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No.76
Re: 大和朝廷の祖が野洲の出自
2013/01/12 10:02
>>No. 75
基本的に古墳前期-中期時代は大王制度が働いていたのは事実であろうが、王位継承については中国式の万世一系は考え得られず、中央アジアの制度などに似たもので、母系・父系の混沌としたものであったのではないかと思われます。
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No.655
Re: 徐福の遺産
2013/01/16 10:27
>>No. 651
日本人男性遺伝子中、中国由来のものは:
華北
O3a3c-M134 10.2 東夷/鮮卑
O3-M117 2.5% 烏桓
O3-002611 1.0% 山東華人
13.7%
江南
O3-LINE1 3.0% 苗瑶語系
O3-P201 3.0% 巴人
O1a-M119 2.2 百越(ブリャート)
O2a-M95* 1.9 南亜語系百越
NO-M214* 2.3 貴州布依族
N1-LLY22g 1.2 羌
13.6%
徐福時代の周辺歴史
219BCE 第一次渡海
210BCE 第二次渡海
200BCE 匈奴、漢を下す
195BCE 盧綰逃至匈奴、而衛満東逃。劉邦没。
どうやら、「古之亡人避秦役來適韓國」はバイカル湖(Ivolga Site)と
辰国に分列行進し、弥生終末、古墳後期の日本で再会するようだ。 -
No.660
Re: 徐福の遺産
2013/01/16 14:56
>>No. 656
こうした↓英、中、露の遺伝子、考古学最新情報をウォッチしています。
DNA−Y検測,已経証実,越王無余(叔楡)的后代,浙江紹興会稽禹陵村,○姓是O1a(M119),百越(越王的后代)是O1a。成吉思汗的后人貝加爾湖畔的布裏亜特蒙古人,34−50%是O1a。匈奴王子金日?的后代金氏,是O1a。昌意的后代昌氏是O1。崇白馬的后代馬氏是O1。大禹的后代顧、譚、陽氏是O1。○姓夏侯、曹氏,是O1a。台湾原住民超過89%,来自前1369年夏朝滅亡后。
http://tieba.baidu.com/f?kz=686822406
For your information, Battaglia et al. (2008) have reported finding N1-LLY22g in 6.2% (5/81) of a sample of Serbs from Bosnia and Herzegovina (the same sample that has been analyzed previously by Marjanovic et al. (2005)), so it is most likely that the haplogroup K(xP) Y-chromosomes
http://en.wikipedia.org/wiki/Talk%3AHaplogroup_T_(Y-DNA)
↑これなんか、羌族のバルカン進出を物語るようです。 -
No.661
Re: 徐福の遺産
2013/01/16 15:22
>>No. 660
近年、バイカル湖畔のちょうど伊勢遺跡のような場所に立地するイヴォルガ河畔で前漢代の製鉄遺跡が発見されて大騒ぎです。日本では時代は下るが琵琶湖湖畔で天日槍の渡来ではないかとされる製鉄遺跡が発見されていると伝えられます。そうして、原住民のブリャート人の男性染色体が製鉄王国百越と同一と来ています。しかし、ロシアの考古学者は興隆窪遺跡は台湾人が残したものではないかとしている。いずれにせよ、匈奴が自力で開発とするのはちと難しいのではないでしょうか。逆に、古代海人族の交易が予想外に広域であったと考えたほうが無難かも。まー、こうした
背景ではありながら、江原道の瓦質土器、日本の銅鐸文様他照葉樹林文化を考えるとやはり徐福渡来説が最も魅力的ですね。 -
No.662
Re: 徐福の遺産
2013/01/17 20:21
>>No. 661
徐福によって半島南部湖西、列島吉野ヶ里に
持ち込まれた先進技術:
軽工業?養蚕?縫製?染色
鉱業?錬鉄?瓦質土器(?器)?辰砂
金属加工?異形青銅器?銅鐸
食品?発酵食品
土木?環濠集落、墓地?石積・築城
建築?高床倉庫
工芸?竹細工?漆器?紋身?黒歯
言語?呉方言中国語
人的資源:
O3-LINE1 3.0% 苗瑶語系
O3-P201 3.0% 巴人
NO-M214* 2.3 貴州布依族
O1a-M119 2.2 百越
