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投稿コメント一覧 (1053コメント)

  • >>No. 406

    2、<過去である><現在である><未来である>という三つのA特性は<変化>を表すためには互いに排他的でなければならない。

    これは三つのA特性が性質が異なることを意味します。pipitさんがおっしゃるように芍薬の花の種と咲いてる、と枯れるという三つの性質が異なることを意味します。これが変化を表します。

  • >>No. 407

    1、出来事は<過去である><現在である><未来である>という三つのA特性を持たなくてはならない。

    これはあるひとつの出来事が未来から流れてきて現在にいたりそして過去になる、という一連の流れの中で考えるとある出来事は未来にも属し、現在にも属し、過去にも属することになります。芍薬でいえば、咲いてる花が未来からやってきて現在にいたり、そして過去になる。ひとつの咲いてる花という出来事が三つのA特性を持っていることになります。三つの異なる性質を持つ変化と三つの同一の性質を持つ不変化とが矛盾することになります。

  • >>No. 408

    このことをたとえると、映像フィルムと映写機の関係に似ています。
    映写機に映し出されたある出来事は未来から移動してきて現在にいたりそして過去になっていく。そしてその出来事は映像フィルム上では固定して変化がないのです。
    ちょうど映写機からとりはずして映像フィルムだけをみるとフィルム自体は全体に変化がないのと同じです。
    B系列正確にはC系列になります。C系列がフィルムです。A系列はちょうど映写機の役割です。
    映像フィルム上の出来事は種<過去>、咲いてる<現在>、枯れている<未来>のそれぞれの出来事が三つのA特性を持っていて映写機でみれば変化ですが、フィルムでみれば不変化なのです。
    マクタガートは映写機であるA系列を主観的なものとして幻想とみなしたのです。変化のないC系列こそが実体なのだとしたのです。これは決定論的運命世界です。物理学者の多くが同様な見方をしているようです。
    カントの時間論とはずいぶん違う世界です。

  • >>No. 412

    同感です。カントの非決定論的世界を紹介しておきます。『純粋理性批判』から引用です。

    「時間はわれわれの内的直観の形式にほかならない。もし時間からわれわれの感性の特殊な条件を取り去るとすれば、時間という概念も消滅する。時間は諸対象そのものに属するのではなく、諸対象を直観する主観にのみ属するのである」(A37f,B54)

    それでは おやすみなさい。

  • >>No. 414

    こんばんは pipitさん 返信ありがとうございます。

    > 感性の特殊な条件、って何を指すのかな?

    「時間は、一切の現象一般のア・プリオリな形式的条件である」(『純粋理性批判』B50)

    実体でなく社会的約束事(ルール)としての内的直観の形式という条件がなくなれば、時間という概念(考え方)も消失するということだと思います。古代人の考案したルールは現代人の経験に先立って社会的に存在しているのです。

  • >>No. 415

    マクタガートはA系列とC系列の矛盾から、A系列を幻想としてC系列のみ実体として認めましたが、カントは逆にC系列の実体を否定してA系列のあり方を形式的に保証したのです。カントは最初からひとつの空間しか認めていないので、無数の空間であるC系列は否定せざるをえないのです。ひとつの空間の認識は永遠の現在を表します。事物の変化を映像フィルムの1コマ1コマのような空間で表すC系列ではなく、変化をひとつの空間内での出来事としてとらえたのです。変化後の過去は冷蔵庫のようにどこかに保存されているのではなく、まさに消滅するのです。
     変化前の未来は最初から実在しません。すべてが現在進行形で変化するのです。記憶あるいは記録を過去と規定し、予想あるいは予測を未来と規定することによってA系列を考案し、現在をある時点と社会的に定義して、A系列の連続体をB系列と定義したのです。それは古代人の農業生活を円滑にするための知恵でした。
     太陽の位置変化を基準に日時計が考案され、あらゆる変化を測るものとして社会的約束事(ルール)としたのです。
    それがア・プリオリの原点であり、直観の形式として定着したのです。

