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投稿コメント一覧 (165コメント)

  • >>No. 29465

    >和を以て貴しと為す、忤ふること無きを宗とせよ
    17条の憲法第1条です。
    憲法は国の歴史・文化のカガミです。

    全体的にうやうやしい雰囲気をみださぬように心がけるのが「和」をもって貴しとするー
    つまり、客観的に当然な結論に近づくための途であるが故にではなく、ともあれ和であるが故に貴しとする文化です。

  • >>No. 1900

    >ノモンハンでも軍事衝突があったのに、何を考えて南に行ったのか。

    日本がバスに乗り遅れると思ったからでしょうね!

  • >>No. 1899

    >平均寿命は延びたし、国民所得も上昇したから、表向きにはわからないけれどね。

    実質の手取額は毎年少なくなっています。たとえば、2002年、額面年収700万の手取り額は578万から2017年で537万と、手取り額は15年間で50万減っている。また、額面年収500万の手取り額は429万から2017年で394万と、35万減っています。

  • >>No. 1904

    >ドイツがフランスを占領すると、形の上ではベトナムはビシー政権の領土となった。
    日本は了解を得て、まずは北ベトナムに進軍。
    領土として併合したのではない。
    国際上も合法。
    目的は蒋介石の援助ルートの遮断。
    これにて英米との対立は深まった。

    仏印に進軍したのは、鉄や石油などがとれる東南アジアのジャワ、スマトラ、ボルネオといった資源地帯に進出し資源を確保するためです。それにはどうしても仏印まで兵力を進出させておく必要があったからです。さらに開戦に備えて油田確保のためにオランダ領インドシナを占領するほかなかったのです。国際信義は要するに国家的利害の従属にすぎないです。

  • >>No. 1906

    >それに対してシナ駐兵は無意味に近かったんじゃあないか?

    戦争をしていれば国民の不満は抑えられるからでしょうね!

  • >>No. 1908

    >シナ事変に関しては逆です。

    日本は満州にたくさん の資本をつぎこみ、そうした権利や利益を守るために満州を日本の支配下に置きます。国内では5.15事件が起こり、犬養首相が殺害された。農村の惨状を政界の堕落によるものと喝破した青年将校たちの決起である。しかし、政·財界の腐敗はつづき、農民は困窮をきわめていました。そこで軍による国家改造をもくろみ2.26事件であわよくば政権を獲得しようとします。それで、次第に軍や政府への不平もたかまってきたので, そのボロ隠しで国内の関心を外に向けようと企てた大博打がシナ事変です。

    >早く終わりにせよと願っていた。

    しかし、言論と報道の自由が全面的に封鎖されたなかで戦争継続の強硬論のみを国論として指導します。その結果、 マスメディアは国論の志向に輪をかけて戦争熱の鼓吹につとめ、排外主義的な世論をいっそう増幅させます。この強硬な世論の定着によって外交交渉による戦争収拾の可能性をいちじるしくせばめられていったのである。たとえば、中国大陸からの撤兵などによって日米交渉すれば、いままで排外主義をあおられつづけてきた民衆が軍部や右翼の強硬派のクーデターに呼応したり、国民の不満が爆発するのではないかとの危惧が日本の最高指導者ら自身の保身に走らせます。いっさいの言論の自由を剥奪し、国民を盲目の状態においた政治家らはみずから作った言論統制の結果によって生じた強硬な世論におびえ、政策の選択の可能性をしばることによって、より破壊的な戦争へのめりこんでいったのである。早い話、日本の最高の指導者にあったものらは内乱は恐れたが、戦争は恐れなかったのである。なぜなら戦争で死んでいくのは民草らで、自分らは死なずに済むように出来ている社会であることを確信していたのである。

  • >>No. 1910

    >シナ事変は蒋介石が仕掛けたもの。
    それに乗ったのが日本軍部。

    戦前、国民が踊らされた言い草とまるで同じですね。

    >そんなことも無いでしょう。
    反対した人はいます。

    当時、戦争に反対した人は誰ですか?

    >自分は死なないし、負けると思わなかった。

    山本元帥も「一年間はどうにかなるが保証できない」と戦前から言ってますが・・・ではどうして負けるとわかりながら、米英を相手にしたのは、なぜですか?

    >馬鹿な軍人がいたもんだ。

    日本の最高指導者ですが。

  • >>No. 1901

    >明治維新が悪いと言う人もいる
    しかし、その責任は外国にある。
    その後の失敗は、吉田松陰の教えを守らなかった事にあるのではないか。

    その後の失敗は、吉田松陰の教えを守った事にあると思う。吉田松陰の征韓論では、ペリー来航による危機意識から、三韓征伐を典範として、海軍を創設。そして西洋諸国に従属しながら、「取り易き」隣国を征服する。その「交易」で西洋諸国による損失を補うというものです。そして実際の歴史はほとんど松陰の筋書き通りに進みます。 

    参考
    「朝鮮の如きは古時我れに臣属せしも、今は即ちやや倨 (おご) る。最もその風教を詳らかにして之を復さざるべからざるなり。」 (奈良本、松陰 「幽囚録」 155p)

