支配ー服従度合はそれぞれ異なります。
しかし国家・社会による個人への教育、母親・家族から子供に対するしつけ・言語の習得による社会の成員となる為の教育、宗教や企業による社会教育等が個人に内在化され社会的個人が出来上がる、という図式は万国共通だと思われます。
さて次に個人のこころの健康の問題。
通常個人の心の健康問題は、なぜか心自体を、その不確定要素の為扱わないという不思議な心理学により扱われてきました。現在はマズローの人間性心理学以後改善はされてきているとは思いますが?
そこには哲学における人間存在の問題(が扱われなくなった事)と同様自然科学的価値観の問題、正確にいうと神学的価値観から自然科学的価値観への社会的価値観の変遷の問題があります。
その根底には人間存在、神存在の問題があり、通常は個人の信仰の自由、個人の尊厳として法律的には保障されていますが、一方自然科学的(客体的認識)価値観優先の社会においては扱わない、否定されている如きであるのも事実であります。
即ち、個人を社会化(客体化)されたもの、自然科学的認識のみで扱うか、+αの実存的人間として扱うか?という問題になります。逆説的には自然科学的認識優先社会における「神は死んだか?我々が神を殺したのか?」という問題になり、これはまた個人の文明病としての心の健康問題、個人の社会科比率(どれだけ厳密に言語構造化されているか?)という問題に比例します。
ここでは心の健康問題をWHOの健康定義、肉体的健康+精神的健康、即ち霊性(spirituality)を含むものとして理解する、という立場にたって扱っています。
しかし正式には日本政府はこのWHOの健康定義の提案を「検討問題として」批准していませんので、
そういう意味では待ち人さんのおっしゃる事の方が社会的には正しいかもしれません。
しかし社会学的には社会の構成基本単位は個人ですから、個人は含まれ、社会問題の根本的問題として含まれる事となります。
以上、またのお越しをお待ちしております。
マスター、合掌、 -
No.212
toコメントNo.209
2013/04/14 02:12
コメントNo.210
ニコライ・ベルジャーエフ著 「孤独と愛と社会」氷上英廣訳 1975
本文論評 その116, 第四章 時間の病気、変化と永遠
1、時間の逆説・・・その二重の意味・変化・懸念・時間と創造
{我々の人生の過去の歴史全体は現在の中に入り込み,只この資格においてのみ実存する。現在の記憶の中の過去は常に変貌せしめられた過去で,時間の逆説は過去が過去としては決して真に存在しないという事にある。過去に対しては二重の関係が可能であり,過去に還り伝統に忠実である保守的な関係と過去を未来と永遠に統合し消滅した事物と人間を復活させる能動的変形的な関係である。過去と現在の相互関係の問題は二重の表現を見出し,一方では問題はいかにして我々は罪あり苦痛に満ちた過去を在らざりしものに変える事ができるか,他方ではいかにして愛すべく良かりし過去を更に実存し続けるものにできるかという事である。まさしく未来こそ現在を過去にするもので,そこに過去と未来の間の致命的な関係がある。
時間の病気とその絶望的な悲哀は,現在の充溢と歓喜を永遠の達成として体験できない事,現在のこの瞬間においては過去の悲哀と未来への不安から免れない事による。瞬間は去りゆく時間の悩乱と苦悩,過去と未来への分割を含み,そして只永遠への参入としてのみ別個の質を持っている。いっさいが無常で迅速にうつろいゆくという思想には深い憂愁があり,この憂愁/恐怖は只現在の創造的能動性においてのみ,未来が運命として必然的な決定力としてでなく顕れる時にのみ克服される。我々は時間の中で我々の運命と人格の充実を実現するが,我々は時間を引き裂くもの,分裂せしめるもの,死として憎悪する}
カールスは、プロメトイス的な予知する原理とエピメトイス的な回想する原理について語っている。しかしプロメトイス的原理は単に予知的な原理であるばかりでなく、なによりもまず英雄的にして創造的能動的なる原理であり、この原理において必然と劫罰としての未来に対する憂愁と恐怖が克服される。また記憶は人間において、人格の統一がそれによってまとめられるところの最も深い存在論的原理である。しかし堕ちた世界にあっては、多くの点において忘却、すなわち記憶の喪失が存在しないならば、人間は実存することができない。もし過去から未来にわたっていっさいが記憶されるならば、それは人間を破滅させてしまうであろう。かかる記憶には人間は耐えられないであろう。忘却は解放と軽減として訪れる。たえず人間は自己を忘却しようとする。過去と未来を考えまいとする。それはたとい出来ても短い瞬間のことである。しかしこの忘却への欲求は、時間の死病の証左である。
過去の人間があり、未来の人間があり、永遠の人間がある。大多数の人間は、時間のあれこれの断片的な部分の中に生きている。ほんのわずかな人間が、永遠への道を突破することによって時間の病気を克服する。預言者たちは未来に向けられている。しかし彼らはもっぱら精神において時間を克服し、永遠から時間(時代)を判断することによって時間を透視する。精神において、時間の次元が変化する。時間は消え、永遠が始まる。過去を永遠と同一視する誤謬は非常にひろまっている。実際は、過去の中に永遠、永遠への部分的な関与があるのであり、それは現在の中にも未来の中にもあるのと同じである。しかし過去の中には、現在の過去の中には多くの腐敗したもの、はかないもの、劣悪なものがある。永遠の部分よりもはるかに多くある。そうしたものは改変された回想の中で消滅が可能である。しかし、その現在の中で過去を理想化する保守的意識は、かかるものを永遠として把握するのである。しかし一方、過去の中には永遠への参与はまったくなかったのであり、永遠はただ未来においてのみ開示されると信ずる意識もまた誤りを犯す。過去と未来、病める時間の引きちぎられた部分は、お互いに永遠に関してはなんの優先もない。
聖なるものは、永遠に関与する瞬間の内部にあって、過去と未来の客観的なあるいは社会的な形成の中にはない。未来は、未来との関係において自由があらわれ、従ってそれは能動的に創造されうるという点において優位をしめる。これは、過去と結び付けられた決定論を未来に関係させて克服することである。しかし、過去に関しての自由を、即ち時間の逆転の可能性を発見することが絶対に必要である。宗教的意識では、これは復活の問題である。
