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No.111
Re: 「磯城」を攻める神武
2013/01/25 21:26
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No.114
Re: 「磯城」を攻める神武
2013/01/26 13:14
>>No. 113
このHPの筆者、東海・廻間土器考古学の権威が描く世界を、筆者は魏志倭人伝・狗奴国に比定しています。
http://higashinomiya.com/kuna/index.php?plugin=attach&pcmd=open&file=hennen2003.jpg&refer=%B6%E9%C5%DB%B9%F1%CF%C0
更に、筆者は地域型墳丘墓という分布地図を公表されている。
http://higashinomiya.com/kuna/index.php?%C3%CF%B0%E8%B7%BF%CA%AF%B5%D6%CA%E8
私はこれが、現時点の日本の弥生-古墳時代の実勢をもっとも的確に表現したものと考えます。
私は、
●高地性集落は黒竜江・沿海州・朝鮮半島のポリツェ文化人の進出の軌跡
●方墳、前方後円墳を揺籃期鮮卑拓跋である、東胡で、ザバイカル・石板墓文化担架者の軌跡
●阿讃播積石墓、吉備・纒向帆立貝古墳、前方後円墳を沃沮を主体とし、辰国の徐福・照葉樹林文化(巴蜀、呉越)の影響を受けて成立した穢貊文化(天日槍)の軌跡と判断しています。
赤塚次郎氏の描く弥生終末の日本の構図はザバイカル、満州、朝鮮の同時期構造と矛盾していないと考えます。 -
No.25904
こんなところでは
2013/01/28 15:02
3王朝交替説の背景となった渡来
前段階 東胡→邑婁
崇神王朝(三輪王朝)(イリ王朝)旧辰/穢貊
応神王朝(河内王朝)(ワケ王朝)百済/前秦
継体王朝(近江王朝)騎馬民族 北魏(拓跋) -
No.25909
Re: こんなところでは
2013/01/28 21:28
>>No. 25908
>崇神王朝(三輪王朝)(イリ王朝)旧辰/穢貊
穢貊系天日矛、旧辰の兵主・蚩尤
>応神王朝(河内王朝)(ワケ王朝)百済/前秦
七支刀、秦氏
>継体王朝(近江王朝)騎馬民族 北魏(拓跋)
継体ゆかりの神紋はチュルクの日月紋、欽明はフンですね。
磐井の捨て台詞、同じ釜の飯とはスキタイの慣習、騎馬民族ですね。 -
No.25910
Re: こんなところでは
2013/01/28 21:42
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No.25915
Re: こんなところでは
2013/01/29 08:58
>>No. 25914
●百済王は神功を百済昔氏の本家の出自で「昔」姓と見ていた。これが字崩れし「旨」となった。
●神功を三韓を含む倭の統治地域の主権者と認め、スキタイ神話によるそれにふさわしい女王の属品、鹿の七本角、七支刀を献上することで百済に対する倭の保護を期待した。
こんなところでは。 -
No.25917
Re: こんなところでは
2013/01/29 09:09
>>No. 25911
土師器のデザインは越の、口が皿型の壺、盤口壷に由来する二重口縁土器が多い。ただ、吉林・沿海州鶯歌嶺上層ではすでに前2000年代からハレ、ケの土器の使い分けが発生している。ただ、底部の丸み工法については巴蜀の影響もあり得る。周辺弥生地域による取得程度の差こそあれ、外来土器であることには違いない。
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No.25918
Re: こんなところでは
2013/01/29 09:29
>>No. 25914
当時は百済が遼西経略もあり、文化的に先進で、倭は風下ですから、漢字ではかなわない。しかし、海軍の兵力では倭の実態は世界最強の邑婁なので、百済なんかの穢貊は足元にも及ばなかったんでしょう。
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No.25922
Re: こんなところでは
2013/01/29 20:50
>>No. 25918
「日本は最も久しく、其つ大なり。其の地は黒龍江の北に始まり、我が済州の南に至り、琉球と相接し、其の勢甚だ長し。」「海東諸国紀」李氏朝鮮領議政(宰相)申叔舟
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E6%9D%B1%E8%AB%B8%E5%9B%BD%E7%B4%80 -
No.25924
Re: こんなところでは
2013/01/30 16:54
>>No. 25922
黒竜江の北、4/6のこと
1 木槨墳→スキタイ
2 アンドローノヴォ並行
3 カラスク並行 (遼寧銅剣)
4 グラスコフ、6石板墓に至る
5 ヤクート
6 石板墓→四隅突出型墳丘墓、前方後方墳
7 水石里→方形周溝墓
8 方向
http://protown.ru/pic/sibir-russia-1-021.png -
No.673
移動
2013/02/02 09:14
「『後漢書』には「初、朝鮮王準為衛滿所破、乃將其餘衆數千人走入海、攻馬韓、破之、自立為韓王。(初め、朝鮮王準が衛満に滅ぼされ、数千人の残党を連れて海に入り、馬韓を攻めて、これを撃ち破り、韓王として自立した。)」と記されており、衛満に敗れた準王は数千人を率いて逃亡し、馬韓を攻めて韓王となったというが、これは3世紀頃、楽浪郡の韓氏による系譜の装飾との説がある。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AE%95%E5%AD%90%E6%9C%9D%E9%AE%AE
この楽浪郡韓氏は匈奴に亡命した韓王信の一族で、衛満の上官である盧綰が東胡王になると、衛満共々東胡との関係を持ったものとみられる。他方、匈奴陣営においては鐵勒も東胡と同様に匈奴に組み入れられており、東胡、鐵勒は穢貊経由、衛氏朝鮮、辰国(三韓)と密接な関係を持っていたと見られる。そして、徐福ミッションが上陸し、解散するのが古朝鮮(楽浪郡)で、平原光沢の地というのが辰国(真番郡→帯方郡)だろう。