    「今急に武備を修め、艦略 (ほぼ) 具わり礮 (ほう=大砲) 略足らば、即ち宜しく蝦夷を開墾し
    て諸侯を封建し、間に乗じて加模察加 (カムチャツカ)・隩都加を奪ひ、琉球に諭し、朝覲会同すること内諸侯と比 (ひと) しからしめ、朝鮮を責めて質を入れ貢を奉ること古の盛時の如くならしめ、北は満州の地を割き、南は台湾・呂宋の諸島を収め、漸に進取の勢を示すべし。然る後に民を愛し士を養ひ、慎みて辺圉を守らば、即ち善く国を保つと謂ふべし。」(奈良本、松陰 「幽囚録」 158p)

  • >>No. 1917

    >大東亜共栄圏の妄想は松陰には有りません。

    吉田松陰の教えは「朝鮮を責めて、質を納れ、貢を奉ずること古の盛時のごとくならしめ、北は満州の地を割き、南は台湾、呂宋(フィリピン)諸島を収め、進取の勢を示すべき」「国力を養ひて取り易き朝鮮、シナ、満州を斬り従えん」です。新政府で権力を握った長州藩士のほとんどが松陰門下でした。そして、松陰の教えを実行します。吉田松陰のこの教えは「大東亜共栄圏」の原型というべき思想だと思うが。

    >明治時代はほぼ教えを守ったが、その後の拡大が誤ったのです。


    14歳の明治天皇をロボットにして薩長政権を作ります。結局彼らが作った権威だけでは、国内の不満を抑えることができず、その不満を対外にもって行く方向にしかならなかったのです。つまり、ほとんどが自作自演の謀略で薩長政権は海外進出を計ります。このことは新聞紙上に現れないし、一般国民には全然分からんから、自然に国民の間に強硬論が風靡することになる。そして、政府を攻撃する世論が海外に向けられ 、戦争熱に犯されてしまいます。明治維新以来の対外膨張路線はその表れです。

  • >>No. 1914

    >勝てると思ってた人が多かったからです。

    シナ事変以後、事態は少しも解決の曙光がみえずジリ貧になるよりいさぎよくやろうという単純な気持ちのもの、ドイツが必ず勝つと思っていたもの、米国は個人主義だから長期戦はできぬと思っていたものなど、これらの総合された空気に踊らされた軍首脳部が強引に世界の二大強国英米を相手にやってしまったということでしょう。

  • >>No. 1927

    >大東亜共栄圏構想はむしろ侵略性が無い。

    大東亜共栄圏構想とは、国民を騙し、国民を駆って戦争に供し、戦争責任を塗抹するために故意に作られたものですよ!

    >国民は戦争を望んでいたとは思えない。

    もちろん国民は戦争を望んでいません。しかし、薩長政権に対する不満を外にそらすために政府には対外戦争が必要であったのです。

  • >>No. 1930

    >大東亜戦争に関しては薩長政権と言うより、いわば全国的政権でしょう。

    全国的政権というより、戦争政権です。当時実質的に日本の政治的パワーを把握していたのは陸軍省軍務局の政治軍人や中堅軍人です。彼らは西仏蘭西を席捲し、東ソ連に対して電撃的進攻を続けつつあったドイツの力を頼んでいたのです。つまりドイツが必ず勝つと信じていたからです。東条氏は徹頭徹尾主戦論者であったので、中堅軍人らは氏を支持し、その器にあらずして総理となったのである。

  • >>No. 1934

    >それならばソ連を攻めればいい。
    ソ連は有数の石油大国。
    ドイツが勝てばシベリア鉄道で送ってくれると思うのだが。
    もしドイツが負けるなら、南方進出も有り得ない。
    北からも攻められたら勝ち目は無い。
    南方に行きたくて、うずうずしていたからドイツが勝つと信じたくなって信じてしまったのでしょうか。

    松岡外相は、この機会を逃さず即刻対ソ戦争せよと主張しますが、日本は大戦争を起こしているドイツと軍事同盟を結び、英米に敵対する決断をしていますので、政府首脳の多くは、北方の圧力が減じたのに乗じて、まず南方の軍需資源を確保した上で、ソ連が弱まった時期を待って開戦した方が得だと主張します。

    >それと軍部の中には志位の叔父みたく、共産主義者もしくはそのシンパがいた。
    彼らが南方進出を吹聴したんだ。
    ソ連を祖国と思っていたんでしょう。

    精々近衛周辺から機密情報が流れていたのでしょう。

    >本人も総理に成れないと思って近衛内閣の時に対米強硬論をぶったのかも知れない。

    東条氏は自分の権勢拡大の野心のために開戦派の中堅将校の傀儡となったのです。

    >近衛の次の総理は、対米開戦をしないなら東久邇宮が最適だった。
    少なくとも東條よりは英米の印象が良い。
    木戸が東條を推したのは和戦両用でしょう。
    負けた時の責任者が皇族でなくて済む。
    開戦しないときに抑えられるのは主戦派の東條と思った。

    木戸氏は東条氏の寵児憲兵隊の加藤氏に脅されていたので、木戸氏は2.26事件の大規模なテロの恐怖から保身に走ったのでしょう。

  • >>No. 1937

    >ドイツが勝つなら南方作戦など不要になるのでは?

