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投稿コメント一覧 (307コメント)

  • 真田丸39回 「歳月」
    橋田壽賀子のホームドラマのようだな。(笑)
    一つの大家族の中での泣き笑い。嫉妬であれ、それは その中の人々にとっては重大だ。
    そのようにして苦しんだり笑ったりしながら、 満ち足りた時間が流れていく。

    真の幸福とは何なのか、トルストイの「戦争と平和」のテーマもそれだった。

    真田丸40回 「幸村」
    伝説の名前となった幸村の誕生。まあ、例にごとく 江戸期に入ってからの創作。
    それでも、息子の大輔が壺に入った紙に書かれた文字をひいたのが 「村」の一字というのは面白い着想だ。

    高野山の村 九度山での 大家族の幸せを捨て、やるべきことをやるため大阪へ行くため 村を脱出するという。
    トルストイの「戦争と平和」とは、逆パターンだ。
    主人公のピエールは さまよいながら、九度山の真田の人々に示された 身近な人々の触れ合いに幸せの形を見つけた。
    それがゴールだった。

    このとき、つまり 真田丸が放映されているとき、BBC制作の「戦争と平和」をNHKは放映していた。

  • 先日書いたことの訂正。
    the seven-year itchについては、 あるアメリカ人の説明によれば suggests a seven-year period of time has elapsed before the phenomenon occurs - which is the case だから、つまり、7年間 「かゆみ」としてはあって、それが浮気という現象としてあらわれたのが7年目ということだから、原題名の the seven-year itch でいいことなる。言うなれば、「7年間のかゆみ」。 ということからすれば、邦訳の「7年目」というのが 意訳していることなるな。

  • 「七年目の浮気」を直訳すれば、 the seventh year itch となるはずなんですけどね。(笑)
    まあ、しかし、慣用的には the seven year itch ということですね。

  • 古舘伊知郎の talking history 龍馬暗殺。昨年の 「本能寺」が意外におもしろかったので、今年も見た。
    龍馬暗殺の首謀者は はっきりしていて、謎でもなんでもない、ということだな。司馬遼太郎の「竜馬がゆく」でも
    見回り組となっている。この番組もその路線に沿って作られていて、奇を狙ったものでない点がよかった。
    見回り組を容疑者として起訴できるくらいに状況証拠は固い。
    寺田屋で、幕府の捕り手たちが  宿の女主人お登勢を外に出して尋問してるからもしばらく時間がかかったように
    「竜馬がゆく」で描かれていたような感じがするが、そのような時間感覚が明確でなかった点が残念。

  • 真田丸 30回「黄昏」

    家康が、秀吉が耄碌(もうろく)したのではないかと、本多正信とひそひそ話。
    もうろくという言葉をひさしぶりに聞いた感がある。(笑)
    時代劇だからこそ 出てくる言葉だな。

    秀吉にないもので 家康が持っていた特質の一つは、家康が読書好きであったことだろう。
    ということは、家康は自身の経験の枠を超えて古今東西の知識に 統治の方法を求めることができたということになる。
    それからすると 秀吉は自分の経験の域から出ることはなかった。それが天下人として秀吉の限界だったともいえる。

  • 真田丸 第24回「滅亡」

    忍城(おしじょう)とは どこにあるのかと調べると、埼玉県行田市だという。
    その行田市がわからない。地図では、さいたま市の北西約30キロに位置する。
    よく地名が出てくる沼田は、さらに北北西へ約90キロだ。

    真田丸 第25回「別離」

    1582年  本能寺の変
    1590年  小田原征伐
    1591年  秀吉の子 鶴丸病死

    真田丸 第26回「瓜売り」

    真田一徳斎という名前が出てきた。
    大河ドラマ「風林火山」(2007年)では、真田幸隆という名だった。

    このtextream掲示板が閉鎖されるので、 おおくのスレッドがteacupに逃れているようだな。
    「捨てる神あれば拾う神あり」か(笑)
    http://9227.teacup.com/taigacontinue/bbs

  • 西郷どん 第47回「敬天愛人」

    妻の糸が 子供たちに 夫吉之助の言葉を伝えるシーン。
    これは、前々回で 糸が 「これがあなたが望んでいた新しい日本の姿ですか」と聞いたときに、吉之助が言い淀んでいた。その場面の続きだ。要は、本当に新しい日本をつくるのは子供たちだということを言いたいのだろう。
    自分はそのための捨て石になるというのが 糸の質問に対する吉之助の答えでもある。

