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No.1951
>それ自体がお馬鹿、というか信…
2018/08/03 12:16
>>No. 1950
>それ自体がお馬鹿、というか信じるのが甘い。
スターリンが上手であったと言うことですね。彼は情報機関からドイツがやがて攻めてくることがわかっていた。松岡は有頂天で意気揚々と帰国します。そこで、陸軍も北からの脅威が薄れたので南進に傾いて行きます。 -
No.274
>民主主義の基本ルールとして国…
2018/08/03 14:29
>>No. 272
>民主主義の基本ルールとして国の存続に関わる緊急時はそのようにするのが正しいはずですが・・・
その積もりで言ったわけではないが、・・・・なるほど!
>..75年前も信託を受ける国家側が運用がさっぱりです。
当然です。戦前は、民主主義にいたっては、かって、どのような形式にしろ、その経験がないです。国民をしばる封建主義と全体主義に照らしてみれば、個人の尊厳はまったく存在しなかったのです。 -
No.1953
>それは知りませんでした。 …
2018/08/03 18:00
>>No. 1950
>それは知りませんでした。
ヒトラーはイギリスを完璧につぶしておかねばならないと考え,イギリスの牙城であるシンガポールを攻めて欲しかった。ところが本国イギリスの抵抗によって、彼の野望は挫かれます。今度は対ソ戦を決意し、英国とはなんとか講和を成立するため、日本をしてシンガポールを攻撃してもらい対英戦にまきこみ、この目的を達成することができると考えたのです。ドイツと松岡の会談で、松岡のシンガポール攻撃の言質を伝えたように了解し、ドイツ政府の文章にはそのように記載されています。 -
No.1956
>なるほど、でもそれにしては順…
2018/08/04 22:26
>>No. 1954
>なるほど、でもそれにしては順序が逆ではありませんか。
日本は北の脅威が独ソ戦で軽減されたので南に行った。
バスに乗り遅れるなと南に軍隊を武力進駐させ、三国同盟を結びます。今度は独ソ戦が始まると北に大軍隊をお送り込みソ連が弱ったときを待って、たたく準備をします。 -
No.29478
7月28日午後4時よりの記者会…
2018/08/07 12:08
7月28日午後4時よりの記者会見でのポツダム宣言に対する鈴木総理の発言 「私は三国共同声明はカイロ宣言の焼き直しであると考えている。政府としては、なんら重大な価値ありとは認めていない。ただ黙殺するのみである。われわれは 戦争完遂に邁進するのみである」、でも、「首相の黙殺発言があろうがなかろうが 原爆は投下されただろう 。実際にこのとき原爆投下命令は発せられていたからだ」という意見がある。
そもそも、黙殺とは、黙って知らん顔をしているというのが常識。それを黙殺と口にし、活字にしてしまえば、もうこれは先方に、無視(IGNORM)、拒絶(REJECT)と、とられても仕方がない。黙殺という語がどう英訳されようと、首相の発言はその用語と文脈からみて明らかに、最後通告としてのポツダム宣言を軽蔑し、これを無視したという印象を与えるものだった。 鈴木発言は海外ではそう受け取られた。米国政府もそのように考えた。日本もポツダム宣言を軽蔑し、戦争完遂に邁進することにした。この時点で両者の一点の食い違も存在しない。つまり、日本政府は戦争継続を訴えておったので、トルーマン大統領は、原子爆弾の投下命令を撤回する理由も無い。もしも日本が「黙殺」ではなく、「ポツダム宣言」を受諾したならば、原子爆弾投下も無ければ、ソ連の参戦も無かったと思う。 -
No.1963
>関東軍特別演習なるものが行な…
2018/08/07 19:11
>>No. 1957
>関東軍特別演習なるものが行なわれたが、これは前からの予定で有って、紛争さえ起こしていない。
従来実施されていた関東軍の通常の演習とは異なるので、はっきり区別するため 秘匿名称関東軍特種演習「関特演」と呼称されます。関特演とは、1941年7月7日から実施された日本陸軍による対ソ開戦を見込んだ戦争準備で、「明治健軍以来の最大の動員規模(防衛庁)」であったと言われています。開戦は8月29日に予定していました。
>却って大軍を南下させ1941年8月、南部仏印進駐をした。
