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投稿コメント一覧 (76コメント)

  • >>No. 206074

    皇子は質問して言った。
    「活目天皇(垂仁天皇のこと)が命令して殉死(主人が死んだとき、家来を後追いで殺すこと、あるいは家来が自殺すること)を禁止したのは、
    世間の皆が良く知っていることだ。
    それなのに魏志倭人伝には、卑弥呼が死んだ。大規模に墓を造営した。直径が百余歩。
    殉死して葬られた者は百人余りであったとある。どうしてだろう。」
    (卑弥呼が垂仁天皇より後の時代の人という前提で、
    卑弥呼の墓に禁止されている殉死者を葬ったというのは変なんじゃないかという質問)
    南淵子は答えて言った。
    「殉死は日本の古来からの慣例ではありません。御間城天皇(崇神天皇のこと)の時代に、
    一時的に誤って実行されたのです。
    おそらく、外国の野蛮な風習が流民とともに入ってきて、物好きが浮ついた心で新しいことを喜び、
    貴族や権力者がかってにおこなって、それで自分の権勢を誇示したのでしょう。
    そのあとすぐの活目天皇(垂仁天皇のこと)の時代に、天皇の弟の倭彦が薨去されたとき、
    そば近くでお仕えしていたものや寵愛を受けていた者をあつめて倭彦の陵域に生きたまま埋葬しました。
    それらの者は、数日間死なず、泣き叫んで極めて悲惨な有様でした。
    そのことが天皇のお耳に達すると、天皇はあわれんで心を痛めてこうおっしゃいました。
    死者が生きている間に愛していた者たちに死者の後追いをさせるのは、なんと無慈悲なことだろうか、と。
    そして命令して殉死をやめさせました。
    その後、皇后が崩御されました。そのとき、家臣の野見宿禰は、
    殉死者を埋葬したいという人々の気持ちをまったく無視するのは難しいと思い、
    天皇に申し上げて始めて土俑(=土偶=埴輪=土で作った焼き物の人形)をつくりました。
    天皇は、それをほめて、それ以降、墓には人間を埋めるのではなく埴輪を埋めることを恒例になさいました。
    ですから、魏使が見たのは埴輪です。生きた人ではありません。
    人をかたどって使用したために、棺車で埴輪を運んだのです。
    それで魏使は蕉と鹿の区別がつかないように、
    (意味がよくわかりません。蕉は麋の誤りかも。)
    仮のものを本物と思い違いして、それでこんな間違った伝聞を生んだのです。

  • >>No. 206167

    どういたしまして。
    蕉鹿そのような註がついていたのですね。
    蕉を草鹿と読むって、ググってみたけど見つかりませんでした。ほんとですかね。
    他の部分も貼ってくれれば現代語訳します。
    訓訳南渕書は持ってないので、見てみたい気もしますし。

  • >>No. 206332

    「倭 国」が引っ掛かるようです。
    「倭 国」や「倭・国」のようにスペースや「・」を入れるか、
    「倭國」のように旧字体なら投稿できます。
    韓国の人が日本の蔑称として「倭 国」を使うので、
    無益な論争が起きないようにするために禁止しているのかなと推測しています。
    その割には、反日・嫌韓は通るのが謎。

