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投稿コメント一覧 (2315コメント)

  • 今日はある読書会に出席しました。

    お題はディケンズの「二都物語」

    ぼくは密かにディケンズの(プロットの甘さ)の批判から入ってやろうかと考えていたんですが、超美人の御婦人が「久しぶりに小説らしい小説を読んだ、感動した」と先に感想を述べたので、方針を転換。(^^;) ・・批判は抑え気味・・というか、ゴクリとそれを飲み込んで「そうそう、たしかに身代わりでギロチンにかかるなんて感動モンですよねぇ~」とスリスリ。

    何とも自分がナサケナイです、大真面目な席なのに・・。(^▽^;)

    ということで、最近文学づいて・・ネットを覗くひまがありません。^^

  • >>No. 38839

    >聖書の霊は、ある意味では、仏教でいえば真理に近いのでは?

    仏教での真理は、やはりダルマ(法)ではないかとの感触を僕は持っています。

    >遥かに高いレベルから仏典を読めるようになった。そういうことは、キリスト教的には、聖霊の力によって神のことばが正しく解釈できるようになったとでも表現される。

    これは確かに言えますね。
    僕の知っている人でも、パウロ書簡を読んでいて・・突然、conversionを起こした人がいますからね。

  • >>No. 38845

    >脳の中身だけで脳が動くと我々はもうとっくに滅びていると思います。

    まぁ、「ナカミ」の定義づけが甘かったのかも知れません。ぼくも脳の中身ということで理解してたんですが・・もうすこし膨らませても良かったのかも?そのへんよく分かりません。

  • >>No. 38850

    >天才が 書いたHP を 見つけました

    読みました。
    無署名なので何処のだれが書いた文章かは知りませんが、これは確かに天才かも知れませんナ。^^;
    悟りの境地を、木の高さと根の深さに例えたあの発想には・・恐れ入り谷の鬼子母神モノでしたもん!

    「新しいゴーゴリが出ましたよ、新しいゴーゴリが!!」
    と、ドストエフスキィの処女作「貧しき人々」を読んだ詩人のネクラーソフは、泣く子も黙る大批評家のベリンスキィのもとにその原稿を届けた時、歓喜の涙でそう叫んだそうです。

    ネット界での新しいスター誕生なのかも知れません・・・。(^0^)

  • それが最後の最後に、多大な家畜と子供たちをさずかり、メデタシ、メデタシ、とおおいに “報われる”という話に帰結するとは・・・。
    う〜ん、なんともはや、です。^^;

    しかし、どーしても、そこに加筆をせざるを得なかったのも“弁証法の民”ユダヤ人のなせる業なのか・・・とも。

    まー、なんとも色々 考えさせられる一書です。
    ぜひとも一読をお勧めしたいと思って、駄文をしたためました。

    P.S ここでは因果律に対比して「予定律」という用語を使いましたが、一般的には「予定説」あるいは「予定説調和説」という言葉が流布しているようです。その場合にはカルヴァンの「二重の予定説」のことを指すようで、それを取り上げるには、 また別の主題でということになります。

    また、本書での神と賭けをするサタンの性質に戸惑った方がおられるかも知れませんが、サタンは本来神と二元的に敵対するものではありません。いわば神に伺候して人間の悪を告発する役目を担っていると言っても良いでしょう。
    [21315] 別名トマス・

  • 具体的な“神の業”について
    イエスはこう言っています。

    さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。
    弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」
    イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。 (ヨハネ伝9:1~3)

    この聖句は因果律との決別を宣言した画期的モニュメントとして特筆されていいと思います。
    ここに救いを見出す救道者は多いでしょうね。

    ただ、わたしは因果律の陥穽を持ち出しましたが、M・ヴェーバーは因果律は神義論として完璧、と言っています。
    今生で不義があることも、来世で(それでかなわなかったら輪廻転生を繰り返すいつかの世で)結局ペイされるからです。
    つまり、今はシュードラの身だけれども(あるいは障害者の例でも)善根をつめば来世でバラモンに生まれ変わるかもしれないと考えれば、今生の不義が来世で相殺されますからね。
    それが数かきりなく繰り返していけば、不義はただされ、結局神は義(ただ)しい となるのでしょうから。
    もっともこの場合は神ではなくて仏、いや法(ダルマ)という用語を使うのが正しいかもしれませんが。^^;

