ここから本文です

投稿コメント一覧 (1889コメント)

  • >>No. 1739

    > > 異なる『天(パラダイム)』での表現です。
    > この世的な感覚とは、非連続です。
    > >ふざけているわけでも、テロリンさんをからかっているわけでもありません。

    >
    > 現代科学では、宇宙のビッグバンは繰り返されてるとの説もありますが・・
    >
    > 知識の理解ではなく、永遠の今を体験することは可能ですか?

    直観です。普通には、悟りというんでしょうが・・・。

    しかし、科学も根底は直観です。それを、知的に表現したのが、現在の科学的認識です。

    大地は、平らである。一定の範囲では、客観性があるといえば、ありますね。
    地球は、丸い。やはり、おなじですね。

     宗教的直観は、観察する主体がないという意味も含めた(直観したときそれがわかる)直観ですから、科学的直観とは異なる次元の世界が展開することになります。

  • >>No. 1742

    宗教的直感、少なくとも、大乗仏教的直感だと、『個』というものが解体してしまうんですね。
     茶碗。茶碗が解体するというのは、宗教的直感下では、茶碗が割れて見えるとか、粉々に砕けて見えるというのではないんです。そのまま、なにも変わらないで、茶碗という本質を持った実体というものは存在しない、というように直感的に感じられるということです。

     だから、地球がもし、水星の位置にあったら、この茶碗はないでしょう。
    すなわち、宇宙という一つのものがあるだけで、そのなかの構成物は一切全体なる宇宙から、切り離して(=抽出して=抽象して)独立のものとして取り出すことはできない、という感覚になるのが、宗教的直感です。
     その意味で、「個」が解体したら、どうなるかというと、「部分」になるんです。
    一なる全体としての宇宙の部分になるんです。
     それが、『諸法(一切のもの・現象)無我』ということです。『神が私たちと共にいる』ということです。
     部分はそれ自体、即全体なんです。すなわち、私たちの正体は、それ自体全体なる宇宙そのものであって、この肉体の輪郭線の内側ではないのです。
     手を包丁で切り落としたら、手ではなくなってしまいます。
    手は、体の部分です。部分というのは、全体から切り離して(=抽出して=抽象して)独立のものとして取り出すことはできないんです。そんほかわりに、即全体なんです。だから、茶碗を持とうとすれば(頭)、手が動くんです(心臓とも切り離せない、肩とも切り離せない)。
     この感覚の方向に宗教的直感の世界が開けます。

  • 2017/08/16 08:44

    >>No. 1746

    > >
    > > > 眼前にあるパソコンの物理的根拠は、本当に絶対ですか?
    > >
    > > 他の一切は、不変と仮定して、太陽と地球の距離を水星の位置にまで移してみます。
    > > 眼前の一切が、消失変化してしまいます。

    >
    > 水月さん、貴方は本当に自分で何言ってるか分かってますか?
    > もう少しマトモな人だと思ってたんだけど。

    マトモかどうかはどううでもいいんですが、そうでした、ちょっとわたしに問題がありました。ここまで書いたので、テロリンさんに申し上げておかなくては・・・。

    仏教でいう『空(くう)』は、「人空」と「法空」に分けられます。
    正当な禅のプロセスからいうと、「人空」から入るとのことです。
    私は、予期せずして「法空」の直感から、禅仏教に関係し始めましたので、少なくとも、正当な禅のプロセスの順番ではない認識の仕方をしてきました。
     ですから、ターボーさんの言われるように、マトモではないんです。
    私の申し上げたことは忘れて、ターボーさんの言われるほうにそって行って下さい。

  • 2017/08/18 14:26

    >>No. 1818

    > 水月さん、Fです。
    >

    こんにちわ。

    > 進歩ですね。びっくりしました。ちょっと見性したくらいの人にはわからないでしょう。
    > 実感ではなく直観なのでしょうが核心をついてます。直観は知識よりマシです。
    >
    > >宇宙という一つのものがあるだけで、そのなかの構成物は一切全体なる宇宙から、切り離して(=抽出して=抽象して)独立のものとして取り出すことはできない、という感覚になるのが、宗教的直感です。
    >
    > そのとおりですね。いつも宇宙と共に動くこと、それが悟りの世界です。
    > すべての人は悟っていますが、気づかないだけです。また悟った人というのも幻想です。
    >

     Fさんは、少なくとも私以上にこのあたりのことはおわかりだと思います。
     ただ禅宗が最初の悟り・・・しかも、これが、ある意味で最後の悟りとまでいわれる・・・は、これではないんですね。それは、悟りというとわかりにくくて、ある状態(不二一元で自意識がなくなった状態とでもいうのかな)になること、その結果として得られる直感とでもいったらいいのかな・・・私は、このことを言える位置にはいないんですが・・・・。