  • >>No. 417

    micaelさん はじめまして 返信ありがとうございます。
    すみません 舌足らずでした。

    時間はア・プリオリな形式とするのは、ア・プリオリは先験的なもので特に理由が存在するわけではないのですが、(理由づけするとア・プリオリが経験から構成されることになりますから)そこはあえて歴史的経緯を説明して掘り下げてみたいと思ったのです。むろん私の解釈です。断定ではありません。推測にすぎません。ア・プリオリな形式には歴史的・社会的な経緯があったとすることで時間の歴史との整合性を図ったものです。カントはほとんど説明していないので、あえて私が補ってみました。私の解釈ですが時間のア・プリオリな形式とは歴史的・社会的経緯からユングのいう集合無意識のように内面化したものといえるのではないでしょうか。厳密にはア・プリオリに理由付けはできないのですが、あえてやりました。
     時間は対象に属するのではなく、意識に内在するものというカントの考えは事実だとおもいますが、内在する理由を時間の歴史から推測したものです。現象は独立して存在するのではなく、関係性の中で存在するという考えが基礎にあります。飽くまで推測に過ぎませんので純粋なカント主義者からおしかりを受ける覚悟でやりました。

  • >>No. 419

    こんばんは pipitさん いつも返信ありがとうございます。

    pipitさんの解釈でいいと思うのですが、micaelさんからの異議申し立てがでているので断定は差し控えたいと思います。私は私の解釈が最善だと思うのですが、真実は物自体と同じでカント先生の不可知論のように正しい判断は保留しておきたいと思います。

  • >>No. 420

    こんばんは micaelさん 文献紹介を含め、反論ありがとうございます。

    文献が気になるので購入を予定しています。詳しくは読んでからということで。

    ただおおよその見当はつきます。物象化の概念はマルクス主義的唯物史観の立場ですし、時間論でいえば現代物理学の立場、すなわちマクタガートのC系列の認識に立っていると思います。私の立場といえばカントの不可知論的立場になると思います。しかしあえて、知的冒険はしてみたいと思います。
     たとえば私は唯物論者ではないのですが、唯物論的立場のフォイエルバッハの考え方は好きです。著書『キリスト教の本質』によると神とは「類」という共同体の本質が対象化=外化(疎外)したものだということです。換言すれば神は共同体の相互扶助の精神すなわち類が外に投影(疎外)したものだということです。疎外とは自ら造り出したものが自らを支配するという意味です。この考え方は「時間」にも応用できます。
     時間も共同体の約束事(ルール)として造り出されたものですが、やがて外に投影(疎外)されるようになり、あたかも時間が外に存在するかのように扱われます。C系列の時間が決定論的運命的世界観となって、私達から自由意志を奪い支配するのです。時間に支配されているのです。正しいかどうかはカント的立場からは保留することになりますが、しかし考え方としては成立していると思います。

  • >>No. 425

    micaelさん こんばんは たいへん長い返信ありがとうございます。

    「疎外」の問題は政治学上の文脈で語られることが多いですけれど、もともとは哲学上のテーマです。フォイエルバッハの『キリスト教の本質』は疎外をテーマにしたものですし、その土台の上にマルクスは独特な疎外論を展開しているわけです。おおもとはヘーゲルだと思うのですが、疎外論は哲学上の文脈で語られるのが順当だと思います。もちろん政治学的に発展させることもできますが、踏みとどまってもっと根っこのところで思考し、私のように時間論で展開したとしても許されるのではないでしょうか。
     マクタガートのC系列の時間がなぜ外に客観的に存在するかのように私達は考えるのかに焦点をあててみたのです。カントではひとつの空間しか認められていないのに、現代物理学は無数の空間を前提としたC系列が外に客観的に存在するかのようにみなしているのです。それはあたかも、フォイエルバッハが『キリスト教の本質』で展開したように神の本質がもともと共同体内部の精神であったものが外に客観的に存在するかのようにみなされるようになった経緯と同じではないか、と考えたのです。疎外された時間という認識です。
     ただしそれは断定ではありません。ひとつの考え方だということです。もしmicaelさんがC系列論者であれば、キリスト教信者が神を否定された時と同じ反発がでてくると思います。
     私は不可知論者ですが唯物論的立場もそうでない立場もどちらも否定できない立場です。どちらも間違いと断定できないのです。C系列を肯定する立場も否定する立場も受け入れるのです。ちょうどカントが第三アンチノミーで自然因果性と自由因果性のどちらにも軍配を上げなかったようなものです。