    最後に、長い対話編が終わって、終曲として「結び」がついています。
    この部分は後代の加筆であると学者たちの意見は一致しています。
    しかし
    ここが付随していることによって、あのなが~い、しつこ~い、イヤらし~い^^;
    論争が何のための論争であったのか分らなくなります。

    というのは、この「結び」には
    ヨブは神に祝福され
    羊一万四千匹、らくだ六千頭、牛一千くびき、雌ろば一千頭を持ち、
    また、七人の息子と三人の娘をさずかり、絵に描いたようなハッピーエンドが描かれているからです。

    あの論争は、義人が 何ゆえ苦しまなければならないのか、でした。

    善因善(楽)果、悪因悪(苦)果という応報思想に神は拘束されない
    義は神と同義であってそれ自体が絶対なものだから、報われるか報われないかは関係ない。
    それが神の絶対性というものではないか、というものでした。

  • こう言われると、人に抗弁の余地はなくなります。
    人は…全知全能…ではなかった!
    そして、長い長い対話編はヨブの次の言葉をもって終わります。

    あなたは全能であり
    御旨の成就を妨げることはできないと悟りました。
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    わたしには理解できず、わたしの知識を超えた
    驚くべき御業をあげつらっておりました。
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    あなたのことを、耳にしてはおりました。
    しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。
    それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し
    自分を退け、悔い改めます。 (42:2~6)

    以上がこの対話編の要約なんですが、(要約にしてはちょっと長かったか^^;)
    因果律についてもう少しだけ付記しておきます。

    因果応報思想を考える上で、“社会”をモデル化したケースとして考えて見ますと、
    実際、正しいものが報われる社会というのは政治家のキャッチコピーにはなり得ても、
    現実的にそういう社会が現れたとすると、まったくオソロシイことになります。

    すなわち、報われない者がいるのは、正しくない事をしたからだ、という逆理(パラドクス)に陥りますから。

    これはヨブのような報われない者には二重の仕打ちです。
    あるいは生まれながらの障害者はどうでしょう。
    生まれながらの障害者(報われないもの)は、正しくないからと言うことになり、その因を前世まで遡ることによって、二重の非を問われることになります。
    そのように因果応報思想は恐ろしい陥穽におちいる危険があります。

    どこの国にも因果律はあると先ほど書きましたが、聖書にも古い時代にはその考え方はありました。
    それがエレミヤ
    (先祖が酸いぶどうを食べれば子孫の歯が浮くとは言わない、(エレ31:29)と言った預言者です)
    の時代(王と預言者の時代)あたりから徐々にヤハウェの絶対性を強調するようになり、それとともに因果律は聖書の世界の思想から乖離していくようになりました。
    神の計画と予定の“因”は人には不可知ではあるけれども、それに寸毫もたがうことなく歴史は支配されていくのだ、という考え方の「予定律」に取って代わられたからです。
    これはヨブから400年ほど後の新約時代になって、ナザレのイエスとパウロの思想に非常に顕著に見られます。

  • まして人間は、水を飲むように不正を飲む者
    憎むべき汚れた者なのだ。 (15:14~15:16)

    と、論破する手段として、原罪思想の萌芽のようなものまで持ち出して、こちらも譲りません。

    対話編でのその後のエリファズ、ビルダド、ツォファルとの十度に及ばんとする長い論争とエリフの講話は、畢竟このトートロジー(同語反復)にすぎません。

    そしてついに
    友人達にすべてを言い尽くしたヨブは
    また罪咎を問われるいわれはないと訴えたいヨブは、
    神との直接対話にのぞみます。
    いわば、自分が正しいのか、神が正しいのか直接神に糺そうという訳です。

    神は嵐の中から現れてヨブに言います。

    これは何者か。
    知識もないのに、言葉を重ねて
    神の経綸を暗くするとは。
    男らしく、腰に帯をせよ。
    わたしはお前に尋ねる、わたしに答えてみよ。
    わたしが大地を据えたとき
    お前はどこにいたのか。
    知っていたというなら
    理解していることを言ってみよ。
    誰がその広がりを定めたかを知っているのか。
    誰がその上に測り縄を張ったのか。
    基の柱はどこに沈められたのか。
    誰が隅の親石を置いたのか。 (38:2~6)

    面白いことに、神は直接罪咎あることに言い及ばないのです。
    それこそヨブが 明らかにし 知りたい事 であろうに!

