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投稿コメント一覧 (76コメント)

  • >>No. 24242

    ピタリ解けたそうでおめでおうございます。ところで邪馬台国は今の地名でどこですか。

  • >>No. 24246

    久留米の山本地域というのは東が海の卑弥呼の女王国のことですか。東が海というのはどこの海ですか。

  • >>No. 31198

    何を遠慮することがあるものか! 失敗は成功のもと。七転び八起。塞翁が馬。ただ、書き込みをする以上、他人が読んで判るように書いてくださいね。

  • >>No. 24249

    だれに質問しているのか判らないよ。私かい?私なら回答しておくよ。魏志倭人伝。

  • >>No. 31203

    水野祐著、日本古代の国家形成、講談社、1967年、ふるーい本なので、古書店に百円で買えるのではないでしょうか。読んでみてはどうですか。

  • >>No. 24251

    女王国がどこにあったかはいろいろ考えられているが、ある人は北海道の渡島半島にある八雲の地であり、東に内浦湾という海を挟んで室蘭という土地がある。ここは近くで国宝の土偶が出土しており、ヤマトの主砲が作られた土地でもある。
    また、ある人はいう。女王国は津軽半島にあり、東は陸奥湾という海に面しており、その先に下北半島という陸地がある。彼らはすでに米作を行っており、三内丸山の子孫であろうと考えられる。

  • >>No. 203956

    帯方郡以南に使われてきている里の一箇所の例外というのは、「倭の地を参問するに‥‥‥‥‥‥‥‥‥周旋五千余里ばかりなり。」の部分の五千里が標準里であるということである。もしこれが短里であるとしたら、おかしな事になってしまう。対馬―壱岐-末盧国-伊都国―奴国とめぐって再び対馬に帰ったとしたならば、これだけで周囲五千里を超えてしまう。邪馬台国や投馬国や狗奴国が倭の地からはみだしてしまう。だからここは短里ではないのである。
     当時の中国では中国の大きさを東西九千里、南北三千里、又は方六千里と言っていたので、いずれにしても周囲二万四千里となる。
    「周旋五千余里ばかりなり。」を五倍に誇張すると「周旋二万五千余里ばかりなり。」となり、結果
             倭地 > 中国    になってしまう。
    うそを書くとどこかで辻褄が合わなくなってしまうのだ。
     現代の我々は地理を知り、距離も知っているので帯方郡以南の里が短いということは解っているけれども、古代の人たち、なかんずく、中国人学者にこの認識はなく、この里を標準里と考えていたはずである。

  • >>No. 24253

    東南渡海ではなく東渡海だから国東半島が渡海の起点だろうというと、
    国東半島(東)伊予灘(東)愛媛県となり、國皆倭種は四国であり、本州にはなりません。
    また、女王国(邪馬台国)は有明海沿岸だというと、
    島原半島(東)有明海(東)熊本地方となり、これならありえないことではなく、宮崎康平氏の説と同じとなりましょう。

  • >>No. 24241

    土佐日記のことをもう少し詳しく書きましょう。三世紀の魏志倭人伝の時代から七百年ほどあとの平安時代に土佐守であった紀貫之が任を終えて土佐から都に帰る海路日記が土佐日記である。この経路は土佐の国府から出発して、室戸岬を回って、紀淡海峡を通り、大阪までの海路である。この航海の平均速度は9.4km/日であり、港に停泊していた日数を除外した速度は28.2km/日であった。土佐大津から室戸岬を回って日和佐までの外洋では28日を費やして6.2km/日、阿南市答島から難波河尻までは8日で21.1km/日と大きな違いである。外洋と内海との差は歴然としていますが、それでも日本海より太平洋の方が航行しやすかったのではと思われます。季節は12月20日すぎといいますから、極寒の時期にあたり、忠臣蔵の討ち入りの日を思い起こせばいいでしょう。

  • 西暦227年、宛に駐屯していた司馬懿仲達は、上庸の孟達が離反したと知って、みずから軍勢をひきい、夜を日つぐ強行軍で、一千二百里の道のりをわずか八日間で踏破した。
     1200(里) x 0.434(km)= 520.8(km)
     520.8(km) ÷ 8(日)= 65.1 (km/日)
    重い鎧兜をつけ、武器を携えての速度である。

  • >>No. 204565

    >当時は自給自足の生活ですから一人当たりの消費カロリー(2,000kカロリー)から逆算すると、約100k㎡の平地が必要になります。<

    これはどうやって計算するのでしょうか。途中の計算の詳細をお教えください。

  • >>No. 24336

    三国志魏書明帝紀に 太和元年(西暦227年)十二月、新城太守の孟達が反乱をおこしたのでヒョウ騎将軍の司馬宣王に詔勅を下して討伐させたと書かれている。宛に駐屯していた司馬懿仲達は、上庸の孟達が離反したと知って、みずから軍勢をひきい、夜を日につぐ強行軍で、一千二百里の道のりをわずか八日間で踏破した。
     1200(里) x 0.434(km)= 520.8(km)
     520.8(km) ÷ 8(日)= 65.1 (km/日)
    重い鎧兜をつけ、武器を携えての速度である。
    上庸は漢水の上流で、流れにそった道をさかのぼってゆかねばならず、途中流れを渡らねばならない場所もある。冬十二月に平均速度65kmを8日も続けるという悪条件のもとでなければ、一日88kmも難しいことではないでしょう。

