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投稿コメント一覧 (14049コメント)

  • >>No. 2438

    >ところで松下政経塾だが、貧乏人は入れませんね。

     ?前原誠司などは、母子家庭の貧乏人でしょう?
    野田首相にしても、自衛隊員のs子息ですから、富裕家庭ではないでしょう。

  • >>No. 15728

    >三国志は名著として名高く、写本は膨大な量が作られたでしょう。

     何の根拠も無い憶測です。4世紀といえば、戦乱の時代です。文運がやや回復するのは、『後漢書』などの出来た元嘉年間でしょう。

    >与えられなくてもたくさんあれば手に入れることは可能でしょう。特に北朝は記録を残していない。

     「たくさんあった」のは全くの憶測です。北朝の鮮卑出自の隋唐が史書を作成しましたし、北魏の後期には、漢化政策を採った皇帝が出現し、鮮卑姓を漢人風の姓に変えた利したのはmutouhaさんもご承知の通りです。倭国の朝貢が北魏にあれば、それこそ特筆大書した可能性が高いでしょう。

     三角縁新儒教について

    >日本国内の技法の差はありません。

    ?出来不出来の差が大きく、中国製や国産だとされた旧説での分類は、技法の差ではない、と強弁されるのですか?

    >箸墓のみの年代をグッと上げてきたのが畿内説です。

     何れにしろ、mutouhaさんのお説に従って、古墳築造年代を(特に近畿の古墳のそれを)下げすぎれば、大王級大古墳を現存するものだけ作る時間さえ捻出できなくなるでしょう。勿論、古墳時代の日本の国力〜人口や土木技術、統治体制など〜を通説以上に過大に見積もれば可能でしょうが、それはそれで、半島や大陸との関係でも矛盾が拡大します。古墳の開始時期は、遅れさせても半世紀が限界でしょう。

    >神武東征は五世紀。

     応神天皇や神功皇后説話と重ねあわされているのでしょうが、この話題はこのトピ向きではありません。今でも日本語とは関係ない話になっていますので、機会があれば他トピでお相手します。古墳時代南九州山間部の地下式横穴墓の分子人類学的データが少しずつ発表されており形態的に在来縄文系に近いとされたものが、渡来系弥生人のDNAを継承している可能性が出てきています(私が以前から言うように、骨の見た目の形態は、遺伝よりも環境要因が大きい、と言う事の証拠にもなるでしょう)。

    >紀年鏡が出ているのは畿内だけではないし、

     邪馬台国関連首長が、北九州中心ではなく、全列島的な存在であったことの証拠になります。

    >「この鏡を買うと出世できる」とか、
    >有り難そうな銘文を選んで購入したことでしょう。

     別に副葬品として入手するのに、工房職人のお勧め品を選んでも問題ありません。

    >三国志を知っている人ならば魏の年号入りをありがたがったかもしれません。

    前にも書きましたが、『三国志』の写本大量存在とその四〜五世紀列島流入説、更に列島内での写本流通や知識の共有など、何の証拠も無く、当時の情勢を考えれば全く無理な話です。
    むしろ、呉の年号である「赤烏」年号紀年鏡の存在を考えれば、列島内での卑弥呼など邪馬台国時代の記憶(狗奴国などが、呉に朝貢して下賜されていた事実があったのか、邪馬台国が首鼠両端を持して、呉とも交流していたのかは不明ですが)に基いている事は確かです。

  • >>No. 15732

    >もっと近いのがパプアニューギニア・シンキング・ドックでしょう。

     この犬種のmtDNAを、パーカーらが調べているのかどうかは不明です。

    >中東の犬はアジアから行ったんでしょうね。

     イヌが単系統(一箇所で家畜化された)のか、多系統(各地域で家畜化された)のかは、まだ決着がついていない問題です。mutouhaさんご引用の図からは、多系統的に考えないと、むしろ中東かインド辺りのオオカミからイヌが起源したと読み取れますね。

    >狼は飼い慣らされても狼でしょう。

     オオカミとイヌは、今や、別種ではなく、同じオオカミCanis lupusとして同一種とされています。
    「狼が飼い慣らされて」「犬になった」のです。勿論、狼の各地域の亜種の中に、家畜化しやすい系統が存在した可能性はあります。
    飼い慣らされた初期の狼は、形態的に、原種のオオカミと区別がつき難かったでしょう。形態の変化の前に遺伝子の変化は先行しているのです。生物学の常識では「ニワトリより卵が先」なのです。種分化の場合も、外見上の形態で、種が識別される以前に、分子遺伝学的に分化しているのが一般的です。