続く、マスター、合掌、 -
No.213
toコメントNo.212(210は間違い)
2013/04/17 12:10
>>No. 212
コメントNo.213
ニコライ・ベルジャーエフ著 「孤独と愛と社会」氷上英廣訳 1975
本文論評 その117, 第四章 時間の病気、変化と永遠
1、時間の逆説・・・その二重の意味・変化・懸念・時間と創造
{時間の問題は宗教特にキリスト教にとっても根本問題であり,罪の告白と赦しの秘儀,死と復活の秘儀,終末/黙示録の秘儀は時間,過去と現在と未来の秘儀である。
時間の病気とその絶望的な悲哀は,現在の充溢と歓喜を永遠の達成として体験できない事,現在においては過去の悲哀と未来への不安から免れない事による。瞬間は去りゆく時間の悩乱と苦悩,過去と未来への分割を含み,そして只永遠への参入としてのみ別個の質を持っている。いっさいが無常で迅速にうつろいゆくという思想には深い憂愁があり,この恐怖は只現在の創造的能動性において未来が運命として必然的な決定力としてでなく顕れる時にのみ克服される。プロメトイス的原理は単に予知的な原理であるばかりでなく,英雄的にして創造的能動的なる原理であり,この原理において必然と劫罰としての未来に対する憂愁と恐怖が克服される。また記憶は人間において人格の統一がまとめられる最も深い存在論的原理である。しかし堕ちた世界にあっては忘却即ち記憶の喪失が存在しないならば人間は実存することができず,忘却は解放と軽減として訪れる。
過去の人間,未来の人間,永遠の人間があるが,大多数の人間は時間の断片的部分の中に生きており,ほんの僅かな人間が永遠への道を突破することによって時間の病気を克服する。預言者たちはもっぱら精神において時間を克服し永遠から時間を判断することによって時間を透視する。精神において時間の次元が変化し時間は消え永遠が始まる。過去と未来,病める時間の引きちぎられた部分は,お互いに永遠に関してはなんの優先もない。聖なるものは永遠に関与する瞬間の内部にあって,過去と未来の客観的/社会的な形成の中にはない。未来はその関係性において自由が顕われ能動的に創造されうるという点において優位をしめる。これは過去と結び付けられた決定論を未来に関係させて克服することである。しかし過去に関しての自由を即ち時間の逆転の可能性を発見することが必要であり,宗教的意識では,これは復活の問題である}
これはN・フェードロフの『共同行為の哲学』における問題で、それは時間の死をもたらす性格についての勝利である。『再び見出された時』は只時間の病気に対する勝利でのみありうるのであって、過去或は未来への運動ではありえない。健全となった時間は永遠である。そして全ての新しきものを作りだす創造的能動性は懸念と不安を前提とし、決定論を最後的に克服する力のない未来に向けられてはならない。それは、その反対に永遠に向けられなければならない。これは時間の加速度化に対抗せしめられた運動である。それは技術と関連する時間の加速度化とも相違し、また死をもたらす時間の受動的感情的な体験にともなう悲哀と憂愁とも相違する。これは精神の勝利である。
存在論的には、過去も未来もなく只不断に創造される現在あるのみである。我々の時間への関係は創造への依存において完全に変化する。懸念がハイデッガーのいうように存在を時間化するとすれば、創造はそれを時間の威力から解放することができる。創造の所産は下方に引き下ろされ、いずれかの時間区分…過去・現在或は未来…に所属するものとしてみずからを示す。しかし創造的昂揚そのものは、時間から歩み出て実存を非時間化する。時間そのもの及び時間の中で起こるいっさいのものは、時間に属しない瞬間の中で体験されるものの投射にすぎない。未来は、外への投射であり、しかも体験された懸念…世界の頽落性の所産…の投射であるか或はその所産において堕ちた世界へ引き下ろされる創造作用の投射である。時間の中の投射、実存の時間化は、空間の中の投射、実存の空間化と共に客体化である。客体化された世界は時空的世界である。そして時間は人間実存の内的運命においては、客体化された世界においてとは違ったものを意味する。人間運命が時間に依存していると見えることは、第二義的な領域に属する。第一義的なのは、時間が人間運命に、この運命における事件と体験に依存しているという事である。
時間の中の世界の創造という神学の教説は、すでに客体化に属し、それは第一義的な真理を開示しない。
続く、マスター、合掌、 -
No.214
toコメントNo.213
2013/04/20 14:31
>>No. 213
コメントNo.214
ニコライ・ベルジャーエフ著 「孤独と愛と社会」氷上英廣訳 1975
本文論評 その118, 第四章 時間の病気、変化と永遠
1、時間の逆説・・・その二重の意味・・時間と創造
{大多数の人間は時間の断片的部分の中に生きており,ほんの僅かな人間が永遠への道の突破によって時間の病気を克服する。精神において時間の次元が変化し時間は消え永遠が始まる。過去と未来,病める時間の引きちぎられた部分は永遠に関してはなんの優先もなく,聖なるものは永遠に関与する瞬間の内部にあって,過去と未来の客観的社会的な形成の中にはない。未来はその関係性において自由が顕われ能動的に創造されうるという点において優位をしめ,これは過去と結び付けられた決定論を未来に関係させて克服する事である}
{N・フェードロフ[共同行為の哲学]における問題は時間の死をもたらす性格についての勝利であり,[再び見出された時]は只時間の病気に対する勝利であって,過去或は未来への運動ではない。健全となった時間は永遠であり,新しきものを作りだす創造的能動性は懸念と不安を前提とするが,決定論を最後的に克服する力のない未来にではなく永遠に向けられなければならない。これは時間の加速度化に対抗せしめられた運動であり,技術と関連する時間の加速度化と相違し又死をもたらす時間の受動的な悲哀とも相違する。これは精神の勝利であり,存在論的には過去も未来もなく只不断に創造される現在あるのみである。我々の時間への関係は創造において変化し,創造的昂揚は時間から歩み出て実存を非時間化する。時間そのもの及びその中で起こる全てのものは時間に属しない瞬間の中で体験されるものの投射にすぎず,未来は外への体験された懸念の投射か或は堕ちた世界へ引き下ろされた創造作用の投射である。時間の中の投射,実存の時間化は空間の中の投射,実存の空間化と共に客体化である。客体化された世界は時空的世界であるが,時間は人間実存の内的運命において客体化された世界とは違ったものを意味する。人間運命が時間に依存していると見える事は第二義的な領域に属し,第一義的なのは時間が人間運命における体験に依存しているという事である。時間の中の世界の創造という神学の教説は客体化に属し,それは第一義的な真理を開示しない}
