-
No.36184
韓国陸行は危険か? 危険である…
2014/02/07 16:50
韓国陸行は危険か? 危険である。
古代に於いては道路が未整備である。陸路は郡よりソウルに出て南漢江をさかのぼり、分水嶺を越えて、洛東江の上流から下って、金海付近の狗邪韓国に至る。問題は道路ばかりではない。三韓自体が多数の小国の分立状態で、大きくて一万戸というから、邪馬台国七万戸、投馬国五万戸と比べて小さい。道路はこれらの小国を貫いて続いているのであるから、それぞれの国から通過の許可を貰わなくてはならない。通過の許可を貰えない時もあるだろう。そのときは兵を用いるかい? 晋書によれば、帯方郡の戸数は六千ばかり、常備兵力は七百五十ぐらいだろうから、つけてやれる兵力は二十ぐらいでしょう。兵数が多ければいいというものでもない。余計なかんぐりを受けることもあるでしょう。郡より狗邪韓国まで陸路六千里(短里)を歩くのは無理である。なお、短里と書いたのは長さ87メートルくらいで、当時の公式的な1里の長さ434メートルの5分の1ほどと考えられる。
なによりも魏志倭人伝に海路をとったと書いてあるのを信じても問題はないと思う。
韓国陸行は危険か? 危険である。
古代に於いては道路が未整備である。陸路は郡よりソウルに出て南漢江をさかのぼり、分水嶺を越えて、洛東江の上流から下って、金海付近の狗邪韓国に至る。問題は道路ばかりではない。三韓自体が多数の小国の分立状態で、大きくて一万戸というから、邪馬台国七万戸、投馬国五万戸と比べて小さい。道路はこれらの小国を貫いて続いているのであるから、それぞれの国から通過の許可を貰わなくてはならない。通過の許可を貰えない時もあるだろう。そのときは兵を用いるかい? 晋書によれば、帯方郡の戸数は六千ばかり、常備兵力は七百五十ぐらいだろうから、つけてやれる兵力は二十ぐらいでしょう。兵数が多ければいいというものでもない。余計なかんぐりを受けることもあるでしょう。郡より狗邪韓国まで陸路六千里(短里)を歩くのは無理である。なお、短里と書いたのは長さ87メートルくらいで、当時の公式的な1里の長さ434メートルの5分の1ほどと考えられる。
なによりも魏志倭人伝に海路をとったと書いてあるのを信じても問題はないと思う。 -
No.23968
標準里と短里 長さは肘から手…
2014/05/05 15:23
標準里と短里
長さは肘から手首までを一尺とするのを基準にして決められてきた。これは母指と中指を開いた長さでもある。周尺は約20cm、後漢では23cm、魏晋24cm、この後も長くなる傾向にあるとはいえ、人間の体を基準としている以上そんなに大きく変わることはない。この尺の十分の一が寸(指の幅にほぼ等しい)、六尺が一歩、三百歩が一里である。従って周代の里は約360m、後漢では約410m、魏晋では約430mが標準的な里となる。
三国志魏書の東夷伝を読むと二種類の里が存在するのに気がつくでしょう。一つは楽浪郡以北に使われている里で、遼東―楽浪間の千里、遼東―高句麗間千里、玄菟郡―夫余間千里、夫余―挹婁間千里等の標準的な里である。これに対して帯方郡以南では一里が明らかに短い。長さが5倍に誇張されている。これは帯方郡以南に一箇所の例外を除いて一貫して使われてきているので、これを短里とよぶと便利である。
標準里≒5×短里
中国の里は周代以降三千年にわたり、450m±30%の範囲に収まっていて大きく変わることはなかった。もちろん、誇張したものを魏晋朝が公認したという事はありえないと思う。 -
No.23993
高句麗と公孫氏
2014/05/26 16:55
姓は高、名は朱蒙、高句麗の伝説上の始祖で、大卵から生まれたそうです。漢の武帝が置いた半島の四郡の一つ、玄菟郡に高句麗県というのが漢書地理誌に出てきます。遼東の公孫氏とは敵対関係であり、司馬懿の公孫淵討伐に高句麗は軍勢を出して応援しています。
-
No.194307
標準里と短里と四千里の征旅
2014/06/06 17:38
長さは肘から手首までを一尺とするのを基準にして決められてきた。これは母指と中指を開いた長さでもある。周尺は約20cm、後漢では23cm、魏晋24cm、この後も長くなる傾向にあるとはいえ、人間の体を基準としている以上そんなに大きく変わることはない。この尺の十分の一が寸(指の幅にほぼ等しい)、六尺が一歩、三百歩が一里である。従って周代の里は約360m、後漢では約410m、魏晋では約430mが標準的な里となる。
三国志魏書の東夷伝を読むと二種類の里が存在するのに気がつくでしょう。一つは楽浪郡以北に使われている里で、遼東―楽浪間の千里、遼東―高句麗間千里、玄菟郡―夫余間千里、夫余―挹婁間千里等の標準的な里である。これに対して帯方郡以南では一里が明らかに短い。長さが5倍に誇張されている。これは帯方郡以南に一箇所の例外を除いて一貫して使われてきているので、これを短里とよぶと便利である。
標準里≒5×短里
