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No.181
Re: 世界の平和共存と真の心の健康の為
2012/12/06 12:16
>>No. 180
ニコライ・ベルジャーエフ著 「孤独と愛と社会」氷上英廣訳 1975
本文論評 その88 第三章 われ、孤独、利益社会
?、「われ」と孤独・・・孤独と社会性
{[われ]は孤独を幾多の仕方,認識の道,恋愛や社会生活,道徳的行為,芸術等によって克服しようと試みるが終局的に克服される事はない。これらの道では客体化が起こり[われ]は内的な共同体における[われ][なんじ]に出会わず,むしろ客体と利益社会に出会う。[われ]は自己を正しく他者の中に反映させたい,自己の裏付けを得たいという欲求を持ち,それは開かれ見られる事を渇求する。ナルシシズムは[われ]の本質と関連し,[われ]は世の中のいずれか他の[われ]が己れを承認し,その美しさにおいて捉え,反映する事を願望する。そこに愛の深い意味が横たわっているが,ナルシシズムは愛の破綻である。それは客体における反映であって,そこでは主体は自己自身から歩み出ない。奇妙な事に他ならぬ客体が主体を主体自身の中に留まらせて他者の中に連れ出さず,客体性がまた主体性の極限的な形式となる}{認識への願望は孤独克服への願望であり,自己自身から歩み出て他者の中へ入って行く事は[われ]とその意識の拡大であり,時間空間による分離に対する勝利であるが,客体化された認識は孤独からの歩み出ではなく,いかなる客体化された認識,自然,利益社会によっても[われ]の悲劇的矛盾は克服されない。利益社会の視角において認識は社会化され,その一般的拘束性は社会的性格を持ち一般者の獲得ではあっても共同性の獲得ではない。[われ]の世界に対する関係は二重である。一方では世界に対しての孤独疎遠の体験,全く別の世界からこの世界に来たという体験であり,他方では[われ]は全世界史をおのれ自身の深層の歴史として開く。全ては我が運命であり,一方では全てが疎遠事と思われ,他方のわれ自身と共に起こる事も又[われ]にとって疎遠事と感じられ,さればこそ[われ]にとって利益社会は客体であり,社会性は客体化なのである}
利益社会は実存的ではない。その中の生活への被投性は、我自身の内の疎遠事であり我が孤独の問題を解決する事ができない。さりとはいえ社会的日常性への被投という事実は[われ]の運命にとって大きな意義を持っており、その内的実存の事実である。社会的日常性への我々の被投は[われ]の頽落存在であるが、この頽落は[われ]の実存における一つの出来事である。「利益社会」は失われた共同体であるこの世界における[われ]の運命である。ある意味では「利益社会」は[われ]の中にあるという事ができる。K・G・カールスによれば意識は特殊や個体と結びつき、これに反して無意識は一般的超個体的なものに結びつく。これは[われ]がその自己の無意識の層において世界と利益社会の全歴史、意識には疎遠である一切のものを含む、という意味で正しい。[われ]がその実存の深みから客体化された利益社会に堕ちた後は、[われ]は利益社会に対してあたかも敵に対してのように抵抗せざるをえない。人間は利益社会にあっては、本来の自己とは全く違ったものを示すところの、この役割或はかの役割を演ずる事によって、おのれの[われ]を防衛する。[われ]の社会的地位は常にこの役割或はかの役割の演技であり、皇帝や貴族やブルジョワや紳士や家父や役人や革命家や芸術家やその他の役割の演技である。[われ]は社会的日常性において、客体化された利益社会においては、その内的実存においてあるのとは全く別なものである。この為に本来の人間的な[われ]に到達する事、[われ]を露呈するという事が実に困難になる。社会的象面では人間は常に演技的な態度をとり、彼がこの役割にあまりに深入りすると、彼自身みずからの[われ]につきすすむ事が困難となる。かくして演技的態度は客体化の一つなのである。この事はジンメルによって見事に指摘されているが、いずれにせよ最も奇異な点は[われ]の疎遠感孤独感を呼び起こすものは、ほかならぬその[われ]自身の行う客体化であり、その為[われ]が[われ]から疎遠化される事である。
続く、マスター、合掌、 -
No.182
世界の平和共存と真の心の健康の為
2012/12/13 11:53
>>No. 181
ニコライ・ベルジャーエフ著 「孤独と愛と社会」氷上英廣訳 1975
本文論評 その89 第三章 われ、孤独、利益社会
?、「われ」と孤独・・・孤独と社会性
{[われ]は世の中のいずれか他の[われ]が己れを承認し,その美しさにおいて捉え,反映する事を願望し,そこに愛の深い意味が横たわっているが,ナルシシズムは客体における反映であって愛の破綻であり,そこでは主体は自己自身から歩み出ない事、社会的象面における我々の演技的態度は客体化の一つであり,そこでは[われ]みずからがおのれの疎遠化を要請しているのであった}
[われ]の孤独の問題にとってヨーロッパ精神史におけるロマン主義は大きな意味がある。ロマン主義は孤独の体験による所産、つまり主体的なものと客体的なものとの破綻の所産であり、永遠と思われた客体的階層的な秩序からの[われ]の離落、ダンテやトマス・アクィナスの持つ調和的宇宙からの疎外の体験の所産である。ロマン主義の[われ]は必ず主体と客体の破綻後の客体化された事物の秩序への[われ]の服属が否定された後の[われ]である。
この破綻は伏線として、コペルニクスの天文学的体系の中にも、またデカルトやルターの宗教改革の中にも、コスモスについての新しい科学的理念や認識における[われ]の能動性についての新しい哲学的理念、また宗教的良心の自由に関し、キリスト者の自由に関しての新しい宗教的理念の中にもあったのである。
しかしこの意識変革のロマン主義的諸影響はただちに目立たなかった。それらは最初こうした過程の二義的もしくは三義的な結果と見えた。「客体的」な世界が「主体」にとって疎遠なものとなり、主体をして有機的に安んぜしめていた階層的コスモスたるをやめた後、人間は「主体的」世界の中に孤独と寂寥からの出口を探し、おのれに親近なものを求めはじめた。ここからしてロマン主義は、その感情生活の豊富な展開に至り得たのであった。ロマン主義者のコスミズムとその汎神論的宇宙感情は「主体」から創られた。ロマン主義者のコスモスは、中世のコスモスがスコラ的思惟によってそうであったように「客体性」として与えられたものではない。ほかならぬ自然に対する「主体的」なロマン的関係が自然との合一に至るのであり、これに反して自然に対する「客体的」関係は合一には至らなかった。スコラ的思惟ではどこまでもそこに差別があったが、ロマン主義の[われ]は孤独を体験しコスモスと融合したのである。
しかしロマン主義はなるほど出口を見出さなかったが、客体化し社会化した世界の圧力から[われ]を解放する一つの本質的な契機であった。ロマン主義は[われ]の前に無限を開き[われ]を有限への、階層的秩序における繫縛から解放した。ロマン主義の弱点は「客体性」からの[われ]の解放、[われ]の創造力と想像力との開展に際して自意識に人格意識の形成になんら寄与しなかった事である。
ロマン主義の世界観は人格主義的世界観ではない。ロマン主義的個性は人格でない。[われ]は宇宙的無限の中に失われ解消し、その確固たる実在性は失われる。ここに恐らく初めてその豊かな展開を見せたところの感情生活は、[われ]の十全な内実を押し隠してしまい、認識は創造的想像力の下位に置かれた。
ロマン主義は、極度のオプチミズムの形式、人間本性の無罪とか、宇宙生命との融合とか、そういった信念の形式を取る事もあるが、また極度のペシミズムの形式、[われ]の孤独とか人類運命の不幸と悲劇とかいった形式を取る事もある。しかしロマン主義的ペシミズムは人間本性の罪の意識を意味しないで、まさに人間の不幸の意識、存在の悲劇性の出口のなさの意識を意味するのである。ロマン主義は視圏の変化なのである。(幼)少年時には狭い空間、隅とか部屋とか廊下とか馬車とか樹木とかが、大きな神秘の世界のように思われる。成人の意識になると、この神秘感情は視圏の非常な拡大につれて減少し、完全に消え去るまでに至る。ロマン主義は新たに神秘的なものを世界の中に浮かび上がらせるのであり、それは視圏の新しい変化を意味している。しかし…
続く、マスター、合掌、 -
No.183
世界の平和共存と真の心の健康の為
2012/12/15 13:05
>>No. 182
ニコライ・ベルジャーエフ著 「孤独と愛と社会」氷上英廣訳 1975
本文論評 その90、 第三章 われ、孤独、利益社会
?、「われ」と孤独・・・孤独と社会性
{ロマン主義は孤独の体験による所産,つまり主体的なものと客体的なものとの破綻,永遠と思われた客体的階層的な秩序からの[われ]の離落,ダンテやT・アクィナスの持つ調和的宇宙からの疎外の体験の所産である。ロマン主義の[われ]は必ず主体と客体の破綻後の客体化された事物への[われ]の服属が否定された後の[われ]である。