  • >>No. 206377

    訓訳南渕書巻上 倭女 第十八 その1

    皇子は問うて言った。「魏志に、倭の女王卑彌呼は、其の南鄰の狗奴國の男王卑彌弓呼と平素より不和であったとある。狗奴國とはどこの国で、卑彌弓呼とはだれなのだろう。」
    南淵子は答えて言った。「狗奴{コウヌ}は河野{コウノ}です。(久努も河野も皆な同音)卑彌弓呼は、日御久奴子{ヒミクヌコ}と読みます。久努は名で、日御 の字を上に冠し、子の字を下に履んでいるのは称号です。河野の祖先は、神八井身{カムヤ井ミミ}(綏靖ノ皇兄)から出て、代々伊豫ノ造{ミヤツコ}の職についています。其の祖の名は子致{コチ}で、(越智や、高知や、小市と書いたりもする。もともとは河内の意味から出た名だという)それを姓としました。ですから魏志に、狗奴ハ官ヲ狗古智卑狗{コウノコチヒ コ}ト曰フとあります。狗古智卑狗というのは河野越智彦です。宗族が蔓延して、西にある者は、火君、大分君、阿蘇君、筑紫三家連{ミヤケノムラシ}といい、東にある者は科野{シナノ} 國造、道奥岩城{ミチノクイワキ}國造、常道仲國{ヒタチナカノクニノ}造、長狹{ナガサ}(安房)國造、伊勢舟木{フナキ}直、阪合部{サカヒベ}(伊 賀)連、尾張島田臣、丹羽{ニハ}臣、小子部{チヒサコベ}(尾張)連といいます。邦畿の内では、また意富{オホ}臣雀部{ササ?へ}臣、雀部連、小長谷部{オ ハ?セベ}造、都祁{ツケ}直があります。ですから彼らがひとたび朝廷に対して異議を唱えると、巨大な猪や大蛇のように日ごとに勢いを増し猛威をふるいました。そこで大足天皇(景行天皇)の皇子倭武{ヤマトタケ}が、風雨にさらされながら苦労し、ゆっくり休む間もなく各地を転戦して、ようやく国内が治まり、再び天皇の御威光がいきわたるようになりました。」

    ※「胃稱」というのが解りませんでした。
     「稱謂」という言葉と解釈して称号と訳しておきました。

  • >>No. 206440

    その2の部分に、「倭 国」に類する他のNGワードが含まれてるんじゃないかな。
    zarakokuさんが言ってた「倭 奴國」とか。

    その2の文章をさらに分割して投稿してみて、どこが引っ掛かるかを特定し、
    そのなかの疑わしい単語にスペースを入れて試してみると、
    何が引っ掛かってるかわかります。

  • >>No. 206495

    訓訳南渕書巻上 倭女 第十八 その2

    皇子は質問して言った。「魏志に、卑彌呼が死んだので、それにかえて男王を立てたが、國中が服従せず、そこでまた卑彌呼の一族の娘壹與を立てた。十三歳で王となり、國中がようやく定まったとあるが、このことはどうだろう。」

    倭女 第十八 その3-1
    南淵子は答えて言った。「これは魏使が傳聞を記録したものです。はじめ筑紫に亂があり、大足天皇(景行)は〈そのときはまだ〉春宮(とうぐう 皇太子)であらせられ、斧鉞(フエツ 朝敵討伐の軍権)を賜り筑紫まで侵攻して掃蕩に従事せられました。このとき皇太子(=後の大足天皇)の皇子である童男{オクナ}(オクナとは倭武尊の幼名である)は、年はわずかに十三でしたが、その強さが抜きんでていて、女装して従軍しておられました。

  • >>No. 206574

    倭女 第十八 その3-2

    ですから「オクナ」を少女だと思っている人もいました。(木蘭詩に「十二年間いっしょに行軍していて木蘭が少女であることを知らなかった」とある。)魏使は倭に来ると、檄を河野に送って和睦を勧めました。河野は許諾して、皇子と名前を交換し、それにより和睦の盟約を固いものとしました。ですから皇子の名は壹與となりました。つまり伊豫です。河野の名は弓{ク}ですが、正しい音は久努{クナ}、つまり童男{オクナ}です。

    ※漢文では、女 郎は遊女ではなく、少女という意味です

    ※木蘭詩は、中国の非常に有名な逸話です。年老いて徴兵に応じられない父の代わりに少女が男装して従軍したという話で、歌や小説や京劇の題材になっていて、2009年にも「ムーラン」という題名で映画化されたらしいです。

    倭女 第十八 その4
    活目天皇(垂仁)が崩御されると、大足天皇(景行)は輦(レン 天皇の乗り物)を中洲{ヤマト}にお還しになり(つまり、このときはまだ皇太子だった大足天皇が父の活目天皇の崩御によって、筑紫から大和に帰還したということ)、皇子〈オクナ→伊豫=壹與〉を筑紫にとどめて監軍となさいました。魏使は監軍を誤って天皇と認識しました。それでこの混乱が生じたのです。皇子は、その後、川上梟帥{カワカミタケル}を誅伐し、名を倭武(ヤマトタケル)とお改めになりました。我々日本人の古い習俗では、敵と名前を取り替えるということがよくありました。」