中国の里は周代以降三千年にわたり、450m±30%の範囲に収まっていて大きく変わることはなかった。もちろん、誇張したものを魏晋朝が公認したという事はありえないと思う。
洛陽―遼東間が四千里、洛陽―長安間が千里というのは当時の知識人にとって常識だったでしょう。公孫淵討伐という四千里の征旅には莫大な費用がかかり、費用対効果は大きくない。
「孫子はいう。およそ用兵の法は戦車千両、荷車千台、武装兵十万、千里のかなたに食料を送るときは‥‥‥‥‥‥‥‥もろもろの費用は日に千金を要して、初めて十万の軍隊が整う。」
結論をいうと、費用が掛かり過ぎると言うのは正論なのである。 -
No.201527
(大阪府の)堺市にある仁徳天皇…
2015/04/06 16:28
(大阪府の)堺市にある仁徳天皇陵と、羽曳野市にある応神天皇陵との距離は11キロメートル。
その同じ直線上にある崇神天皇陵と応神天皇陵との距離は
ちょうどその二倍の22キロメートル。
さらにその直線をはるかに東に伸ばした線上にある伊勢神宮の古社地まで、
仁徳陵から110キロメートルある。
お気づきのとおり、すべての遺跡間の間隔が全部440メートルの倍数に
なっている。
11km ÷ 440 = 25里
22km ÷ 440 = 50里
110km ÷ 440 = 250里
の地点に建設されたということであって、お分かりのようにすべてが里を使った測量遺跡だったのである。 -
No.24142
• (大阪府の)堺市にある…
2015/04/07 17:23
•
(大阪府の)堺市にある仁徳天皇陵と、羽曳野市にある応神天皇陵との距離は11キロメートル。
その同じ直線上にある崇神天皇陵と応神天皇陵との距離は
ちょうどその二倍の22キロメートル。
さらにその直線をはるかに東に伸ばした線上にある伊勢神宮の古社地まで、
仁徳陵から110キロメートルある。
お気づきのとおり、すべての遺跡間の間隔が全部440メートルの倍数に
なっている。
11km ÷ 440 = 25里
22km ÷ 440 = 50里
110km ÷ 440 = 250里
の地点に建設されたということであって、お分かりのようにすべてが里を使った測量遺跡だったのである。 -
No.31194
騎馬民族説と3王朝交替説 …
2015/05/12 22:49
騎馬民族説と3王朝交替説
まず、騎馬民族説ですが、5W1Hがはっきりしません。特に騎馬民族という以上、沢山の馬に乗ってやってきたのでしょうが、その馬をどうやって日韓海峡を渡したのでしょうか?出来るとは思えないので、これ以上の論議は差し控えたいと思います。
つぎに、3王朝交替説は水野祐氏の主張した説のことでしょうが、時代区分が多少違うようです。水野氏は日本書紀を読むと二度王朝が交代していると読めると言うのです。日本書紀の年代は確かなものでないので人によって色々な考えがあっても構わないでしょう。私は神武から始まっても問題はないと思います。王朝名は始祖の名前を取って付けるのがわかり易いのではないでしょうか。
王朝交替
はじまり おわりころ 期間(年) 代数
神武王朝 290-300 410 120 13
応神王朝 410 530 120 11
継体王朝 530(562) 672 142 12
天武王朝 672~
記紀の編纂に当たって、中国文化、中国思想を導入する時、初代と二代目が女王であるという不都合な事実に直面した。中国思想では女王とか女帝とかは有りえないと考えられていたので、編者は崇神天皇が二人をすでに先祖神として伊勢神宮に祭っていたので皇統から外して神にしてしまった。この時代区分を適用すると、五瀬命以下の神武兄弟は台与の子供達ということになりそうである。 -
No.202121
• (大阪府の)堺市にある…
2015/05/31 20:23
•
(大阪府の)堺市にある仁徳天皇陵と、羽曳野市にある応神天皇陵との距離は11キロメートル。
その同じ直線上にある崇神天皇陵と応神天皇陵との距離は
ちょうどその二倍の22キロメートル。
さらにその直線をはるかに東に伸ばした線上にある伊勢神宮の古社地まで、
仁徳陵から110キロメートルある。
お気づきのとおり、すべての遺跡間の間隔が全部88メートルの倍数に
なっている。
11km ÷ 88m = 125短里
22km ÷ 88m = 250短里
110km ÷ 88m = 1250短里
の地点に建設されたということであって、お分かりのようにすべてが短里を使った測量遺跡だったのであることになる。 -
No.24232
「郡よりクヤ韓国まで七千里」と…
2015/06/24 23:11
「郡よりクヤ韓国まで七千里」というのはどうやって測定したのでしょうか。ここには賢いひとが多いのでどなたか無知アホ糞馬鹿な私に教えて下さい。
-
No.31199
前に、王朝交替の表を載せようと…
2015/07/01 17:07
前に、王朝交替の表を載せようとしたのですが、コピーの段階で罫線がなくなってしまい、おかしなものになってしまった。そこで三王朝交替を文章で書き直すと、