この破綻は伏線として,コペルニクスの天文学的体系の中にも又デカルトやルターの宗教改革の中にも,コスモスについての新しい科学的理念や認識における[われ]の能動性についての新しい哲学的理念,宗教的良心の自由,キリスト者の自由に関する新しい宗教的理念の中にもあった。人間は[主体的]世界の中に孤独と寂寥からの出口を探し自己に親近なものを求め始め,ここからロマン主義は,その感情生活の豊富な展開に至り得たのだった。ロマン主義の[われ]は孤独を体験した後コスモスと融合したが,ロマン主義はなるほど出口を見出せなかったが,客体化し社会化した世界の圧力から[われ]を解放する一つの契機となり,[われ]の前に無限を開き[われ]を有限への階層的秩序における繫縛から解放した。しかしロマン主義の弱点は[客体性]からの[われ]の解放,[われ]の創造力と想像力との開展に際して人格意識の形成になんら寄与しなかった事である。ロマン主義の世界観は人格主義的世界観ではなく,ロマン主義的個性は人格でない。[われ]は宇宙的無限の中に失われ,その確固たる実在性は失われ,ここに恐らく初めてその豊かな展開を見せたところの感情生活は[われ]の十全な内実を押し隠し,認識は創造的想像力の下位に置かれた。ロマン主義は極度のオプチミズムの形式や極度のペシミズムの形式を取る事もあるがロマン主義的ペシミズムは人間本性の罪の意識を意味しないで正に人間の不幸の意識,存在の悲劇性の出口のなさの意識を意味する視圏の変化である。ロマン主義は新たに神秘的なものを世界の中に浮かび上がらせる視圏の新しい変化を意味した}
しかしロマン主義的視圏は持ちこたえられず、宇宙的無限と感情の大洋を前にしての人格の喪失と関連している。[われ]は孤独を克服しなければならない。しかしそれは客体化によらず、客体的世界への再従属によらず、ロマン主義的主体性にもよらず、[われ]の内的実存における精神性の獲得により、自己自身から歩み出て、しかも自己を失わない人格の確保によってでなければならない。
我々は[われ]の孤独と社会的環境との関係を四つの型に分類する事ができる。
1、 第一の型の人間は、社会的であって孤独ではない。これは最も基本的で、最も普及している型である。この[われ]の型は社会的環境に完全に適応しており、その意識は最も客体化され社会化されている。[われ]は破綻と孤独を体験せず、社会的日常性に安住して、その中で高い地位を占め重要な人物ともなりうる。しかしこの型では、模倣的で平凡で非独創的な人間が大多数であり、彼らは一般的な伝統に従う事で満足している。伝統といっても保守的な事もあり、自由主義的な事もあり、更には革命的な事もある。
2、 第二の型の人間は、孤独でもなく社会的でもない。この場合には[われ]は同様に社会的環境に適応している。それは集団社会の中に事なく収まり意識は社会化されている。しかし[われ]はなんら社会的関心を持たず、なんら社会的能動性を示さず、社会と民族の運命に対して冷淡である。これは第一の型と同じく非常に多い型で葛藤はここにはあまり存しない。この型は安定した社会生活の時代にはしごくありがちだが革命的変革的な時代には減少する。
3、 第三の型の人間は、孤独であって社会的でない。この型になると社会的環境に全然或はほんの僅かしか適応していない。多くの葛藤を体験し非調和的である。彼の意識はごく微弱にしか社会化されておらず、彼は自己を取り巻いている社会集団に対してなんら革命的傾向を示さない。
続く、マスター、合掌、 -
No.184
世界の平和共存と真の心の健康の為
2012/12/16 14:04
>>No. 183
ニコライ・ベルジャーエフ著 「孤独と愛と社会」氷上英廣訳 1975
本文論評 その91、 第三章 われ、孤独、利益社会
?、「われ」と孤独・・・孤独と社会性
{ロマン主義は孤独の体験による所産,永遠と思われた客体的階層的秩序からの[われ]の離落,ダンテやT・アクィナスの持つ調和的宇宙からの疎外の体験の所産である。ロマン主義の[われ]は必ず主体と客体の破綻後の客体化された事物への[われ]の服属が否定された後の[われ]である。この破綻はコペルニクスの天文学的体系又デカルトやルターの宗教改革,新しい科学的理念や認識の能動性についての新しい哲学的理念,自由に関する新しい宗教的理念の中にもあった。人間は[主体的]世界の中で孤独と寂寥からの出口を探し自己に親近なものを求め始め,ここからロマン主義は,その感情生活の豊富な展開に至り得た。しかしロマン主義の世界観は人格主義的世界観ではなく,ロマン主義的個性は人格でない。[われ]は宇宙的無限の中にその確固たる実在性を失い,ここに恐らく初めてその豊かな展開を見せたところの感情生活は[われ]の十全な内実を押し隠し,認識は想像力の下位に置かれ,ロマン主義は新たに神秘的なものを世界の中に浮かび上がらせる視圏を意味した。しかしロマン主義的視圏は持ちこたえられず,宇宙的無限と感情の大洋を前にしての人格の喪失と関連する。[われ]は孤独を客体化によらず,[われ]の内的実存における精神性の獲得により自己自身から歩み出て,しかも自己を失わない人格の確保によって克服しなければならない}
{ [われ]の孤独と社会的環境との関係の四つの型。
1、 第一の型の人間は社会的であって孤独ではない。最も基本的で最も普及している型で,[われ]は社会的環境に完全に適応しており,その意識は最も客体化社会化されている。[われ]は破綻と孤独を体験せず社会的日常性に安住して,その中で高い地位を占め重要な人物ともなりうるが,この型では模倣的で平凡で非独創的な人間が大多数であり,彼らは一般的な伝統に従う事で満足している。伝統といっても保守的な事もあり,自由主義的な事もあり,更には革命的な事もある。
2、 第二の型の人間は孤独でもなく社会的でもない。[われ]は1,同様に社会的環境に適応し集団社会の中に事なく収まり,意識は社会化されている。しかし[われ]はなんら社会的関心と能動性を示さず,社会と民族の運命に対して冷淡である。これは第一の型と同じく非常に多い型で葛藤は少ない。この型は安定した社会生活の時代にはしごくありがちだが革命的変革的な時代には減少する}
{ 前項と前々項におけるユニコード、
階層的秩序における「繫縛」=けいばく=繋ぐと縛です。失礼しました }
3、 第三の型の人間は、孤独であって社会的でない。この型になると社会的環境に全然或はほんの僅かしか適応していない。多くの葛藤を体験し非調和的で、彼の意識はごく微弱にしか社会化されておらず、自己を取り巻いている社会集団に対してなんら革命的傾向を示さない。もしそうしたものが有れば、それは既に社会的なものに対する興味と関心を意味するであろう。彼は簡単に社会的環境から孤立し、逃避し、自己の精神生活と創造をそこから引き離す。抒情詩人、孤独な思想家、根を持たない耽美家はこれに属する。この種の人間達はしばしば小さな精英の群として孤独を体験する。彼らは、もし彼らの実存がそれを望めば、容易に社会と妥協を結ぶ。これは彼らがこの領域には通常なんら信仰も信念も持っていない事から来るのである。彼らは保守的な時代には保守的に、革命的な時代には革命的になる用意がある。保守主義も革命も彼らにはどうでも良いのであるが、彼らは闘士ではなく、采配を振る人間ではない。
4、 最後の型の人間は、孤独であって社会的でありうる。こんな場合は一見奇妙に思われるであろう。どうして孤独が社会性と一致しうるだろうか。これは預言者の型である。旧約の預言者は、これに対して永遠不滅の典型を示す。しかしこの預言者型は全く非宗教的な領域でも可能で、精神の創造的指導者、改革者、革命家等が属している。…
続く、マスター、合掌、 -
No.185
世界の平和共存と真の心の健康の為
2012/12/18 14:15
>>No. 184
ニコライ・ベルジャーエフ著 「孤独と愛と社会」氷上英廣訳 1975
本文論評 その92、 第三章 われ、孤独、利益社会
?、「われ」と孤独・・・孤独と社会性
{ [われ]の孤独と社会的環境との関係の四つの型。
1、 第一の型の人間は社会的であって孤独ではない。最も基本的で最も普及している型で,[われ]は社会的環境に完全に適応しており,その意識は最も客体化社会化されている。[われ]は破綻と孤独を体験せず社会的日常性に安住して,その中で高い地位を占め重要な人物ともなりうるが,この型では模倣的で平凡で非独創的な人間が大多数であり,彼らは一般的な伝統に従う事で満足している。伝統といっても保守的な事もあり,自由主義的な事もあり,更には革命的な事もある。
2、 第二の型の人間は孤独でもなく社会的でもない。[われ]は1,同様に社会的環境に適応し集団社会の中に事なく収まり,意識は社会化されている。しかし[われ]はなんら社会的関心と能動性を示さず,社会と民族の運命に対して冷淡である。これは第一の型と同じく非常に多い型で葛藤は少ない。この型は安定した社会生活の時代にはしごくありがちだが革命的変革的な時代には減少する}
3、 第三の型の人間は孤独であって社会的でない。社会的環境に全然或はほんの僅かしか適応していない。多くの葛藤を体験し非調和的で,彼の意識はごく微弱にしか社会化されておらず,自己を取り巻いている社会集団に対してなんら革命的傾向を示さない。彼は簡単に社会的環境から孤立し逃避し,自己の精神生活と創造をそこから引き離す。抒情詩人,孤独な思想家,根を持たない耽美家はこれに属する。この種の人間達はしばしば小さな精英の群として孤独を体験する。彼らはもし彼らの実存がそれを望めば容易に社会と妥協を結ぶ。これは彼らがこの領域には通常なんら信仰も信念も持っていない事から来るのであり,彼らは保守的な時代には保守的に,革命的な時代には革命的になる。保守主義も革命も彼らにはどうでも良いのであるが,彼らは闘士ではなく采配を振る人間でもない。
