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投稿コメント一覧 (3056コメント)

  • >>No. 1131

    >「各豪族の系譜の世代数と、記紀系譜の応神から神武まで世代数の15世代との対比」そのものが論拠になるのか?

    松野連を根拠にしてるお前が言うな。


    >更に、双方の世代数の15世代と8世代とが同じである、という論拠も不明であり、

    そんなことは言ってないが。アホなのか。

  • ●誉田御廟山  ●上石津ミサンザイ  ●大仙陵 

    という3大古墳について考えてました。

    誉田御廟山が応神天皇陵墓であることはほぼ間違いないだろうと思われます。

    6世紀の欽明天皇が応神天皇を祀るために誉田八幡宮を創建してます。
    千年も前の天皇ならいざ知らず、欽明の時代に少し前の画期的な天皇の陵墓を間違えるなどとは考えられません。

    今日我々が幕末の志士たちの墓を間違えてないのと同じです。

    したがって誉田御廟山は応神天皇陵墓であり、その時代は最新の須恵器の編年から4世紀末~5世紀初頭でしょう。


    大仙陵が仁徳であることも間違いないと思われます。

    全国4位の吉備の造山古墳が仁徳の妃であった黒日売(くろひめ)かその父親である吉備海部直しか候補がいないことを考えれば、
    仁徳自身がそれより小さな墓ということは考えられないからです。

    大仙陵も最新の須恵器の編年から5世紀前半でしょう。

    問題は上石津ミサンザイです。
    この古墳は誉田御廟山と大仙陵の間の時代です。

    応神と仁徳の間に大王がいれば解決なのですがいません。

    ところが大王になるはずだった人物が一人います。

    皇太子にまでなりながら仁徳に皇位を譲った菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)です。

    3大古墳がほぼ間違いなく寿陵(生前墓)という事を考えれば、大王になるはずだった人物のために巨大墓を造っていたものの、結局その人物は大王にはならなかった。
    しかし墓はそのままその人物のものになった、このように考えられると思います。

    菟道稚郎子の墓は京都の宇治にある丸山古墳だと言われてますが、皇太子にまでなった人物の墓にしてはあまりに小さい。
    不自然です。おそらく丸山古墳は菟道稚郎子の母方の墳墓でしょう。


    まとめますと、
    誉田御廟山は応神天皇 (4世紀末)
    上石津ミサンザイは菟道稚郎子(5世紀初頭)
    大仙陵は仁徳(5世紀前半)

    という事になると思われます。

  • 私が纏向遺跡を物部氏の遺跡だという根拠は、崇神天皇がこの地に宮を構え、墳墓も造ってることです。
    墳墓は行燈山か西殿塚かかは分かりませんがそのどれかでしょう。

    ではなぜ崇神天皇がこの地に宮を構え、墳墓も造ったのでしょう。

    当時は家制度がなく、嫁に行くという習慣がありませんね。

    当時は男が通う通い婚であり、子供は女性の実家で育てられたという事を考えると、
    崇神のお母さんの実家が纏向にあったからと考えるのが自然ではないでしょうか。

    崇神のお母さんは物部氏の伊香色謎命(いかがしこめ)です。

    彼女は崇神天皇の即位と同日に皇太后となったようです。

    私は箸墓古墳は伊香色謎命かその父親の大綜麻杵命の墳墓ではないかと思ってます。

    箸墓は行燈山、西殿塚よりも巨大です。
    崇神の墓より大きいわけです。

    こんなことが許されるのは箸墓の被葬者が崇神の母親であるからと考えれば納得もできます。

    また大阪の交野(かたの)に森古墳群という前期古墳群がありますが、この森古墳群は前期古墳には珍しく被葬者をほぼ特定できる古墳群です。

    それは交野の語源にもなった肩野物部集団以外にいません。

    その肩野物部集団を率いて当地を開拓したといわれるのが伊香色謎命のお兄さんの伊香色雄命(いかがしこお)です。

    森古墳群中最大最古の雷塚古墳(3世紀後半)の被葬者は、現在の枚方市伊加賀町に住んでいたと伝承される、この伊香色雄命ではないかとする説が有力です。

    この雷塚古墳は箸墓古墳と同じくバチ型の古墳で全長106mです。

    つまり物部氏は3世紀後半には大王家に先駆けて前方後円墳を造っていたという事になります。

    ならばその同型の巨大墓・箸墓も物部氏の墓と言えるのではないでしょうか。
    さらに纏向にあるホケノ山や纏向石塚も物部氏の墓ということにならないでしょうか。

    アカデミズムは箸墓を卑弥呼かどうかばかり言ってますが、まずこういう事実を考える方が先決だと思われます。

  • >>No. 1146

    >ところで伊香色謎命って物部系だったんですか。


    そうですよ。



    >大物主は物部と関係ありますかな?