神武王朝、はじまりは290-300年、おわり410年ころ、期間120年、13代、次は応神王朝、はじまり410年、おわり530年、期間120年、12代、つぎは、継体王朝、はじまり530年、おわりは色々考えられるでしょう。
神武王朝は神武東征にはじまり、出発地は北日向、着地は巻向、後に先祖神を伊勢に祭る。応神王朝は発地北部九州、着地河内、祭神は住吉神(?)を北九州から移す。継体王朝は越前-近江より興り、奈良に入ったが、氏神の気比神は持ち込まず、伊勢神宮を引き継いだ。 -
No.202966
「帯方郡に最初に遣使したのは2…
2015/07/06 23:48
「帯方郡に最初に遣使したのは238年ですか?239年ですか」
かの有名な岩波書店本には(景初二年六月の注に明帝の年号、景初三年の誤)とあります。司馬懿は六月に遼東に到着して戦闘状態に入った。遼東と帯方郡との間は千里ほどあり、軍隊でも一月くらいは掛かる。このことをどう考えますか。 -
No.202987
「景初中、明帝密遣帶方太守劉k…
2015/07/07 14:02
「景初中、明帝密遣帶方太守劉kin、樂浪太守鮮于嗣越海定二郡」の出典をしりたいのですが、お教えください。
-
No.202990
出典はわかりました。しかし、景…
2015/07/07 15:03
出典はわかりました。しかし、景初中では237年か、238年か、239年かは解りませんね。
-
No.24238
「沿岸沿いを船で7日の行程=水…
2015/07/14 17:35
>>No. 24237
「沿岸沿いを船で7日の行程=水行7日
水行1日≒1000里(1里≒76.4m)」
これは速度が速すぎると思います。海の場合、外海か内海かでちがいますが、一日平均21kmくらい、徒歩だと道路状況にもよりますが、
一日平均7kmくらいでしょうか。
40年ほど前に「野生号」と言う古代船を模して作った船で韓国の仁川から博多まで漕いで47日かかったはずです。しかも最後はバテて船に曳航してもらったと思います。「野生号」で検索してみてください。
沢山出てきますから。
「土佐日記」は紀貫之が書いた紀行文ですが、土佐の受領であった彼が任地(高知)から船で都に帰るまでを書いたものです。高知から大阪まで一日平均9.4kmと遅いのですが、季節が冬だったのが影響しているかもしれません。 -
No.24240
基本的に「渡海」を理解する必要…
2015/07/18 16:16
>>No. 24239
基本的に「渡海」を理解する必要があります。巨済島を出て対馬まで、その間の距離がいくらあろうとも、一日で渡らねばなりません。
この時代の航法は目で目標を確認して海の上を進んで行くので、夜になっては方向が判らなくなってしまう。霧や雨でも目標が見えなくなり、どこに流されるかわかりません。方向が判らなくなるということは生死にかかわってきます。巨済島を夜明け前に出発して日没直後ぐらいまでには対馬のどこかに到達していなければなりません。対馬のどこにつくかは漕ぎ手の能力によって一様ではなく、とにかく対馬のどこかに着くことが肝要である。日の短い冬の渡海は難しいと考えるのが妥当でしょう。冬の航海が難しいのはそれだけではありません。冬の日本海は北東の風がきびしく吹きつけ、波が高く、波しぶきを浴びれば、たちまち体温を奪われ、低体温症になってしまう。
冬至の前二か月余、後二か月余は海峡を渡ることは出来なかったでしょう。

1 再考すべき視点に対する所感…
2014/01/30 14:28
1 再考すべき視点に対する所感
① 騒ぐ人たちがいるのは事実です。だが残念ながら何の論理的根拠もありません。
② 邪馬台国が最大国であったでしょう。魏はその事を知っていて、卑弥呼に使節の派遣をもとめたのである。情報を提供したのも、仲介したのも商人ならできることです。
2 ①歴史資料が存在しないのでわからないが、考古学から考えて近
畿と日本海沿岸に国家らしいものがあったかもしれない。
② 各クニの広さは戸数の記載があれば、その戸数を20倍して江戸初期の石高に変換することで知ることができる。例えば、奴國ならば中心が福岡なので福岡藩から前原付近を除外して支藩の一つを加えるというところでしょうか。
③ 多分、東は東海地方、西は九州南部まで知られていたでしょう。
④ 東シナ海を横断するのと沿岸航行とでは危険度はまったくちがいます。同一視することはできません。
⑤ 知らないことは書いていません。その余の傍国はしらずと書かれています。
⑥ 近畿説の問題点は時期の問題である。3世紀のものとは考えら
れない。
⑦ 魏使が北部九州まで来ているのは間違いない。そこから水行陸行40日以上どこかに行っている。
以上
邪馬台国論争に欠落した視点と言うことであるので二つあげたい。第一はもっと広く文献を参照すべきである。倭人伝、東夷
伝、明帝紀、公孫淵伝、晋書宣帝紀、 毌丘倹伝、呉主伝第二等である。第二には論理的、特に数量に厳密であるべきだ。