4、 最後の型の人間は孤独であって社会的でありうる。どうして孤独が社会性と一致しうるか一見奇妙に思われるであろうが,これは預言者の型である。旧約の預言者は,これに対して永遠不滅の典型を示す。しかしこの預言者型は全く非宗教的な領域でも可能で精神の創造的指導者,改革者,革命家等が属している。この預言者型は宗教的或は社会的集団との葛藤を体験する。彼は決して社会的環境、世論と調和する事がない。周知のように預言者は容れられざる者であり、彼は石をもって撃たれる。宗教的領域の預言者は通常祭司や僧侶や宗教的集団の代表者たちと葛藤を生じ、激しい孤独と寂寥を体験する。彼は場合によっては彼の全周囲から迫害される。とはいえ彼が社会的でないとはとうてい主張する事ができず、むしろその反対である。彼は常に民族と社会の運命に、歴史に、それらの未来と世界の未来に関心を持っている。彼は民族と社会に批判を加え、それらを裁き、しかも常にこの民族と社会の運命の内に没する。預言者型は、彼の個人的救済に、彼の個人的体験と状態に向かわず、神の国に、人類の完成、いな全宇宙の完成に向かっている。この型はたんに宗教的領域に見られるばかりでなく、社会生活の内にも、同様に預言者的要素が存在している認識の内にも、また芸術の内にも現れる。
これら四つの型の設定はもちろん、全ての分類がそうであるように、相対的であり、それらの間の関係は動力学的に理解されなければならない。
最初の二つの型は、その周囲の世界との関係という点から見て調和型、後ろの二つは葛藤型と呼ぶことができる。
この周囲の世界との調和が、そっくりそのまま社会革命家の平均的な型にも拡がっている事を理解するのはきわめて重要である。つまりかかる人物の意識は完全に社会化されていて、彼は孤独と結ばれた葛藤を少しも体験していないのである。
孤独の問題は、私には哲学の根本問題と思われる。この孤独の問題と[われ]、人格、利益社会、共同体、ならびに認識の問題は関連している。その突き詰めた…
続く、マスター、合掌、 -
No.186
世界の平和共存と真の心の健康の為
2012/12/22 03:09
>>No. 185
ニコライ・ベルジャーエフ著 「孤独と愛と社会」氷上英廣訳 1975
本文論評 その93 第三章 われ、孤独、利益社会
?、「われ」と孤独・・・孤独と社会性
{ [われ]の孤独と社会的環境との関係の四つの型。
1、 第一の型の人間は社会的であって孤独ではない。最も基本的に普及している型で,[われ]は社会的環境に完全に適応しており,その意識は最も客体化社会化されている。[われ]は破綻と孤独を体験せず社会的日常性に安住して,その中で高い地位を占め重要な人物ともなりうるが模倣的で平凡で非独創的な人間が大多数であり,彼らは一般的な伝統に従う事で満足する。
2、 第二の型の人間は孤独でもなく社会的でもない。[われ]は1,同様に社会的環境に適応し集団社会の中に事なく収まり,意識は社会化されているが,[われ]はなんら社会的関心と能動性を示さず,社会と民族の運命に対して冷淡である。これは1,同様に非常に多い型で葛藤は少なく,安定した社会生活の時代には多く,革命的変革的な時代には減少する。
3、 第三の型の人間は孤独であって社会的でない。社会的環境に僅かしか適応していないが多くの葛藤を体験し非調和的で,自己を取り巻いている社会集団に対してなんら革命的傾向を示さない。彼は簡単に社会的環境から孤立し逃避し,自己の精神生活と創造をそこから引き離す。抒情詩人,孤独な思想家,根を持たない耽美家等がこれに属する。彼らは通常なんら信仰も信念も持っていないゆえ自らの実存がそれを望めば容易に社会と妥協を結ぶ。
4、 最後の型の人間は孤独であって社会的でありうる。孤独が社会性と一致しうるか奇妙に思われるが,これは預言者の型である。この型は全く非宗教的な領域でも可能で精神の創造的指導者,改革者,革命家等が属している。この預言者型は決して社会的環境,世論と調和する事がなく,宗教的或は社会的集団との葛藤を体験する。彼は場合によっては彼の全周囲から迫害されるが,彼が社会的でないとは主張する事ができず,むしろ反対に彼は常に民族と社会の運命,歴史,それらと世界の未来に関心を持っており民族と社会に批判を加えるが,通常その民族と社会の運命の内に没する。彼は自身の個人的救済,個人的体験と状態に向かわず,神の国,人類の完成に向かう。この型はたんに宗教的領域ばかりでなく,社会生活,預言者的認識,また芸術の内にも現れる。
これら四つの型の設定は相対的であり,それらの間の関係は動力学的に理解されなければならない。最初の二つの型は,その周囲の世界との関係という点から見て調和型,他の二つの型は葛藤型と,これを呼ぶことができる。この周囲の世界との調和が,そっくりそのまま社会革命家の平均的な型にも拡がっている事を理解するのはきわめて重要である。つまりかかる人物の意識は完全に社会化されていて,彼は孤独と結ばれた葛藤を少しも体験していないのである}
孤独の問題は哲学の根本問題と思われる。この孤独の問題と[われ]、人格、利益社会、共同体並びに認識の問題は関連しており、その突き詰めたかたちでは孤独の問題は[死]の問題となる。[死]を通り抜ける事は、絶対の孤独、一切との破綻、を通り抜ける事である。[死]とは全存在領域との破綻、あらゆる結合と共同の終結、絶対的な孤立である。
他者との共同の結合の内の死は、[死]ではないであろう。[死]はもはやいかなる結合も、いかなる共同も存在しないという事、孤独が絶対的となった事を意味する。[死]において、人間の客体化された世界との連繋は終結する。
しかし[死]の問題は、この孤独が究極的で永遠であるのか?それとも単に人間の運命、世界の運命、神の運命における一つの契機であるのかどうか?という事にある。
[死]の絶対的孤独を克服する,そのような他の人間、宇宙、神との結合と共同の準備こそ、人生の目的であらねばならぬ。いっそう正確には[死]は[われ]の完全な滅却と考えるべきではなく、むしろ[死]は[われ]の完全な孤立化の契機、即ちあらゆる結合と共同の断絶、神の世界からの脱落と考えなければならない。[死]の逆説は・・・
続く、マスター、合掌、 -
No.187
世界の平和共存と真の心の健康の為
2012/12/25 13:19
>>No. 186
ニコライ・ベルジャーエフ著 「孤独と愛と社会」氷上英廣訳 1975
本文論評 その94 第三章 われ、孤独、利益社会
?、「われ」と孤独・・・孤独と社会性
{孤独と社会的環境との四つの型の設定は相対的であり,それらの間の関係は動力学的に理解されなければならない。最初の二つの型は,その周囲の世界との関係から見て調和型,他の二つの型は葛藤型と呼ぶことができる。この周囲の世界との調和が,そのまま社会革命家の平均的な型にも拡がっている事を理解するのは極めて重要で,つまりかかる人物の意識は完全に社会化されていて,彼は孤独と結ばれた葛藤を少しも体験していないのである。
孤独の問題は哲学の根本問題で,それは[われ]/人格/利益社会/共同体及び認識の問題と関連しており究極的に孤独の問題は,[死]の問題となる。[死]を通り抜ける事は絶対の孤独/一切との破綻を通り抜ける事であり,あらゆる結合と共同の終結/絶対的な孤立である。他者との共同の結合の内の死は[死]ではなく,[死]はもはやいかなる結合も共同も存在せず,孤独が絶対的となった事を意味し,[死]において人間の客体化された世界との連繋は終結する。
しかし[死]の問題は,この孤独が究極的で永遠であるのか?それとも単に人間/世界/神の運命における一つの契機であるのかどうか?という事であり,[死]の絶対的孤独を克服する他の人間/宇宙/神との結合と共同の準備こそ人生の目的であらねばならぬ。いっそう正確には,[死]は[われ]の完全な滅却と考えるべきではなく,むしろ[死]は[われ]の完全な孤立化の契機,即ちあらゆる結合と共同の断絶,神の世界からの脱落と考えなければならない}
[死]の逆説は、この孤立化/破綻/脱落が、堕ちた世界/客体化/社会的日常性への被投性の結果であるという事にある。客体化のうちに作られた結合は不可避的に[死]に至り、かくして我々は[われ]と客体化との,[われ]と[なんじ]との相関関係の問題に,[われ]相互の間の連繋の問題に導かれるのである。
?、[われ][なんじ][われわれ][それ]・・・[われ]と客体・・・
・・・[われ]相互の間の連繋
ユダヤ人の宗教哲学者マルティン・ブーバーは、その著書『われとなんじ』の中で[われ存在(Ichsein)]と[なんじ存在(Dusein)]と[それ存在(Essein)]の間の区別を規定している。彼にとっては、[われ]と[なんじ]の根源的関係は、人間と神との関係である。これは対話的な、或は弁証法的な関係である。[われ]と[なんじ]は互いに面と面を向かいあわせて立つ。[なんじ]は[われ]にとって客体でなく、対象でない。[なんじ]が客体に変わるならば、それは[それ存在]となる。私の用語をM・ブーバーの用語に対照するならば、[それ存在]は客体化の結果という事が出来る。全ての客体化されたものは[それ存在]である。神が客体化されるならば、神は[それ存在]に変わる。[なんじ]は消える。面と面と相対する出会いはもはやない。[かれ]が[なんじ]でないならば、[かれ]は[それ]である。いかなる[なんじ]も我にとって客体でない。しかし全てのものは客体に変えられうるのであって、この過程を我々は宗教生活において看取するのである。客体はブーバーの用語の[それ]である。自然と社会は、それらが客体化されるかぎり、[それ存在]に変わる。とはいえ、我々が自然において[なんじ]と出会うならば、客体化された世界は消え、実存の世界が開かれる。
ブーバーが正しくもいうように、[なんじ]としての他者への関係を欠いては[われ]は実存しない。しかしブーバーにおける[われ]と[なんじ]の関係は、人間と神の関係であり、聖書的問題である。ブーバーは人間的な[われ]の間の関係、人間から人間への関係としての[われ]と[なんじ]の関係をたずねない。人間的複数を問わない。ブーバーには社会形而上学の問題、[われわれ]の問題一般が存在しない。