    > ちょっと意味不明の部分もありますが、全体的に納得です。水星とかの物理的位置はタダのたとえですね。

     そうです。勝手に地球だけ位置移動できませんから。
    ただ、こういうと感覚がつかみやすいかなという意味でのたとえです。

  • >>No. 1894

    たいへんなペースで書かれていて、驚嘆致しました。
    拝見しておりまして、実参実究されてきた方が語られる正法眼蔵というのは、こういうふうなことなのか、という点に、最も心が打たれました。
     加うるに、みなさんのお話しもたいへん感じるところが多く、読ませていただいております。

  • 受想行識が空じられていくのを、それと一枚になって、照見していくんですね。

  • >>No. 1959

    > (四十四)「般若波羅蜜十二枚、これ十二入なり」

    > もしあなたが「五蘊皆空と照見した」と言われるのなら「あなたがその眼で、今見ていることが般若ですか?  あなたが今その耳で聞いていることが般若ですか? 今その鼻で香を、今その舌で味を、今その身体で感触していること、そしてこれらをあなたが認識している心の働きそのことが般若ですか?」とお尋ねしたい。
    >

    この、今ここにある『当体のありよう』が、般若そのものであるということ・・・・。

  • >>No. 2028

    > ―「仮字(けじ)正法眼蔵」を読んで 41―
    >  
    > 畢竟、この命は得体の知れない大いなる者から、一時お預かりしているというか、お借りしているとしか思えないのです。

     完結、おめでとうございます、そして、ありがとうございます。
     十方三世、一切仏。

  • >>No. 2284

    > 普勘座禅儀を拝読して   12
    >
    > 『心意識の運転を停め念想観の測量を止めて作佛を図ること勿れ』

    聞くままに また心なき身にしあれば
    おのれなりけり 軒の玉水

    前に雲さん、書いて下さいました。

    ポタッ・・・ポタッ・・・ポタッ・・・

  • >>No. 2423

    カチーン・・・・・。

    >一撃前知を忘ず   更に自ら修治せず

    趣向する、すなわち、向かわんと擬したらまずいんですね。
    カチーンのただ一枚。

  • 2017/09/01 06:01

    >>No. 2466

    > ・・・・・
    > 死後は阿弥陀如来の極楽浄土に往生する・・・。 
    > ・・・・・

    『死後は』というのは、『諸法無我』の時節になりきった時は(=無我になりきったときは=自分がいない時節の時は)・・・ということでしょう。
     すなわち、、『諸法無我』の時節になりきったとき、始めて極楽浄土に往生するかどうかが開示されるということでしょう。
     その前提が現成しているか、その現成公案が問われているんじゃあないですか。

    『わたしは、戸口に立って、たたいている。私の声を聞いて戸を開ける者があれば、中に入って共に食事をするであろう。』(新約聖書・ヨハネの黙示録3章20節)

  • >>No. 2488

    > 普勘座禅儀 ヲ拝読して その 36
    >
    > 道元様は・・・親しく呼びかけられるのです。
    > 「願わくはそれ・・・」

    > この三昧こそ仏祖の命である・・・・。
    >
    > そうしてこの三昧道は「無相の相を相として、行きも帰るも他所ならず、無念の念を念として歌うも舞うも法の声・・・・」

    >・・・天然佛として個の者が今・此処に・斯くある・・・・
    >
    > 有難う御座いました  合掌

     『三昧こそ仏祖の命である』
     ・・・・ありがとうございます。
         こころより、頂戴いたします。
         受持いたします。

     合掌・・・・・礼拝・・・・・。

  • >>No. 2586

    > >  『三昧こそ仏祖の命である』
    > >  ・・・・ありがとうございます。
    > >      こころより、頂戴いたします。
    > >      受持いたします。
    > >
    > >  合掌・・・・・礼拝・・・・・。

    >
    > 単なる三昧じゃないんですよ。
    > 火の神様火を求む
    > 丙丁童子来求火
    >
    > ここが愚さんの決定的に足らないところ。
    > 体験がないから分からないんです。
    > 色々な我見を落として、三昧になれば悟りと同じと思ってる。

    丙丁童子来求火

  •  心無い妨害がありまして、お世話になっていた掲示板が
    予期せずして突然終了することになってしまいました。
     付きましては、残念ですが十牛図の一部までで、
    雲さんの講義をリンクさせていただくこともできなくなりました。
     御報告とともに、先方でも今まで拝見させて戴きましたことを
    ここに改めて深謝申し上げます。
     私は、こちらで講義を拝読させて戴きますので、
    引き続き宜しくお願い申し上げます。