  • >>No. 206495

    「倭女 第十八 その3-2」は、「女 郎」がNGワードでした。

  • また、いつでもどうぞ。
    壹與が伊豫で、名を交換したんだというのは、よくできた話ですよね。
    でも古田武彦氏という実例を見ているので、
    このくらいの話は作れるだろうなあと思います。

  • >>No. 206936

    訓訳南渕書巻上 魏使 第十七  その1

    皇子は質問して言った。「魏志に我が国を女王國と言っているが、このことはどうなんだろう?魏志が記録している行程地名も、はっきりしないものが多いがどうなんだろう?」
    南淵子は答えて言った。「魏人が我が国を女王國というのは、漢人が我が国を奴國というのと同じです。漢の時、漢の掌客(接待官)が、我が国の使臣が話すのを聞き、そこで太瓊天皇(フトニノスメラミコト 孝靈)の瓊(訓読みはニまたはヌ)の字を奴(ヌ)と書き、魏の時、我が国の使臣が自分で筆を取って、たまたま活目天皇(イクメノスメラミコト)の目を女と書き、それが誤って伝わって、女という字の意味が独り歩きして、とうとう我が国が女王の治める国だということになってしまったのです。事実は、こんな笑い話なのです。橿原天皇(神武)以來小墾田天皇(推古)に至るまで、そのあいだに我が国に君臨した女帝がいたでしょうか。西南の蛮夷の酋長でも、女主を仰ぎ、これに服從したという話は聞いたことがありません。(熊襲川上梟帥等もまた女子ではなかった)

    ※ 夜露死苦(ヨロシク)みたいに、日本語を漢字で音写しただけなので、当時、どの漢字を使うか決まってなかった。それで漢の人は太瓊(フトニ)のニを瓊ではなく同音か近い音の奴と書いた。太瓊國→太奴國→奴國。同様に魏の時の倭國からの使者は、活目(イクメ)のメを目ではなく同音の女と書いた。活目國(イクメコク)→活女國(イクメコク)→女國(メコク)→女國(おんなの国)→きっと女が治めてる国だろう→女王國。バンザーイ。
    史実かどうかは別として、南淵書の主張はこうです。

  • >>No. 207084

    訓訳南渕書巻上 魏使 第十七  その2

    魏使の行程で、帶方から海に循い、韓國を經て、乍ち南行し、乍ち東行し、狗耶韓に至るというのは、今の任那のことです。(任那から)南方向へ海をひとつ渡り、對馬に至り、又た南方向へ海をひとつ渡り壹支(壹岐)に至り、又た南方向へ海をひとつ渡り末盧に至るというのは、肥前の松浦です。是より東南方向へ陸行して尹都に至るというのは伊覩(怡土)です。東南方向へ進んで奴國に至るというのは、つまり、渟田門{ヌタノト}です。古の通津(地名なのか普通名詞なのかわかりません)です。 伊覩と海を隔てていますので、それでこれを女王國境界の盡きる所となすと言いました。筑紫を屬嶋としたのです。

    ※渟田門がどこかわかりませんが、広島県内などが候補に挙がっているそうです。
    南渕書は奴國= 渟田門を本州にあるとし、なおかつ、この奴國をその余の旁國のなかにある「次有奴國、此女王境界所尽」の奴國と同じと考え、「魏志は、本州までが天皇の直轄で、そこで境界が尽き、海を隔てた筑紫=九州島は属国の島と考えた」と言っているのです。しかし、行程途上の国が「遠絶、不可得詳」ではおかしいので、二つの奴国は別の国と考えるべきでしょう。倭人伝には「○奴國」という名が複数あるので、どちらか、あるいは両方の○の部分の字が脱落したと考える方が妥当です。