[われ]と[なんじ]及び[それ]が実存するばかりではなくて、[われわれ]も実存する。[われわれ]は[それ]に変わり得る。それは客体化の過程としての社会化の過程において行われる。
続く、マスター、合掌、 -
No.188
世界の平和共存と真の心の健康の為
2012/12/31 03:11
>>No. 187
ニコライ・ベルジャーエフ著 「孤独と愛と社会」氷上英廣訳 1975
本文論評 その95 第三章 われ、孤独、利益社会
{?、[われ]と孤独と社会性
孤独と社会的環境との四つの型は相対的ではあるが,最初の二つの型は周囲の世界との関係から調和型,他の二つの型は葛藤型と呼ぶ事ができ,この周囲の世界との関係が,そのまま社会革命家(政治家/官僚?)の型にも拡がっており,つまりかかる人物の意識は完全に社会化されており,彼は孤独と結ばれた葛藤を少しも体験していない。孤独は哲学の根本問題で,[われ]/人格/利益社会/共同体及び認識の問題と関連して究極的に[死]の問題となる。他者との共同/結合の内の死は[死]ではなく,むしろ[死]は[われ]の孤立化の契機,即ちあらゆる結合と共同の断絶,神の世界からの脱落と考えなければならない。[死]の逆説は,この孤立化/破綻/脱落が堕ちた世界/客体化/社会的日常性への被投性の結果であり,客体化のうちに作られた結合は不可避的に[死]に至り,かくして我々は[われ]と客体,[なんじ],[われ]相互間の連繋の問題に導かれる}
?、[われ][なんじ]・・客体・・[われ]相互の間の連繋
{宗教哲学者ブーバーは著書の中で[われ存在]と[なんじ存在]と[それ存在]の間の区別を規定した。彼にとって[われ]と[なんじ]の根源的関係は人間と神との関係であり,対話的或は弁証法的な関係である。[われ]と[なんじ]は面前し,[なんじ]は[われ]にとって客体でなく対象でない。[なんじ]が客体に変わるならば,それは[それ存在]となり,神が客体化されるならば神は[それ存在]に変わり,[なんじ]は消え,面前する出会いももはやない。全てのものは客体に変えられ得るのであって,この過程は宗教生活において(も)看取できる。自然と社会も客体化されるかぎり[それ存在]に変わるとはいえ,我々が自然において[なんじ]と出会うならば客体化された世界は消え実存の世界が開かれる。しかしブーバーにおける[われ]と[なんじ]の関係は人間と神の関係,聖書的問題であり,彼(に)は人間的な[われ]の間の関係,[われわれ]の問題一般が存在しない。[われ]と[なんじ]及び[それ]が実存するばかりではなくて[われわれ]も実存し,[われわれ]は[それ]に変わり得,それは客体化社会化の過程において行われる}
それは社会施設としての教会の公会議的なものと共に(も)起こる。客体化された[われわれ]は各々の[われ]に外部から与えられた社会的集団である。しかし[われわれ]は[われ]の間の内的な共同性共同体として(も)実存する。そこでは各人が[なんじ]であって[それ]ではない。利益社会では[それ]であって[われわれ]ではない。それは客体化されており、そこでは各人が客体であり友人としての(非客体的)他者はいない。
利益社会には国民・階級・身分・党派・市民・同僚・長官・等級があるが、[われ]はなく[なんじ]はいない。たんに具体的人格から抽象された社会化としてのみの[われわれ]がある。[われ]が利益社会の前に置かれる時、それは決して[なんじ]と出会わない。客体としての利益社会は常に[それ存在]である。
しかし[われ]の間にはなお共同体がある。各々の[われ]の[われわれ]への加入がある。
[われわれ]は[それ]ではない。[われわれ]は[われ]にとっての客体ではない。[われわれ]は[われ]の外部に与えられていうのではなく、それは[われ]の生の内容であり特性である。なぜなら各々の[われ]はたんに[なんじ]への関係ばかりでなく、人間的複数への関係を前提とするから。この事とまた教会の理念とは関係がある。その存在論的純粋性における教会、客体化社会化されないで実存的秩序に属する教会の理念とは関係がある。しかし教会もまた[それ]に[それ存在]に変えられ得るのであって、その時には[われわれ]の実存性は消えてしまう。実存はたんに[われ]のうちに開示されるばかりでなく、[なんじ][われわれ]においても開示される。それはたんなる[それ]、客体においては決して開示されない。
続く、マスター、合掌、 -
No.189
世界の平和共存と真の心の健康の為
2013/01/02 12:30
>>No. 188
皆様、新年明けましておめでとう御座います。
本年も宜しくお願い致します。
昨年末には稲垣良典氏の『天使論序説』と『神学大全』を拝見致しました。稲垣氏はなかなかすごい人ですね?知人の神父さんに紹介され、彼が創立に関わられた神学大学での某有名元東大教授(カトリック教徒)の講義録での質疑コーナーで意識的には初めて知ったのですが(そこでは立場がまるで逆転しています。実際にはトーマス・アキュナスの翻訳本で何冊か読んでいましたが…)そこには現代社会及び個人の根源的問題を理解し解消?に向かって行為し得るヒントが満載です。
正月用には(私の読書歴には少し不足していた)マンセルを数冊買い込んで読書中です。
今年は(訪れる人の少ないトピですが)是非とも多くの方とお話ししたいと願っております。
気楽に遊びに来て下さい。お待ちしております。
マスター、合掌、 -
No.190
世界の平和共存と真の心の健康の為
2013/01/05 11:37
>>No. 188
ニコライ・ベルジャーエフ著 「孤独と愛と社会」氷上英廣訳 1975
本文論評 その96 第三章 われ、孤独、利益社会
?、[われ][なんじ][われわれ]・・[われ]と客体・・[われ]相互の間の連繋
{宗教哲学者ブーバーにとって[われ]と[なんじ]の根源的関係は人間と神との関係であり,対話的弁証法的な関係である。[われ]と[なんじ]は面前し,[なんじ]は[われ]にとって客体でなく対象でない。[なんじ]が客体に変わるならば[それ存在]となり,神が客体化されるならば神は[それ存在]に変わり,[なんじ]は消え面前する出会いもなくなる。自然と社会も客体化されるかぎり[それ存在]に変わるとはいえ,我々が自然において[なんじ]と出会うならば客体化された世界は消え実存の世界が開かれる}
{客体化された[われわれ]は各々の[われ]に外部から与えられた社会的集団である。しかし[われわれ]は[われ]の間の内的な共同体として(も)実存し得,そこでは各人が[なんじ]であって[それ]ではない。利益社会では[それ]であって[われわれ]ではなく,単に具体的人格から抽象された社会化としての[我々]がある。しかし[われ]の間にはなお共同体があり,各々の[われわれ]への加入がある。[われわれ]は[われ]の外部に与えられたのではなく,[われ]の生の内容であり特性である。なぜなら各々の[われ]は単に[なんじ]ばかりでなく,人間的複数への関係を前提とするから。この事とまた教会の理念,その存在論的純粋性,客体化社会化されず実存的秩序に属する理念とは関係がある。しかし教会もまた[それ存在]に変えられ得るのであって,その時には[われわれ]の実存性は消える。実存は単に[われ]のうちに開示されるばかりでなく,[なんじ][われわれ]においても開示されるが[それ]には決して開示されない}
フロイトは、彼のしばしば唯物論に接近する哲学的素朴さにもかかわらず、[われ]と[それ]の間、moi(われ)とsoi(自身)の間に差別を立てる。人間の内には非人格的な層[それ]があり、これは[われ]よりも強くあらわれる事がある。
ハイデッガーの[ひと](man)は、部分的にブーバーの[それ存在]に相応する。つまり私が「客体化の世界」と呼ぶところのものである。(しかしそれは社会的なるもの一般の問題と同一ではない) ハイデッガーにおける[現存在≒ダーザイン]の世界は[共世界≒ミッドヴェルト]であり、他者との共同実存の世界である。
しかし形而上学的社会学の問題は、ハイデッガーにあっては深められていない、或は単に提出されているだけである。むしろヤスパースにおいて、その問題は考究されてある。
[われ]と[なんじ]が存在するだけではなくて、[われわれ]も存在する。[われ]は第一義的であるが、私が[われ]という時、私はすでに[なんじ]と[われわれ]を前提としている。[われ]のこの意味において、その内的実存としての社会性が与えられている。[なんじ]或は[われわれ]と[われならぬもの(非我)]の間には、根本的な差異がつけられねばならない。[なんじ]と[われわれ]は実存的である。[われならぬもの(非我)]はこれに反して客体化である。[なんじ]は他の[われ]になる事が可能であり、[われわれ]は[われ]の固有の内容となる事が可能である。[われならぬもの(非我)]は[われ]に対して常に敵である。常に抵抗であり妨害である。[われならぬもの(非我)]は[われ]に対してせいぜい半面として、存在の他の半面として開示されるが、本来の[われ]に似ている他の[われ]の複数としては開示されない。
これは[われならぬもの(非我)]が客体であって、[なんじ]でないかぎり明白な事である。[われならぬもの(非我)]の世界には、[われ]は開示されない。
今日まで哲学によって[われ][なんじ][われわれ]の問題はほとんど提出されなかった。それは哲学の問題でなかった。提出されたのは、他の[われ]の実在性とその認識の問題であった。しかし、他の[われ]の実在性は我々に与えられているであろうか?そして他の[われ]を認識するであろうか?