それは素朴実在論的な見解であり、アダムとイブの堕落は時間の中で起こったのではなく、時間がこの堕落の結果なのである。世界創造は思惟にとって二律背反である。世界は時間の中で始まったとも考えられないし、また永遠にわたって存在していたとも考えられない。この二律背反は、全ての二律背反のごとく客体化によって生み出されるのである。我々は世界創造を客体において、客体化された世界において、客体化された時間において考える。しかし世界が内的実存に、精神に、取り入れられるならば、いっさいは違った姿をとる。その時は世界創造はもはや時間の範疇に従属せしめられたものとしては顕われない。世界創造は永遠であり、時間は世界の運命における頽落存在である。しかし頽落存在ばかりがあるというのは誤りであろう。時間はまた狭められ引き下ろされた運動、能動性、創造の所産である。時間は実存の内的領域に属しているのであって、よしそれが客体化として考えられても、それは内部において起こっているものの外部への投射にすぎない。人間実存の最大の悲劇は、現在の瞬間において実現される行為が、未来にわたり、全生涯にわたり、おそらく永遠にわたって拘束する、という事によって惹き起こされる。そしてそれはみずからそのような客体化を予想しなかった行為的実現の客体化の恐怖である。これとまた誓約の問題が関連する。忠誠の誓約、僧侶の誓約、結婚の誓約、結社の誓約等。これはまさに未来へ投射された運命の問題である。我々はこの点に後ほどまた戻って来るであろう。
瞬間の神的充実の体験は、人間最大の夢であり、彼が到達しうる最高のものである。ゲーテのすべての知恵、彼の人生運命の全意義は、瞬間の充実を体験する彼の天凛、神的全体を宇宙生命の最小部分において見るこの彼の能力と結びついている。かくの如くして彼は彼の流儀において時間の病気を克服したのであった。私の実存にとって、時間は空間よりも第一義的である。そして私の実存において空間は時間を前提とする。それゆえ空間の大四次元として時間を見る科学理論はなんら形而上学的意義を持たない。それは只客体化の世界にとってのみ意義を持つにすぎない。
続く、マスター、合掌、 -
No.215
コメントNo.215
2013/04/24 12:27
>>No. 214
ニコライ・ベルジャーエフ著 「孤独と愛と社会」氷上英廣訳 1975
本文論評 その119, 第四章 時間の病気、変化と永遠
1、時間の逆説・・・その二重の意味・・時間と創造
{大多数の人間は時間の断片的部分の中に生きており,ほんの僅かな人間が永遠への道によって時間の病気を克服する。精神において時間の次元が変化し時間は消え永遠が始まる。
過去と未来,病める時間の部分は永遠に関してはなんの優先もなく,聖なるものは永遠に関与する瞬間の内部にあって,過去と未来の客観的社会的な形成の中にはない。未来は自由が顕われ能動的に創造されうる点において優位をしめ,これは過去と結び付けられた決定論を未来に関係させて克服する事である。健全となった時間は永遠であり,創造的能動性は懸念と不安を前提とするが,決定論を最後的に克服する力のない未来にではなく永遠に向けられる。これは精神の勝利であり,存在論的には過去も未来もなく只不断に創造される現在あるのみである。我々の時間への関係は創造において変化し,創造的昂揚は時間から歩み出て実存を非時間化する。人間運命が時間に依存していると見える事は第二義的で,第一義的なのは時間が人間運命の体験に依存している事である。時間の中の世界の創造という神学の教説は客体化に属し,それは第一義的な真理を開示しない。我々は世界創造を客体化された世界/時間において考えるが,しかし世界が内的実存/精神に取り入れられるならば全ては違った姿をとる。人間実存の最大の悲劇は,現在の瞬間において実現される行為が未来/全生涯,恐らく永遠にわたって拘束する事によって惹き起こされる。これとまた誓約の問題が関連する。忠誠の誓約,僧侶の誓約,結婚の誓約,結社の誓約等,これは未来へ投射された運命の問題である。瞬間の神的充実の体験は人間最大の夢であり,到達しうる最高のものである。ゲーテのすべての知恵,彼の人生運命の全意義は瞬間の充実を体験する彼の天凛,神的全体を宇宙生命の最小部分において見る能力と結びつき,かくの如くして彼は時間の病気を克服した。私の実存にとって時間は空間よりも第一義的であり,私の実存において空間は時間を前提とする。それゆえ時間を空間の大四次元として見る科学理論はなんら形而上学的意義を持たず,それは只客体化の世界にとってのみ意義を持つにすぎない}
諸々の出来事は空間の第四次元を前提とするという事は勿論言い得る事であり、それらは三次元の中では起こりえない。しかし実存哲学にとっては何よりも先に時間が、その次にまた空間が、全ての客体化以前の存在の深所おける出来事の行為の所産である。第一義的な作用は時間も空間も前提としない。それは時間と空間を生むのである。全く同様に人間実存における第一義的作用はなんらの必然的決定、なんらの因果的制限を前提としない。全ての必然的決定と因果関係は客体化の所産であり、それは只客体の世界においてのみ実存する。創造する主体においては必然的決定と因果律はない。この点はなお後述するであろう。我々は時間と関連する最後の問題が死の問題であることを見るであろう。死は時間をたずさえて来る。そして死は時間の中で起こる。未来に対する不安は、まず第一に死に対する不安である。死は生そのものの内部の出来事である。そして死は生の終末である。しかし死は客体化の極限的な成果である。死は時間の中の、客体の中の内的運命のたんなる一瞬間にすぎない。過去の時代の全ての死んだ人々が我々に実存せざるものと見えるのは、たんにそうした過去が客体として把握され、我々が自己自身を客体の中に数え入れる時のみである。記憶は、いかなる本質も実存もたんに客体の世界に属するもののみでないという、内的実存から生じた徴(しるし)であり、それらが他の秩序に属するという徴である。伝統は時間の力との闘いであり、歴史の秘密への参与である。しかし過去の回帰と、それがただかつてあったという理由のみによる過去の永遠化は、客体化された世界に君臨する死に対する勝利を全く意味しない。むしろそれは時間の力を意味する。時間の無敵王国、時間化された存在の、身の毛のよだつような幻影は、ニーチェの永遠回帰の幻影である。