  • >>No. 427


    pipitさん こんばんは 返信ありがとうございます。おつかれさまです。
    >
    > 過去の経験と未来の推測なしで、運転は成り立たない。
    >
    > 意識は行くけど、その意識してるという現象自体は現在ですね。
    >
    > カント先生も、自分の認知を観察されたのかなぁ。

    過去の経験=記憶は過去に属するのではなく現在に属します。記憶は現在に存在し、過去と定義しているだけです。経験を通しての時間意識ではなく、現在の記憶を過去の経験と定義するア・プリオリな時間意識があるのです。あるいは記憶を過去の経験として構成するア・プリオリな時間意識が働いている。
     未来における予測もそうです。予測は未来ではなく現在に存在しています。それを未来と定義するア・プリオリな時間意識が働いているのです。現在青信号の時、現在に存在する赤信号の記憶を過去の経験として構成するのが時間意識で、ばらばらの記憶を時間の形式にしたがって整理し過去を構成するのです。
     ただその時間の形式は時計の針の位置変化に基づくのです。時計の針の位置変化がア・プリオリな時間意識を構成しているのか、あるいは逆にア・プリオリな時間意識が時計の針の位置変化を時間として構成しているのか。時計の針の位置変化はただの変化でしかありませんが、それを時間の形式として、あるいは基準として位置づけるア・プリオリな時間意識が最初から存在しています。
     問題はそれが最初から存在するのか、あるいは古代人の時間考案(その時点ではア・プリオリに基づく考案)が集合無意識となって伝承してきたものなのか、ということです。これは不可知の問題です。物自体同様わからないのです。どちらも成立します。個人が先か、社会が先かという問題かもしれませんが。

  • >>No. 431

    micaelさん こんばんは ご質問を検討してみました。

    図書新聞の最新版(2017年6月3日土曜日3305号)の冒頭に國分功一郎著『中動態の世界』の中でスピノザの自由の定義の解釈が次のように紹介されています。
    「自由は必然性と対立しない。むしろ自ら貫く必然的な法則に基づいて、その本質を十分に表現しつつ行為するとき、われわれは自由であるのだ。ならば、自由であるためには自らを貫く必然的な法則を認識することがもとめられよう」(262頁)
    聖書における「真理は汝を自由ならしめん」という名文句を思い出させます。真理=法則の認識が自由につながるようです。自然の法則(必然性)を活用するということと、活用しないという選択の自由が存在します。自然はさわらなければそのままですが、活用する(行為の開始者としての超越論的自由意志が働く)ことによって自然は何らかの変化を受けます。そのことによって選択の自由を得るのです。欲望や衝動という自然因果性(法則)を我慢するという行為によって我慢する、我慢しないという選択の自由を得ることができるのです。あるいは、フレミングの左手の法則という自然法則があります。活用しなければ自然状態ですが、活用することによってモーターになります。活用する、しないの選択肢を得ることになります。これが自由です。

  • >>No. 435

    カントの『純粋理性批判』の中の第三アンチノミーの中で正命題として
    「自然法則に従う原因性は世界の現象がすべて導来せられ得る唯一の原因性ではない。現象を説明するためには、そのほかになお自由による原因性を想定する必要がある」(B472)いわゆる自由因果性。

    「およそ自由というものは存しない。世界における一切のものは自然法則によってのみ生起する」(B473)
    いわゆる自然因果性。

    カントはどちらにも軍配を上げませんでした。

    時間論の系譜でいうとマクタガートのA系列の時間では過去・現在・未来の区分で未来は決定論的に存在するとみています。未来の出来事が現在に来てそして過去になっていくという三つのA特性において同一の出来事という不変化のものが時間には存在するのでA系列で示された変化は幻想で、不変化を表すC系列こそ実体としたのです。
     マクタガートにとって未来は既に存在するものであって決定論です。自由意志は存在しません。すべてがカントの自然因果性であり自由は存在していません。
     C系列は無数の空間で成立しています。ところがカントはひとつの空間のみ認めています。したがって過去や未来の空間は否定され、私達は決定論的運命世界から解放され、自由を保証されるのです。