    11/3の投稿で、次のように書いた。

    > 今から嫌な予感がしているのは、不満のあるものたちを西郷が引き受けて、反乱の果てに自分ともども滅亡し、
    > その後の大久保利通の仕事をしやすくする意図を西郷が抱いていたという筋書きだ。
    > そうなるかわからないが、いかにも流行作家や脚本家が好みそうなシナリオだ。

    どうやら この予感が当たったな。(笑)

    戦場で傷ついた西郷隆盛が仰向けになって空を見上げる。青い空だ。
    トルストイの小説「戦争と平和」で貴族のアンドリューが 戦場で負傷し、やはり仰向けになって青空を見上げるシーン
    を思わせる。中々印象的な絵だ。

    空は悠久の昔からそこにあるものを暗示している。
    そして、その向こうに桜島が見える。桜島も変わらずそこにあるものを暗示している。
    これからも 青空も桜島も そこにあり続ける。 何世代も 何世代も ....

  • > 昔はテレビで、アメリカのTV番組を沢山放映していましたね。

    二回目の投稿です。 私がよく見ていた番組で、アメリカの歴史ものがありました。
    それで、やたらアメリカの歴史に詳しくなった。(笑)
    西部での金鉱発見とか、油田の最初の発掘とか、南北戦争とか、各回ドラマ風に取り上げていました。

    だとか、突然 マイクを持った人物が歴史ドラマの中に突然現れるものもありました。
    ボストン茶会事件というのがありますが、マイクをもったレポーターが現れて、船荷のお茶を海上に投げ捨てている男たちの一人に 「いま何をやっているんですか」と質問する。(笑)

  • この掲示板、今年いっぱいで閉鎖ということだから、あと二、三回 投稿して終えることになるかな。

    真田丸 第23回「攻略」

    真田信繁が小田原城に乗り込み 和睦するように北条を説得するという。
    これ、どこかで見たな。(笑)  「軍師官兵衛」では、黒田官兵衛が小田原城に乗り込んだ。しかも、この官兵衛のドラマでは、官兵衛が馬で小田原城に乗り付けるところから始まっていた。

    官兵衛が城に乗り込んだかどうかは別として、和睦のために動いたことは史実性がある。
    しかし、真田信繁が北条に働きかけたというのは作り話だろう。

    第一、このとき 黒田官兵衛は調略ではすでに実績がある。毛利攻略のときに さんざん調略し、秀吉が有力武将としてのし上がるのに貢献した。
    それからすると、このときの真田信繁には何もない。

  • 西郷どん 第46回「西南戦争」

    鹿児島県令の大山綱良、東京で獄につながれて大久保と対峙する場面。
    立ち去る大久保に、「一蔵、先に行って有馬と待っちょるで。」 
    県令まで務めた大山は、この年処刑された。
    有馬とは、有馬新七のこと。寺田屋で 久光の放った同じ薩摩藩士と同士討ちし死亡した有馬だ。
    有馬ら薩摩の仲間を説得できず 多くを死なせた苦い記憶が一蔵にはある。そこを突いたのだろう。

    「おはんだけ 極楽に行かせん」と大山の捨て台詞、翌年の大久保暗殺を予兆している。
    ただし、二人の対話は 作り話だろう。

    とはいっても、印象深いひとつのシーンだ。
    「お前が権力中枢にあって権勢を誇っていても」、元は「俺たち仲間だろ」という感じが出ていて、「だから お前も死ぬときは同じだ」という含みを感じる。

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    この掲示板への投稿は 大河ドラマ「龍馬伝」から、10年間ということになるかな。
    ほぼ毎週10年間 大河ドラマについて投稿してきたことになる。

  • 西郷どん 第45回「西郷立つ」

    兵を率いて東京に行き政府に物申すというのは、かつて島津の斉彬が薩兵を率いて上洛、さらに江戸に行き 時の幕府に圧力をかけることを画策したのを思わせる。この構想は、ドラマでは吉之助が斉彬に具申したことになっていた。のちに この構想は、国父様と言われた島津久光によって実現した。

    大久保、あるいは川路利良が放った密偵が西郷の私学校で露見し、それが旧士族たちを暴発させたということだが、この密偵のことがなくても、薩摩にある士族たちは暴発しただろう。西郷は、士族たちの反乱の流れにただ乗るしかなかったと見る。