古朝鮮
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/28/History_of_Korea-108_BC.png
漢四郡
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/f/f8/Map_of_The_east_barbarian_0.png
帯方郡時代の朝鮮半島 東穢-穢(穢貊)
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/b2/Ancient_Korea_Taihougun.png -
No.674
在日江南系YDNAと徐福
2013/02/02 09:18
O3-LINE1 3.0 Ancient Miao-Yao (Xufu conscript ex Ba/Shu States)
O-P201 3.0 Ancient Tujia (Xufu conscript ex Ba/Shu States)
O2a-M95* 1.9 Ancient Yue (Xufu conscript ex Yue State) Ferrous, Non-ferrous metallurgy, Ceramic technology
N1-LLY22g 1.2 Ancient Qiang (also Xionnu/Quanrong) Torch festival -
No.675
三韓の由来
2013/02/02 10:40
下図における韓(Han)の位置に注目。
http://www.s155239215.onlinehome.us/turkic/btn_GeographyMaps/BC_403Smaller%20States_Strijdende_Staten.jpg
衛満に破られた箕准は馬韓を攻める。つまり、その時辰国は馬韓に変わっていた。国名を馬韓に変えたものは春秋乃至は戦国の韓国に関係するものか、あるいはまた、法家韓非子を尊重するものか、いずれにせよ先秦の中華と関係するものであったのであろう。この時期、旧辰国では異形青銅器、瓦質土器等極めて高度な冶金、窯業が登場している。これは中原にあった技術が揚子江・淮河下流に向かったもので、越人、呉人集団が上陸したことを意味し、その背景を考えるとどうしても徐福集団と結びつく。 -
No.676
馬韓東方の情勢
2013/02/02 11:14
馬韓東方の弁辰韓
粘土帯土器文化(無文水石里・沿海州わだつみ族) 弥生中期
O2b1* 4.7%
土師器文化人(天孫・穢貊) 弥生後期
(馬韓系に押しのけられるように列島に進出)
O-M176 7.5% 貊人 O2b
NO-M214* 2.3% エヴェンキ
O1a-M119 2.2% ブリャート
C3-M217 1.9% 原モンゴル族
C3c-M86 1.2% 原満州族 -
No.25985
こういうことだろうな↓
2013/02/02 12:44
3C中葉-4C中葉 三輪王朝(崇神・垂任朝) 天孫・土師系の大和降臨
4C後半-5C 河内王朝(応神・仁徳朝) 百済と結ぶ河内の台頭
6C以降 越前王朝(継体朝) 騎馬民族渡来 -
No.127
神武は三島溝咋あたりからからか
2013/02/02 13:58
「庄内式期の畿内において、最も有力な円丘系首長墓を築いたのが大和盆地東南部であることは、桜井市ホケノ山墳墓(橿考研編2001)や一連の纏向墳墓群の調査(橋本編2006 ほか)によって実証的にも疑いのない事実となった。円丘系墳墓の伝統のなかった大和盆地東南部では、この時期に至って首長層が円丘に突出部を付けた前方後円形の厚葬墓を築造する動きを開始する。そして、こうした墳墓形態に着目するなら、前方後円形の有力墳墓の築造が続く大和盆地東南部と親縁性が認められるのは、大和川を介して連結する河内地域ではなく、意外にも北部の摂津地域であったという理解が導かれるのである。
大阪湾地域に円丘系墳墓のスタイルが流入した弥生終末期において、それを積極的に受け入れる大和盆地・摂津地域に対して、伝統的な方丘系墳墓を守り続ける河内地域という対処の違いが生じたことの意味は、ほどなく大和盆地で成立をみる巨大な古墳が円丘系の前方後円墳としてスタートする事実を念頭に置くなら、けっして小さくないであろう。
そして、大阪平野の南北と大和盆地をめぐる微妙な親疎の関係が、古墳時代開始期の有力古墳の特徴的な築造動向や政治的な威信財といえる3世紀の神獣鏡の分布傾向にもつながっていると考えてみたいのである。」
大阪平野における3世紀の首長墓と地域関係 福永 伸哉 2008-12-25
http://ir.library.osaka-u.ac.jp/dspace/bitstream/11094/7142/1/mrh_042_001A.pdf -
No.130
まだ階級の生まれる前の頃
2013/02/02 16:57
「三島には溝くい耳命が鎮座し、娘の玉櫛姫が大和三輪の事代主命が見初め、丹塗矢に化けて近づき結婚。五十鈴姫が生まれ、神武天皇の皇后となったとある。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%9D%E5%92%8B%E7%A5%9E%E7%A4%BE
みぞくいというのはやまくいレベルの格なのでおそらく神様でしょうね。ないしは無名であるが大きな豪族。神武というのは八咫の鏡、内行花文鏡カルトを持ってきた集団の一員。しかし、これまた神代に近い話。魏から使節が到来した時点でも上戸、下戸の二階級以外の階級は存在していなかったんでしょう。 -
No.133
神武の時代
2013/02/02 21:12
世襲首長といったものはまだまだ先のことでしょう。邪馬台国時代には卑弥呼の下に4官、というから、なんらかの行政官はあった。しかし、世襲なんてものはないでしょう。婚姻制度はレビラト婚などが入ってきたかもしれないが、一般的に上戸が妾2-3人程度であったんでは。

Re: 「磯城」を攻める神武
2013/01/25 20:04
神武が大和というシマをシキっており、つまり、番を張っており、尾張の首長が伊勢湾以東のシマをシキっていた。こういう言葉が少彦名・神農を露天商の神と仰ぐように長い時間を生き続けたということも考えられますね。