  • >>No. 434

    pipitさん こんばんは pipitさんの自由解釈でいいと思います。

    それでは おやすみなさい。

  • >>No. 439

    micaelさん おくれてすみません。
    決定論と非決定論(自由意志)の対立はごくあたりまえの常識だと思っていますが、
    そうでないという考えもあるようです。その典型がヒュームです。

  • >>No. 441

    『ヒューム』(泉谷 周三郎著 研究社出版)によると
    「ヒュームは『人間知性探究』の第八章でも自由と必然について述べているが、そこで注目することは議論において使用される用語に正確な定義を与えれば、自由と必然のあいだには真の対立は存在しないと主張している点である」(132頁)
    「われわれは一般に『自由』という言葉によって『意志の決定にしたがって行為をしたり、しなかったりする能力を意味している」(同132頁)
    換言すれば、行為することと、行為しないことの選択の自由を意味する。
    ただヒュームによれば人間の行為が動機、気質、環境と恒常的に連接しているので自由は必然性に規定されている。

  • >>No. 442

    自由は自発性の自由(無理強いと対立するもの)と無差別の自由(必然性や原因の否定を意味するもの)と区別できない。前者の自由が最も普通に用いられて、われわれが保持したいと望んでいるものである。そこでヒュームは前者の自由と必然性が両立できることを主張します。いわゆる「やわらかい決定論」です。
    意志の自由に関する代表的見解としては宿命論、自由意志論(非決定論)、やわらかい決定論、かたい決定論があります。かたい決定論とは、すべての出来事は因果的に決定されているから、人間には選択の自由も行動の自由もないと主張する立場です。やわらかい決定論とはすべての出来事が因果的に決定されていることを認めながら、他人の強制や外的障害(刑務所の囚人など)がなく行為の決定要因が行為者の意志にあるとき、その行為を自由とみなす立場です。

  • >>No. 443

    次に私の見解です。
    人間の行為は動機、気質、環境と恒常的に連接しているので自由は必然性に規定されているというヒュームの考え方は一面的ではないでしょうか。確かに傾向性はありますが絶対的なものではありません。犯罪などで同じ動機であっても行動しない人もいるのはなぜか。あるいは動機の程度が大きくても耐える人がいる。確かに傾向性はあるけれども決定論的必然性ではないのです。むしろこの必然的傾向にさからって耐えることで耐える行為と耐えない行為という選択の自由を確保することができるようになるのです。
    人間の欲望や衝動はその傾向からカント自然因果性に属しますが、それを我慢することができることによって我慢する行為と我慢しない行為の選択の自由を得ることになります。あえていえば自然因果性の中に動機や気質、環境を含めて考えてもよいのではないでしょうか。

  • >>No. 444

    現実にはすべてが決定論的に決まっているとしたり、すべてが非決定論的に自由に行為することができるというどちらかの二者択一の世界ではありません。時には傾向性が強くて決定論的に動いたり、つまり人間の意志ではどうにもならない不可抗力の力が働いたり、あるいは不可抗力に見えたものが人々が協力して力を合わせることで克服できたりします。とにかくすべてが決定論的、あるいはすべてが非決定論的(自由)と単純に決め付けることはできないのです。ただ事実認識はそうなのですが、私がかかわる態度としてはやはり非決定論的自由を望むことになります。

  • >>No. 447

    micaelさん こんにちは けっこう歯ごたえのある反論ありがとうございます。

    ミクロの量子レベルでは観測問題(ハイゼンベルクの不確定性原理)から非決定論であるとみるならば、マクロの宇宙全体の物的基礎は量子であるなら宇宙全体のマクロの動きも非決定論的とみるのが常識的判断ではないですか。なぜマクロが決定論なのかわかりません。ある種の矛盾だと思うのですが。両立は不可能だと思います。

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