  • >>No. 24338

      驃騎将軍というのは二品の将軍号であって、馬とは関係がありません。将は当然馬に乗っているけれども、主力は歩兵です。軍勢は一体となって行動しなければなりません。歩兵が遅いからといって置き去りにすることはありません。一般的に軍隊の速度は歩兵の速度です。

  • zarakokuさんはどうして景初二年が正しいと考えるのですか?
    その根拠を教えてください。景初三年では何か不都合があるのですか

  • >>No. 204814

    「書いてあるから」が根拠ですか。相手方も「書いてあるから」と言っています。これでは水掛論になりますね。
    中学校の教科書には239年(景初三年)と書いてあります。高校の教科書は見ておりませんが、大学受験参考書には239年になっておりますから、多分、高校の教科書も239年に成っているでしょう。
    239年が定説のようになっていますが、これは間違いだと私は考えます。なぜ238年(景初二年)が正しいかを多くの人が納得する説明をお願いします。

  • >>No. 204829

    「 写本版本の方が信頼性が高い、という事は、人類の常識です。」と
    いうのが返事の二箇所に出てきます。立派な御信仰をお持ちですねと
    しか言いようがありません。
    古田教の大信徒zarakokuさん 山田宗睦大僧正はお元気ですかね。
    御教祖さまはあなたの書き込みによるとお元気のようですね。
    私はあなたのいう○○○な近畿論者ではありません。近畿論者は場所を近畿に決めて、それにあわせて南を東に変えたりしています。古田教でも場所を前原に決めて、それにあわせて色々と解釈しています。結局同じことをやっているのではありませんか。歴史の勉強は事実を追求すべきであって、イデオロギーを持ち込むべきではありません。景初二年問題をだれか書いてくれませんかね。

  • >>No. 24425

    平安時代の東海道は道路が未整備で通行に大変な時間と体力を要した。鎌倉幕府が成立してからは、東海道の道路整備が行われ、旅行が容易になり、時間も掛からなくなった。この辺の事情を中世三大紀行文といわれる海道記、東関紀行、十六夜日記に見てみよう。
    海道記:作者不詳。京都から鎌倉に下り、さらに帰京するまでが書かれている。京から伊勢路をとり、尾張に到り、箱根は越えずに足柄まわりで鎌倉に入っている。距離は約百三十里で十五日を要した。
    その速度は一日34キロになる。
    東関紀行:作者不詳。京都から鎌倉に赴くまでが書かれている。京から近江路を通り、東海道を箱根越えして鎌倉に入っている。距離は約百二十五里で十二日かかった。その速度は一日40キロである。
    十六夜日記:作者は阿仏尼。驚くべきは五十才を越えた、当時としては高令の女性であった。京都から鎌倉までのコースは東関紀行と同じ近江路、箱根越えであった。距離は約百二十五里で十四日かかった。その速度は一日35キロである。
    近世
    にはごましおさんが示した例の通りでしょう。

  • >>No. 24457

    「また一海をわたること千余里で、末盧國国につく。四千余戸ある。山海にそって居住する。草木が盛んに茂り、歩いてゆくと前の人が見えない。」(魏志倭人伝)
    この場所は現在の筑肥線の虹の松原のあたりと思われる。鏡山と海との間の芦原だったのでしょう。
    「今は武蔵の国になりぬ。ことおかしき所もみえず、浜も砂子白くなどもなく、こひぢのようにて、むらさき生ふと聞く野も、蘆萩のみ高く生ひて、馬に乗りて弓もたる末見えぬまで、高く生い茂りて、中をわけゆくに、たけしばという寺あり。」(更級日記)
    更級日記というのは菅原孝標の娘が書いた、父の任地上総の国府(現在の市原市)から京都までの道中日記とその後を書いた話である。この一節の場所は現在の東京駅の付近でしょうか。千葉の方から来て、後に江戸城となる微高地と海との間を通って、たけしばという寺(現在の東京都港区三田の済海寺がその跡という)に着いたというのである。これは魏志倭人伝よりも八百年以上後のことではあるけれども、両者ともに道路未整備な状況がよく表現されている。魏志倭人伝の陸行の速さは分からないけれども、更級日記の場合は上総の国府から京都までの距離と費やした日数が分かるので速度を算出することが出来、それは6.9km/日であった。これから推測して、魏志倭人伝の陸行の速さもこんなものだったのではないだろうかと考えられます。

  • >>No. 31207

    「ヤマトタケルは全国をまわった後、ほら吹き山で病をえて天国に召されました。天国で金さん、銀さんと会い、銀さんから名前をかりて現世に戻りました。今後ともよろしく。」と申しております。

    魏志倭人伝【完全誤訳】はすばらしい。まだまだ足りないのでどんどん書くとよいですよ。

    大信徒ザラさんの信仰心は他には真似が出来ませんね。信仰心に勝るものはありません。

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