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No.210175
『江表傳』では北軍から二里餘で…
2015/12/13 01:04
>>No. 210172
『江表傳』では北軍から二里餘であって、北岸からではないですよね。
つまり、長江中流域から河を真横に横切って北岸に向かったのではなく、
北軍の船団が停泊している上流へ向かって帆を挙げて進んだのだと思いますよ。
古田氏の「古代は輝いていたⅠ」では、北軍がスルッと北岸に入れ替わってました。
そして、船団に火が付き、船団が燃え尽きた後、北岸にあった曹操軍の陣に延焼したと書いてあります。 -
No.209599
二十世紀の遺物って、最初、二十…
2015/12/07 01:17
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No.209597
横からですが、大人の中国人でも…
2015/12/07 00:41
>>No. 209588
横からですが、大人の中国人でも、勉強しないと漢文は読めません。
僕が学生だった頃、四人の中国人留学生と友達でした。
彼ら彼女らが、ゼミの漢文が読めなくて四苦八苦しているのを、
日本人の僕が横について教えてあげるということが良くありました。
現代の中国人のほとんどが、堯・舜・禹も知らないとも言ってました。
僕たち日本人が、勉強しないと源氏物語や枕草子を読めないのと
事情は同じです。 -
No.209370
>官家」の項では、日皇子{ヒノ…
2015/12/05 18:28
>>No. 208574
>官家」の項では、日皇子{ヒノミコ}=御間城天皇(崇神)というのは矛盾が生じています。
歴代天皇は全て天照大神の子孫なので日皇子{ヒノミコ}であり、
中国人がこれを卑弥呼と音写したために、中国の史書では複数の天皇のことが、ひとりの卑弥呼という人物のことと間違われた。南淵書はそう主張しているのだと思います。
止殉では、御間城天皇(崇神)の次の活目天皇のときに埴輪が造られ始めたとあり、魏使が見たのは埴輪だとあるので、その卑弥呼は活目天皇より後でなければなりません。
一方、官家では、御間城天皇(崇神)が新羅と伽羅の講和を取り持ったことを「漢人志シテ、卑弥呼新羅ニ通聘スト云フモノ是ナリ、」と評しているので、御間城天皇(崇神)が卑弥呼であることは疑いようがありません。
卑弥呼にからんで登場したのは
第10代 御間城天皇(崇神) ←卑弥呼新羅ニ通聘ス
第11代 活目天皇(垂仁) ←殉死の禁止・埴輪
第12代 大足天皇(景行) ←卑彌呼死ス、大ニ冡ヲ作ル、徑百餘歩、殉葬スル者百餘人
大足天皇 の皇子の倭武尊(ヤマトタケル)=壹與
です。おそらく、南淵書では、倭人伝に「卑彌呼死ス、大ニ冡ヲ作ル、徑百餘歩、殉葬スル者百餘人ト」と書かれた人物を第12代大足天皇と考えているのではないでしょうか。
そして第10代から第12代までの3人の天皇の事績が、全てひとりの卑弥呼のものと間違えられ、活目が活女と書かれたため、卑弥呼は女王ということになった。そして倭武尊が女装していて、九州に残って軍監をしたので卑弥呼の宗女壹與があとを継いだと間違われた。
南淵書の主張はこういうことだと思います。 -
No.209355
※ 國牽{クニクル}天皇=孝元…
2015/12/05 17:25
>>No. 208855
※ 國牽{クニクル}天皇=孝元天皇が、皇太子の大日日王、後の開化天皇を後漢に使者として派遣した。その時、韓人を案内人に使っていた。
韓語で渠師や王子のことを師升と言ったので、「倭國王の皇太子」=「倭國王師升」となった。
師升は倭國王の名前ではない。
というのが南淵書の主張のようです。
後漢書の倭國王が孝元天皇かどうかは別として、
師升あるいは帥升が倭王の個人名ではなく王子というのは一理あると思いました。
帥升を人名とみると、
倭國王帥升等獻生口百六十人,願請見。
は、倭國王本人が後漢まで行ったという意味にも取れますが、