2、時間と認識・・・想起・・・時間・運動・変化・・
・・時間の加速度化と技術
認識は時間と結びついている。認識は与えられた時間から歩み出ることである。プラトンは認識を想起として教えた。それは認識が時間の威力に対する勝利であることを意味する。
続く、マスター、合掌、 -
No.216
コメントNo.216
2013/04/30 12:14
>>No. 215
ニコライ・ベルジャーエフ著 「孤独と愛と社会」氷上英廣訳 1975
本文論評 その120, 第四章 時間の病気、変化と永遠
{1、時間の逆説
大多数の人間は時間の断片的部分の中に生きており,ほんの僅かな人間が永遠への道によって時間の病気を克服する。精神において時間の次元が変化し時間は消え永遠が始まる。
聖なるものは永遠に関与する瞬間の内部にあって,過去と未来の客観的社会的な形成の中にはない。未来は自由が顕われ能動的に創造されうる点において優位をしめ,これは過去と結び付けられた決定論を克服する事である。これは精神の勝利であり,存在論的には過去も未来もなく只不断に創造される現在あるのみである。瞬間の神的充実の体験は人間最大の夢であり,到達しうる最高のものである。私の実存にとって時間は空間よりも第一義的であり空間は時間を前提とする。それゆえ時間を空間の大四次元として見る科学理論はなんら形而上学的意義を持たず只客体化の世界にとっての意義を持つにすぎない。実存哲学にとってはまず時間,次に空間が全ての客体化以前の存在の深所おける出来事である。全ての必然的決定と因果関係は客体化の所産であり,創造する主体においては必然的決定と因果律はない。我々の時間と関連する最後は死の問題で,未来に対する不安はまず第一に死に対する不安である。死は生内部の出来事であるが,それは客体化の極限的成果であり,時間/客体の中の単なる一瞬間にすぎない。記憶はいかなる本質も実存も単に客体の世界に属するものでないという内的実存から生じた徴で,それが他の秩序に属するという徴である。伝統は時間の力との闘いであり歴史の秘密への参与である。しかし過去の回帰と,それがただ曾て存在した理由による永遠化は客体化された世界に君臨する死に対する勝利を意味せず,むしろそれは時間の力を意味し,存在の不安と恐怖は永遠回帰の幻影である}
2、時間と認識・・・想起・・・時間・運動・変化・・
・・時間の加速度化と技術
認識は時間と結びついている。認識は与えられた時間から歩み出ることである。プラトンは認識を想起として教えた。それは認識が時間の威力に対する勝利であることを意味する。認識と時間の関連は、歴史…現存しないもの、現実に属しないもの、人がどこにももはや出会うことの出来ないものに関する学問…において明らかになる。人間の歴史のみならず、宇宙の歴史は、かつてあって、しかしもはやないものに関する学問である。歴史学の対象の実在性は、現存しない過去がかつては存在した、という事によって与えられている。歴史認識の可能性は、現在において過去の痕が残っている事、過去の中のあるものが現在の一成分である事によって生じている。しかしこの現在の中に存在する過去の形見は、決してかつてあったものではない。即ち、過去としての過去は、存在しなかったのである。過去は存在論的には記憶と想起に結びついている。記憶は時間の威力に対する存在論的抵抗である。そして記憶のみが過去の内的秘密を知っている。それは時間の中における永遠の行為である。「われ」の意識は記憶と結ばれている。そしてただ記憶によってのみ、その形而上学的深みによってのみ、過去の全歴史が私と共に、私の深層において、営まれる事が発見される。歴史に対しては、全てに対してと同様、二重の関係が可能である。歴史は客体化である。そして歴史学は過去を客体として研究する。歴史は自然と同様に客体的世界に属するものとして自己を示す。しかし歴史は同時に内的実存の世界に属する。それは精神の出来事である。歴史は、存在論的記憶により、能動的な想起における過去への参与によって、内的実存として認識される。その為には私は過去を、私自身の過去として、私の精神の原歴史として認識しなければならない。その時は過去は私の現在の一成分となる、すなわち時間の分裂は克服される。
認識が、直接な感覚的経験の中には与えられていない実在性、すなわち我々が現在と呼ぶあの分裂した時間の一片の中には介在していない実在性に向けられている時には、認識は想起である。我々の認識の大部分は直接な感覚的経験を源泉としていない。それは精神の能動性としての想起に結びつけられている。そして記憶は人格の第一義的な事実であり、それに「われ」の統一が結び付けられているのであるから、想起する意識は、全世界と全歴史を私の「われ」の内的実存の中へ取り入れる事である。世界史、過去の歴史は、それが私と共に起こった時、私が想起しうるのである。
続く、マスター、合掌、 -
No.217
コメントNo.217
2013/05/02 10:16
>>No. 216
ニコライ・ベルジャーエフ著 「孤独と愛と社会」氷上英廣訳 1975
本文論評 その121, 第四章 時間の病気、変化と永遠
2、時間と認識・・・想起・・時間・運動・変化・時間の加速度化と技術