    ここで神が言っていることは
    つまるところ
    「お前に私のような能力があるのか?」です。
    さらにこう言います。

    お前はわたしが定めたことを否定し
    自分を無罪とするために
       わたしを有罪とさえするのか。
    お前は神に劣らぬ腕をもち
    神のような声をもって雷鳴をとどろかせるのか。
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    そのとき初めて、わたしはお前をたたえよう。
    お前が自分の右の手で
       勝利を得たことになるのだから。 (40:8~14)

    この14章、文語訳では
    《さらば我も汝を讃めて 汝の右の手 汝を救い得るとせん。》
    となっております。
    こちらの方が分りやすいのですが、
    その意は
    自己を義とすることは自己を神とするに等しい、
    ならばお前に神のような能力があるのか、
    あるのならお前を讃えよう、右の手で(自らでの意)自らを救えるのだから、と言ってる訳です。

  • 前段の
    【罪のない人が滅ぼされ正しい人が絶たれたことがあるかどうか 】は善因善(楽)果です。
    後段の
    【災いを耕し、労苦を蒔く者が 災いと労苦を収穫することになっている。】は悪因悪(苦)果です。

    因果律はインドで高度に昇華し体系化した思想ですが、
    龍樹(ナーガールジュナ)等の採った複雑な同時因果律はさておき
    「此(こ)れあれば彼(かれ)あり、此(こ)れなければ彼(かれ)なし」という単純因果律は一方的な因果関係で解りやすく、
    これはどこの国にでもあります。
    エリファズは因果律の、その善因善(楽)果、悪因悪(苦)果という論理によって、慰めに名を借りた論難をしているのです。

    その因果律(因果応報思想)を採ったところに、エリファズがヨブは正しくないとした論理の秘密が隠されているような気がします。

    それによると
    善い行い(因)には善い(果)がある筈
    悪い行い(因)には悪い(果)がある筈
    それならば
    ゴミ捨て場でウミを掬うという“悪果”があったヨブには悪因がある筈
    という事にならざるを得ません。

    それでも
    悪因はない、と言い張るならば、必然的に、それを神に隠しているからこういう苦難にあう以外考えられないではないか
    という推論に陥ります。
    従って、エリファズと三人の友人たちは神の偉大さを持ち出し、隠している悪行を懺悔せよとの論難口調になります。

    しかし、対話編の中程で、ヨブは徹底的に抗弁します。

    罪と悪がどれほどわたしにあるのでしょうか。
    わたしの罪咎を示してください(13:23)

    …と。
    この詩劇は、ヨブは〝無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた〟という前提で始まっているのですから、ヨブの言い分の方がスジが通っています。

    見よ、わたしは訴えを述べる。
    わたしは知っている、わたしが正しいのだ。(13:18)

    と、自らに義があることを決して譲りません。

    しかし因果律を採ると、“果”に対して徹底的に“因”を求めますから、ヨブは隠している、あるいは虚偽を言っている、すなわちヨブは正しくない、という事にならざるを得ません。
    その上、友人たちは

    どうして、人が清くありえよう。
    どうして、女から生まれた者が
       正しくありえよう。
    神は聖なる人々をも信頼なさらず
    天すら、神の目には清くない。

  • よく読んでみると、どん底の苦しみにうめいているヨブを前に、よくもまぁ堂々とご高説をタレれるモンだという気にさせられます。

    「他人事であった苦難も、いざ自分にふりかかったら、おびえ弱ってしまう」と言っています…。
    んー、確かにねぇ…。ごもっともです。

    そして、(それからのご加護を願じ)神に依り頼む生き方への勧め…ですか…。
    良い説教です。

    しかしこれ、どっかの新興宗教団体がやっている 重病人を前にしての折伏と論理が似てますネェ。(笑)

    それよりも、エリファズの発言で本当に問題なのは、
    【罪のない人が滅ぼされ正しい人が絶たれたことがあるかどうか 】
    ここ↑なんです。
    ここ、読み飛ばしてはイケませんぞ~~。^^;

    この文章は
    【…かどうか】と問いかける形になっていますが いや勿論そうではない という反意を含んでいるのは明白で、
    ここのエリファズの真意は “罪のない人は滅ぼされないし、正しい人は絶たれない” というところにあります。
    いわば 正義は必ず勝つ、報われる、 という事なんでしょうね。^^;

    しかし考えてみれば、それは可笑しな事ではないでしょうか。
    何故ならば
    “罪のない人は滅ぼされないし、正しい人は絶たれない” のならヨブは今実際に“滅ぼされ絶たれ”ようとしていますので、裏返して見ますと、ヨブには罪があったから、正しくなかったから(そういう状態になった)という論法も成り立ちますから。
    ん?ヨブは…正しくなかった?
    でも、それはさらに可笑しいのではないでしょうか?
    再び一章一節に目を遣れば、そこには〝無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた〟と書いてあります。
    つまり、ヨブは神に対し正しく生きていた、その事が前提でこの物語は始まっているんです…。

    正しいはずのヨブが、エリファズの〝慰安の論理〟では ヨブは正しくない とならざるを得ません。
    何故そういうことになるのでしょう?