続く、マスター、合掌、 -
No.191
世界の平和共存と真の心の健康の為
2013/01/09 12:57
>>No. 190
ニコライ・ベルジャーエフ著 「孤独と愛と社会」氷上英廣訳 1975
本文論評 その97 第三章 われ、孤独、利益社会
?、[われ][なんじ][われわれ]・・[われ]と客体・・[われ]相互の間の連繋
{[われ]と[なんじ]の根源的関係は人間と神との関係であり,対話的弁証法的な関係である。[われ]と[なんじ]は面前し,[なんじ]は[われ]にとって客体でなく対象でない。[なんじ]が客体に変わるならば[それ存在]となり,神が客体化されるならば神は[それ存在]に変わり,[なんじ]は消え面前する出会いもなくなる。客体化された[われわれ]は各々の[われ]に外部から与えられた社会的集団であるが,[われわれ]は[われ]の間の内的な共同体として(も)実存し得,そこでは各人が[なんじ]であって[それ]ではない}
{フロイトは[われ]と[それ]の間に差別を立て,人間の内には非人格的な層[それ]があり,これは[われ]よりも強くあらわれる事がある(という)。ハイデッガーの[ひと]は,ブーバーの[それ存在],私の[客体化の世界]に相応し,彼の[現存在]の世界は[共世界]であり,他者との共同実存の世界である。しかし形而上学的社会学の問題はハイデッガーにあっては深められず,むしろヤスパースにおいて考究されてある。[われ]は第一義的であるが,私が[われ]という時,既に[なんじ]と[われわれ]を前提とし,この意味において内的実存としての社会性が与えられており,[なんじ][われわれ]と[われならぬもの(非我)]の間には差異がつけられねばならない。[なんじ]と[われわれ]は実存的であり,[われならぬもの]はこれに反して客体化である。[われならぬもの]は[われ]に対して常に敵であり,抵抗であり妨害である。[われならぬもの]は[われ]に対して存在の他の半面として開示されるが,他の[われ]の複数としては開示されない。今日まで哲学によって[われ][なんじ][われわれ]の問題はほとんど提出されず,提出されたのは他の[われ]の実在性とその認識の問題であった。しかし他の[われ]の実在性は我々に与えられているのだろうか?そして他の[われ]を認識するであろうか?}
「我々は直接には他人の身体だけを知覚しうるだけであって、霊魂生活はたんに類比によって推論し得るだけである」という古い学説は完全に誤りであって、今日では否定されている。実際は我々は他人の身体のことはきわめて知らない。その身体にどんなことが起こっているかを全く知らず僅かにその表面を知覚するのみである。これに反して他人の精神生活の方はもっとよく知っている。我々はそれを直接に知覚し、その中に直接入り込む。他の[われ]の霊魂生活に対する直観は、否定され得ない。客体としての他の本質、他の実存への直観はあり得ないが、[われ]として、また[なんじ]としての他の本質、他の実存への直観はあり得るのである。
客体に対しては[われ]は常に孤独であり、私自身から外へ出ない。これに反して、私にとって[なんじ]であるところの他の[われ]に対しては、私は私の孤独から歩み出て、共同体の中に入る。他の[われ]の霊魂生活への直観は、それとの共同体である。
他人の顔の知覚、彼の目の表情の知覚は、彼の霊魂、彼の深みの知覚では決してない(が)我々は人間の霊魂を彼の眼、態度、言葉を通して、彼の身体よりももっとよく経験する。それだけではない。我々は他人の生を、彼が見させているものによってばかりではなく、彼が匿しているものによっても経験し知覚する。他人を認識するこの方法は、現代においてきわめて濫用されており、それは無意識的なものの発見と関連している。
フロイトの精神分析は、他人の霊魂生活を認識する可能性を証明する。リビドーや性はまさしく霊魂の生活で(も)あって、身体的な生活(だけ)ではない。
しかしながら、その分析方法をもってして、他人の内面生活深く即ちその真の[われ]の中へ入り込む事ができると考えるのは誤りであろう。(なぜなら)[われ]を認識の客体とするならば、[われ]はその深みにおいて認識されない(であろうから)。
続く、マスター、合掌、 -
No.192
世界の平和共存と真の心の健康の為
2013/01/11 11:47
>>No. 191
ニコライ・ベルジャーエフ著 「孤独と愛と社会」氷上英廣訳 1975
本文論評 その98 第三章 われ、孤独、利益社会
?、[われ][なんじ][われわれ]・・[われ]と客体・・[われ]相互の間の連繋
{私が[われ]という時,既に[なんじ][われわれ]が前提され,内的社会性が在り,それらと[われならぬもの]の間には差異がある。[なんじ][われわれ]は実存的であり,[われならぬもの]は客体化であり,[われ]に対して常に敵であり抵抗である。[われならぬもの]は[われ]に対して存在の他の半面として開示されるが,他の[われ]の複数としては開示されない。
[我々は直接には他人の身体だけを知覚しうるだけであって,霊魂生活はたんに類比によって推論し得るだけである]という古い学説は誤りで実際は,我々は他人の身体のことは窮めて知らず,僅かにその表面を知覚するのみである。これに反して他人の精神生活の方は,それを直接に知覚しその中に入り込む。客体としての他の本質/実存への直観はあり得ないが,[われ][なんじ]としての他の本質/実存への直観はあり得る。
客体に対しては[われ]は常に孤独であり私自身から外へ出ないが,[なんじ]である他の[われ]に対しては,私は孤独から歩み出て共同体の中に入る。他の[われ]の霊魂生活への直観は,それとの共同体である。
他人の目/表情の知覚は,彼の霊魂,深みの知覚ではない(が),我々は人間の霊魂を彼の眼/態度/言葉を通して彼の身体よりもより経験する。(しかも)我々は他人の生を彼が見させているものばかりではなく,彼が匿しているものによっても経験し知覚する。他人を認識するこの方法は,現代においてきわめて濫用されており,それは無意識的なものと関連している。フロイトの精神分析は,他人の霊魂生活を認識する可能性を証明し,リビドーや性はまさしく霊魂の生活であって身体的な生活ではないが,その分析方法で他人の内面深く,その真の[われ]の中へ入り込む事ができると考えるのは誤りである}
他人の霊魂への直接の知覚はあり得るのであり、この知覚は特に感情的/共感的/エロス的な知覚である。しかしなお侵入する事の出来ない他人の[われ]の秘密が残り、この秘密の実存はしばしば他人の[われ]の霊的生活を知覚する上の不可能と取り違えられるが、それは誤りである。[われ]の間の連繋の問題は、今日まで十分に注意を払われなかったとはいえ哲学の基本的問題の一つであり、[連繋]と[参入]とは区別されなければならない。
[参入]は実在論的であり、根本実在への侵入である。これに反して[連繋]はすこぶる象徴的であり、それは象徴化を前提とし、私の内部を告知する記号を前提とする。
[連繋]に特有である象徴化は、実存の内的秩序から客体化された世界、即ち揚棄された共同体へ突入するところのものである。我々の認識、我々の芸術は、この連繋の象徴化によって充たされている。象徴化は共同体の喪失を証示するが、しかし同時にこの失われた共同体の状態の中に[連繋]をつくりだす。
我々は他の[われ]の内的生活を大部分象徴や記号から知るのである。
人間の利益社会においてつくられるところの[連繋]は常に共同体の喪失の上に、内的実存の秘密の隠蔽の上に基礎づけられているので、そのため[連繋]は象徴的記号的性格しか持つことができない。[連繋]における習慣/風習/模倣/礼儀/愛想の類は、そのような象徴的記号的性格を帯びている。国家生活における全ての[連繋]は便宜的記号的性格を帯び、[われ]の間のいかなる共同性も前提としていない。
そのような便宜的記号的性格を特に帯びているのは、客体化の極度の形式を表している全ての金銭関係である。しかし[われ]は、利益社会/国家また社会的施設における他の[われ]との連繋をもっては満足しない。便宜的記号による[連繋]の力をかりて、[われ]は他の[われ]との共同体、真の実存への歩み出を達成しようとする。
全ての便宜的な[連繋]は客体化の世界に属し客体との[連繋]である。これに反して共同体への突破は客体化を越えて[真の実存]への突破である。
続く、マスター、合掌、 -
No.193
世界の平和共存と真の心の健康の為
2013/01/13 14:19
>>No. 192
ニコライ・ベルジャーエフ著 「孤独と愛と社会」氷上英廣訳 1975
本文論評 その99 第三章 われ、孤独、利益社会
?、[われ][なんじ][われわれ]・・[われ]と客体・・[われ]相互の間の連繋
{我々は客体としての他の本質/実存への直観はあり得ないが,[われ][なんじ]としての他の本質/実存への直観はあり得,我々は人間の霊魂を彼の眼/態度/言葉を通して経験する。(しかも)我々は他人の生を彼が見させているものばかりではなく,彼が匿しているものによっても経験し知覚する。フロイトの精神分析は,他人の霊魂生活を認識する可能性を証明し,リビドーや性はまさしく霊魂の生活であるが,その分析方法で真の[われ]の中へ入り込む事ができると考えるのは誤りである。