倭國王=天皇本人が後漢まで行ったとは考えにくいです。
一方で、王子だとすると、
倭國王遣帥升等
と書く方が自然なような気もしますし、王子や渠師と書かずにわざわざ韓語音写の帥升を使うのもおかしい気がします。結局、どちらが良いかわかりません。
※ 聖德天緃~の部分は、最初、聖徳太子について書いてあるのかと思いましたが、どうもそれより、使者として漢にいった 皇太子の大日日王のことと解したほうが文脈が自然なように思われます。つまり、南淵書の文意は、
「大日日王の徳を慕って渡来・帰化した人々によって文字による歴史の記録や暦法が始められ、それで当然、大日日王が大陸へ使者として行った記録は聖徳太子の時代にも残っていたが、聖徳太子はそれを、漢と日本は対等な国だという道理を損なうと考え、意図的に天皇記に掲載しなかった。」
ということだろうと思います。 -
No.209310
後漢書が言うところの倭國王とは…
2015/12/05 00:16
>>No. 208855
後漢書が言うところの倭國王とは倭國牽{ヤマトノクニクル}天皇です。師升{シチ}は韓語で、渠師という意味です。或は王子のことも師升と言います。臣智と書いたり、斯鑡と書いたり叱智と書いたり朱日と書いたりします。皆な同音で字が違うだけです。当時、我が国は韓人を案内人としていました。それでこの語があるのです。臣は故老から、こう聞いております。皇太子大日日王{オホヒヒノミヤコ}(開化天 皇ノ??)は年はわずかに十五歳でしたが、自ら國牽{クニクル}天皇の詔を奉じてお行きになられました。皇太子大日日王は生まれながらに聖なる德を身につけておられ(天緃は天性と同じような意味である)、漢、高句麗、意富迦羅{オホカラ}の民で、皇太子を愛慕して王化に帰する者(皇太子に付き従って日本に来た者)がたいへん多く、我が国で文書暦日の記録は、実にこの時から始まったということです。(濫觴 始を成すという意味) 攝政王(聖徳太子)が天皇記を編纂なさいましたとき、道理として漢と我が国は対等の国であるということを重んじ、(「生口百六十人ヲ献シテ請見ヲ願フ」といった臣下の礼を取ったような記述は)意図的に省略なさったのではないでしょうか。」
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No.209309
訓訳南渕書巻上 師升 第十三…
2015/12/05 00:15
>>No. 208855
訓訳南渕書巻上 師升 第十三
皇子は問うて言った。
「漢の史書を読んだところ、東漢(後漢のこと)(安帝)の永初元年、倭國王師升等が、生口百六十人を献上して請見を願い出たと書いてあった。しかし、攝政王(聖徳太子)が天皇記を編纂なさったとき、そのことに少しも言及なさらなかったのはどうしてだろうか。」(※ここで「概見」という言葉は、意味が通じず疑問が残ります。とりあえず意味が通るように言及と訳しました。)
南淵子は答えて言った。
「東漢(後漢)の和帝から安帝のころにかけて、耿夔が遼東太守となりました。このとき高句麗が次第に勢力を強めてきており、その王の宮(宮が人名)(租國王 ※文字の誤りがあるかもしれません。ウィキに太祖大王とありますので、そのような意味かと思われます。字(あざな)は 於漱流)。宮のひととなりは勇壮で、東方に領地を広げていって蒼海(古ハ?ノ地、漢ノ元?五年郡ヲ置ク ※蒼海郡は、漢書によると元朔元年に設置され三年に廃止されています。この五年というのが何なのかよくわかりません。)に至り、南方では楽浪郡を侵略して薩水(遼東の境界線から五百六十里、鴨緑から四百五十里の距離にあるという。また今の博川江や、臨津江も薩水という)に至り、朝鮮から漢の県を無くしてしまいました。元興(和帝の元号)の初め、宮が遼東を攻めたので、耿夔は迎撃して宮軍に大勝し、その将軍を斬りました。(※將師だと将軍と軍隊で、將帥だと将軍。軍隊を破り、将軍を斬ったの方が文脈が通るので、将帥かなと思います。)耿夔の威名は東方に鳴り響き、諸韓から逃れてきた民がたくさん我が国の西部に流入してきました。当時、我が国の朝廷は長きにわたり大和の地で平和裏に安定しており、かつ出雲氏もだんだんと勢いを失っていて、外国の事情に通暁している者がいませんでした。それでも辺境が異変を報じてくると、これを不問に付したまま放置しておくことはできず、そこで國牽{クニクル}天皇(孝元)は将軍を派遣し、彼の国(後漢)の情勢を調べさせなさいました。 -