O2a-M95* 1.9 南亜語系百越
N1-LLY22g 1.2 羌
O3-002611 1.0% 山東華人
戦国時代、両漢時代のいずれの時期においても
これほどの高度技術、人的資源の海外
同時輸出は不可能。これは湖西・吉野ヶ里に
経済特区のようなものが形成されなくては
醸成できない。 -
No.664
Re: 徐福の遺産
2013/01/18 10:10
>>No. 663
YDNAを検査して証左されたことだが、越王無余(叔楡)の子孫であって、浙江紹興会稽禹陵村のSi姓はO1a(M119)であり、越王の子孫とされる百越がO1aだ。Gheghis Khanの子孫バイカル湖畔ブリャート・モンゴルは34-50%がO1aだ。匈奴王子、金日Diの子孫金氏はO1aだ。昌意の子孫昌氏はO1。大禹子孫顧、譚、陽氏はO1だ。崇白馬の子孫馬氏はO1だ。Si姓夏侯、曹氏はO1aだ。台湾原住民の89%以上は1869BCE夏朝滅亡后以降に渡来したものだ。
参考:Marnovijac et al. (2005)が分析したのと同一のボスニア・ヘルツェゴヴィナのセルビア人サンプルの6.2% (5/81) がN1-LLY22gであるとする発見がBattaglia et al. (2008)によって報告されたので、セルビア人とされたその他のhaplogroup TもNである可能性が高い。Ebizur (talk) 17:37, 28 October 2009 (UTC) -
No.667
Re: 徐福の遺産
2013/01/18 14:24
>>No. 662
「ここで,これまでに挙げた各種の青銅器の出土地を見てみると(地図参照),殆どは万家(Wanjiaba Chuxiong)型銅鼓及び石寨山型石寨山系銅鼓の分布地域と重なり,また少数のものが越族青銅器の分布地域と重なっていることが分かる。ここで,これまでに挙げた各種の青銅器の出土地を見てみると(地図参照),殆どは万家型銅鼓及び石寨山型石寨山系銅鼓の分布地域と重なり,また少数のものが越族青銅器の分布地域と重なっていることが分かる。これに上記の船文における結論を加えると,本稿の範囲からは,銅鐸の装飾は,むしろ戦国から前漢の銅鼓の分布地域,即ち長江上流域の雲南・四川南部や東南の広西などの地の青銅器文化と近い関係があり,また越族の青銅器文化とも共有する部分があり,沿海の中国南方地域の世界とも無縁ではないということであろう。
銅鐸と中国南方青銅器との装飾法や文様の意匠におけるこうした親近性の発生は,具体的に
はどのようにしたら可能であろうか。類似した文様を有する小型の青銅器の伝来,鋳造工人の
渡来などが考えられる。弥生時代の青銅器鋳造現場の性格を詳細に研究した結果によると,弥
生中期前半までは日本での青銅器の鋳造は朝鮮半島からの渡来人によって行われていたことが
指摘されている。それは工人の生活跡から出土した土器から導き出されている。そうすると
南からの工人達は,朝鮮半島で土着化し,その後渡来したことも考えられる。その場合は朝鮮
半島にも痕跡がある筈である。
ここで朝鮮無文土器時代の有名な防牌形銅器に触れておきたい。この器物は,その文様か
ら農耕祭祀にかかわる儀器であると推測されているが,人物の特有の表現(図27)は,石寨山
型銅鼓等に施されている人物表現(図28・29・30)と酷似している。この防牌形銅器は,朝
鮮では異形青銅器と分類される一連の器物の一つである。これらの異形青銅器は,紀元前4世
紀から紀元前3世紀頃,忠清道に分布し,突然現れて短期間で消えていったとされている。
これらの諸点は,これらの青銅器が朝鮮半島本来のものではなく,外から入ってきた要素であ
ること,またその製作にはそうした要素の関与があったことを暗示しているように思える。
弥生時代の銅鐸の文様の源流について 東海大 末房由美子」
http://www.hum.u-tokai.ac.jp/journal/no76/BUNGA76Y-02_15162.pdf -
No.668
Re: 徐福の遺産
2013/01/18 14:52
>>No. 667
朝鮮半島における土器の技術革新と生産体制 : 民族事例の比較研究 阪大 長友朋子
「民族事例と比較すると、円底短頚壺出現後の原三国時代の成形技法は、
?回転台を使用し
?粘土紐を積み上げ胴部の叩きをした後、底部を叩きで丸底化する
という点において、北タイのモンカオケオ村や中国雲南省西双版納の曼斗村、曼扎村、曼郎村の成形技法と非常に類似点が多い。
朝鮮半島における土器の技術革新と生産体制 : 民族事例の比較研究 阪大 長友朋子」