  • >>No. 207085

    訓訳南渕書巻上 魏使 第十七  その3

    又た東方向へ進んで不彌に至るというのは、隠岐です。むかし隠岐三子嶋{オキノミツコノシマ}と呼んでいて、或いは、省略して、隠三{オミ }と言いました。南海は航路がふさがれています。(常時伊豫河野の叛乱があった。南海の諸國はおおいに乱れ、航路は通れなかった。それで路を変えたのだ。)それで、こちらの道を取ったのです。また南方向に進んで投馬に至るというのは、但馬のことです。尹覩以南は皆舟行しました。それで水行二十日と言ったのです。また南方向へ進んで耶馬臺{ヤマト}に至るとは、帝都です。ですから女王の都する所と言ったのです。水行十日陸行一月とは、おそらく由良河を遡上してきたのでしょう。官を伊支馬 {イキメ}と言っているのは、つまり活目のことで、天皇の御諱を称し奉ったのです。次を彌馬獲支{ミマカシ}(御委任シ 現代語なら「おまかせ」)と言っているのは、國政を任せるの意味で、大臣のことを言っているのです。次を奴隹踶{ヌカツキ}と言っているのは、古語で額拜して主君に近侍する者を奴加津幾{ヌカツキ}(額附とも書く)と言いました。諸卿のことを言っているのです。これらは虚構の言説ではありません。

  • >>No. 207086

    訓訳南渕書巻上 魏使 第十七  その4

    記録されている旁國のうち、斯馬とは志摩です。已百支{カソチ}とは河内{コウチ}です。彌奴{ミヌ}とは美濃です。好占都{オホツ}とは大津です。鬼國{キノク ニ}とは紀國です。爲吾とは伊豫です。鬼奴{キヌ}とは茅渟(ちぬ 和泉)です。郡支{クス}とは國栖(くず 大和)です。伊邪{イサ}とは春日の別稱で、不呼姐奴 {オホソヌ}とは大園です。對蘇々奴{チサソヌ}とは小園です。呼邑華奴蘇奴{オホハメソヌ}とは大花園です。(?山城にあり) 郡支{クヌ}以下多くは中洲(ヤマト)から山背(ヤマシロ)の間の小邑です。耶馬{ヤマ}とは山背です。躬臣{コシ}とは越國です。巴利{ハリ}とは尾張です。支惟{キイ}は亦た山背にあって紀伊です。烏奴とは菟野(うの)です。紀國にあります。これら諸{モロモロ}の國邑の名は、常時使臣が報告したもので、史官が改変したものもあります。ですから一つの国名を分割して二国にしたり、重複していても修正せず、大小の比較も無茶苦茶で、遠近里程もまた必ずしも実際に即しているというわけではありません。それでも空想や架空だけでこれほと詳細な記述ができるでしょうか。ですから私は、魏使が我が国に来朝したというのは信ずべき話だと思うのです。

    ※ 「常時使臣ノ報スル所」について
    これは、一時に系統立てて調査した情報ではなく、使臣が往来するたびに、そのつど(常時)魏に報告されたものだから、矛盾や重複や欠落があるのだと言っているのだと思います。

  • 読むの早いですね。
    この部分、正しいと思う人はいないでしょうね。
    翻訳しているだけなので、南淵書の内容が正しいかどうかは、
    この際、議論しなくてもいいかなと思います。

  • >>No. 207090

    頼まれて翻訳しているだけなので、南淵書が正しいか間違ってるかは、まあどっちでもいいです。
    その余の旁国がどこか決めるつもりも、知識も持ってません。

  • >>No. 205470

    ひと月近くも遅いレスで恐縮ですが。

    機械工学の分野などだと、素人が、専門家の忠告を無視して勝手に機械の設計図を引いても、実際に作ってみればきちんと動かないという明快なエビデンスが突き付けられます。知識がなくとも、それだけで、自分の考えが間違っていることだけはわかり、謙虚になって専門家の忠告に耳を傾けます。
    ところが日本古代史は、機械工学でいえば設計図だけで、実際に作るという部分がありません。ですから、素人が、断章取義と望文生義と誤読と誤った手法で誤った理論を立てても、本人には何も困ったことはおきず、自分が間違っていることがわかりません。歴史学・文献学は間違いを間違いと知るにも知識が必要な学問なのです。
    薬なら、誤った処方をすれば副作用が起きますが、日本古代史では腹も痛みません。むしろ、専門家の親切心からの忠告を受け入れる方が、自尊心が傷ついて痛みます。