    西南戦争では、本来ならば村田蔵六が政府軍を指揮していたはず。蔵六は明治二年に死亡。
    政府は、というよりも日本は貴重な人材を失った。
    蔵六は、維新後 軍事施設を次々に大阪に設置している。
    司馬遼太郎の「花神」では、 これは西郷の乱を予見して、それに対する布石を打っていたということになる。

  • 西郷どん 第44回「士族たちの動乱」

    川路利良がフランスの警察組織を視察し、帰国して大久保と面談するシーン。
    川路は 今の立場に 西郷によって引き上げられた恩があり、西郷を慕って薩摩に帰っていく者たちに敵することにはためらいがある。しかし、それを吹っ切って新政府に尽くすことを誓うと、大久保が 「腹をくくれ」と覚悟を促した。つまりは、死ぬつもりでやれということだが、「つもり」ではなく、文字通り命をかけろということだ。
    警察の長として不満分子を取り締まるための指揮を執る。となれば、反発を一身に浴びる。いつでも危険が身に及ぶ可能性がある。それを覚悟せよということだ。

    wikiには、「川路は不平士族の間では大久保と共に憎悪の対象とされた」とある。

    江藤新平の首を晒した大久保。 こういうことをやるからには、状況の変化によっては、自分もこうされる可能性があることは覚悟の上だ。新政府のまだぐらついている。転覆される可能性は十分にある。このときの日本の政治家たちは、まさに命をかけて政治をやっていたということだ。

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    真田丸 第22回「裁定」

    秀吉により沼田裁定が下される。これで一件落着したようにみえたが、しかし火種がくすぶっていた。

  • 西郷どん 第43回「さらば東京」

    朝鮮国に関する 西郷と大久保の激論は なかなか聞きごたえがあった。
    西郷は最後の方で 武士の身分をはく奪された士族たちの不満のはけ口として 日本の外に目を向けるということを漏らした。そのために朝鮮国に行きたいという理屈だが、これは図らずも 西郷が戦争の可能性を否定しない本音をさらけ出すことにもなった。朝鮮国への派遣について西郷がなにを意図していたかについては、いまだに議論のあるところだが、そのひとつに西郷は戦争を望んでいたというのがある。自分が殺されれば 確実に戦争になるという読みだ。
    西郷は自分の死に場所を求めていたのかもしれない、といとう話もある。

    今はその時ではない、むしろ国力をつけるときだ、という大久保の方が極めて正しい。
    戦になれば 膨大な戦費がいる。いまは、そんなことに財政を使うべき時ではない。
    鉄道をひき、製鉄所、生糸工場、造船所、あらゆる工場を建設し、近代化にまい進する。
    日本は、このとき 大久保の正論に紙一重で救われたというべきかもしれない。

    大久保の このときの信念ともいえる持論は、西欧以外で 日本が初めて近代化に成功した国となり、その優位性は長く続き、とりあえず今でも 日本が有力国としての地位を保持することにつながっている。

    第一、西郷が強く迫っていた、海外にある居留民を保護するというのは、侵略するための口実として ナチスドイツが近隣に攻め入るのに使った歴史があり、実は 満州にある日本軍も用いた。最近では、ロシアがクリミア半島を圧迫するのに用いた。つまりは、侵略の口実としてよく使われるのが居留民の保護だ。
    その意味で、西郷は戦争志向があったと感じられるが、これが昭和初期であれば、軍が動いて 大久保や岩倉らを君側の奸として拘束していたとしてもおかしくはない。クーデターを起こさなかったことは西郷という人物の誠実さであり、不思議さでもある。
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    真田丸 第21回「戦端」

    「沼田、沼田、まるで喉にささった小骨じゃのう。」と徳川家康。
    上洛の条件として、沼田の引き渡しを求める北条。
    真田と直に討論することになった。それを殿下秀吉の目の前でおこなうという。

    板部岡江雪斎、ドラマまでは北条の側近として活動しているが、徳川の世には 子孫が旗本として生き延びている。

  • 西郷どん 第42回「両雄激突」

    「見たもんじゃないとわからん!」 帰国した大久保が西郷に語る。
    イギリスで見た工業地帯の光景のことだ。
    もしも西郷が 欧米に視察に行っていたら 日本の歴史は変わっていただろうか。
    大久保が、「今度はあんたが行けばいい」と西郷に提案し、もしも西郷がそれを受けていらたと想像する。
    半年程度でもいいから、アメリカやイギリスなどを見ていたら 西郷の考えになんらかの変化をもたらしただろうか。