    エリファズの論理は、この哲カテに参加投稿している方々なら見抜いていると思いますが、因果律(因果応報思想)です。
    それは、続くエリファズの言葉、
    【災いを耕し、労苦を蒔く者が 災いと労苦を収穫することになっている。】
    で一層あらわになっています。

  • 正確に数字を挙げると、ヨブとエリファズとの議論が三回、ビルダドとが三回、ツォファルとが二回、それにエりフの講話と続き、最後になんと神との直接対話に及ぶことになります。

    それらをつらつら思い合わせると・・・
    難解で長い対話編をひとまず置いといて、短い序曲と終曲をまず読んで、それから対話編を読むことも、一局かもしれませんね・・・。^^;
    散文(序曲)と散文(終曲)の間に詩文(対話編)が挟まっている形になっていますから、そういう読み方でも判りやすいかもしれません。

    で、ここではその長い対話編での議論の要諦は何か、という事を要約してみたいと思います。

    最初は三人の友人も
    ヨブにふりかかった災難の一部始終を聞くと、見舞い慰めようと相談して、それぞれの国からやって来た。(2:11)
    と、その目的は【見舞い慰めようと】して、やって来た筈なんですね。
    また、

    遠くからヨブを見ると、それと見分けられないほどの姿になっていたので、嘆きの声をあげ、衣を裂き、天に向かって塵を振りまき、頭にかぶった。 彼らは七日七晩、ヨブと共に地面に座っていたが、その激しい苦痛を見ると、話しかけることもできなかった。 (2:12~13)

    と同情もしています。
    ところがいざ口を開くと、一番年長者で温厚なエリファズでさえ、これは慰めの言葉でなく論難ではないか、と思われるような言葉を吐くんです。

    あえてひとこと言ってみよう。
    あなたを疲れさせるだろうが
      誰がものを言わずにいられようか。
    あなたは多くの人を諭し
    力を失った手を強めてきた。
    あなたの言葉は倒れる人を起こし
    くずおれる膝に力を与えたものだった。
    だが、そのあなたの上に何事かふりかかると
      あなたは弱ってしまう。
    それがあなたの身に及ぶと、おびえる。
    神を畏れる生き方が
      あなたの頼みではなかったのか。
    完全な道を歩むことが
      あなたの希望ではなかったのか。
    考えてみなさい。
    罪のない人が滅ぼされ
    正しい人が絶たれたことがあるかどうか。
    わたしの見てきたところでは
    災いを耕し、労苦を蒔く者が
    災いと労苦を収穫することになっている。 (4:2~8)

    エリファズの言葉はまだまだ続きます。
    しかしここを読むと、一見正論のようにも見えますが、

  • 続く3章から42章までの長い対話編があり(これがヨブ記のほとんどを占めています)
    ついで42章での「結び」を含む終曲があります。

    で、話の筋を追っていきますが、
    序曲が終わり、対話編の序章である3章が始まると、まるでエレミヤを思い起こすような、理不尽な境遇に陥ったヨブの嘆きが綴られています。

    「わたしの生まれた日は消えうせよ。
    男の子をみごもったことを告げた夜も。
    その日は闇となれ。 」(3:3)

    「なぜ、わたしは母の胎にいるうちに
    死んでしまわなかったのか。
    せめて、生まれてすぐに息絶えなかったのか。 」(3:11)

    「彼らは死を待っているが、死は来ない。
    地に埋もれた宝にもまさって
    死を探し求めているのに。
    墓を見いだすことさえできれば
    喜び躍り、歓喜するだろうに。 」(3:21)