他人の霊魂への知覚,特に感情的/共感的/エロス的な知覚はあるが,なお侵入する事の出来ない秘密が残り,それを他人の霊的生活を知覚する上の不可能と取り違えるのは誤りである。[われ]の間の連繋の問題は,哲学の基本的問題の一つであり,[連繋]と[参入]とは区別されなければならない。[参入]は実在論的であり根本実在への侵入である。これに反して[連繋]は象徴化を前提とし,私の内部を告知する記号を前提とする。[連繋]に特有である象徴化は,実存の内的秩序から客体化され揚棄された共同体へ突入するところのものであり,我々の認識/芸術は,この連繋の象徴化によって充たされている。象徴化は共同体の喪失を証示するが同時にこの失われた共同体の状態の中に[連繋]を創りだす。我々は他の[われ]の内的生活を大部分象徴や記号から知るのである。[連繋]における習慣/模倣/礼儀/愛想の類は,そのような象徴的記号的性格を帯び,国家生活における全ての[連繋]は便宜的記号的性格で,[われ]の間のいかなる共同性も前提としていない。特にそのような性格を特に帯びているのは,客体化の極度の形式を表している全ての金銭関係である。しかし[われ]は利益社会/国家また社会的施設における他の[われ]との連繋をもっては満足せず,便宜的記号による[連繋]の力をかりて,[われ]は他の[われ]との共同体,[真の実存]への歩み出を達成しようとする。全ての便宜的な[連繋]は客体化の世界に属し客体との[連繋]であるが,これに反して共同体への突破は客体化を越えて[真の実存]への突破である}
[連繋]の象徴化は客体化の諸段階と関連し、共同体は相互性を前提とする。一方的な共同体は不可能である。応えられない愛は共同体ではない。共同体ではたんに[われ]ばかりでなく[なんじ]もまた能動的である。客体に対しては象徴的な連繋のみが可能であり、それはなんらの相互性を要求しない。共同体はただ、私にとって[なんじ]であり、相互性すなわち[なんじ]の能動性を求めるところの[われ]をもってのみ可能である。共同体は実存の象面でのみ可能であって、客体化の象面では可能でない。
客体との連繋は[われ]を孤独のままに残し、孤独は[われ]相互の間の共同体においてのみ克服される。人格相互の間、[われ]と[なんじ]の間の共同体においてであって、客体化された利益社会においてではなく、[われわれ]においてである。
意識はその本質上社会的であり、それは連繋、共存人、他者を前提とする。しかし意識はしばしば共同体を妨げ、そして意識こそ人間を孤独の中に留まらせるものである。なぜなら意識は社会化されており、即ち真の実存における実在的な共同体ではなくて、利益社会における象徴的な連繋に同化されているのであるから。
社会化された意識は、社会的日常性によって規定され、神秘的なエクスターゼでは、意識の制約と合一への障害がなくなる。そしてしばしば人間は、共同社会へのあこがれを癒す為に、意識を消滅させることを願う。自己の限界と規範をもった社会的日常性は、超個人的なエクスターゼにおいても、人格的、創造的な独創性においても消える。人格的、独創的、根源的な思惟は、共同体と共同性の否定では断じてなく、社会的日常性への、客体化された利益社会への思惟の依存の否定である。
続く、マスター、合掌、 -
No.194
世界の平和共存と真の心の健康の為
2013/01/16 21:06
>>No. 193
ニコライ・ベルジャーエフ著 「孤独と愛と社会」氷上英廣訳 1975
本文論評 その100 第三章 われ、孤独、利益社会
?、[われ][なんじ][われわれ]・・[われ]と客体・・[われ]相互の間の連繋
{[われ]の間の[連繋]と[参入]とは区別されなければならない。[参入]は実在論的であり根本実在への侵入である。[連繋]は象徴化,私の内部を告知する記号を前提とし,[連繋]に特有である象徴化は,実存の内的秩序から客体化され揚棄された共同体への突入であり,我々の認識/芸術は,この連繋の象徴化によって充たされている。象徴化は共同体の喪失を証示するが同時にこの失われた共同体の状態の中に[連繋]を創りだす。我々は他の[われ]の内的生活を大部分象徴や記号から知るのであり,[連繋]における習慣/模倣/礼儀等は,そのような象徴的記号的性格を帯び,国家生活における[連繋]も便宜的記号的性格で,[われ]の間のいかなる共同性も前提としていない。しかし[われ]は利益社会/国家また社会的施設における他の[われ]との連繋だけでは満足せず,便宜的記号による[連繋]の力をかりて他の[われ]との共同体,[真の実存]を願望する。[連繋]の象徴化は客体化の諸段階と関連し,共同体は相互性を前提とする。一方的な共同体は不可能であり,応えられない愛は共同体ではない。共同体では[なんじ]もまた能動的であるが,客体に対しては象徴的連繋のみが可能であり,それはなんらの相互性を要求せず,[われ]を孤独のままに残す。
意識はその本質上社会的であり,連繋/共存人/他者を前提とするが,意識はしばしば共同を妨げ,人間を孤独の中に留まらせる。なぜなら意識は社会化されており即ち真の実存における実在的な共同ではなく,利益社会における象徴的な連繋に同化されているから。社会化された意識は社会的日常性によって規定されるが,神秘的なエクスターゼでは,意識の制約と合一への障害がなくなり,超個人的なエクスターゼにおいても,人格的/創造的な独創性においても消える。人格的/独創的/根源的な思惟は共同体と共同性の否定ではなく,社会的日常性,客体化された利益社会への思惟の依存の否定である}
ヤスパースが[われ]は他者との連繋なく対話的な抗争なくして実存しない、と断じているのは正しい。[われ]が認識論的主体に変えられる時、世界は既に客体化されているのであって共同性を欠いた認識連繋しか可能でない。これは一般性の基礎に立つ連繋であって共同性の基礎にたつものではない。
全てが客体に変えられるならば、それは当然合理化を意味する。[われ]は感情生活においてよりよく自己を開示し、認識の点で客体化される事も少ない。もっとも社会化された感情というものもあるが、それによっても[われ]の内生活は同様に閉ざされる。しかし[われ]が他の[われ]の中に滲透する[共同体としての認識]は感情的認識である。孤独を克服する共同体が単に人間から人間に単に人間的友情にとってのみ可能である、と考えるのは誤りであろう。それは内的実存を持っている動物の、いや植物や鉱物の世界との間にすら可能である。友情は自然との間に、大洋・山・森・野や河との間にも可能である。聖フランチェスコにあってはそうであった。孤独を克服する共同体の最も驚くべき実例は、人間の[われ]と犬との共同体であって、犬はしばしば他の人間達にまさって真の友人たる事を証拠だてている。この点で人間と疎遠化され客体化された自然との和解が遂げられる。人間は自然において客体にではなく、主体・友人に出会う。人間と犬との関係は形而上学的意味をもっている。なぜならここで客体を通じて真の実存に至る[突破]が起こるからである。
フロイトにとっては、[われ]がリビドーの客体になる事は周知の通りである。これはナルシズムであって分裂である。なぜなら[われ]が自己自身にとって客体となること即ち自己を客体化する事であるから。[われ]が自己自身にとって客体化された世界に属するのである。
{この一説はチョット?ね?でも著者の主意は次の[死の本能]だから深くは詮索しないね?}
続く、マスター、合掌、 -
No.196
世界の平和共存と真の心の健康の為
2013/01/28 11:50
>>No. 195
ニコライ・ベルジャーエフ著 「孤独と愛と社会」氷上英廣訳 1975
本文論評 その102 第三章 われ、孤独、利益社会
?、[われ][なんじ]・・[われ]相互の間の連繋
{[参入]は実在論的で根本実在への侵入であり,[連繋]は象徴/記号を前提とし,象徴化は客体化され揚棄された共同体への突入である。象徴化は共同体の喪失を証示すると同時にこの失われた共同体の中に[連繋]を創り出すが,[われ]は利益社会における連繋だけでは満足せず,便宜的記号による[連繋]の力をかりて他の[われ]との[実存]的共同を願望する。意識は本質上社会的で連繋を前提とするが, 真の実存における共同ではなく利益社会における象徴的連繋に同化している為,しばしば共同を妨げ人間を孤独の中に留まらせる。意識は神秘的なエクスターゼでは,意識の制約と合一への障害がなくなり,人格的/創造的な独創性において消える。人格的/独創的な思惟は共同性の否定ではなく,社会的日常性,客体化された利益社会への思惟の依存の否定である。社会的日常性から超個人的なものへのエクスターゼ的参加によって孤独は解決されるが,孤独の克服としてわれの[われ]への,人格の[人格]への参入の問題が残る。これこそ[愛]の問題,[愛]は人格と結びついた他の[われ]への歩み出であって,非人格的集団的[それ]への歩み出ではない。しかし[われ]はいまだ[人格]ではなく,[なんじ][われわれ]との共同体は,[われ]が[人格]となるのを助ける。[われ]の打ち解けなさは,孤独の徴候の一つであり,客体化社会化された世界に対する[われ]の防御で,[われ]は[なんじ]に対してなら喜んで自己を開こうとするが,[なんじ]の代わりに客体との粗暴な接触に対しておのれの深みを護る}
?、孤独と認識・・・超越する事・・・共同体としての認識・・
・・孤独と性・・・孤独と宗教
認識は孤独の克服であろうか?