  • 2017/09/10 06:54

    >>No. 2745

    > 第3 見牛 和頌 の2
    > この段の 第二句目は見性した内容を述べています。
    > 『六根門着々差うこと無し』・・・

    > 六根とは対象を認識する6つの器官【眼耳鼻舌身意】のことで、”門”とはその六根が出入りする所です。
    > ”着々”とは、碁の一手のことですから六根のどれをとっても作用する所・・・
    > ピタッ?ピタッ?と『差うこと無し』で、六根から入る姿は牛ならざる物はなく、
    > 畢境尽大地是れ一頭の大牛であるということです。
    >
    > このように尽大地が一個の大牛なれば、・・・・
    >
    > 『動用中に頭頭顕露す』(行住坐臥の上に一つ一つが丸出しになって現れている)・・・
    > ・・・個の者が見聞覚知するすべての上において、具体的に真実の自己が現れる・・・
    >
    > ・・・刹那刹那の見聞覚知するものはまさに””その物”であって他の何ものでもない・・・・
    > 「チュー!チュウ―!カァー!カァー!」
    >

     今まで持っていた・・・そして、今もそう感じられてしまう・・・自己イメージなどは、錯覚の自分なんですね。
      刹那刹那の見聞覚知する・・・まさに””その物”・・・「チュー!チュウ―!カァー!カァー!」・・・これが『牛』、すなわち、本来の自分なんですね。

    チュー!チュウ―!カァー!カァー!・・・チュー!チュウ―!カァー!カァー!・・・チュー!チュウ―!カァー!カァー!

  • >>No. 2841

    > > 今まで持っていた・・・そして、今もそう感じられてしまう・・・自己イメージなどは、錯覚の自分なんですね。
    > >   刹那刹那の見聞覚知する・・・まさに””その物”・・・「チュー!チュウ―!カァー!カァー!」・・・これが『牛』、すなわち、本来の自分なんですね。

    >
    > そのまま、何もしなくていいのですか?

     この問いは、第一義の問いであると思います。

    十牛図の講義の第一回目[2559]で、雲さんが『ノッシ!ノッシ!と千年一日の如く何処までも進んでゆく・・・・・これが禅修行のみに限らず行の根本となります。』という今後の進行のなかでも、自問され続けていく第一義の問いであると思います。

     ですから、私もテロリンさんと共に、現在この問いを共有しております。
    そして、この問いに対する答えを雲さんが、般若心経以下の講義でして下さっていることも、薄々は感じております。

     雲さんが明瞭に講義して下さっていても、『講義されている意味に置いて』そのままになかなか理解して受け取れないのが、不立文字の真相なんでしょう。はがゆいけれども、『ノッシ!ノッシ!』といかなければ、なかなかそれが受け取れない消息があるのでしょう。

     テロリンさん、お互い『ノッシ!ノッシ!』でいきましょう。
    私も、ゆっくり書いてまいります。

  • >>No. 1283

    カムイさん、水月です。
    若いんだから、気長に頑張って下さい。

    「坐禅」トピの、今最終段階に入っている『十牛図』の講義ですが、
    私は、たいへんすばらしい講義だと感じております。

    ご老人で、通し番号のふりかたや文章上の単純なミスがたくさん目に付くのですが、
    内容的にはすばらしい。私的には、お奨めです。

  • 雲さん、すばらしい迫力です。引き込まれてしまいます。
    今までで最高の十牛図の講義を受けている気持ちがしています。

  • 私も、手元のノートにしっかりコピーしましたので、
    今後、何度となく繰り返し反芻させて戴きます。
     私にとっては、当面得牛から牧牛あたりが身につけていかねばならない足下の課題ですが、更に後半にかけての盛り上がりの内容には、未消化ながら大いに心に響くものがあります。般若心経以降のお話しとも合わさりながら、全体的・有機的なつながりもふくらみます。
     貴重な講義をありがとうございました。更に続きの提唱・講義も楽しみにしております。

  • >>No. 2958

    > 水月 さん 60歳ころから約30年関わって来た老いの事柄の繰り言・・・
    > 良くぞ我慢してご覧いただきました。
    > 有難うございます。
    >
    > 頭の惚けないうちに書いて置きたいものは今の内にと、
    > パソコンを頼りに奮闘しています。

    とんでもありません。
    雲さんの魂がこもっていると言うんでしょうか、
    それも、全身全霊からあふれ出てくる内容を伴ったお言葉の迫力が
    すばらしいです。大切にいたします。

本文はここまでです このページの先頭へ