    読む者に二の句が継げない、壮絶な嘆きです。

    で、これに続いて4章からエリファズ、ビルダド、ツォファル、という三人の友人、それと後にエリフという哲学青年があらわれて、延々とヨブとの議論が交わされていくのですが、ここからが実質的な対話編でして、
    (一転して、いつものアホリズム^^;の調子で書きますが)
    あのー、そのぅー、これが、実になが~い、しつこ~い、イヤらし~い。^^
    その粘着質満点のクドクドさに、
    読む者がウンザリして、ここで本を放り投げること、うけあいです。^^;
    其処此処に見受けられるネット掲示板上での論争も、(いや、それの場合は争論か…)ここのヨブと友人達との論争の粘着性に比べれば月とスッポン、いや月と食用カエル位の差があります。(^-^)
    ユダヤ人にとって、論争は国技と言われていますが、この時代からそうだったようです。^^
    ヨブと三人の友人との論争の中でのヨブの抗弁をみると、およそ日本人の感性とは異質のような気がします。
    日本人は〝絶対的な価値観〟を、人に、あるいは人が創った社会 に置きますから、その関係性がおかしくなることを避ける傾向がありますが、そんなことは彼らにはまったく眼中にないんです。
    そんなところに絶対性を置いていないんです。
    究極…神のみ、に なんですね、それを置いているのは。
    ですから・・・
    言うべき事は、徹底しているんです…神の前に自らに義があることを決して曲げないし、妥協しない。
    で、議論は延々と続きます。

  • サタンは神に言います。
    「皮には皮を、と申します。まして命のためには全財産を差し出すものです。 手を伸ばして彼の骨と肉に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うにちがいありません。」 (2:4)
    と。
    神は
    「それでは、彼をお前のいいようにするがよい。ただし、命だけは奪うな。」 (2:6)
    と、またしてもヨブをサタンに委ねます。

    ついには
    サタンはヨブに手を下し、頭のてっぺんから足の裏までひどい皮膚病にかからせた。 ヨブは灰の中に座り、素焼きのかけらで体中をかきむしった。 (2:7)
    という状態になります。
    一説によりますと、この病気はハンセン氏病に似た象皮病であろうといわれています。伝染の危険があるので城壁外に追放され、そこのゴミ置き場の中に座り、捨てられた陶器の破片でウミをすくうという、なんとも悲惨このうえない状態に陥ります

    ヨブは冒頭一章一節に書かれてあるように、〝神を畏れ、悪を避けて生きていた〟筈なんです。
    悪を尽くして来た者ならともかく、悪を避けて清く生きていた人物が、何故こういう悲惨な目にあわねばならないのか。
    善い行い、善い生活、をしてきた者がこういう目に遭う、
    これは 義に反する のではないのか。
    神は義(ただしさ)を創造し
    神と義(ただしさ)は同義ではないのか。
    その神がなぜヨブを 義に反する 事にあわせるのか。
    神の全知からして、それを阻止することは容易であろうに。
    やはり神はユングの言うように、人を妬んでその賭けに及んだのか?
    ユングは
    「人間がたしかに無限に小さいけれども神より強い光を持っているのではないかと言う疑念を、ヤーヴェが懐いた」(みすず書房 ヨブへの答え P26 )
    と書いているし、その疑念を神の人間への嫉妬の所以としている・・・。
    そしてついには
    「神は正しくあろうとは少しも思わず、むしろ自らの力を誇示して、それを正義に優先させている」(同書P29)
    とまで書いてある。
    これ、そもそも、神が義(ただ)しいとすること、すなわち神と義を同義とすること自体が誤謬だと言ってるのではないか!
    神は義(ただ)しくない!と・・・。

    等々、このヨブ記1~2章には興味の種が尽きる事のない問題点が含まれております。

    で、ここでヨブ記の構成上のことを言っておきますと、
    以上の1~2章がこの劇詩の序曲で

  • 私に躁鬱気質あり とあらためて…再認識した次第。 
    ようするにお調子者なんですなぁ…でも、日がたつとシュンとなる。
    今私は反省サル じろー君 状態っす。( =´∇`= )y─┛~~

    でもって、ヨブ記について〝講解〝はおこがましいので、
    〝要約と寸評〟をまじえて、少し書いてみたいと思います。
    なにより、この書を多くの人に読んで貰いたいから…。(以下、当分の間マジメ口調)^^;

    この書が投げかける主題 それは神義論です。
    神義論とは、ひらたく言えば 神が義(ただ)しいのなら何故自らが創生した世に不義不法がはびこるのか、さらには 神は何故それに対して口を閉ざすのか、そういう疑義に「それにもかかわらず神は義(ただ)しい」と弁証する論とも言えます。故に弁神論とも言います。
    神義論は、このトピで話題になっているあのM・ヴェーバーが宗教社会学の用語として流布させた言葉と思われますが、遠くライプニッツに「弁神論」という著作があり、彼をもってその嚆矢とするようです。