    大久保と江藤新平は よほど 相性が合わないと見える。
    この後、乱を起こして捕らえられた江藤新平は、さらし首にされた。

  • 西郷どん 第41回「新しき国へ」

    岩倉使節団、権力中枢がこぞって海外視察に出かけるというのは、世界史的にも かなり特異なことだったかもしれない。
    第一の目的が不平等条約の改定にあったが、その時期が熟していないことを悟って、欧米文明の視察に切り替えた。
    二年弱ものあいだ 政権の実力者のかなりの部分が日本を留守にした。いうまでもなく、リスクは小さくなく、その負担が西郷の肩にかかったでしょう。 それはともかく、当時の日本人の意気込みを この大胆な行動に感じとれるような気がする。

    大久保は、ドイツの宰相ビスマルクに謁見している。 
    wikiによれば、「1873年3月15日にはドイツ宰相ビスマルク主催の官邸晩餐会に参加。」とある。ビスマルクがドイツ統一を実現したのが1871年だから、その二年後にあたる。いわば日本の統一を果たした大久保と、ドイツの統一を果たしたビスマルクが会したわけだが、ビスマルクにとっては 未開の国からの若きリーダー以上の印象はなかったかもしれない。

    アメリカの ヘンリーキッシンジャーによれば、自著の外交史において、ビスマルクの築いた土台が その後のドイツを 二度の敗戦にもかかわらず、一流国として生き延びらせたということになる。おそらく、これと同じことが大久保にも言えるのではないか。大久保のひいたレールが、敗戦を通過したにもかかわらず、世界のなかでの日本の地位の維持に貢献していると思う。ドラマの中で 大久保が、100年後の日本を考えて行動しているというようなことを言っていたが、それはあながち外れてはいない。
    その政治家がどのくらい優れているかどうかは、自ら築いたシステム、もしくは体制がどのくらい長期にわたってその国に貢献するかによって測られるというのは、キッシンジャーのことばだ。

  • 西郷どん 第40回「波乱の新政府」

    この回、大変おもしろかった。
    ただ、西郷に大物感を漂わせているのに対して、大久保の扱われ方がすこししょぼい。まあ、西郷が主人公だから仕方がないということかもしれないが。

    新政府の分裂の危機を西郷が救うというシーンがあった。
    かなり前の方の回で、薩摩の若者たちが暴発するのを止められない大久保正助、それができるの西郷吉之助しかいないというのがあった。
    今から嫌な予感がしているのは、不満のあるものたちを西郷が引き受けて、反乱の果てに自分ともども滅亡し、その後の大久保利通の仕事をしやすくする意図を西郷が抱いていたという筋書きだ。
    そうなるかわからないが、いかにも流行作家や脚本家が好みそうなシナリオだ。

    この前の回で、横山安武というのが出てきた。薩摩の侍だ。明治新政府の腐敗を糾弾して諌死した。
    諌死(かんし)とは、死んで目上の人をいさめること、と辞書にある。
    wikiによれば、横山は 陽明学者だ。
    おそらく、作家の司馬遼太郎がもっとも嫌らう部類の人間だ。

    それはそうとして、
    日本の歴史上これほど明るく楽観に満ちた時代はなかったというのが、作家 司馬遼太郎が 明治初期の数十年について述べた感想になるのだろう。 というと、必然的に反対意見が出てくる。 明治にはこんなに悲惨なことがあったではないかと。こんなに暗い出来事があったではないかと。むろん、そういうことを踏まえた上での司馬の感想だ。

    日本人は その歴史においてはじめて国家というものを持った。それは、おもちゃを初めて与えられた子供のようであったかもしれない。明治の日本人は 国家というものに夢中になった。現代のわれわれは、その時の日本人、つまり150年前の祖先の心情は もはや想像しにくくなっている。

    ただ、このドラマのシーンにおいてすら、明治という新しい時代を迎えた人々のうきうきした感じが出でいるような感じがする。

  • 西郷どん 第39回「父、西郷隆盛」

    1871年 西郷隆盛、新政府に復帰
        2月13日 8000人からなる親兵の創設
        8月29日 廃藩置県の詔書が出される
        12月 岩倉使節団出発