    自分が間違っていることを理解できるだけの知識がなく、間違っていても何も不都合も起きず、間違いを認める方が自尊心が傷つくので、徹底的に専門家に抗弁し、結局水掛け論にしかなりません。それを
    >学術的専門家の探究レベルが素人と変わらないことを伝えることに成功した
    と考えるのは間違いです。

    >通説の根拠が薄弱なこと
    これは、一つには残された文献が少ないので、根拠が薄弱なのは当たり前のことです。
    また、もし、自分の腹が痛まないので、いくらでも抗弁できることをもって、通説の根拠薄弱との印象を持たれたとしたら、それは違うと申し上げたいです。

    機械が動かない・プログラムが作動しないみないな明快なエビデンスがない分野なので、素人でも専門家に逆らって一生遊べるという実例を示したという意味で、
    >日本古代史への参加者のすそ野を大きく広げることに貢献した。
    というのはその通りだと思います。しかし、逆に専門家の凄さをくらませ、謙虚に専門家に学ぶ姿勢を素人から奪い、時間を無駄にさせた罪は大きいと思います。その時間で、きちんと学んでいれば、かなりの学識が得られていたはずです。

  • >>No. 207109

    お役に立てて、とても嬉しいです。また訳すものがあったら、いつでも言ってください。
    僕の知識の程度は、プロの学者に比べれば全然大したことはありません。
    たしかに学者もピンからキリまでで、漢文読解力が素人以下の大学教官がいるのも事実ですが、
    一流どころは、やはりすごいです。
    それなのに、古田史学を奉ずる人たちに学者を軽んずる傾向が強いので、
    とても残念に思っています。

  • >>No. 207129

    横から失礼します。
    >>古田さんの「三国志などでの壹と臺の全確認調査」
    この壹と臺の数を数えた古田さんの手法がそもそも誤っているので、
    古田さんの邪馬台国はなかったという主張は、
    学問的に意味がないとおもいませんか。

  • >>No. 207135

    ちょっと長くなるので、少しずつ投稿してみますので、少々お待ちください。

  • >>No. 207137

    まず、とりあえず「壹」についてです。

    「邪馬台国はなかった」 朝日新聞社刊 のp44~45に三国志中の「壹」は86個として表が掲げられています。
    邪馬臺あるいは邪馬壹は、外国語の国名を音写したもので、ここ1例しかありません。書写の誤りも起こりやすいし、他書によって修正することもできません。

    これに対して、倭人伝関連以外の81例を見てみましょう。
    呂壹の「壹」は呉書に32例だそうです。例えば「初、權信任校事呂壹,壹性苛慘 」(初め、權 校事呂壹を信任す。壹の性苛慘。) こういう文章で、 「壹性苛慘」の「壹」を書き間違う可能性はすごく低いし、たとえ書き間違っても、間違いであることがはっきりしているので、後の人が改めます。ですので、表中の呂壹32例、孫壹21例、士壹13例、呉壹8例は、ヤマタイに比べて、そもそも書き誤りが発生・伝承される可能性がとても低い例です。

    聶壹1例は、史記に聶翁壹、漢書に聶壹と出てくる人物で、三国志寫本中で書き誤っても修正可能です。

    張壹1例は、後漢書で張懿 として出てくる人物です。その註には
    并州刺史張懿 集解引錢大昕說,謂蜀志劉二牧傳作「張益」。又引惠棟說,謂一作「張壹」。按:王先謙謂「懿」作「壹」或作「益」,避晉諱也。
    とあります。晋の司馬懿の諱を避けるために、欠画して壹と書いたり、三国志でも張益と書いたものもあったということです。

    つまり、倭人伝以外の壹81例中、76例は、邪馬壹國や壹與などより圧倒的に書き誤りの発生・伝承の確率が低く、数だけ数えて同列に比較することはできません。これらに書き誤りがないから、邪馬臺も間違うはずがないとは全然いえないのです。

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