    さて、
    不義不法がはびこる、つまり義(ただ)しくない事がはびこる(と人が思う)具体的な概要は、ヨブ記1~2章で鮮やかに書かれています。(以下()の章節はヨブ記のものを指します)

    冒頭に
    ウツの地にヨブという人がいた。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた。 (1:1)
    と書かれています。
    ところが、
    そういう生活をしていたヨブに、突然不幸が舞い込みます。
    彼の家畜はシェバ人に略奪され、息子たちは皆死んでしまいます。

    それというのも、サタンと神が天上で一つの賭けをした結果なんです。

    サタンは神に言います。
    「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか。」(1:9)
    …と。
    つまり、ヨブが神を畏れ敬うのは、神を信じる応報としての御利益があるからであって、絶対なのは神でも神の義でもなく御利益の方であり、その証拠に彼に利益でなく大打撃を与えてみれば神を呪うであろう、と言うのです。
    神は
    「それでは、彼のものを一切、お前のいいようにしてみるがよい。ただし彼には、手を出すな。」(1:12)
    と言って、ヨブをサタンに委ねます。

    その結果、ヨブは上記の、息子たちとすべての財産を失うという不幸に見舞われる、という事になります。

    それにもかかわらず神を信じ、悪を避け罪を犯さないヨブに、さらに試練が舞い込みます。

  • しまちゃん、アラシにやって来たぞ~。もう掲示板も最後だし、何かやっとかな心残りやからね。(^^;)
    板にはつきもののも連投アラシは・・相変わらず今でもいるみたいやケド・・こちとらも負けてはならん、やるど~~。^^。

    十年前に壊れたPCのハードディスクを取り出したら、昔の投稿がゾロゾロ出てきました。そこに僕らが参加していた「たのしい掲示板」の一部が保存してあって、何とその中に「みんなでつくる西部劇スレッド」なんてぇのも出てきました。あれ覚えてますか?みんなで連作小説つくったよねぇ・・あと、しまちゃんがつくった「小石の日蓮トピ」なんてのもあったじょ。(^-^)

    その中で、僕がつくった「ヨブ記」スレッドの序文をあげておきます。これはもともとYa!掲示板からの転載です。まぁ勝手読みが強いヨブ記評になってはいますが、あの長いヨブ記をうまく纏めた❝要約と寸評❞だと十数年経った今、自分で読んでみておこがましくも思いますた。^^;
    これからヨブ記を読む人の一里塚になって貰えばと思います。

    思えば、もうあん時のメンバーは・・しまちゃんと、とりちゃん、僕くらいになってしまったねぇ・・あとは・・いない・・。あのオキタはいま何してるんだろう。^^

    ======

    往る者は追わず、来たる者は拒まず。

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    ヨブ記 (保存用スレッド)
    2008-10-24 20:35
    ここは保存用です。

    長文ですので、ヒマでヒマでたまらないという人以外、読まないことをお勧めします。( =´∇`=)y─┛~~

           ***************************

    ヨブ記 トンデモ“講解”


    ははは、
    いつぞやの投稿では・・・
    ヨブ記の勝手流〝講解〝と書きましたが、
    あれは我ながら、大きく出たモンです。(^-^)

    〝講解〟という言葉 広辞苑にも載っていません。
    正規に認証された日本語ではなく
    どうも、キリスト教界の業界用語のようで
    〝高度に学問的な批評的註解〟
    の事を言うらしい、のです。

    高度に学問的??ギョ、ギョ、(;゚д゚)ェ..  めっそーもナイ!
    そんな大それた事は 浅学非才の私にできることではありましぇーん。^^;

    どうやらモチベが躁状態に向かう時 いわしめた 大言壮語のようです。

  • しかしそのような霊はギリシャ語では、プシュケー(魂、命)と言うそうです。
    ですから、プネウマはそういう霊ではなく、一方的に吹いて来る風のようなもの、といえば良いでしょう。ヘブル語で風のことをルーァハといい、ギリシャ語のプネウマはその概念を取り入れたものということです。
    ですからここは本当はややこしいんですが、単純に区分けするならば、プネウマを神に属する霊、プシュケーを人に属する霊と言ったら適当かもしれません。