No.208402
>都の工房で原器と直接に比べな…
2015/11/27 08:05
>>No. 207916
>都の工房で原器と直接に比べながら作成されたと考えたからです。
原器の精度はどうなのでしょうか。
原器と周髀の誤差はミリのオーダーで追い込めるかもしれませんが、
8尺が180㎝にミリのオーダーで合致するかどうかはわかりません。
まあ、周髀の精度が一寸千里の実測にどれほど影響するかは、
僕もまだちゃんと考えていないので、思考の節約のために、
追って必要になったときに、あらためて考えることにしましょう。 -
No.208401
イ、真値はわからないが、測定値…
2015/11/27 08:01
>>No. 207916
イ、真値はわからないが、測定値は15寸・16寸・17寸であった。
つまり(真値+誤差)=15寸 16寸・17寸も同様。
これで測定誤差10%というのは、成立しがたいです。
例えば測定値が16寸であり誤差が10%とすると、真の影長は14.5寸~17.7寸です。
これで測定値が16寸になったということは、観測施設が持つ誤差が、
真値とキリのいい16寸という数値の間の差とちょうど同じということです。
測定誤差10%ならば、3か所とも真値はキリのいい数字を中心に3寸=6.75㎝以上の範囲のどこかで、真値との差はバラバラです。(これだけでも、一寸千里には厳しい値だと思います。)
それなのに15寸・16寸・17寸という3つのキリのいい数字が得られたということは、
3か所の観測施設すべてで、
キリのいい数字と真値の間の差をちょうど埋める誤差をもつ施設が作られるという偶然が起きたということです。
こんな偶然が起きたとは、ちょっと考え難いです。
ですので、イという条件を変えるか、10%という誤差をもっと狭めるかしないと
一寸千里を実測で得たという話にはならないと思います。
>中国を最初に統一した皇帝は、単位を整備したそうです。
必要があった程にバラバラだったのでしょう。
詩経のなかでも雅・頌に分類されているものは周の朝廷や宗廟で歌われていたものなので、
度量衡がバラバラだったことを心配する必要はありません。 -
No.208400
tousyoubohiさん、お…
2015/11/27 07:47
>>No. 207916
tousyoubohiさん、おはようございます。
>なにしろ、夏至や秋分や冬至の日を特定し、
1年に1/4日の誤差があることすら見出していましたから。 <
これは、一寸千里の実測に関わる誤差と関係ないんです。
測定の誤差は、観測施設を作ったときの水平・垂直の誤差つまり観測施設のクセと、観測者が長めに測定するか短めに測定するかのクセによります。同じ施設で同じ人が観測する場合、これらのクセの影響で生じる誤差は一定です。そこで例えば、クセによる誤差をαとします。
ある日の影長の観測値がX+αで、別の日の観測値がY+αだったとします。
X、Yともに、その日の影長の真値です。
両日の影長の差を求めると(X+α)-(Y+α)=X-Yとなって、影長差に誤差αの影響がなくなります。
つまり、観測施設に大きな誤差があっても、同一施設を使う限り真値の影長差を得ることができ、夏至や秋分や冬至の日を特定し、一年に1/4日の誤差があることを見つけることは可能なのです。
ところが、一寸千里の実測は、各地で別々の観測施設を使うので、施設ごとのクセが大きく影響します。ですので、当時の人が夏至や秋分を知り、一年に1/4日の誤差があることを知っていても、場所による太陽高度の差を調べる精度の保証にはならないのです。