    そこはアメリカ及びイギリスが戦争を継続するために重要な戦略資源、ゴム、石油、ストリニーネ、錫等の生産地であったのです。とくにゴムがなければ飛行機や戦車や自動車等の生産を不可能にします。そのゴムは大戦後すべて英米に送られて日本のストックはありませんでした。ところが、欧州ではナチス独逸と死闘を続けているので、「イギリスは決して進駐に対し挑戦はできないだろう。進駐の結果は恐らくシンガポールの防備強化位が関の山である。又アメリカは英国やオランダのため火中の栗は拾わぬであろう」という予測で陸海軍はサイゴンとカムラン湾に進入します。米英和蘭三国は之に対する報復手段として経済断交と在外資産凍結という予告通りの強硬なる手段にでます。つまり、ゴムを確保した代償はあまりにもおおかったと言えます。
    マレーやビルマ、オランダ領東インドのゴムはイギリスが戦争を継続していくうえで不可欠な原料資源でアメリカに売ることによって、アメリカから物を買いいれるのに必要なドルを手に入れることができたのです。1941年7月のイギリス外務省の推定では、イギリスのゴムの保有量は数カ月分で一方、アメリカの場合、90%以上を日本軍の脅威にさらされている地域にあおいでいたのです。

    参考
    ゴムについては仏印のゴムの年産は約六万トンであります。その中日本はわずかに一万五千トンを米ドル払いで入手していたのでありますが、一九四一年(昭和十六年)六月中旬米国は仏印のハノイ領事にたいし仏印生産ゴムの最大量の買付を命じ日本のゴム取得を妨害しまた、英国はその属領にたいし仏印生産ゴムの最大量の買付を命じ日本のゴム取得を妨害し、また、英国はその属領にたいし一九四一年(昭和十六年)五月中旬日本および円ブロック向けゴムの全面的禁止を行いました。(東條英機東京裁判宣誓供述書)


    >父親が中将止まりだったですから。(薩長軍閥のせい?)

    バーデン・バーデンの密約で陸軍における長州閥打倒を誓い合っています。

  • >>No. 265

    >ブロック経済などで貿易で物資を入手の手段が絶たれたから。

    その対策として、自存自衛の大東亜共栄圏というブロックを確立しようとしたんです。当時西仏蘭西を席捲し、東ソ連に対して電撃的進攻を続けつつあった独逸の力を頼んでいたからです。つまり独逸が必ず勝つと信じていたのです。南部仏印までを小東亜共栄圏といい、蘭印を含んで大東亜共栄圏といいます。

  • >>No. 261

    >負けても戦争すると言うキ・チ・ガ・イだった。

    当時、ドイツと軍事同盟を結び、英米を敵とする決断をしています。そして、軍令部では、積極的に戦争に突入するべきとの決意のもとに、東南アジアに進出し、戦争に必要な物資を確保すべしという報告書を作ります。永野軍令部総長として、この軍令部の報告書に基づいて行動します。

  • >>No. 269

    >政治技術的にはこの国はあまり進歩がないな~と思うのですよね

    最近の事件にみられるように、指導者に対して私の判断をさしはさむことは全体としての統一をみだすものとして、自らも、また第三者にも許さないというのが、和を以てうんぬんである17条の憲法第1条の精神から由来するのかも知れん。

  • >>No. 1944

    >まあ、行きつく所はシナ事変拡大が対英米対立を生じさせた、ということですかね。

    日清や日露戦では、まだ戦争の目的が明快にあったとすれば、シナ事変あたりから何のために中国と戦うのか、誰もがよくわからなかったのでしょう。事態は少しも解決の兆しが見えず無限の消耗戦の泥沼に踏みこんでいました。国内では物資の欠乏が本格化し、この戦争経済の矛盾は、いろんなかたちで吹き出していたのです。そこにドイツという大きなバスがやってきた。これに乗りおくれんがために、懸命に走ったのが大東亜戦争です。
    軍への不平もたかまってきたので、そのボロ隠しで国内の関心を外に向けようと企てた大博打がシナ事変だとすれば、さらにその上塗りが大東亜戦争であったのでしょう。
    つまり、大日本となるためにはバスに乗らねばならぬ、バスに乗るためにはアメリカと一戦を辞せぬという覚悟が必要だ。問題は、独伊が最後に勝つから英米と敵対しても勝馬に賭けた方が得であり、このチャンスを逃すと日本は膨張の機会を失うからです。そして12月8日、宣戦の大詔を頂いてそれで戦争の目的が立派にできます。

  • >>No. 1946

    >ソ連のスパイにしてやられたんでしょうね。
    軍部には共産主義者がいたんでしょう。

    当時、日本の国策として、ソ連と不可侵を尊重する中立条約を結んでおりますが。

  • >>No. 1946

    >ドイツはソ連を攻めて欲しかった。

    ヒトラーはイギリスを完璧につぶしておかねばならないと考え,イギリスの牙城であるシンガポールを攻めて欲しかった。

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