  • >>No. 15736

     トンデモ言語学投稿者は多いのですが、きちんとした比較言語学を学んだ言語学の素養の深い人が、トピに登場していないので、仕方の無いことかもしれません。私はきちんとした言語学者(国語学者モ含めて)のお説を拝聴したいのですが、語源俗解や駄洒落が多く、横を入れているうちに、話がずれてしまったのです。反省はしていますが、当面の反論を一応区切りをつければ、撤退する予定です。
     音声学にお詳しい藤井さんも議論に参加される様子は無さそうで、自説の著書の内容紹介だけのようですし。

  • >>No. 15742

     konatalosさん、お久しぶりです。
     新しい御著書でも出されたのなら、喜んで購入しますが・・・。

  • 2012/11/26 12:50

    >>No. 15743

    >後漢の滅亡寸前に「東テイ人が漢に朝貢した」という記録がある事をご存知ない無いのではないか?

     私もそのような事実は知りません。勿論、信頼性のある記録で無いとだめですが。森氏も当然知らなかったのでしょう。
    どのような史書に記録されているのか、お知らせ願えれば幸いです。

     東〈魚是〉人については、私も、森氏の〈魚是〉=〈魚夷〉説と、『三国志』呉書の夷洲遠征記事に加え、夷洲・亶洲の話から、夷洲は中南部九州だろうとの説を前に書いた事があります。

  • >>No. 15750

    >一塩基で何故多型になるのですか?
    連続した「数」が違う、という意味なのですか?

     どこかで、繰り返し配列(反復配列)の話をお聞きに也こんがらがったのかもしれませんね。

  • >>No. 15750

     ありゃ、ボタンを押し間違えて、途中で投稿してしまった。
     申し訳ありませんでした。

    >一塩基で何故「多型」になれるんですか?。

     核酸塩基三個で、一つのアミノ酸を、コードしていますが、その中の、例えば、ATGという並びの真中の「T」の位置に、他の塩基A,G,Cで置換されれば、それによって表現されるアミノ酸が変化します。つまり、これが「多型」であり、遺伝子型としては、最初の型が[T型]、他の型はそれぞれ「A型」「G型][C型」と表現されます。

     日本語の起源トピから全く無関係な話になってきていますので、今後はこの手の質問にはレスを返しませんのでご了解紀ダサい。
     適当なトピであれば、レスしますし、このトピ内では今の話題を可及的速やかに終らせましょう。

  • >>No. 15766

    >それでは、呉の年号の存在が説明できません。

     邪馬台国時代に、呉の紀年鏡が存在した事を示す事実ですが、当然これらの呉年号紀年鏡も、後代(古墳時代)の祭祀・埋葬用副葬品の性格は変わりません。出土状況その他、魏年号紀年鏡と変わらないのです(紀年鏡が少ないので、傾向を云々すると、個別的になり過ぎますが)。
    やはり、製造・頒布・出土は、畿内中心です。
    とすれば、邪馬台国後継・後裔勢力が、魏・呉双方の紀年鏡を、入手し配布した事になります。
     呉の「紀年鏡」のみ、呉系工人が商売で流通させた、と言う説明はできません。やはり、紀年鏡(の原型/モデルとなった鏡)は、呉が邪馬台国に、下賜したと考えるべきでしょう。この場合、邪馬台国が首鼠両端を持して、魏・呉双方と同時に朝貢した可能性もありますが、年号の相違を考えると、卑弥呼の跡に自立した男王が呉に朝貢した可能性を考慮すべきでしょう。で、親魏派諸国が反発し、内戦状態となったが、卑弥呼の宗女を共立する事で、落着した。この場合、男王の消息が何も書かれていないのが、男王は粛清されずに、大倭王の地位から降りて、基の共立産科倭人諸国約30ヶ国の一つ(多分邪馬台国)の王(のみ)に戻ったらしい事を窺わせます。
     黄流二年(230年)の衛温、諸葛直の夷洲討伐は、九州南部への呉の軍事行動だと考えられますが、呉は強力な水軍を持ち、また、後に公孫淵とも結び、或いは彼が裏切ると高句麗と組もうとするなど、半島情勢にも通じていました。当然、会稽郡の倭人情報も持っており、半島方面からの倭人諸国情報をも入手したのであれば、夷洲征討失敗後に東夷に対する招撫策を講じた可能性があります。公孫淵が呉の味方であれば、その勢力圏を尊重するでしょうが、反逆したとなれば、高句麗のみならず、倭人にも工作したでしょう。韓族の様に小国分立状態ではなく、纏まっているのであれば、倭王の封冊ぐらいは、呉としても当然考えることでしょう。