http://ir.library.osaka-u.ac.jp/dspace/bitstream/11094/11356/1/mrh_044_31A.pdf
シーサンパンナ・タイ族自治州(Tai-Kadai<Austronesian南島)
赤米、なれずし、納豆など漢民族地域にはない日本と共通する食品が今も作られ、米作中心の田園風景なども「日本人の原郷」を感じさせる
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%91%E3%83%B3%E3%83%8A%E3%83%BB%E3%82%BF%E3%82%A4%E6%97%8F%E8%87%AA%E6%B2%BB%E5%B7%9E -
No.669
Re: 徐福の遺産
2013/01/18 15:09
>>No. 668
劉邦にせよ、盧綰にせよ、一時は巴蜀に左遷されていた頃はあった。しかし、当時の身分は非常に不安定であり、その領民を朝鮮半島に移住さすなんてことはとてもできるような環境にはなかった。その先の武帝の時代になると匈奴との冷戦構造が高じて塩鉄論においても輸出規制が論ぜられるし、そもそも漢四郡の設置はこうした冷戦時代の置物であり、江南の民が朝鮮半島に禁断の養蚕技術共々移住するなどは考えられない。しかし、養蚕、錬鉄、巴蜀の民は既に錦江流域に到達していたのだ。これは始皇帝の権限以外に決して行われることができない政治判断なのだ。
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No.670
Re: 徐福の遺産
2013/01/18 15:33
>>No. 669
徐福の不老不死仙薬獲得青少年義勇軍は渤海湾の奥深き山東省無棣県碣石山において千童城/丱兮城というキャンプを張ったとされるが、行く末の不安に耐えかねてひそかに脱走するものもあったらしいと地元の伝説は伝える。
山東省無棣県碣石山
在古代,東方滄海被賦予仙人出没的地方,曹操就有“東到海,与天連。神仙之道,出窈入冥……”之句(《気出唱》)。
碣石山則是秦始皇入海求仙的活動中心之一,在其西側幾十公裏,有両処古跡,一名“千童城”;一名“丱兮城”,均是秦始皇派徐福東渡求仙的発航地之一。
《中国古今地名大辞典》(1931年香港商務印書館)載:“千童城在山東無棣県西南境。
《寰宇記》秦始皇遣徐福将童男童女千人入海求不死之薬,築此城以居之。”関於“丱兮城”, “丱兮”一詞大概典出《詩経.斉風》“総角丱兮”,“総角”是古代児童的代称,“丱”字象形,如児童将頭発在両鬢角扎成発髻之状。
《中国古今地名大辞典》載:“丱兮城,在直隷塩山県東北,相伝秦始皇遣徐福発童男女千人,入海求仙,築城僑居童男女,故名。”
《塩山県志》雲:“高城県東北嶺,旧有丱兮城”。
秦始皇在九河入海処,導航標識碣石附近,連築両座城,作為方士訓練童男童女的場所。
在沿海一帯築“秦台”若干,以便登高遠望,企謀“長生不老”之薬。
併於 “後三年(前215)年遊碣石,考入海方士。”(《漢書・郊祀志》)
拠当地伝説,当時従全国各地選抜而来的健康漂亮的男女青少年,何止千人。有的在多日単調苦燥的訓練過程中,耐不住寂寞;有的惧怕風高浪湧、前途未卜等等,紛紛結隊逃亡,流入人間。這箇伝説,其准確性有待考察,但是徐福東渡遺跡仍在;這方的姑嬢、小狄自古以来長得特別漂亮確是実事。難怪曹丕在《釣竿行》中雲:“東越河済水,遥望大海涯”,吟誦情詩尼。連魯連仲這様的大才,也封地不要,千金不受,而“東蹈滄海”(《煌煌京洛行》)享受田園之楽去了。
http://tieba.baidu.com/f?kz=154495817 -
No.88
Re: 大体こんなとこでしょうか
2013/01/19 09:44
>>No. 2
記紀が黙示する建国プロセス枠組み:
?天忍穂耳の派遣 筑紫/肥による近畿商圏拡大の企画
?天菩比の派遣 ザバイカル四隅突出型・前方後方・方形墳丘墓文化人の派遣
?天若日子の派遣 鐵勒系の派遣
?建御雷の派遣 邑婁の派遣
?事代主の服従 出雲勢力は三韓・楽浪系に降り、下野。
?建御名方の服従 鐵勒系は諏訪に下る。
?大国主の国譲り 倭奴国金印の埋納、加茂岩倉遺跡での青銅祭器永久埋納。
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835208&tid=9qbeya4j&sid=1835208&mid=2#under-deli -
No.89
Re: 大体こんなとこでしょうか
2013/01/19 10:05
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No.93