{認識は与えられた時間から歩み出ることであり,プラトンは認識を想起として教えた。それは認識が時間の威力に対する勝利であることを意味する。認識と時間の関連は歴史…現実に属しないものに関する学問…において明らかになる。歴史学の対象の実在性は現存しないが曾ては存在した,という事によって与えられている。歴史認識の可能性は,現在において過去の痕が残っている事,過去の中のあるものが現在の一成分である事によって生じるが,この現在の中に存在する過去の形見は決して曾てあったものではなく存在論的には記憶と想起に結びついている。記憶は時間の威力に対する存在論的抵抗であり,記憶のみが過去の内的秘密を知る時間の中における永遠の行為である。[われ]の意識は記憶と結ばれており,只記憶の形而上学的深みによってのみ過去の全歴史が私の深層において営まれる事が発見される。歴史に対しては全てに対してと同様,二重の関係が可能である。歴史は客体化であり,歴史学は過去を客体として研究するが,同時に内的実存の世界に属する精神の出来事であり,存在論的記憶により能動的な想起によって内的実存として認識される。その為には私は過去を私自身の過去,私の精神の原歴史として認識しなければならない。その時過去は私の現在の一成分となり時間の分裂は克服される。認識が直接な感覚的経験の中には与えられてない実在性,即ち我々が現在と呼ぶあの分裂した時間の一片の中には介在していない実在性に向けられている時には認識は想起である。我々の認識の大部分は直接な感覚的経験を源泉としていない。記憶は人格の第一義的な事実であり,それに[われ]の統一が結び付けられているのであるから,想起する意識は全世界と全歴史を私の[われ]の内的実存の中へ取り入れる事である。歴史は,それが私と共に起こった時,私が想起しうるのである}
不知から知が、認識が生み出されるとは考えられない。認識は進化として説明する事はできない。認識は、先天的な、当初から時間の外の知があること、その神の知恵の想起が存することを前提とする。認識はロゴスへの参与である。しかしこの事は認識の一つの相…プラトン的な相たるにとどまる。なお認識には他の相がある。認識は想起であるばかりではなく、認識はまた創造である。そしてこれは再び時間の問題と関連する。認識は存在の変革、存在の中の出来事、その照明である。
過去の認識とは逆説である。なぜなら過去は存在しないのであり、この認識は存在しないものの認識であるから。しかし未来もまた存在しない。存在の変革としての認識は未来に、すなわちこれまた存在しないものに向けられている。世界史の認識、すなわちもはや存在しないものの認識が神秘であるならば、未来に向けられた認識、即ちいまだ存在しない、恐らく全く存在には至らないであろうものに向けられた認識には、更に多くの神秘がある。実在せざる過去の認識が内的想起によって可能であるならば、実在せざる未来の認識は、預言によって可能である。本来の宗教的意味よりも広い意味にいって、全ての預言の秘密は、時間の克服の秘密、永遠の現在への突破である。しかしこの現在は不動ではなくて、動的であり、永遠に創造されるのである。
未来もまた客体化されうるが、その時はそれは先見の対象、科学的先見の対象となる。科学的先見はただ客体に関してのみ可能である。それは完全に必然的決定に従属せしめられている。これに反して預言は、実存の秘密への侵入である。預言は、未来が私の実存に関わる限り、その未来への侵入である。これはしかし常に時間の威力からの歩み出であり、永遠の現在への参与である。この現在的なものが動かざるものとして考えられるならば、それはその客体化を意味する。本当は、実存は常に運動であり、変化であり、新しきものの創造であり、それも分裂された時間の中においてではない。
存在の本質が不動であり、運動と変化は虚妄であると見なす全ての説は、パルメニデスに遡ることが出来る。この見解はまたキリスト教神学ならびに伝統的な神論に伝わった。
究極においては、認識はこの立場からは解明する事が出来ない。認識は存在の中の革新であり、運動であり創造である。認識は、存在が不動のものとしては考えられない事を証示する。
続く、マスター、合掌、 -
No.218
コメントNo.217
2013/05/06 10:10
>>No. 216
ニコライ・ベルジャーエフ著 「孤独と愛と社会」氷上英廣訳 1975
本文論評 その121, 第四章 時間の病気、変化と永遠
2、時間と認識・・・想起・・時間・運動・変化・時間の加速度化と技術
{認識は時間から歩み出ることであり,プラトンは認識を想起として教えた。それは認識が時間の威力に対する勝利を意味し,記憶は存在論的抵抗であり,過去の内的秘密を知る時間の中における永遠の行為である。[われ]の意識は記憶と結ばれ,その形而上学的深みによって過去の全歴史が私の深層において発見されるが,我々の認識の大部分は直接な感覚的経験を源泉としていない。記憶は人格の第一義的な事実であり,それに[われ]の統一が結び付けられているから,想起する意識は全世界と全歴史を私の[われ]の中へ取り入れる事である}{認識は先天的な時間の外の知がある事,神の知恵の想起が存する事を前提とし,認識はロゴスへの参与である。又認識は想起であるばかりではなく創造,存在の変革,その照明である。過去の認識とは逆説であり,未来もまた存在しない。世界史の認識,即ちもはや存在しないものの認識が神秘であるならば,未来に向けられた認識には更に多くの神秘がある。実在せざる過去の認識が内的想起によって可能ならば,実在せざる未来の認識は預言によって可能となる。本来の宗教的意味よりも広い意味で預言の秘密は,時間の克服,永遠の現在への突破である。しかしこの現在は動的であり永遠に創造される。未来もまた客体化されうるが,その時それは科学的先見の対象となり只客体に関してのみ可能である。それは完全に必然的決定に従属せしめられるが,これに反して預言は実存の秘密への侵入である。預言は未来が私の実存に関わる限り,その未来への侵入であり,時間の威力からの歩み出であり,永遠の現在への参与である。存在の本質が不動であり運動と変化は虚妄であると見なす説はパルメニデスに遡り又キリスト教神学にも伝わったが,究極において認識は存在の革新/運動/創造であり,それは存在が不動のものとしては考えられない事を証示する}
認識は、存在の中の出来事であり、存在の中で起こる変革であるから、認識における、また精神の他の諸行為における時間に対する勝利は、断じて不動不変の外時間性への移行ではない。我々の世界は未完成の世界であり、それは創造し続けられてゆくのである。世界は、我々の内的実存の立場の認識にとっては、進化するのではなく、創造されるのである。進化としての世界の変化は、すでに二義的なものであり、この変化は常に決定論の相のもとにある。進化は客体化の世界に属し、これに反して内的実存は創造を知って進化を知らない。自由を知って決定論を知らない。精神の行為を知って、自然過程の因果律を知らない。進化は時間の中で起こり、時間の威力の中にある。しかし精神の第一義的作用は、時間そのものを生み出す。時間に決定されず、時間を決定する変化があるのである。時間と、その中で起こる必然的決定の進化は、たんに実存の内部で生ずる創造的進化の投射、客体化である。時間はいわば永遠からの離楽であり、そして同時に時間は永遠の内部にあるのである。運動と変化は時間の中ではなく、永遠の中で生み出される。永遠の中で世界は創造されるが、この世界創造はなんら必然的決定ではない。必然的決定は、たんに客体化された第二義的世界においてのみ成立する。客体化された世界は、過去現在未来に分解した時間の圧力の下にある。究極の存在をもたないものの圧力の下にある。そしてこの世界において、永遠そのものは時間の無限として自己を表示する。時間における無終性が、無限の時間としてあらわれる。