    戻ります。

    誰か?一体誰が彼をひっつかんで足もとに投げつけたのか?
    ラスコーリニコフをソーニャの足元に跪かせたのはこのプネウマだと僕は思っています。これはラスコーリニコフが丸太に座っていた時のように、全く突然にくるのです。因果律が全く通用しないのです。なぜきたかはその原因が説明できない。予定律です、予定調和説です。これは人間には拒否できないものです。エレミヤのように、イヤと言おうがわが身を呪おうが一切の選択がないのです。ラスコーリニコフにも選択はありませんでした。これは考えてみれば恐ろしいことです。懺悔というものがあるとすれば、そしてそれが人間の意識上に昇るとすれば、(これが念仏でいう自力ではないかとも思っているのですが)そんなものなんぞ、木っ端微塵に打ち砕かされるものですから。
    ラスコーリニコフは最後まで殺人を罪と認めていないのです。懺悔がないのです。それでいて
    神の霊が降りるのです。(以下略)

    **********************************

  • いるソーニャが手を加えた事でもない・・そこで起こったことです・・・。
    ↓こちらがその投稿です。

    ********************************

    ラスコーリニコフが流刑地のシベリヤで雪花石膏を焼く仕事に出かけて行った折、河岸っぷちから小屋のそばに積んである丸太に腰を下ろし、荒涼とした広い大河を眺めている場面があります。そこへ突然ソーニャが現れ、ならんで腰を下ろします。・・・そして、おずおずと手を差し伸べます。・・・看守はこの時ちょうど向こうをむいています。

    ここからは直接引用します。

    どうしてそうなったか、彼は自身ながらわからなかったけれど、ふいに何ものかが彼をひっつかんで、彼女の足もとへ投げつけたようなぐあいだった。彼は泣いて、彼女のひざを抱きしめた。

    ふいに何者かが・・・(ラスコーリニコフを)投げつけた・・・のです。これは一体、何の描写でしょう? 一体だれが?

    戻って、

    「罪?どんな罪だ?」彼は不意に、発作的な狂墳にかられて叫んだ。「殺したら四十の罪を赦されるような、貧乏人の生き血を吸っていた、誰の役にも立たぬあの金貸し婆ぁを殺したことか。」

    彼は頑として自分の罪を認めていないのです。
    このことはシベリアへ行っても変わっていません。

    「彼は厳しく自分を裁いた、しかし彼の冷酷な『良心』は、誰にでもあるありふれた失敗を除いては彼の過去に特に恐ろしい罪は見出さなかった。」

    ですから、(罪を認めていないのだから)河岸っぷちでの、あのできごとは罪を告白して懺悔す
    る、というような人間としての行為では決してありません。ここは一般の読者が、そして専門家といわれるロシア文学者までが誤った解釈をしています。

    決して、決して、ラスコーリニコフは自分でソーニャの足元に跪いたのではありません・・・。

    一寸説明を。

    プネウマというギリシャ語があります。
    これは「霊」と日本語に訳されていますが、古来から日本で使われてきた霊の概念と全くその意を異にします。
    また、古代ギリシャ人も人が死んだら霊が肉から抜けて行くという、いわゆる霊肉二元論的な思惟方法をとっていたと言われていますが、その霊とも違います。
    ただ、エジプト人にしろ他の多くの民族にしろ霊といえば大体がそのような概念として理解して来たといえます。

  • どうも自分の投稿ばかり保存しているようで・・相手方の投稿も保存しておればもっと詳しく論議の内容が判ったのにと悔やんでおります。

    これは誰へのレスだか記載がないのですが、前の投稿から幾日か過ぎてからの投稿です。

    ====

    ラスコーリニコフの“ナカミ”(1)
    2010/ 5/11 17:26 [ No.374 / 402 ]

    投稿者 : didimo4090

    あんまりこのトピの趣旨とずれていくのもナンですので・・話を元に戻すと、

    「脳みそは、ボームの言う“ナカミ”(意識・無意識・の集合体?阿頼耶識まで含む?)で条件付けられているのか、いないのか?」

    この事でした。^^:

    “ナカミ”以外で条件付けられているとすれば、それは自分の中に神を認めることになり、「きわめて危険な考え方」とKは言う。

    愚氏もスラヴォイ氏へのレスで、
    「脳を超えたものがあり、それが脳に働くということに
    なります。それはオカルトです・・・オカルトが悪いといってんじゃないんですが、非合理だということです。」(禅クリVER3・NO3924)

    と言ってます。

    しかし、私はですね・・オカルトと言われようが、その“脳を超えたもの”を、宇宙から・でも良いんですが・・そういった【外部】から働くもの・として捉えております。Kのように“自分の中に”ではなくてね・・。