Re: 大体こんなとこでしょうか
2013/01/19 15:46
>>No. 88
天日槍の原郷 第二松花江流域 沃沮 つまり、天日槍は沃沮集団
「遼西地方でT字形剣柄が成立し琵琶形剣身+T字形剣柄+把頭の構造が定型化した頃,遼東でも琵琶形剣身の形状が定型化した。第二松花江流域には琵琶形銅矛が卓越した。各地で青銅器製作が始まると共にそれぞれに独自性が見え始めた。このとき明らかな影響力をもって琵琶形銅剣文化が朝鮮に波及する。琵琶形銅剣文化の器種は遼西がもっとも豊富で東に向かうほど器種が欠落する。」
「中間形(前4世紀後半)の丁峰里式から変化して成立した細形銅矛はa式が単純期を形成した後,西部と東南部に集中分布する地域型式である細形b・c・d式が紀元前1世紀頃出現した。」
青銅器からみた紀元前一千年紀の朝鮮 宮里 修
穢貊は高句麗、夫余/百済を支配していたもので第二松花江→嶺西→嶺南→湖西へと移動したものと考えられる。前4世紀末-前3世紀頃に嶺西・春川市中島に存在した中島文化は、Subbotinaによれば、通説とは真逆に沃沮(穢貊)主体で、穢はその一部分だとされる。白井克也編年では前100年-紀元後270年頃に半島東南部に存在し、紀元元年頃までは先行する粘土帯土器と共存した弁辰韓土器文化圏は穢貊と三韓=「避秦役來適韓國的亡人」=秦韓人の共存するものであったのだろう。女王を共立した背景にはこうした渡来人の存在が考えられる。 -
No.672
Re: 徐福抜きでは古代史は語れない!
2013/01/21 11:39
>>No. 1
やまったいさん、このテーマを提供していただきありがとうございました。
これは日本古代史に非常に重要なテーマではあるんですが、徐福というのは状況証拠しか出てこない。日本史は文書研究が主のようなんですが、どうも徐福は検討のしようがないというのが現状なんでしょうね。なので、発展的に世界史というカテゴリーに「匈奴、徐福と辰国」
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835209&tid=r3edba1a2bdyja1a4hca49q&sid=1835209&mid=1&type=date&first=1
というのを立ち上げてみました。まー、基本的に日本で高度な青銅技術、土器などの変化が起こるのは後漢末です。このころまで、徐福の子孫は三韓<辰国<真番方面にいたのだと見られます。日本建国も変化する中国情勢に対応して輸入貿易の主体を確立したいとする彼らの願望が底流にあったのかもしれませんね。 -
No.98
Re: 「磯城」を攻める神武
2013/01/24 16:51
>>No. 97
横レスですが、やはり、河内長髄彦一派と神武一派の戦いが磯城の土民の骨肉の争いとなったということじゃないですかね。
「庄内式期の畿内において、最も有力な円丘系首長墓を築いたのが大和盆地東南部であることは、桜井市ホケノ山墳墓(橿考研編2001)や一連の纏向墳墓群の調査(橋本編2006 ほか)によって実証的にも疑いのない事実となった。円丘系墳墓の伝統のなかった大和盆地東南部では、この時期に至って首長層が円丘に突出部を付けた前方後円形の厚葬墓を築造する動きを開始する。そして、こうした墳墓形態に着目するなら、前方後円形の有力墳墓の築造が続く大和盆地東南部と親縁性が認められるのは、大和川を介して連結する河内地域ではなく、意外にも北部の摂津地域であったという理解が導かれるのである。
大阪湾地域に円丘系墳墓のスタイルが流入した弥生終末期において、それを積極的に受け入れる大和盆地・摂津地域に対して、伝統的な方丘系墳墓を守り続ける河内地域という対処の違いが生じたことの意味は、ほどなく大和盆地で成立をみる巨大な古墳が円丘系の前方後円墳としてスタートする事実を念頭に置くなら、けっして小さくないであろう。
そして、大阪平野の南北と大和盆地をめぐる微妙な親疎の関係が、古墳時代開始期の有力古墳の特徴的な築造動向や政治的な威信財といえる3世紀の神獣鏡の分布傾向にもつながっていると考えてみたいのである。」
大阪平野における3世紀の首長墓と地域関係 福永 伸哉 2008-12-25
http://ir.library.osaka-u.ac.jp/dspace/bitstream/11094/7142/1/mrh_042_001A.pdf -
No.106
Re: 「磯城」を攻める神武
2013/01/25 16:28
>>No. 100
>長髄彦を「磯城の土民一派」に設定した場合には
>どんな解釈になりそうですかね?