北に対する年内の武力行使が中止されたのは8月9日で、その場合も翌年春に武力行使をおこなうことで作戦準備をすすめています。一方南部仏印進駐の開始は7月28日です。日本は「北も南」も両天秤をかけていたのです。北でも南でも、すなわち対ソ戦でも対米戦でも、情勢が有利とみたならば戦争をしかけようとしたのです。 -
No.1970
>では何で開戦しなかったのでし…
2018/08/09 15:13
>>No. 1964
>では何で開戦しなかったのでしょうか。
>現実に南部仏印へ行けば北で開戦は出来ない。
「独ソ戦争の推移が帝国の為有利に進展」しなかったからです。しかし、「好機」到来すれば、いつでも開戦にふみきれる「熟柿論」体制をとります。なぜなら、ドイツが単独でソ連を打倒してしまったら、日本は分け前を要求できなくなるからである。そして翌年(1942年)の春には関東軍にさらに二個師団を増強し、その兵力は前後を通じて最も充実したものとなります。1943年一月になるとドイツ軍はスターリングラードで敗北し、日本が独ソ戦にかけていた期待が裏切られ、日本軍もガダルカナル島から退却すると、関東軍から抽出が始まります。つまり、北進も南進もいずれにしても、当時は「バスに乗り遅れるな」の大合唱で分かるように、何か物に憑かれたように、ドイツの全勝を盲信し、なおもドイツ勝利の暁には、日本の戦争参加によって取り得べき莫大のなる分け前についてのみ、頭を悩ましていたのである。 -
No.1974
>まさか、ドイツがウラジオまで…
2018/08/10 12:51
>>No. 1971
>まさか、ドイツがウラジオまで攻めて来る?
バイカル湖だって無理でしょう。
熟して柿が落ちるのを待っていたが、「熟柿遂ニ来ラザルカ」と本来の任務になった。熟柿とは「ソ連崩壊」ですが。
>ドイツが勝てないと言う情報は対米開戦前にソ連駐在者からも入って来ていた。
しかし判断力が無いためか没にされた。
判断力がないからではなく、計画的確信犯である。
>いや、隠れ共産主義者がドイツが勝つから南進すべきだと工作したんじゃろ?
機密情報はバレバレだが、ドイツ熱におかされていたから工作する余地は無いと思うが。 -
No.1976
>結局、ドイツが勝つことを前提…
2018/08/11 15:44
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No.1978
>与論、輿論ですか? 国民で…
2018/08/12 14:55
>>No. 1977
>与論、輿論ですか?
国民ではなく、新聞なら言えてたかも。
国民の意思を無視した戦争には国民は踊るわけがないので、政府は国内与論を指導統一して国民を騙すのが常なのです。
>ドイツにはソ連に勝てないと断言していた。
石原らは満州事変で統帥権をわたくしして、勝手なことをします。当時の国内法で照してみても立派な犯罪者です。石原の真似た軍人がバッコして大局を考えず進むを知って退くことを知らない中堅将校らによってシナ事変が起こり、この石原が自らが起こした独断先行の流れは、石原自身でも押さえられなくなります。このシナから撤兵がアメリカとの交渉の論点になり日米交渉は決裂します。満州事変だけなら、田舎のことなので、アメリカのほとんどの国民もどこにあるか分からんから、大したことこにはならんかっただろうと思う。 -
No.1980
>まずシナ事変は蒋介石の挑発に…
2018/08/12 23:34
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No.1982
>上海事変です。 満州事…
2018/08/14 15:48
>>No. 1981
>上海事変です。
満州事変により、軍規や国内法を無視した石原らの犯罪者が処罰されることなく、みんな出世します。野心の溢れる中堅将校らが軍功を示す場といえば戦場をおいては他はないです。当時、手近なところで最も手柄をたてやすいのは、軍事力に劣る中国です。謀略を仕掛け中国各地でのろしをあげます。シナ北部派遣部隊が華北で軍事行動を起こし、これを戦端に、戦線が拡大します。 -
No.29492
>7月にポツダム宣言を受諾する…
2018/08/15 07:21
>>No. 29479
>7月にポツダム宣言を受諾するとクーデタと内戦を経て日本は分断国家になった可能性が高いと思う。
阿南陸軍大臣は「今講和問題を取り上げることになっては、今日まで戦争完遂の決意を促してきた国民の気分を百八十度転回させねばならない。そんなことは到底できない相談である。殊に陸軍の中堅層を制御することは至難である。だからこの際は徹底的抗戦の一路あるのみだ」と主張しています。