客体化された世界は、数学的時間と数学的無限に結びつけられている。数学的時間は数をもって測られ、時計と暦はそれに関連している。かかるものは人間の内的運命の時間とは別個の時間である。しかし人間運命は世界の中に投げられ客体化されている。従ってそれは数学的に分割可能の時間や時計や暦に従属せしめられている。ただ精神においてのみ、数によって測られる時間は消滅する。時間の二元性は瞬間への関係においてとりわけ明瞭になる。瞬間は二つの全く異なった意義を持つ。瞬間は数学的に小さな時間的部分である。それは数学的に分割可能であり、また現在より未来への時間経過の中に捉えることが出来る。これは現在の瞬間のもつ象面の一つであり、この場合人は分割可能の、数にはもはや従属せしめられない瞬間に到達することが出来ない。しかし…
続く、マスター、合掌、 -
No.219
コメントNo.219
2013/05/11 13:13
>>No. 218
ニコライ・ベルジャーエフ著 「孤独と愛と社会」氷上英廣訳 1975
本文論評 その123, 第四章 時間の病気、変化と永遠
2、時間と認識・・・想起・・時間・運動・変化・時間の加速度化と技術
{認識は時間から歩み出る事であり,プラトンは認識を想起として教えた。それは認識の時間の威力に対する勝利を意味し,記憶は過去の内的秘密を知る時間の中における永遠の行為である。[われ]の意識は記憶と結ばれ過去の全歴史が私の深層において発見されるが,我々の認識の大部分は直接な感覚的経験を源泉としていない。認識は先天的な時間外の知がある事,神の知恵の想起が存する事を前提とするロゴスへの参与であり,又存在の変革/創造,その照明である。過去の認識とは逆説であり,未来も又存在せず,実在せざる過去の認識が内的想起によって可能ならば,未来の認識は預言によって可能となる。本来の宗教的意味より広い意味で預言の秘密は,時間の克服,永遠の現在への突破であり,それは動的で永遠に創造される。認識は存在の中の出来事/変革であり,認識における時間に対する勝利は不動不変の外時間性への移行ではない。我々の世界は未完成であり,我々の内的実存の認識にとって創造されるものとなる。進化としての世界の変化は二義的であり常に決定論の相のもと客体化の世界に属す。進化は時間の威力の中にあるが精神の第一義的作用は時間そのものを生み出し,時間を決定する変化にある。時間の中で起こる必然的決定の進化は単に実存の内部で生ずる創造的進化の投射/客体化であり,客体化された世界は過去現在未来に分解した時間の圧力の下,究極の存在をもたないものの圧力の下にある。この世界において永遠は時間の無限として自己を表示するが,人間運命は世界の中で客体化され分割可能の時間や暦に従属している。時間の二元性は瞬間への関係において明瞭になり二つの全く異なった意義を持つ。瞬間が数学的に小さな時間的部分に分割可能であり又現在より未来への時間経過の中に捉えられる事は現在の瞬間のもつ象面の一つであり,この場合人は分割不能の,数にはもはや従属されない瞬間に到達することが出来ない}
しかし瞬間にはそれだけでなく別の象面がある。数に従属せしめられた、分割可能の時間にはもはや属しない瞬間、過去と未来に分裂しない瞬間、外時間的な現在に属する瞬間、分割不能であり永遠に入りゆく瞬間がある。キルコゲールの「瞬間」はそのような瞬間である。この問題は我々の技術的時代において、特殊のするどい関心を呼び起こす。技術時代の特徴は速度である。時間の狂気じみたスピード化が行われる。人間の生は、このスピード化する時間に従属せしめられている。瞬間の一つ一つは何の価値も何の充実も持たない。人はそこにとどまる事を許されない。時間は能う限り早く次の瞬間によって代替されなければならない。各々の瞬間は単にそれに続く瞬間に対する手段にすぎない。各々の瞬間は無限に分割可能であり、この無限の分割可能において、何らそれ自体として価値あるものは捉えられない。技術時代はまったく未来に向けられている。しかしこの未来はまったく時間の中で生ずる過程によって決定されている。
「われ」は自己自身を未来の自由な創造者として意識する時間を持たない。「われ」は狂奔する時間の流れによってさらわれる。これはいわば時間の新しいアイオーン(Aeon)である。機構化と機械化によって呼び出されたスピードは「われ」に対し、その統一と内的集中に対して破壊的である。機構化と機械化は人間実存の客体化の極限的形式、人間が外部の疎遠で冷たい世界の中へ投げ込まれる極限的形式である。かかる世界は人間によって作られるのであるが、人間はそこには自己自身を見出さない。スピード化する時間の中で「われ」は解体し千々に砕ける。分割されざる現在の何ものも「われ」には残らない。十全の価値ある瞬間も残らない。「われ」の全体性と統一性は、分割されざる現在の、もはや次の瞬間の手段にあらざる十全の価値ある瞬間の、全体性と統一性に結びつけられている。この事はしかし、「われ」の全体性、統一性、深化が観照を前提とする事を意味している。価値に充ちた、分割されざる瞬間は、次の瞬間の手段になろうとしない観照の時間であり、永遠への参与である。
「われ」は能動性を前提とする。能動性と創造なくして「われ」はない。それは「われ」の構成的な特徴に属する。しかし「われ」はまた観照を前提とする。観照なくしては「われ」の集中、深化、全体性はない。
続く、マスター、合掌、 -
No.220
コメントNo.220
2013/05/16 11:27
>>No. 219
ニコライ・ベルジャーエフ著 「孤独と愛と社会」氷上英廣訳 1975
本文論評 その124, 第四章 時間の病気、変化と永遠
2、時間と認識・・・想起・・時間・運動・変化・時間の加速度化と技術