  • >>No. 15768

    >ウソを付いてはいけない。
    紀年された年号は、呉の年号が先行し、景初3年から魏の年号に変わったんだよ。
    「ほぼ同じ年代」ではないよ。

     現存する紀年鏡が全てである、と言う仮定が正しければ、そうも言えますが、呉の赤烏年間(238〜250)には、魏の青龍・景初・正始年間(233〜248)を全て包含しています。倭と魏は、公孫氏の滅亡時まで、交流を持てなかったが、燕(公孫氏)と呉は、列島の倭との交流を持つことは可能でした。朝鮮二郡が魏の手中に帰しても、呉は列島の倭との交流は可能でした。

    >列島が、独自に、呉の紀年の鏡や、呉の神獣鏡や、三角縁を発明する事など有り得ない。

     巨大銅鐸や武器形祭器(これも大きい)を国産した列島の倭の技術力を、低評価し過ぎだと思われますが、「呉の紀年鏡」の件については、同意します。「呉の神獣鏡」については、既に漢代の「画像神獣鏡」の存在からその紋様は、列島の倭人も目にしていた可能性があるでしょう。「三角縁」については、これが技術的に高度なもので、列島の当時の技術水準でコピーし得たか否かの判断は、技術史の本に当たらないと判りませんが、古墳時代の副葬品として現れる4世紀に可能であれば、三角縁神獣鏡大半(現存遺物殆ど全て)国産説(魏・呉の紀年鏡も含めて)の私としては、技術者の渡来・国外脱出説よりは、私の論法のほうが、優れていると考えます。人口不足時代に貴重な工人を流出させる?アメリカからテロが怖いので、IT技術者がパラグアイに逃げるようなものです(パラグアイ人の方がいれば、ごめんなさい)。

  • >>No. 15769

     「海東」について、
    zarakokuさんは、これが飽く迄も列島を指すと主張しておられますが、満州に建国したツングース系の(高句麗遺民を称した)「渤海国は、隋・唐の時代に「海東の盛国」といわれました。

     この場合の「海」は、渤海湾です。
    満州は勿論華北と地続きです。
    これだけで「海東に浮由」の「海東」を、半島やその北部の遼東半島に求めるのが正しい事が判ります。

  • >>No. 15770

     『晋書』の東夷伝の記事が簡略で、帝紀の記事も同様ですが、「冊封」のような重要事は、当然帝紀に記載されます。出先の郡に献見した程度とかであれば、簡素な記事になります。高句麗長寿王は、晋の安帝時に冊封されて、記録されていますが、『晋書』倭人伝では、『三国志』倭人伝の記事を引き継いでいますが、、朝貢記事は、卑弥呼から司馬昭の時代まで、朝貢していたとしています(勿論、まだ三国の魏の時代です)。で、その後が、晋の初代皇帝武帝司馬炎の泰始年の入貢記事ですが、この時に叙爵したかも倭人伝からも、『日本書紀』引用の晋起居注からも不明です。
    以後の倭人朝貢記事はありません。

  • >>No. 2443

     在日韓国人の焼肉屋のオバさんか何かの世話になっていたぐらいですから、決して浮遊ではないでしょう。

  • >>No. 2440

     松下政経塾の基本理念が、おそらく戦前の河合栄治郎の保守リベラルの理念が、主なイデオロギーになっているからでしょう。
    大企業中心の戦後体制肯定です。
    経済至上主義の路線にも近いところがあるが、基本的には、戦前の日本の正統保守のやや左に位置し、反共産主義・親英米路線を採る。
    左翼からの偽装転向自称リベラルでは無いが、アメリカの占領史観は基本的に受け容れる。