    この時系列を見ると、廃藩置県の実行は、その前に創設された親兵の武威と切り離せない。

    ---- 西郷という人は、武力こそ外交を好転させる無言の力だという思想の信奉者で、これは終生かわらなかった。 (司馬遼太郎著「竜馬がゆく」)  という言葉が、ここでも西郷をよく語っているように思える。

    旧体制の既得権をはく奪するような改革は、普通はかなりの流血を見る事態が常に起こりえるが、それが比較的少なくて済んだのは、倒幕で示された西郷らの新政府の武力が 潜在的不満分子にもひろく認識されたからだ。島津がどのような不平を鳴らそうが、新政府の力には逆らえないという空気が流れていただろう。島津の殿さまが西郷をいかに罵倒しようが、西郷の背後に武力の影がちらついただろう。もはや島流しには出来ない。
    それともうひとつ、明治新政府による最初の10年での一連の改革の成否は、それを担うリーダーたちがどの程度 公の利益を私的利益に優先できるかにかかっていただろう。権力を握った者たちが自分たちの私的利益に走っても不思議ではなかっただろうが、日本にとって幸いだったのは、この時の リーダーたちは、公(おおやけ)のことをより優先的に考えたということだ。
    大きな改革を成し遂げるには、武力による強制力とリーダーたちの公共心が必要だ。そのどちらかが欠けても、うまくいかない。公共心なき武力に支えられた権力は腐敗に至るし、公共心があっても、武力がなければ、改革に反発する古い勢力を抑えることができず、情勢は不安定のまま推移し、日本の国家建設は思うように進まなかっただろう。

  • 西郷どん 第38回「傷だらけの維新」

    西郷の弟で有名なのは縦道で、1974年(明治7年)に軍を率いて台湾へ遠征した。
    まあ、台湾出兵というと 物々しい感じがするが、実際は武士としての身分を失い 食い扶持に困った男たちを掻き集めて 軍隊に仕立て上げたというようなことが、司馬の小説に書かれていたと思う。現地では、伝染病で500名以上が命を失ない 戦死者は12名ほどであった。
    この解決のために、大久保利通が北京に趣き 清の李鴻章と交渉し、一定の外交成果を得た。
    李鴻章は、欧米の列強に立ち向かうのに日本と協力し合えるかもしれないと期待していた向きもあったようだが、大久保の強硬の姿勢に面するうちに 日本に対する考え方を変化させていった。

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    真田丸 第20回「前兆」
    1587年   聚楽第完成
    1588年   聚楽第行幸
    1589年 聚楽第の落書き事件
    7月 秀吉、淀殿との間に第一子誕生

  • 西郷どん 第37回「江戸無血開城」

    冒頭で、江戸総攻撃は3月15日と決まった、というナレーション。これは、旧暦の慶応4年(明治元年)3月15日だろうから、今の暦だといつになるか。おおよそ 1868年4月8日ほどにあたるか。
    大方の視聴者は、「3月15日」とだけ聞いて、西暦として理解する。
    やはり、三月と四月では季節感が異なる。西暦の3月15日は まだ寒さが残る。

    勝と西郷が会談する背景に満開の桜を咲かせていたな。
    4月7日だすれば、江戸では おそらく散っているはずだが。(笑)
    ただし、あの桜がヤマザクラだとすればその限りではない。

    時々、西郷が「民のため」と口走る。
    西郷が「民のため」と言えば言うほど、西郷は自分がその民に属するとは思っていないことを示している。(笑)
    民が民のための国をつくるのならば、民自身が蜂起するのでなければならない。
    おそらくそうなった場合、西郷のような武士階級は鎮圧する側に回ったにちがいない。
    なぜならば、民による反乱は いわゆる国体の維持を揺るがしかねないからだ。

    このドラマが西郷に繰り返し言わせている「民のため」という言葉は、そうした本質的なことを逆説的に表している面があるが、おそらくドラマの制作者たちはそういうことまでは意識していないかもしれない。

  • 真田丸 第19回「恋路」
    1582年 本能寺の変
    1587年 本多忠勝の娘であり、家康の幼女 のちに小松姫と称せられる稲が 真田信之の正室として真田家に嫁いだ。
    1588年 淀殿、秀吉の側室に

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