陸軍中堅層の制御ができないから、望みなき戦争を継続するということが平気で言われ、まともに受取られていたのである。国民は事態を知らない。一、二度爆撃を受けるなり、本土上陸されて初めて、国民も終戦への機運に向かうという。つまり、戦局を正確に知らされていない国民に惨禍を味わわせ、怒り狂うこれらの人々に知らせるために戦争を継続するということであろうか。 -
No.29493
>長州流の「独善で歪な」尊王思…
2018/08/15 12:29
>>No. 29488
>長州流の「独善で歪な」尊王思想が陸軍に蔓延していたからです。
まあ、これは個人の見解にすぎませんが・・・。
孝明天皇は幕府を頼りして、公武合体思想を持っていましたので、孝明天皇を生かしておいては、討幕が実現しないということで、これを毒殺したのは岩倉具視だという説もありますが、16歳の明治天皇をロボットにして新政権を作ったことから見ればまんざらではない。徳川氏は馬上にて天下を取ったのであるから、馬上にこれを復してこそ初めて数百年来の覇業を成すことが出来たのであるが、維新政府は尊皇の心を利用して徳川を倒して天下を握った。だから、日本国内では、内乱が10年間も続くのであった。以後国内の矛盾をそらすために海外派兵をしながら、国を纏めて行くのである。無用な戦争を行いながら、明治・大正・昭和の敗戦まで続くのである。 -
No.1990
>ところで石原は予備役になって…
2018/08/15 16:57
>>No. 1983
>ところで石原は予備役になって干されてしまいました。
シナ事変拡大に批判的だったからだ
天津における日本のシナ駐屯軍梅津美治郎司令官のもとに、シナ各地に居る参謀達を呼び集めて、北支に事変を起こすべきか否かについて協議をします。その時起こすべきではないと言ったのが、参謀長の橋本郡大佐一人で、他の二十名の参謀達は皆起こすべきだと言う説であったという。相手はシナ兵であり、日本軍は勝つに決まっている。勝てば論功行賞であると単純に考えた。ところが満州事変の発頭人の一人である石原莞爾氏は、その時参謀本部の作戦部長であった。この人の賛成がなければ、一兵たりとも戦争のために動かすことは出来ない地位にあったが、この人は初め北支に事変を起こすことには、絶対反対の意見であった。然し主戦派の者達は承知をしない。
「あなたは先年上層部の諒解を得ずに、勝手に満州事変を起こし、他日になって上層部に正当の事変と認めさせ、論功行賞まで受けたのではないか。あなたがこの際北支に事変を起こすことを飽くまで反対するならば、私達も先年のあなたのまねをして、勝手に戦争を始め、他日に至って上層部に正当の事変と認めさす方法をとります」と言って聞かぬので、石原氏は豹変して北支に事を起こすことに賛成し、それが他日の日本の敗戦降伏につながる事変の端緒をなした。
なおこの石原氏は日本の敗戦降伏が近い頃、京都の師団長となって赴任した。京都府知事がその歓迎宴を開いた時、石原氏は大将銃殺論を力説して「日本国をこんなにしたのは、大将達の責任であるから、大将達全部を銃殺せよ」というのである。何しろ現役の師団長がこういうことを言うのでは、軍紀も軍律もあったものではない。皆々呆れ返って、座が白けたのを見て副官がとりなし「閣下は今夜酩酊していますから、そのおつもりで…」というと、石原氏はまた起ち「酩酊して言うのではない、大将達を銃殺すべしだ」と繰り返したという。 -
No.29494
>ただ田中義一に対する叱責は有…
2018/08/15 19:20
>>No. 29489
>ただ田中義一に対する叱責は有っても、再び聞きたくないと漏らしたのはどうか。
漏らしたことではなく、その精神。
ま、田中が辞職し、亡くなったのはそのことよりも心臓病でしょう。
昭和天皇はまだ若かったのに、何を遠慮したんですかね。
田中忌避発言(昭和4年6月28日)
昭和2年5月28日
大元帥天皇・裕仁が統帥する日本軍隊は中国・山東に出兵した。
南満州の権益を守るために、国民政府軍の北上阻止のため、満州頭目張作霖支持のため、首相・陸軍大将・田中儀一が関東軍に三東省出兵を命令した。
昭和3年4月19日
田中内閣は蒋介石指揮の国民政府軍が北伐に乗り出したのを理由に、また関東軍に出動を命じた。第二次三東出兵だ。6月4日未明列車による撤退中に奉天郊外において関東軍の手により爆殺された。
西園寺公望からの勧めもあって、田中義一首相は真相の公表と関係者の処分をきめ、昭和天皇に上奏した。しかし、陸軍、閣僚、与党政友会の反対にあって、これに屈した。