     間違っても戦前の日本浪漫派や重農主義者ではない。つまり、田舎や農村にシンパシーは無い。
    軍国主義者ではなかった河合の系統が、社会主義者・共産主義者との対抗の為に、重用された。占領軍にも、吉田茂系にも。

  • >>No. 15774

    >この図はアジアで生れた犬に中東で狼の血が混じった事を表しているのですよ。

     東アジア(東北アジア)の犬が図示されていないので、良く判らない点がありますが、「wolf」は文句無しに、タイリクオオカミでしょう。タイリクオオカミは、欧州、朝鮮、アメリカ草原オオカミ、シベリアなど諸系統がありますから、インド・中東のグループをどう分類するのかも問題です。ドールはイヌ科ではあるものの、(タイリク)オオカミやイエイヌとは異なったドール属であり、イヌ属ですらありません。セグロジャッカルも、タイリクオオカミとは別種です。ディンゴのみが、タイリクオオカミの亜種とも考えられますが、この図のみからでは、オオカミに最も近いところで分岐しているのは、中東のイヌです。東南アジアのイヌに、別属のドールや、別種のセグロジャッカルの血統が混じったという図です。
    原文を読めば、他地域の犬種のことなどが書いてあって、mutouhaさんの言う様な解釈が成立し得るのかもしれないが、図だけでは、従来のイヌ属の分類からは、むしろ、中東のタイリクオオカミと中東のイヌが近く、東南アジアの村落犬は、地元のDingo、セグロジャッカル、ドール(アカオオカミ)と混血してその血統が入り込んでいる事を示すが、中東のイヌよりも家畜化が古かったり、その祖先であるなどとは、言えません。
    Dingoが、イエイヌの祖先になったと言うのであれば、東南アジア起源説も成立し得ますが、結局、イエイヌの祖先である可能性のあるイヌ属の全ゲノムを読み取らないと、結論は出せそうに無い。それまでは「アジア」起源(中東〜西アジアも、アジアの内です)と言う曖昧な表現にならざるをえない。中国起源説の場合は、チベットオオカミ(タイリクオオカミの亜種の一つ)が。イエイヌの共通祖先とされていたように思います。

     次世代シーケンサーで、各地のオオカミ、イヌ属の各種ジャッカル、所謂野生犬などのゲノムを早く調査しなければ、家畜犬との交雑が進行し、益々ややこしくなります。何れにしろ、分子系統学で決定するしか方法やありません。

  • 2012/11/26 20:41

    >>No. 15776

    >実際に受ける評価と、本人が受けたい評価とは別物です。
    曹操も儒教の礼節を知る人物と評価されたかったでしょう。

     その可能性は十分ありますが、後漢末は人物評価が盛んに行われ、天下にその人物評が流布盛行していた時代です。曹操は、そのような人物評価の網の目からも、外されそうな「宦官の末裔」だったのです。で、人物評価で有名な許劭に交わりを求め、「治世の能臣、乱世の姦雄」の評価を得たのです。
     曹操もそのあたりが判っていて、若年の時は不品行で有名だった。

  • >>No. 15778

     『後漢書』の李賢注で、范曄が『東観漢記』に主に拠った事は、証明されています(李賢の注釈時には、勿論『東観漢記』も『三国志』その他もあった)。

    >陳寿原本と同じには、なるもんか。

     「刊本」『三国志』を「陳寿「原本」」などと、全く何の根拠も無いのに、思い込むような論理性欠如のzarakokuさんとは、これ以上の議論は全く無駄ですね。
     原本⇒写本?⇒・・・・⇒刊本の基になった写本(何回目の写本か不明)⇒刊本、の流れぐらいは、せめて理解できないようでは、まさに狂信者以外の何物でもありません。
    『陳寿原本』がそのまま、12世紀の刊本になった?紙の本がそんなに長持ちしたと?はっ、非科学的ですね。どう短く見積もっても、陳寿の書いた時期と、初回刊行された宋の時代とは、7・800年は経過しています。
    原本であり得ないのであれば、校勘が重要であるのは当たり前。校勘は全て「後代」に行われるものです。
     わけのわからない「後代の考えだから無効だ!」連呼しても、校勘がわかっていない無智さ加減を晒すだけですよ。

  • >>No. 25521

    >いや、常陸風土記は、九州の倭国本家の倭王武の伝承と古事記の小碓命の伝承をミックスした伝承を持っていたんでしょう。

     成る程、九州王朝の倭王武が、常陸国まで遠征して、国見をしたと?
    アホらしくて、反論する気にもならないですが、古田氏も稲荷山鉄剣銘の解釈では、「関東にも大王がいた」とされていたのでは?さすがに北九州から常陸まで遠征したとは、古田さんは考えなかった。
    その後、説を変えられたのかな?