どうなるのかなー。わかりません。
河内には河内版庄内土器の拡販を狙う連中がいたようですが。
武埴安の乱も土器の縄張り争いみたいですね。 -
No.109
Re: 「磯城」を攻める神武
2013/01/25 19:53
>>No. 108
「そしてさらに混和材としてある特定の砂粒を使うという仕様。鉄の掟がある
つまりS字甕製作には雲出の砂粒を使わねばならないという強い規制の確立である。これは風習というよりも宗教性に近いかもしれない。では何故雲出の砂粒なのか。おそらくその誕生にまつわる神話にあるように思われる。その中身は計り知れないが、ただ、松阪市片部貝蔵遺跡の複雑に入組んだ河道と堰の組合せの中に、砂粒採集の儀式場を想定することも可能と考えている。いずれにしろ二世紀から三世紀にかけて伊勢湾沿岸部に流行したS字甕は、その製作に特定の砂粒を混ぜるという共同性が確かに存在する。そしてその風習が最も強く働く時期、それがS字甕が濃尾平野から伊勢沿岸部の各集落内に広く採用される段階であり、かつ東海系が動き出す瞬間でもある。伊勢湾を取り巻く人々の間に、同じ道具を共有し、その神話を共有するという伝統性が創造された。」
http://higashinomiya.com/kuna/index.php?S%BB%FA%E1%B1
そうなんですよ。神武はこうした意味で非常に現実的です。おそらく、布留式土器乃至はこれに先行する大和式庄内土器は神武によって独占化された。さらに、神武は吉野の朱砂の独占的所有権を取得、日本での朱砂を使用する古墳築造権益を独占とも考えられます。じゃんじゃん古墳を建造せよ、そした対価を大和朝廷に上納せよということですね。

Re: 徐福の遺産
2013/01/11 21:28
其耆老傳世、自言古之亡人避秦役來適韓國、馬韓割其東界地與之。相呼皆爲徒、有似秦人、非但燕、齊之名物也。名樂浪人爲阿殘。東方人名我爲阿、謂樂浪人本其殘餘人。今有名之爲秦韓者。
「秦韓人は秦の役を避けてそれに適した韓国の地に到来し、馬韓は彼らのためにその東方地域を分与した。彼らは仲間のことを徒と呼ぶが、これは秦人に似ている。燕とか、斉とかの言い方ではない。楽浪人のことを阿殘と呼ぶが、阿というのは東方人方言で我という意味であり、そのことは楽浪人が本来われわれの残留同族だといっているのだ。現在は秦韓人と呼ばれている。」『三國志』魏志 韓
http://pachyderm.blog54.fc2.com/?mode=m&no=370
つまり、秦韓人は秦の時代の東方人で、秦朝の役務から逃避し、楽浪の地に入ったが、そこから一部が分かれて秦韓移住したということ。東海姫氏、すなわち、徐福集団にぴったし合っている。徐福集団がもし存在したとすると、その集団は自らを徐福集団と名乗ることはなく、東海姫氏乃至は呉の太白の末裔と称したはずである。このことから、邪馬台国の外交交渉を担当した集団が魏の遣使に対し自らの出自を呉の太白の末裔と称したことは、その時代、秦韓人はすでに邪馬台国に移住していたことを物語っている。