昭和4年6月28日田中は拝謁を申し出たが、天皇は参内、拝謁は許さなかった。(田中忌避発言)
翌年1月の第56議会で「満州某重大事件」として論議されたが、真相を国民に明らかにしないまま、7月1日、河本らは行政処分され、田中首相は天皇から叱責にあった。
このときの田中忌避発言はたとえ違約があっても、内閣、政府が憲法やそれに基づく法律によって処理したことであるので、憲法下の天皇は、天皇を輔弼(ほひつ)する総理大臣以下が決めたことは、その決定に従うことが立憲政治では天皇の制限された行為だった。いくら天皇でも、輔弼の内容を変更することはできなかった。
総辞職の最終閣議では「かりにも一国の総理大臣を、そのように軽々に扱われることはいかがなものであろうか」という、疑問と批判の意見が閣僚の間から上った。
この閣議を聞いて、天皇は、貝のように口を閉ざしてしまった。
天皇と政府・内閣の関係で、天皇は、ものをいうのを控え始めた。のちの開戦前夜の御前会議で、発言を自ら封じた。この田中回避発言とその後の言動は、その意味で、天皇と国民にとって不幸なできごとであった。 -
No.29496
>もしかしたら米軍の駐留継続と…
2018/08/16 14:46
>>No. 29475
>もしかしたら米軍の駐留継続と 自らの保身を取引したのかもしれない。
下記は昭和22年、GHQ外交顧問シーボルトはマッカーサーに提出した覚書です。
「1947年9月19日(金曜日)
午前、内廷庁舎御政務室において宮内府御用掛寺崎英成の拝謁をお受けになる。なお、この日午後、寺崎は対日理事会議長兼連合国最高司令部外交局長ウィリアム・ジョセフ・シーボルトを訪問する。シーボルトは、この時寺崎から聞いた内容を連合国最高司令官及び米国国務長官に報告する。
この報告には、天皇は米国が沖縄及び他の琉球諸島の軍事占領を継続することを希望されており、その占領は米国の利益となり、また日本を保護することにもなるとのお考えである旨、さらに、米国による沖縄等の軍事占領は、日本に主権を残しつつ、長期貸与の形をとるべきであると感じておられる旨、この占領方式であれば、米国が琉球諸島に対する恒久的な意図を何ら持たず、また他の諸国、とりわけソ連と中国が類似の権利を要求し得ないことを日本国民に確信させるであろうとのお考えに基づくものでなどある旨などが記される。
沖縄に米軍基地を置くことを米国にお願いした天皇は、生涯、沖縄に行くことはなく、沖縄博にも天皇の代わりに皇太子が出席し、ひめゆりの塔に参拝中、火炎びんを投げつけられます。 -
No.29497
>ところで御前会議は通常喋らな…
2018/08/17 10:34
>>No. 29495
>ところで御前会議は通常喋らないのでは?
特に近衛からも言われていたようだ。
もし天皇が裁断したとして、それが実際に守られないようなことが生じたら、君権にキズがつくことになるからだと思う。 -
No.29499
>ところで、シナ事変ですが、陛…
2018/08/17 10:51

>大日本となるためにはバスに乗…
2018/08/02 17:53
>大日本となるためにはバスに乗らねばならぬ、バスに乗るためにはアメリカと一戦を辞せぬという覚悟が必要だ。問題は、独伊が最後に勝つから英米と敵対しても勝馬に賭けた方が得であり、このチャンスを逃すと日本は膨張の機会を失うからです。そして12月8日、宣戦の大詔を頂いてそれで戦争の目的が立派にできます。
大本営政府連絡会議「対米英蘭戦争終末促進ニ関スル腹案」には、どうやったら戦争を終結できるのか述べています。とにかくドイツが勝つことをあてにしているのです。
参考
十一月十五日、連絡会議は「対米英蘭戦争終末促進ニ関スル腹案」を決定した。 ここに並ぶ字句には、不確かな世界に逃げこんだ指導者の曖昧な姿勢が露骨にあらわれていた。 二つの方針と七つの要領があり、方針には、極東の米英蘭の根拠を覆滅して自存自衛を確立するとともに、 蒋介石政権の屈服を促進し、ドイツ、イタリアと提携してイギリスの屈服をはかる、 そのうえでアメリカの継戦意思を喪失せしむるとあった。 この方針を補完するために、七つの要領が書き加えられていた。 そこにはイギリスの軍事力を過小評価し、ドイツに全幅の信頼を置き、アメリカ国民の抗戦意欲を軽視し、 中国の抗日運動は政戦略の手段をもって屈服を促すという、根拠のない字句の羅列があった。 願望と期待だけが現実の政策の根拠となっていたのである。
保阪正康 「東條英機と天皇の時代(上)」 P.308