  • >>No. 2452

     ナチスの前から、ドイツは国防軍ですよ。
     プロイセン陸軍の継承者だったドイツ国防軍は、しばしばオーストリア人の伍長ヒトラーの冒険主義を嫌い、クーデターでこれを排除しようと考えたが、その度にヒトラーの外交が成功して、ラインラント進駐、オーストリア併合、ズデーテンラント回復とチェコスロヴァキアの分割などの成果が上がった為、計画を中止した。シャイラーだったかの『ドイツ第三帝国の興亡』に詳しい。

     「自衛隊」の名称はなんとも中途半端で、まだしも「国防軍」の方がましのように私には思えます。「自衛軍」と言うのもちょっと消極的な印象を受ける。「国防軍」が不可なら「日本国軍」略称「国軍」か。

  • >>No. 25582

     まあ、九州王朝狂信者に何を言っても無駄とは思いますが、
     そもそも、「東海姫氏国」と言う「野馬臺詩」の表現に強い違和感があった。と言うのは、「姫」姓ではあっても「姫」氏では無い事は古典に通じた中国の文人であれば、一目瞭然であるはずだから。
     従って、あの「百王の後、猿犬の両雄が現れる」と言う応仁の乱後に
    一挙に人口に膾炙することになった回文様詩文は、後世の中国人でも特に無学な連中が作ったのか、或いは詩の韻文の関係ででもあったのか?と考えていた。そうでなければ、そこそこの文人であれば、「東海姫『姓』国」とするか或いは「東海『呉』氏国」とでもすべきだろうと思われるからだ。但し、春秋時代の呉が、姫姓の周の一族周章(この時点では、姫姓の周の一族として、章は、祖先の出身地周原に因んだ「周」氏を称していた事になる)の子孫である事を認めたとしても(異姓であって詐称説もある)、西周・春秋(戦国時代初期も?)の時代は「姓」の中から「氏」が分立してくる時代であった(「姓」は変わらない)。、「氏」は封建されて封邑を得るごとに、その邑の名を「氏」の名として分岐したり、或いは職掌名・官職名に因んで、「氏」が生じた時代だ。
    大半の「氏」の名は、地名と関係する(祖先の与えられた封邑など)が、司馬氏、中行氏のように職名起源のものや、或いは公孫氏のように、身分の名が「氏」の名になった例もあった。漢の宗室「劉」氏は、春秋時代の「晋」の卿・大夫階級の「士」氏から出て、士会の時に、封邑の名に因み「范」氏となり、その秦への亡命後、晋に戻った者と秦に残ったものに分かれ、後者が「劉」氏になった、と称している。
     呉の場合は、王家の姓は自称「姫」姓だが、「氏」の名がはっきりしない。春秋時代の北方の大国晋は、明白な姫姓だが、公室の「氏」ははっきりしない(おそらく周王より直接封建された諸侯は、「姓」のみを称したのかもしれない。足利氏でも新田氏でも朝廷に対しては「源」姓のみを称するようなもの?)が、その一族で封邑を与えられたものは、直ちに、「氏」を称する。「三晋」の1つで戦国七雄の一「韓」の「氏」は勿論「韓」氏であり、初代の韓万の兄が「晋」公と言う事とになる。同じ三晋の「魏」の王室は「姫」姓で「魏」氏、「趙」の王室は「秦」と同じ「エイ」姓で「趙」氏だ。
     呉王夫差が自殺後、その支庶が列島に逃れたとすれば、かれらの「姓」は「姫」姓であるが、「氏」の名は当然異なっているはずだ。「呉」国の子孫を強調したいのであれば「呉」氏は有り得るが、「姫」氏はあり得ない。周に封建された諸侯の半数近くが「姫」姓だからだ。

     以上のような疑問があったのだが、mkpoさんの調査・報告から、「東海姫氏国」の表現が、中国に無かったとの事で、長年の疑問が氷解した。
    つまり、「東海姫氏国」は日本で生れた後代の偽称という事になる。

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