{認識は時間から歩み出る事であり,プラトンは認識を想起として教えた。それは認識の時間の威力に対する勝利を意味し,記憶は過去の内的秘密を知る永遠の行為である。[われ]の意識は記憶と結ばれ過去の全歴史が私の深層において発見されるが,我々の認識の大部分は直接な感覚的経験を源泉としていない。認識は先天的な時間外の知,神の知恵の想起が存する事を前提とするロゴスへの参与であり,又存在の変革/創造,その照明である。認識は存在の中の出来事/変革であり,認識における時間に対する勝利は不動不変の外時間性への移行ではなく,世界は未完で我々の内的実存の認識にとって創造されるものとなる。進化としての世界の変化は二義的で,常に決定論の相のもと客体化の世界に属す。時間の二元性は瞬間への関係において明瞭になり二つの異なった意義を持つ。瞬間が数学的に小さな部分に分割可能で未来への時間経過の中に捉えられる事は現在の瞬間の象面の一つで,瞬間には別の象面,過去と未来に分裂しない,分割不能で永遠に入りゆく瞬間がある(キルコゲール)。この問題は技術的時代において特殊の関心を呼び起こす。技術時代は未来に向き,それは時間の中で生ずる過程によって決定され,人間の生はこの時間に従属し,[われ]は自己自身を未来の自由な創造者として意識できない。機構化と機械化のスピードは[われ]の統一と内的集中に対して破壊的であり,それは人間実存の客体化の極限的形式である。かかる世界は人間によって作られるが,そこには自己自身を見出せず,スピード化する時間の中で[われ]は解体し千々に砕け何ものも残らない。[われ]の全体性と統一性は,分割されざる現在,十全の価値ある瞬間の全体性と統一性に結びついている。この事は[われ]の全体性/統一性が観照を前提とする事を意味し,価値に充ちた分割されざる瞬間は観照の時間であり永遠への参与である。[われ]は能動性を前提とし,能動性と創造なくして[われ]はなく,又[われ]は観照を前提とし,観照なくして[われ]の集中/深化/全体性はない}
[われ]は、その能動性において外方に投げられ、客体化される、即ち彼自身の実存から離落する。観照は[われ]の人格への変化にとって、創造的能動性と同様に必要である。私の[われ]の実存は、運動、変化、能動、いまだ存らざらし新しきものの生産である。しかしそれは又、観照、深化、集中、時間からの歩み出、瞬間への沈潜である。この静観性なくしては、[われ]は宇宙的無限の中におのれを失うであろう。{この静観性は≒禅ね?最後の瞬間への沈潜は≒創造的能動性≒動観性の中の無私の状態ね?その社会的意義を客体化された通常の社会性のアンチテーゼとして提出している訳であります?}世界の中へ投げ入れられた私の実存は無限の宇宙の中へ、世界のあらゆる運動の中へ歩み入る。いたるところから無限(永遠ではない)がそれに働きかけ、いずこにも平静と孤立はない。こうした宇宙的無限の宇宙的生命に私の実存が依存している事は、19世紀において決定論の根拠として考えられた。(しかし)現代の科学と哲学は違った見方をする。それらはむしろこうした宇宙的無限の不断の影響に、こうした世界のあらゆる部分の運動に、非決定論の根源を見る方に傾いている。現代科学は、いわゆる自然法則の統計的見方と呼ばれるもの、即ち偶然の役割の承認に傾いている。(ex, E・ボレル『偶然』)運命は偶然によって規定されるが、しかし自然法則によって決定されない。とはいえ、現代物理学を惹きつけている非決定論、ほとんど原子の自由意志を承認せんばかりの非決定論は、世界における人間運命を、ほんの少しでも容易にするものではない。かかる非決定論は、人間にとっては、決定論におとらず宿命的なものでありうる。相対性法則は物理学の世界構想に多くの転回をもたらし、旧来の科学的決定論を破壊している。しかしそれは客体化された世界に投げ込まれた人間実存の悲しむべき性格をますます裏書する。堕ちた世界を襲った時間の病気は、時間に関する全ての現代物理学数学理論によって確認されている。この病気は生の技術化と機構化によって最高度の緊迫にもたらされる。ここで起こっている事を、我々はただ人間実存の哲学から理解する事ができるのである。
続く、マスター、合掌、 -
No.221
コメントNo.221
2013/05/18 03:26
>>No. 220
ニコライ・ベルジャーエフ著 「孤独と愛と社会」氷上英廣訳 1975
本文論評 その125, 第四章 時間の病気、変化と永遠
{2、時間と認識
[われ]の意識は記憶と結ばれ過去の全歴史が私の深層において発見されるが,我々の認識の大部分は直接な感覚的経験を源泉としていない。認識は先天的な時間外の知,神の知恵の存する事を前提とするロゴスへの参与であり,存在の変革/創造,その照明である。時間の二元性は瞬間への関係において異なった意義を持ち,瞬間が部分に分割可能で未来への時間経過の中に捉えられる事とは別の,過去と未来に分裂しない永遠に入りゆく瞬間がある。[われ]の全体性と統一性は分割されざる現在の瞬間に結びついており,この事は[われ]の全体/統一性が観照を前提とする事を意味し,分割されざる瞬間の観照は永遠への参与である。[われ]の実存は変化/能動であるが,それは又観照/瞬間への沈潜であり,この静観性なくしては[われ]は宇宙的無限の中に己れを失う。世界の中へ投げ入れられた私の実存は世界のあらゆる運動の中へ歩入り,いたるところから無限がそれに働きかけ,こうした宇宙的無限の生命に私の実存が依存している事は19世紀において決定論の根拠として考えられたが,現代科学と哲学は違った見方をする。それらはむしろこうした宇宙的無限の不断の影響,世界のあらゆる部分の運動に非決定論の根源を見る方に傾いている。現代科学はいわゆる自然法則の統計的見方即ち偶然の役割の承認に傾いている。運命は偶然によって規定されるが自然法則によって決定されない,とはいえ現代物理学の非決定論,ほとんど原子の自由意志を承認せんばかりの非決定論は人間にとって決定論におとらず宿命的なものである。相対性法則は物理学の世界構想に多くの転回をもたらし旧来の科学的決定論を破壊しているが,それは客体化された世界に投げ込まれた人間実存の悲しむべき性格をますます裏書する。堕ちた世界を襲った時間の病気は生の技術化と機構化によって最高度の緊迫をもたらされ,これを我々は人間実存の哲学から理解する事ができる}
3、時間と運命・・・時間・自由・決定論・・・時間と終末・・無限