    その関係が謎でした。
    これは神武東征トピで言うべきことかもしれませんが、
    なぜ神武は東征したのか、またその前にニギハヤヒも畿内入りしてますが何故なのか。

    昔は大陸・半島情勢が不穏化して防衛上の首都移転かなとも思ってました。

    今は意見を変えました。

    ヤマトに女性の最高位「ヒメ」がいたからというのが理由だと思います。

    そのヒメと結ばれれば男性の最高位「ヒコ」になれる。

    そのヒメとはヒメタタライスズ媛である。

    ニギハヤヒもヒコの地位を狙って三輪山のある纏向に住んだのかもしれませんが、爺さんなので振られたのかなw
    どちらにしても神武がヒコの地位を手に入れた。

    そのように考えてます。

  • >>No. 1154

    銅鐸はカモ族の祭器です。

    複数の研究者が指摘してますが、全国のカモ地名と密接に関連してます。

    http://homepage1.nifty.com/moritaya/syogo1.html

    あの加茂岩倉遺跡もそうですし、全国最大の銅鐸発見密集地は三河の旧・賀茂郷です。

    昨年だったか淡路島で複数の銅鐸が発見され大きなニュースになりましたが、
    発見地近くに加茂小学校があります。(私がいち早く発見しましたw)

    銅鐸氏族は神武時代でいえば在地の鴨氏であり、出雲系ですね。

    安本美典氏は九州からきた神武軍に銅鐸氏族が滅ぼされたと言ってましたが、
    鴨氏のヒメタタライスズ媛は神武と結婚してますから滅んだわけではありません。
    結婚したことが何で「滅ぶ」になるのか意味不明です。

    むしろ鴨氏は神武以降に外威となって栄えてます。

    ただ銅鐸祭祀は何故かやめたようです。

    ヒメタタライスズ媛のお母さんの玉櫛媛(たまくしひめ、セヤダタラ媛)は三島溝橛耳(溝咋耳命)の娘ですが、
    この三島溝橛耳は名前の通り大阪茨木市の三島あたりを本拠にしたようで、
    当地には東奈良遺跡という日本最大級の銅鐸工場があります。

  • >>No. 27183

    >そもそも神武天皇なんて存在していなかったのだから、神武東征もありませんよ~う。
    >天武天皇が自らの過去を振り返って、それを神武天皇という創作上の主人公の物語に仕立て上げた



    いえ、それはありません。

    壬申の乱の際に大海人皇子(天武天皇)が神武陵に使者を送って挙兵を報告したという記事がありますので、
    その頃には神武陵が存在してたという事です。

    神武がもし架空の人物なら、誰かが神武の存在をでっちあげ、墓まででっちあげていたという事になります。

    誰が何の目的でそんなことをするのか、動機が全くわかりませんので、
    やはり神武は普通に実在していたと考えるのがよろしいかと思います。

  • >>No. 31284

    そのような味気ない事を言う人が文献史学に多いのですが、
    考古学などは逆に記紀の記述を裏付け始めてるように感じます。

    特に10代崇神天皇が4世紀初頭に実在したのはほぼ確実と思ってます。

    崇神の墓が行燈山か西殿塚だとしても4世紀前半ですし、
    数年前に発掘された新潟の城の山古墳が四道将軍との関わりが言われましたが、
    それ以外にも四道将軍の二人が会ったといわれる福島の会津に4世紀から前方後円墳が展開していたり、

    四道将軍の一人・吉備津彦の墓としか説明できない中山大塚が4世紀前後、
    崇神に反乱を起こした武埴安彦の墓としか思えない椿井大塚山が3世紀末、
    崇神の叔父である伊香色雄の墓としか思えない大阪交野の雷塚古墳も3世紀末、
    崇神の子・豊城入彦が入植したと言われる群馬で古墳が展開し始めるのも4世紀、
    宮崎・西都原の最古の82号墳が4世紀前半ですから景行天皇の熊襲征伐の時期と合います。

    このように崇神が4世紀初頭の人物なら、纏向遺跡が3世紀初頭開始ですから、
    その間100年、
    欠史8代どころか神武の実在にも届きそうな勢いです。

    他にも、4世紀後半の話ですが、神功皇后の三韓征伐は大げさだとしても、
    韓国の馬山や慶州に畿内系布留式土器が大量に発見され、倭人の定住が推測されることは、
    神功皇后が半島南部あたりを征伐したのは確実ではないかと思います。