逆に言えば、一寸千里を実測で得るということは、土木建築技術のレベルに大きく影響されるので、一年に1/4日の誤差があることを見つけることよりも、はるかに高度で困難なことなのです。
パッと見には、一年に1/4日の誤差を知ることの方がすごく高度で、一寸千里の実測くらいなんでもない簡単なことと思われがちですが、実は真逆なんです。 -
No.208337
御間城天皇(崇神)が新羅と伽羅…
2015/11/26 18:49
>>No. 208243
御間城天皇(崇神)が新羅と伽羅の講和を取り持ったのを、「漢の人間が、卑弥呼が新羅に使者を送ったと記録している」という主張だから、卑弥呼は御間城天皇ということになります。
ただ、日皇子は太陽神の子孫ということで、歴代すべての天皇を指す言葉だと思います。
今回、気になったのは「釁ヲ伽羅ニ啓キ」というフレーズです。聞いたことないなあと思って調べてみますと、西園寺公望が帝国議会の施政方針演説で日露戦争にふれるのに「顧みれば去ぬる三十七年露國と釁端を啓くに當りまして、 」と使われていたり、「釁を啓く」もしくは「釁端を啓く」というフレーズは、戦前にはけっこう良く使われていたようです。そこで、史記から清史稿までの二十五史が検索できますので、「啓釁」を調べると、舊五代史が一番古い用例になるようです。緻密に調べれば、もっと古い用例があるかもしれないけど、取り合えずそうなりました。用例が多いのは時代的に最も新しい二書、明史と清史稿です。中国では、わりと最近になって(といっても1600年以降とかですが)使われるようになり、その影響で日本でも戦前に使われていたのではないかと思います。
きちんと用例の上限を調べていないので、以下は960年以前に使用例が確かになかったという仮定でのはなしです。
舊五代史が上限なら、600年代に生きた南淵請安は、この言葉を使っていないということになります。
例えば、昭和に書かれたと紹介された本に、ケーワイとかイケメンとかいう言葉が出てきたら、それはおかしいということになります。それと同じで、「釁ヲ伽羅ニ啓キ」とある南淵書は、南淵請安の生きた時代に書かれたのではなく、古くともAC1000年以降ではないかと思われます。
南淵書の存在が、いつごろから確認されているか、僕は知らないのですが、
権藤成卿 という人が発表するまで知られていなかったとすると、
明史や清史稿で「啓釁」の用例が多いことから、江戸時代に書かれたか、下手をすると明治維新後かもしれません。
後代の人が執筆したとしても、真実の伝承が含まれる可能性はありますが、
それでも真実の部分と脚色の部分の切り分けは、ほとんど不可能ではないかと思います。 -
No.208150
zaraさんが >「長男には…
2015/11/25 01:30
>>No. 207929
zaraさんが
>「長男には絶対に、長男である事を示す文字が付けられるのだ」などという説明などしておられないのです。<
というのが正しければ、古田さんの書物の題名は
「邪馬台国はなかった・・・かもしれない」
とすべきでした。
それなら、可能性は否定できませんから、「ああ、そうですね」でおわります。
ただ、本は売れなかったでしょう。 -
No.208149
ついでですが。 何度も議論さ…
2015/11/25 01:21
>>No. 207917
ついでですが。
何度も議論されたことでしょうが、周髀算經を読めば、長さの単位が
1里=300歩=1800尺なのは明らかなので、一里が76mであれば、一尺は4.2cm、一寸は4.2mmとなってしまいます。
谷本氏などは里・歩と尺・寸は別の単位系だからその換算比率は決まってないと反論しているようですが、(邪馬台国徹底論争 第1巻)、少なくとも周髀算經の中ではこの換算比率に決まっていることは記述内容から間違いありませんので、短里は周髀算經と無関係なのです。
ですから一寸千里は短里と関係ありません。
また、周代の文献である詩経の里は、明らかに短里ではありません。
周代に存在しない短里を魏・晋時代に復活させるなんてことはありません。 -