時間は運命と結びついており、まさしく我々は時間として我々の運命を体験する。時間は究極は終末観的問題となる。キリスト教的世界観はインド的ないしギリシア的世界観と異なって時間そのものが意味を持つことを認める。時間の意味は歴史の意味、私個人の歴史の意味、世界歴史の意味である。実存は永遠の一部である。しかし時間はヤスパースが正しくいうように実存の意味である。そして時間はただ人間運命を通じてのみ理解する事ができる。キリスト教は時間を異常に強烈なものとした。全ての行為の結果がそこから全永遠に拡がるような一点に時間を集約した。こうした時間の異常な強烈化に対立する考えは再生の教義であるが、この場合には時間は希薄化され、各々の時間に対して永遠ではなく時間が応答する。時間の強烈化は、時間の瞬間の内部で、永遠に向かって時間的であると共に永遠的な意味をもつ過程に向かって歩み出る事を意味する。しかし時間のいずれかの一区切りの中で、為されまた起こった事に対して、永遠的に責任を取るという事は、たといこの一区切りが生誕から死に至る我々の全生涯であろうとも、いうまでもなく不当である。ある限られた時間の一区切りにおいては、人間は経験の充実、知識ないし彼を時間でなく永遠に対して意識的に責任を取らせるに十分なだけ広い地平を持たない。時間の瞬間に対して永遠的な責任を取る事は、この瞬間が時間の一区切り一コマでなくて、永遠への参与、時間からの歩み出である場合にのみあり得る。永遠を時間のいずれかの一区切りの中に収める事は人間の力を越えた事である。時間からの歩み出が永遠なのである。
かく見る時、問題はまた違って見えてくる。人間の運命、人間の終末観を、永遠に呑み込まれる時間の視点から描く事は、それが時間のたんなる一区切りに対して永遠が応答するという事であれば、人間運命の客体化、内部から外部へ、深所から表面へ人間が投げられることである。それは終末観の自然化である。そのような客体化と自然化は伝統的な終末観の教義に必ず見られるものである。しかしたんに無限の時間を知るのみで、外時間的な永遠を知らない客体化の視点からでなく、永遠の内部への時間の深化という視点から見て時間は永遠にとって不可欠である。この深化はもはや時間の一区切りでなく、次の瞬間によって代替される事のない瞬間において、即ち質的に特有な分解をゆるさない瞬間において起こる。そのような瞬間の体験の結果はしかし、未来の時間の中に、無限の時間の中に客体化され得ないものである。
続く、マスター、合掌、

to106
2013/02/25 03:16
本文論評 その107 第三章 われ、孤独、利益社会
3、孤独と認識・・超越・共同体・性・宗教
{我々の世界の限界内にあって二元論は克服できない。この二元論と真の生の原理としてのより高きものへ向かっての限界の超越が結びついている。愛は超越であり,胸をえぐるような人間の孤独感寂寥感は自己から他者への歩み出を,客体の世界では不可能な共同体への求めを避け難いものとする。しかし性の形而上学的秘密は非常に大きく深いので性的な孤独と憧れは愛においても完全には克服されない。愛する者たちの中にも敵意の魔神的な要素がある)
しかし一つの事は疑う余地がない。・・・孤独の克服の問題は、性において最も尖鋭化されるのである。共産主義にとっては、この問題は消滅する(?)。社会的集団の生活の為に、集団意識によって人格意識が代替される事の為に、あらゆる[われ]が解消する事によって、孤独は徹底的に克服される。[われ]の実存は徹底的に客体化され、社会構成の過程の中に編入される。性生活は、社会集団に社会機構に完全に従属せしめられる。ここから出てくるものは、優生学の意義、性の機械化と技術化、人格的愛の完全な否定である。これは畜産制度であり、それによって性の憧れと、それに結ばれている孤独は、最後的にせしめられるはずである。経済と技術は恋愛を殺す。それと同じものを、我々はナチス・ドイツの人種至上主義に見る。客体化と社会化という方法で、まさにあらゆる客体化と社会化の限界の彼方に我々を導く当の問題、我々を実存的な結合と共同体の前に立たすその問題を解こうとするのである。これは格別新しい事ではなく、初代教父達において、通常の教会的意識において、これと同一の人格的愛の否定、これと同一の社会制度としての性生活の把握を、我々は見い出すのである。性生活は二つの基本的な面を持っている。一面では、性生活は[われ]の内的実存の一部であり、それは人間運命と人間人格の内的実存の一部であるが、社会や家族という敵意を持った客体的世界と絶えず悲劇的葛藤を演じている。他面では、性生活は種族的衝動にもとづき、客体的社会的形式を取るように強いられている。人間を社会的客体的な世界の中に沈めるものは「力への意志」であり、しかもこの意志は人間実存の最深の運命と結びついている事を、我々は確かめなければならない。力はたんに客体的な世界をのみ左右する事ができるのであって、孤独を克服する事はできない。ここにシーザーとナポレオンの悲劇的運命を解くものがある。
宗教は結合である。Religionは結ぶことを意味する。{これはジャーナ>ヨーガ>禅那>禅でも同じ。神道にもムスビがありますね?}宗教は孤独の克服、自己自身からの、隔絶状態からの歩み出、共同性と親近さの獲得、と規定する事ができる。かくのごときが宗教における本質的なものである。宗教は存在の秘密との、存在そのものとの一致を意味する。しかし孤独は、宗教があることによって克服されない。宗教は一つの関係にすぎない。それは第二義的で、暫時的である。私の孤独は、神があることによって克服される。まさしく神こそ私の孤独の克服、私の実存にとっての全体性と意味付与の獲得である。
第一義的なのは神であって、宗教でないこと、宗教は神を覆い隠すことさえある事は、しばしば人の忘れるところである。(ex カール・バルト 特に彼の『ロマ書』)
歴史の中に、人間社会の生活の中に展開されるような宗教においては、人間の神への関係が、客体化と社会化に隷属せしめられる。客体化され社会化された宗教では、孤独は[われ]の客体化され社会化された世界(その世界が教会と呼ばれようとも)への被投性の結果、鈍くされ、依然として孤独は存在論的には克服されない。存在論的には、内的実存の秩序における、原本的な生における、利益社会としての教会においてではなく、共同体としての教会における私の[われ]の神への関係によってのみ、孤独は克服される。
続く、マスター、合掌、