    このように考古学が記紀の記述を裏付けはじめてるわけですが、
    文献史学の人たちは相変わらず机上でグタグタ言ってるわけです。

  • 吉備津彦の墓は中山茶臼山でした、訂正します。

  • 神武陵

    (記)畝傍山の北の方の白檮(かし)の尾の上にあり

    (紀)畝傍山の東北陵に葬る


    江戸時代、これを「畝傍山の東北の平地」か、「畝傍山の中の東北」かで解釈の違いがあったようで、
    前者が採用され、畝傍山東北300メートルの平地にあったミサンザイが神武墓と認定されたようで、
    あらたに神武陵として整地されたようです。

    しかしこれはどう考えても後者でしょう。

    理由は五色の賤の陵戸の存在です。

    畝傍山の中の丸山には代々神武の墓を守ってきた洞部落という陵戸の末裔がいました。
    彼らは今は平地に移住してますが。

    なんでこのことが重要視されなかったのか不思議です。

    また「橋のない川」のモデルになった事でも分るように、奈良の南西部の御所市には差別問題が多いわけです。

    何故なのか長い間謎でしたが、
    おそらく大王墓を守ってきた陵戸の末裔でしょう。
    欠史8代の墓は御所近辺に多いですから。

  • >>No. 1476

    >自分の「事実関係の論拠もなしの分裂幻覚妄想」を絶対視して、
     仲間とのわずかな妄想差異でもって、その仲間までもをヘイトスピーチ街宣をして、内ゲバやテロや殺戮や戦争にまで行ってしまう、
     という事だ。



    それはアンタwww

  • どうでもいいが、
    神武東征は事実か?から思いっきり逸脱してるわけだが。

    何の話しとんねん。

  • zaraはぶざまに逃げてばかりだなw

    ただのハゲだなw

  • >>No. 5770

    >怡土の地の付近には、神武らの親族兄弟や姉のナルタ姫の伝承のある神社などが、沢山ある。

    神武の先妻・アヒラツ媛の痕跡はあるの?
    ないはず。
    アヒラツ媛の痕跡は宮崎県日南市にしかない。

  • >>No. 5778

    >地元のお国自慢者らの「神話伝承地」推定造作での、
     伝承造りや、神社造りが沢山あった可能性もあるが

    日南市には神武の子・タギシミミを祀る神社があるが、創建が記紀上梓前なので造作はできない。

  • >>No. 5780

    >その「日南市には神武の子・タギシミミを祀る神社」というのがおかしい。

    実際にあるのだから、あんたがおかしいと言っても仕方ない。
    吾田神社 http://www.pmiyazaki.com/jinjya/agata_j/

    それより怡土にある神武関連の神社を疑え。
    例えば何神社があるのかな?

  • >>No. 5787

    >天武の「大和の史書製作命令」のはるか後であり

    そんなものを何で南九州の人間が知ってるのだ、どう考えてもおかしいだろ。

  • >>No. 5787

    間違えて投稿した。

    >内倉武久氏の「卑弥呼と神武が明かす古代」の162~169頁を自分で見てみな。

    面倒くさがらずに書けよ。
    どうせくだらないロクでもない神社しかないのだろw

  • >>No. 5793

     >説明するのも書くのも面倒であり、
     時間の無駄であるだけだ。


    はい逃げた~www

    トンヅラwww

  • >>No. 5799

     >高祖神社には、ニニギとヒコホホデミとタマヨリヒメを、
     >可也神社には、神武を、
     >飯石神社と三所神社は、御毛入野を、
     >木坂八幡宮には、稲氷命を、 
     >産宮神社には、ナルタ姫を、
     >細石神社や波多江神社には、コノハナサクヤ姫や磐長姫やウガヤフキアエズや玉依姫を、
     >志登神社には、ウガヤフキアエズの実母という海神の娘の豊玉姫を、
     >前原や志摩町の神社には、天照やイザナギや手力男たシオツチの翁などが祀られている。


    見事な糞神社ばっかりワロタwww
    全部の創建年代を言ってもらおうかw

  • >>No. 5804

    >知らんよ。

    創建もあいまいなクソ神社を根拠にしないように。
    それでいいなら日本で一番神武を祀ってる神社が多いのは熊本なのだから、
    神武は熊本かという話になる。

    以後、気を付けたまえ。

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