No.208148
>1里77mを否定し430mに…
2015/11/25 01:06
>>No. 207917
>1里77mを否定し430mにすることは出来ません。 <
先の長文の投稿にも書いておきましたが、
僕が言っているのは、一寸千里は机上の計算で得られた誤った理論値であり、
現実の里制を反映しておらず、短里にも長里にも関係ないということです。
ですから、430mにしようなどとはしていません。
本来、谷本計算を行うこと自体、意味がないんです。
意味のない計算の結果がたまたま、1里77mになっても、
やはり結果は無意味なんです。
数値をどうにか操作して1里430mに持って行ったとしても、これも無意味です。
僕は、この無意味さを論証しようとしているわけです。
ここを誤解したままだと、議論がかみ合わないので、まずはこの点、是非とも誤解のないようにお願いします。
ちなみに数値がシンプルなのは誤った理論値だからです。
何度も言っていますが、南北千里の地点は山の中で精密な観測は不可能です。
当時の人は、戦国の七雄のような大国の都会近郊では影長の実測をしてます。
しかし、正南北千里での実測は技術的に不可能なのでしていません。
実測せず、「天道の数は一」という理念から導き出した一寸千里なので、
これを無理に430mにしようとするのは無駄なことです。 -
No.208147
訓訳南渕書巻上 官家 第十四…
2015/11/25 00:44
>>No. 208146
訓訳南渕書巻上 官家 第十四 その2
卑弥呼は正しくは日皇子{ヒノミコ}と書くべきで、字の音を借りているのです。阿達羅に子がなく、脱觧の孫の伐休が嗣ぎました。伐休が死に、伐休の子の奈觧が王位につきました。奈觧王の時、新羅と伽羅はまた領土を争いました。このとき、伽羅王の子の于斯岐{ウシキ}(蘇那葛叱知)は、既に耶麻堆{ヤマト}天皇を崇敬しおりましたので、それで我が国に來朝して助けを求め、且つ伽羅領内の東北にある三己 汶{サンコリ}の地、方三百里を献上し、我が国の將軍を派遣して、その土地を治めることを請願しました。これが漢(獻帝)の建安戊寅の歳です。この歳、御間城天皇(崇神)がちょうど崩御なされ、請願をお耳に達することができず、そこでこれを活目天皇(垂仁)に奏上しました。天皇は嘉納なさって(派遣すべき人物を探して)郡卿を物色せられました。于斯岐が来たとき、その額に角があり(或は兜をかぶっていたともいう)、彦國葺 {ヒコクニフク}の孫の鹽乗津彦{シホノリツヒコ}もまたその頭上に贅{ツスベ ※ツスベが何か解りませんが、贅肉の贅ですから、余分な部分といったものでしょう。}がありました。三本の枝が張っていて形が松の木のようで、人々はそれで松樹公と呼んでいました。身体は魁【鬼吾】で (偉大雄状ノ貌 ※とても大きく立派で)力は鼎(かなえ 金属製の釜)を持ちあげるほどでした。天皇は「これだ」とおっしゃりました。そこで鹽乗津彦を抜擢して、三己汶の地に派遣して鎮守させ、太宰{オホミコトモチ}(宰である。日本では美古止茂知(みこともち)といい、韓では吉士といい、或は儉側という)の称号を与えました。また于斯岐に詔して、先皇の御諱を下賜なされ、その国名の上につけさせるようになさいました。それから彌摩那意富加羅{ミマナオホカラ}(彌摩那 は御間名である。意富は大である)と呼ぶようになりました。これが漢(献帝)の建安辛己の歳です。加羅が我が国に内屬したのは、これからで、いま任那というのは彌摩那が誤って伝わったのです。
今回は、見慣れない単語があって、ちょっと時間がかかってしまいました。
ミマナが御間名だというのは面白いですね。
まあ、学説として真剣に取り上げられることはないと思いますが。
また、訳するものがあれば、いつでも貼ってください。 -
No.208146
訓訳南渕書巻上 官家 第十四…
2015/11/25 00:40
>>No. 207787
訓訳南渕書巻上 官家 第十四 その1