    そして、その働くものの正体を“プネウマ”と呼んでおります。

    霊と訳されるギリシャ語ですが、旧約で使われているヘブライ語のルーアッハ(風・霊)という概念に類似して・新約においてこれは使われており、このことは最近ではイストラン氏へのこのレスで取り上げています。

    (リンク先アドレスが通らないので略)

    このプネウマ(霊)は、プシュケー(霊・魂)と差別化するときには、(聖書協会から発刊されている聖書では最も新しい)新共同訳では“カッコ”付きで、“霊”と表記されているその霊です。私はこれを説明する時、“神に属する霊”と表現しています。

    で・・もう7年ほど前にもなる古い投稿ですが・・このプネウマの働く例として「罪と罰」のエピローグの中で、ラスコーリニコフがシべリアに流され、雪花石膏を焼く強制労働をさせられている場面で・・あった・・これを投稿しており、抜粋転載します。

    この時、
    看守は向こうを観ていて・・誰もいない・・もちろん傍に

  • 壊れたPCのデータが復旧したので、嬉しがってイストランさんと僕との間であったレスを載せたんですが・・そもそも、その論点の元になるものは、それ以前にあったKB会での愚さんの発言だったようです。
    ここで愚さんは「ナカミ」について語っています。
    「脳みその中で、ナカミに触れられていない働きがあるでしょうか」とか「ナカミがなく考えることが出来るか」あるいは「知らないことは考えられない」とかの言説です。愚氏やKの立場では「働きはない・出来ない・考えられない」でしょうが・・僕は真逆で、それでもハギオ・プネウマの働きがあるという危険な考えを持っています。^^;

    愚さんへ(ボームのナカミとは?)

    2010/ 4/29 16:00 [ No.343 / 402 ]

    投稿者 :didimo4090

    これ観ました。

    http://www.youtube.com/watch?v=7lMNe_QyP9Y&feature=PlayList&p=29E163F56D7E63F7&playnext_from=PL&index=9

    この中の6分50秒ほどのところで、愚さんはアリストテレスの「第一原因説」に言い及んで、「なるほどなぁ」と感想を述べておりますが、その「なるほどなぁ」は、肯定の意味合いですか?それとも、論理としては解る(整合性がある)しかし・・否定すべきもの、という意味ですか?感心しているのは判りますが、携帯の小さい画面では(myPCは通信環境悪くユチューブが駄目なんで)微妙なニュアンスが解らない。

    そこのところ、クリシュナムルティは、脳みそは“ナカミ”で条件付けられていないとすれば(ナカミ以外のパーツがある?)、それは自分の中に神を認めることになり、「きわめて危険な考え方」として全否定していると私は読み取りました。ただそれは愚さんがKの考え方を紹介していることにすぎないので愚さん自身がどう考えられているのか訊いておきます。

    普通に考えれば、Kを紹介する労をとるくらいだから、Kと同じく「第一原因説」も否定するとは推測しますが、どうも愚さんの神概念がよく解らないんだな・・生死の問題のとき、私の記憶によれば「寿命は神の範疇」と書いたりしたでしょ・・

    ちなみに、私は“ナカミ”以外によって人は条件付けられる(動かされる)と考えております。これは議論にはならない事ですが。

  • >>No. 38823

    >イストランさんは、愚かさんを評して実質は精神が物質を超えている二元論とみなしていたのですか。

    イストランさんからのレスが保存されていないので詳細は定かではないのですが、どうやら私の引用符でみればそのようですね。で、愚氏をそう評すのは同意できないと私が横を入れたところのようです。

    私の場合はその「精神」を広義に受け取っています。そしてそれをプネウマ(霊)とプシュケー(魂)に腑分けし、結局のところ・・その「精神」を人間の魂(プシュケー)ではなく「神からの風・霊(プネウマ)」に比定しています。さらにそれをイストランさんのおっしゃる「それを超える仏性」に結び付けております。要は神の働きとしているんですが・・それが愚さんにあるわけがナイという主張なんですね。愚さんには神はいません。仏教に神はいないと言っても良いです。従って彼は神なき一元です。私は神(のみ)ありきの一元です。

    私はプネウマは人間には抗しがたいものと捉えていて、それによって人間は条件付けられる(動かされる)と考えておるわけですが、それが「“ナカミ”以外によって人は条件付けられる」という言説になっています。

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