認識は固有的な領域からの歩み出、与えられた時間空間から他の時間空間への歩み出、孤立化と乖離の克服である。他の[われ]へ[世界]へ[神]へ歩み出る道、可能性の一つである。認識者は隔絶状態から歩み出、自分自身の中に自分自身と共にあるだけではない。認識は社会的性格を持ち人間と人間の間に連繋を作る。我々は既に論理的共同性の社会的性格につき論理的認識装置の社会的性格について述べた。概念/規範/法則また言語の社会的性格は疑うべくもなく利益社会を形成し、人間相互の連繋を形成するのに最も強力な道具である。しかし言語は思惟と関連して人間相互の間に思惟の共同体を構成するのに必要な概念の形成に関係している。名称というものは社会的魔術を備えており、認識の実際的成果は人間相互の間の共同性の程度に、人間の社会的群集とその協働に、いわば孤独の克服という点に依存している。すべてこれらの事実は孤独と認識の関係について複雑な問題を惹き起こすのである。
認識の社会的性格は人間相互の間の[連繋]を作りだす事を意味する。しかしいまだ人間の間の共同体の無条件的達成、即ち孤独の存在論的克服を少しも意味しない。
認識の社会化は認識の客体化であるが、我々は認識の客体化が、そこにおいてのみ孤独が克服され共同体が構成されるところの[実存の秘密]を隠蔽する事を見た。
認識は二つの違った視野から検討され得る、・・・利益社会/社会化/客体化の視野からと、共同体/内的実存/[なんじ]への友情の視野からと。
認識による真の孤独の克服は、ただ認識の第二の視野からしてのみ可能である。
認識は二通りの意義を持っている。認識の本源的な意義は存在に対する認識者の関係を意味する。この場合には、孤独は[実存の秘密]としての存在に認識者が参加するという事によって克服される。
認識の第二の意味は、認識者の他者に対する/多数の人間に対する/社会に対する関係を意味する。この場合には孤独は社会化によって克服される。しかしこの社会化による第二の孤独克服の仕方は、客体化された世界への人間的[われ]の被投を意味し、そこでの孤独克服は表面的に留まり、[われ]の自己感情と自意識の鈍化を伴う。
続く、マスター、合掌、 -
No.197
世界の平和共存と真の心の健康の為
2013/02/01 14:15
>>No. 196
ニコライ・ベルジャーエフ著 「孤独と愛と社会」氷上英廣訳 1975
本文論評 その103 第三章 われ、孤独、利益社会
?、孤独と認識・・超越する事・・共同体としての認識・・
・・孤独と性・・・孤独と宗教
{認識は社会的性格を持ち人間間に連繋を作る。言語(概念/規範/法則)の社会的性格は利益社会を形成し,言語は思惟と関連して人間相互間の共同体を構成するのに必要な概念の形成に関係している。名称というものは社会的魔術性を備えており,認識の実際的成果は人間相互の間の共同性の程度に,社会的群集とその協働に,いわば孤独の克服という点で依存しており,それらの事実は孤独と認識の関係の複雑な問題を引き起こす。
認識の社会的性格は[連繋]を作りだすが,いまだ共同体の無条件的達成,即ち孤独の存在論的克服を意味しない。認識の社会化は又客体化であるが,認識の客体化が,そこにおいてのみ孤独が克服され共同体が構成されるところの[実存の秘密]を隠蔽する。
認識は二つの違った視野から検討され得る。第一に利益社会/社会化/客体化の視野からと,第二に共同体/内的実存/[なんじ]への友情の視野からで,認識による真の孤独の克服は第二の視野からのみ可能である。認識は又二通りの意義を持っており,認識の本源的な意義は存在に対する認識者の関係を意味する。この第一の場合には孤独は[実存の秘密]としての存在に認識者が参加するという事によって克服される。認識の第二の意味は認識者の他者/多数の人間/社会に対する関係を意味し,この場合には孤独は社会化によって克服される。しかしこの第二の孤独克服の仕方は客体化された世界への人間的[われ]の被投を意味し,そこでの孤独克服は表面的に留まり,[われ]の自己感情と自意識の鈍化を伴う}
孤独の真の克服と共同体の達成は、[われ]から客体への移行ではなくて、愛における、友情における[なんじ]への移行である。この事は認識に対して十分に適応され、認識において[われ]から客体への歩み出が行われる場合、孤独は本当には克服されず、利益社会は[われ]の孤独を除去する事が出来ない。それが出来るのは[なんじ]のみ、[われわれ]における共同体のみであって、利益社会においては不可能である。認識の客体化は常に[一般者]を問題とする。認識は抽象を手に入れ、普遍に高まってゆく。しかしこの一般者においては、この普遍においては、個体的なもの、個別的なもの人格的なものは消える。これに反して共同体としての、[なんじ]への歩み出としての認識においては、認識の普遍的成果は、個体的なもの、個別的なもの、人格的なものへの参入を可能にする。個体的なものは、具体的普遍の中で自己を主張するのであって、抽象的一般の中ではない。
普遍と一般が、特殊と個別を排除し破壊するならば、[われ]の、従って他の[われ]である[なんじ]の、完全な揚棄によって、孤独はいかにも克服されるであろう。{E・フロムの『自由からの逃走』的意味においてね?}しかし実存主義的認識は常に、[われ]及び[なんじ]を問題とするのであり、それは人格主義的である。
孤独の人格主義的克服の問題こそ追及さるべきであって、非人格的一般者における克服の問題ではない。利益社会の威力、すなわち社会化された論理的共同体からの認識の解放は、思惟を超論理的たらしめるであろう。
一般に孤独の克服は[われ]の超越であり、それは思惟において、また感情においての超越である。{人格の変容の問題ね?変容は人格の基底下部組織からの変化、通常の変化は上部構造のみの変化ね?}しかし[われ]を超越する道は二つあるのである。客体への一般者への超越は、[なんじ]への他の[われ]への内的実存への超越とは別個のものを意味する。[われ]の孤独と隔絶の認識における克服が、客体化によって起こる時、社会化の過程や一般者の産出や社会的連繋に必要な諸概念の産出によって起こる時、そのような克服?にも確かに積極的な価値と意味はある。しかし、それは堕ちた世界、分裂し束縛された世界の出来事であり、人間的[われ]の隷属状態を反映している。
続く、マスター、合掌、 -
No.198
世界の平和共存と真の心の健康の為
2013/02/06 21:59
>>No. 197
ニコライ・ベルジャーエフ著 「孤独と愛と社会」氷上英廣訳 1975
本文論評 その104 第三章 われ、孤独、利益社会
?、孤独と認識・・超越・・共同体・・孤独と性・・孤独と宗教
{認識の社会的性格は[連繋]を作りだすが,いまだ共同体の無条件的達成,即ち孤独の存在論的克服を意味しない。認識の社会化は又客体化であるが,認識の客体化が,そこにおいてのみ孤独が克服され共同体が構成されるところの[実存の秘密]を隠蔽する。孤独の真の克服と共同体の達成は,[われ]から客体への移行ではなく,愛/友情における[なんじ]への移行であり,それが出来るのは[なんじ][われわれ]における共同体のみであって,利益社会においてではない。認識の客体化は常に[一般者]を問題とし,認識は抽象を手に入れ普遍に高まってゆくが,この一般者/普遍においては個体的/人格的なものは消える。これに反して共同体/[なんじ]への歩み出としての認識においては,個体的/人格的なものへの参入を可能にする。個体的なものは具体的普遍の中で自己を主張するのであって抽象的一般の中ではない。[われ]を超越する道は二つあり,客体/一般者への超越は,[なんじ][われ]の内的実存への超越とは別個のものを意味する。[われ]の孤独と隔絶の克服が客体化の過程,一般者や社会的連繋に必要な諸概念の産出によって起こる時,そのような克服にも積極的な価値と意味はあるが,それは堕ちた世界/分裂し束縛された世界の出来事であり,人間的[われ]の隷属状態を反映している}
認識は打ち勝ち難い矛盾と二律背反に導かれる。孤独の克服と共同体の達成としての認識の問題、時間の問題、人格の問題は矛盾に導かれる。
これらの矛盾は一見したところ客体化によって除去される(が如くに見える)、しかし本当は、その反対に強まるのである。
これらの耐え難い矛盾を解決しうる唯一のものは[神]であり、[神]はまさしく[反対の統一]である。認識は婚姻的性格を持っており、それは二つのものを前提とする。それは客体によって決定されえないし、また主体の創造物たりえない。{しかし通常我々は無神教ないし葬式仏教徒だからね?}
認識において真の婚姻、愛の婚姻が遂げられるならば、[われ]の孤独は克服される。しかし一般者との婚姻は不可能であって、ただ他の[われ]との、[なんじ]との婚姻のみが可能である。認識の婚姻的性格は認識のテオアンドリスムス(神人論)である。
認識の中には人間的要素と神的要素とがある。認識における客体化は人間的および神的要素の消滅に導かれる。この要素に代わるものは非人格的一般者である。全問題は、この非人格的一般者的要素を通じて認識における婚姻的人格主義にまで突破することにある。
[われ]は孤独の克服を認識の道によっては見い出す事が出来ないので、それはこの克服を他の道によって求める。私はここでは[認識]という言葉を単に[一般者]の圧力のもとに、模倣と社会的日常性になじんだ普通の意味で使っている。
性は人間的孤独の主要源泉の一つであり、人間は性的存在である、という事は、填充を憧れ求めるところの、半分にされた、引き裂かれた、全体ならざる存在という事である。性は[われ]の中に深い亀裂をもたらす。完全な[われ]は男性的であって女性的、両性具有的であらねばならぬだろう。共同性における孤独の克服は、何よりもまず性的孤独の克服、性の孤立化からの歩み出、性的全体性における合一であろう。性の実存の事実がすでに孤立化、孤独であり、他者の中に歩み入ろうとする懊悩のあこがれ、願求である。しかし両性の身体的結合は、いかにも身体的懊悩を終結させるけれども、しかしそれ自体としては孤独をいまだ克服しない。その後で孤独はいっそう痛切なものとなりうる。両性の結合はまた客体化された世界への[われ]の頽落となりうる。性生活が自然のプロセスであるかぎり、それは客体化された世界に属する。性生活の結果は結婚と家族において社会化される。生物学的また社会的事実としての性生活は、客体化された世界の中への、[われ]の実存の被投性を意味する。
続く、マスター、合掌、 -
No.199
世界の平和共存と真の心の健康の為
2013/02/16 13:53
>>No. 198
ニコライ・ベルジャーエフ著 「孤独と愛と社会」氷上英廣訳 1975
本文論評 その105 第三章 われ、孤独、利益社会
?、孤独と認識・・超越・・共同体・・孤独と性・・孤独と宗教
{認識の社会的性格は[連繋]を作りだすが,認識の客体化が,そこにおいてのみ孤独が克服され共同体が構成されるところの[実存の秘密]を隠蔽する。孤独の克服と共同体の達成は[われ]から客体への移行ではなく,愛/友情における[なんじ]への移行であり,それが出来るのは[なんじ][われわれ]における共同体のみであって利益社会においてではない。認識の客体化は常に[一般者]を問題とし,認識は抽象的普遍に高まるが,この一般者/普遍においては個体的/人格的なものは消え,これらの矛盾は一見客体化によって除去される如くだが実は反対に強まる。これらの矛盾を解決しうるのは[反対の統一]である[神/愛]においてである。認識の婚姻的性格には人間的要素と神的要素があり,客体化はそれらを消滅に導き,非人格的一般者が代理となる。全問題はこの非人格的一般者的要素を通じて認識における婚姻的人格主義に突破する事にある}
{[われ]は孤独の克服を認識によって見い出す事が出来ず,これを他の道に求める。人間が性的存在である事は,填充を憧れ求める半分の存在という事で,性は[われ]の中に深い亀裂をもたらす。完全な[われ]は男性的且つ女性的,両性具有的であらねばならぬ。共同性における孤独の克服は性的孤独の克服,性的全体性における合一であるが,両性の身体的結合は身体的懊悩を終結させるけれども,それ自体としては孤独をいまだ克服せず,その後では孤独は一層痛切となり又客体化された世界への頽落となる。性生活が自然のプロセスである限り客体化された世界に属し,生物学的社会的事実としての性生活は客体化された世界の中への[われ]の実存の被投性を意味する}
孤独は客体化された世界においては克服されず単に鈍感にされるだけである。両性の生物学的結合および家族制度における社会的結合は孤独感を弱め鈍くする事はできるが、なんら孤独と人間的憧れの終局的克服ではない。また性に対するデモニズムというべきものがあり、このデモニズムは内へ向けては性の抑圧、外へ向けてはその示威として顕われ、それは破壊的致命的な要素を含む。
孤独の克服に対する人間の大きな希望は、愛と友情に結びつく。愛はまさしく孤独の克服であり、自己自身から他者への歩み出、他者との相互の反映である。愛は人格主義的共同体の精粋で人格相互の共同体である。なんらかの個体的な姿に向けられていない非人格的な愛に対しては別の呼称が与えられなければならない。ロザーノフは「硝子の愛」という。歪曲されたキリスト教がそのような愛の動機となった。友情もまた人格主義的である。そしてその中には恋愛的な要素がある。愛と友情の間には、深い、分かつ事のできない結びつきがある。[われ]は愛によって人格に変わる。愛においてのみ一者の他者との全体的な結合と孤独の克服がある。認識が愛であるかぎり、認識において孤独は克服される。しかし性の内的破綻と魔人性は愛にも伝わる。人間的実存が客体化された世界に投げられるならば、愛は悲劇的であり死と結合せしめられる。客体化された世界は真の愛を受け入れない。かかる世界は愛を好まない。それは単に愛の生物学的側面と社会的側面を知るにすぎない。愛は客体化された世界の諸法則について何事も知ろうと欲しない。愛は客体化された世界の彼岸に、孤独を克服する。その為に愛はまた死ときわめて密接に結びついている。ここにも我々は随所に見られた同じ二元性を見るのである。両性の間の連繋は利益社会において、社会制度において実現され得る。その時客体化が成立し、真の共同体は到達されず、したがって孤独もまた克服には至らない。両性の結合は利益社会においてではなく、愛において共同体において可能なのであって、その時は孤独は克服される。とはいえ、この結合は客体化された世界の中にあるその運命に従って悲劇的であり、神秘的な仕方で死と結びついている。
続く、マスター、合掌、 -
No.200
新しいシステムtextream
2013/02/22 17:39
新しいシステムtextreamになり、どうなるんでしょうか?