皇子は質問して言った。「住吉神{スミノエノカミ}が海の向こうの諸国を胎中天皇(第15代應神)に授け、太后(神功皇后)は太臣(武内宿禰)とそれらの諸国に往き、国ごとに官家{ミ ヤケ}(屯倉)を置き、我が国の藩屏となされたと代々伝えられている。とはいえ、任那{ミマナ}の官家は、その由来は(神功皇后らが置いた官家より)古い。歴史を記録した書物がなくよくわからないのだが、先生、どうか私のためにその歴史を教えてほしい。
南淵子は答えて言った。「新羅の脱觧王の子を波沙(婆娑と書いてあるものもある)といいます。精悍で武勇にすぐれていました。国王の位を嗣ぐと、姓を朴氏(脱解は昔氏である。だから朴といったのである ※初代から3代までの王は朴姓で、4代目の脱解は2代目の娘婿で、姓は昔だったから、脱解王の息子の波沙が王位につくと、もともとの王家である母方の朴姓にもどした。)に戻し、 月城(金城の東南)に城を築きました。隣国を併合し、勢いが次第に盛んになると、そこで始めて伽羅と戦端をひらき、毎年相戦いあってやみませんでした。伽羅は金官です。伽羅の地は我が国の西辺に一番近いため、我が国の民にも、共同して戦場稼ぎにいく者もいて、新羅王の名を記録することができました。後世に我が国で俗に新羅王を波沙【寢(穴かんむり)】錦{ハサミシキン ※ググると波沙寝錦があった }と呼ぶのは、これがその事の起こりです。新羅が彼らの王を尼師今{ニシキン}と称するのは、我が国の天皇を東皇として、自分たちの王を西君{ニシキ ミ}としたのかもしれません。こういうことでありますから、初代新羅王の居世干{コセカン}についてもまた、それが措字(※借字のあやまりか)であることを悟るべきです。尼師今をいま寝錦と書くのは間違って伝わっているだけです。波沙の子を祇摩と言います。王位につきましたが子がなく、儒理(第3代新羅王)の孫逸聖が嗣ぎました。逸聖の子を阿達羅と言います。阿達羅の時、我が国の御間城天皇(第10代崇神)が、新羅と伽羅の争いの【門かまえ皃※この字、わかりません。】戦禍が、しばしば我が国の辺境に及ぶのを憂いたまいて、使者を派遣して新羅と加羅の和議を講じられました。これが漢(靈帝)の熹平癸丑の歳です。漢人が「卑弥呼が新羅に使者を送った」と記しているのがこれです。 -
No.207777
イですか。 それで、影長を測…
2015/11/22 20:39
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No.207751
そうですね。 長里の肯定とい…
2015/11/22 17:48
>>No. 207748
そうですね。
長里の肯定というより、長里の否定にも短里の証拠にもならないという意見です。
根本的に問題のある前提ってなんですか?
直線距離千里離れた地点を山の中で特定して切り開いて測定するのは土台無理
ということ以外で見落とした前提があったら教えてください。 -
No.207747
僕は、周髀算經をtousyou…
2015/11/22 16:38
>>No. 207705
僕は、周髀算經をtousyoubohiさんらと話しているので、
聖壹の方はハイエナのパパさんにおまかせしたいのですが、ひとつだけ。
三国志の裴松之注です。「肇子潭字道元,次歆 字公嗣,」
次男の歆の字が公嗣ですから、嗣が長男を指すということでもないと思います。
ですので、劉備は、息子の劉禅が長男だから嗣の字をつけたわけではなく、
劉禅の字には長男を表す文字がないということになりませんか。

文章の最後の方が変でした。訂正…
2015/12/13 01:06
文章の最後の方が変でした。訂正。
『江表傳』では北軍から二里餘であって、北岸からではないですよね。
つまり、長江中流域から河を真横に横切って北岸に向かったのではなく、
北軍の船団が停泊している上流へ向かって帆を挙げて進んだのだと思いますよ。
そして、北軍の船団に火が付き、船団が燃え尽きた後、北岸にあった曹操軍の陣に延焼したと書いてあります。
古田氏の「古代は輝いていたⅠ」では、北軍がスルッと北岸に入れ替わってました。