とりあえずは細々ではありますが続けたいと思います。
一応ベルジャーエフ初回の案内からね?
現代の我が国は戦後アメリカの統治政策の下(ユダヤ)プロテスタント的資本主義に服従的、且つ宗教・霊性的にも無関心に戦後復興・発展を遂げると共に様々な問題点を我々自身に(も)内在化させてきた。戦後団塊の世代の時代が終わろうとする現在、改めて問題点を想起・反省しつつ未来を創造的に展望・議論したいと思う。理性・感性・霊性の基軸がゼロ≒無において一本線となる所謂「軸のぶれない人」の増加が望まれます。通常言われる理性≒IQ or 感性≒EQだけではダメ(両方でも)ほぼ不可能ね?言語とイメージの循環構造及び個人と社会の相補的循環構造こそ我々の空回り機構そのもの?プラスα(SQ?)≒個の(実)存在と(森有正的)経験(≒霊性的主体)の再想起が望まれます。
ベルジャーエフで「社会性(≒客体化)の弊害・問題点」を考えてみたいと思います。文明化の最大の弊害ですが、あらゆる立場の個人(≒社会的主体)それぞれの「否認機制」の為、決して真剣に検討される事のない問題です。一応TEXT的に私のHPと(その中のが古くて不通の為) メルアドを記しておきます。http://www.h3.dion.ne.jp/~p-jazz/index.html です。
なお古いものですので、HP中の情報は現在使用不可です。
現在のメルアドは、pjb6111@hi2.enjoy.ne.jp です。個人的なご相談事、カウンセリングのお問い合わせ等、いつでもどうぞ}
{推薦図書(カトリック) 稲垣良典[天使論序説] 講談社学術文庫1996
(カトリック) 稲垣良典[神学大全] 講談社選書2009
(プロテスタント) 松田央[キリストの道]冬弓舎 2011
(曹洞宗) ネルケ無方[迷える者の禅修行]新潮新書 2011
この三者 深部においてエノミヤ・ラサール神父/禅師に繋がり、その視点・志向性は似ています。現代日本の求める必要不可欠な精神性でもあります}
ニコライ・ベルジャーエフ著 「孤独と愛と社会」氷上英廣訳 1975
本文論評 その106 第三章 われ、孤独、利益社会
3、孤独と認識・・超越・共同体・性・宗教
{認識の社会的性格は[連繋]を作りだすが,認識の客体化が,そこにおいてのみ孤独が克服され共同体が構成されるところの[実存の秘密]を隠蔽する。孤独の克服と共同体の達成は[われ]から客体への移行ではなく,愛/友情における[なんじ]への移行であり,[なんじ][われわれ]における共同体のみであって利益社会においてではない。認識の客体化は常に[一般者]を問題とし,認識は抽象的普遍に高まるが,一般者/普遍において個体的/人格的なものは消え,矛盾は一見除去される如くだが実は反対に強まる。この矛盾を解決しうるのは[反対の統一]である[神/愛]においてであるが,客体化は婚姻的性格を持つ人間的神的要素を消滅に導き,非人格的一般者が代理となる。全問題はこの非人格的一般者的要素を通じて認識における婚姻的人格主義に突破する事にある。[われ]は孤独の克服を認識によっては見い出す事が出来ず,これを他の道(性)に求め,身体的結合は身体的懊悩を終結させるけれども,後に孤独は一層痛切となり,生物学社会的事実としての性生活は客体化された世界の中への[われ]の被投性を意味する。また性のデモニズムがあり,これは内へ向けては性の抑圧,外へ向けてはその示威として顕われ破壊的致命的な要素を含む。孤独の克服に対する大きな希望は愛と友情に結びつき,愛はまさしく孤独の克服,自己から他者への歩み出,相互の反映,人格主義的共同体の精粋である。しかし性の内的破綻と魔人性は愛にも伝わり,人間的実存が客体化された世界に投げられるならば,愛は悲劇的に死と結合する。客体化された世界は真の愛を受け入れず単に生物学的社会的側面を知るにすぎない。両性の連繋は利益社会制度において実現されるが,その時客体化が成立し真の共同体は到達されず孤独もまた克服されない。両性の結合は愛/共同体において可能であり,その時孤独は克服されうるが,それは客体化された世界の中にある運命に従い悲劇的神秘的な仕方で死と結びついている}
本文の続きは次回からね? マスター、合掌、

世界の平和共存と真の心の健康の為
2012/11/30 15:03
ニコライ・ベルジャーエフ著 「孤独と愛と社会」氷上英廣訳 1975
本文論評 その87 第三章 われ、孤独、利益社会
?、「われ」と孤独・・・孤独と社会性
{キルコゲールは悲劇的なものとは悩む矛盾で,喜劇的なものとは悩まざる矛盾であるという。[われ]は孤独を克服しようとするが同時にそれが不可能である事を意識する。[われ]は孤独を幾多の仕方,認識の道,恋愛や社会生活,道徳的行為,芸術等によって克服しようと試みるが終局的に克服される事はない。全てこれらの道では客体化が起こり[われ]は内的な共同体における[われ][なんじ]に出会わず,むしろ客体と利益社会に出会う。孤独には様々な形式と段階があり,争い,闘い,憎悪までがしばしば孤独を忘れさせ孤独感を弱めるところの社会現象であるが,それらの後ではいっそう強く感ぜられ,孤独は人に理解されず他人に誤って映る事として体験される。[われ]は自己を正しく他者の中に反映させたい,他者において自己の確認と裏付けを得たいという欲求を持ち,それは開かれ見られる事を渇求する。ナルシシズムは人が思うよりも深い現象であり[われ]の本質と関連する。[われ]は鏡に見入り己の映像を(己の実存を確認する為)見たいと思うが,本当は[われ]は他の[われ][なんじ],共同体の中に自己を反映したいのである}
[われ]は、この世の中のいずれか他の[われ],いずれかの友人がおのれを最後的に承認し、確かめ,その美しさにおいて捉え,聞き,反映する事を願望する。そこに愛の深い意味が横たわっている。ナルシシズムは愛の破綻である。それは客体における反映であって、そこでは主体は自己自身の中に留まり自己自身から歩み出ない。奇妙な事は他ならぬ客体が主体を主体自身の中に留まらせて、他者の中に連れ出さない事である。それゆえに客体性がまた主体性の極限的な形式をなすのである。
認識への願望は、孤独克服への願望である。認識は自己自身から歩み出て他者の中へ入って行く事であって、[われ]とその意識の異常な拡大であり、時間空間による分離に対する勝利である。これに反して客体化された認識は、なんら孤独からの真の歩み出ではない。なぜなら孤独から連れ出すいかなる客体もなく、客体は常に[われ]に対して疎遠なものである。客体を前にしては、[われ]は自己自身の中に留まる。いかなる客体化された認識、いかなる客体化された自然、いかなる客体化された利益社会によっても、[われ]の悲劇的矛盾は克服される事がない。利益社会ではなく共同体の視角において形成された認識のみが真に孤独を克服し得る。利益社会の視角においては、認識は社会化され、その一般的拘束性は社会的性格を持ち「一般者の獲得]ではあっても、共同性の獲得ではない。
存在論的に見るならば、孤独は神へのあこがれの表現である。その神は主体としての神であって、客体としてではなく、[なんじ(Du)]であって[それ(Es)]としてではない。神はまさに孤独の克服であり、親しく近きもの、わが実存によって測りうべき意味の発見である。私が所属し、私が絶対的に信頼し、おのれを残りなく捧げ得る唯一のものは神であり、神のみである。しかし神は私にとって客体ではない。私の神への関係の客体化は、神を私にとって一個の外的権威と化せしめる。あるいは、孤独はたんに主体的にのみ実存するのであって、存在論的には存在しないと思われるかもしれない。しかし主体的にのみ実存するものを克服するのは、実存し、同時に存在の最深所に触れているもののみである。
存在は「主体的」に開示されるのであって、「客体的」に開示されるのではない。
[われ]の世界に対する関係は二重である。一方では、それは世界に対しての孤独疎遠の体験、全く別の世界からこの世界に自身到着したという体験である。他方では[われ]は全世界史をおのれ自身の深層の歴史として開く。全ては「我が運命」であり、一方では全てが疎遠事と思われ、他方の「われ自身」と共に起こるものも又[われ]にとって疎遠事と考えられる。さればこそ[われ]にとって利益社会は客体であり、社会性は客体化なのである。
続く、マスター、合掌、