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投稿コメント一覧 (165コメント)

  • >>No. 29783

    徳川の時代は権力と権威とが分離していた。公卿は位高くしても禄は少なく、老中は政権を以て大諸侯を御していた。老中は一方で強いように見えるけれども、実際は大諸侯に対して非常に弱い面がある。一方で老中は権力の快感を味わうかと思うと、しかし実際は他方でそれを減殺するようなメカニズムが働いている。中央の命令は非常によく行われていたのだけれども、しかし、それを実際に行使する執政者が跋扈したということは実は幕藩体制においてはなかつた。 体制全体として見れば、権力の配分は平均の妙を得たるものといえる。

    参考
    「諸侯を制御するの法も亦彼の権力平均対峙競争の政策より外ならず。……藩々相互に睥睨 して相互に動くを得ず。……又内に自家の政務を処するにも権力平均の旨を失はず。例へ ば幕政最上の権は老中の手に握り、参政の若年寄と雖も容易に喙を容るゝを許さず。然る に目付なる者は、老中に属せずして、若年寄の支配下に在りながら老中を弾劾するの権を 有し、……又目付の支配下に徒目付、其下に小人目付あり。小人目付は常に徒目付に随従 して事を執る小吏なれども、此の小吏には時として上役の徒目付を差置き直に目付に面し て事を具申し、又徒目付を弾劾するの権あり。又地方に派出する代官又は町奉行附属の与 力同心等は、内々の収入多くして身分不相応の生活を為す者なれども、官吏社会にて等級 甚だ低く体面甚だ卑しく、何万石を支配する代官にても江戸に来れば顔色なく、勘定奉行などへ拝謁する其状は恰も君臣の如し。与力同心も大番組書院番組と称し、武官に属する 者は何らの役得もなくして生計常に寒しと雖も、其地位は遥に町方の上流に位して自から 得々たる可し。凡そ幕府の政務組織に付き此種の細件を計れば、枚挙に遑あらず。いよいよ之を詳にしていよいよ平均主義の緻密周到なるを見るのみ。」(福沢諭吉)
    「どの役職も二重になっている。各人がお互いに見張り役であり、見張っている。全行政機構が複数制(つまり合議制)であるばかりでなく、完全に是認されたマキアヴェリズムの原則に基づいて、人を牽制し、また反対に牽制されるという制度の最も入念な体制が当地では細かな点についても、精密かつ完全に発達している」(幕末に日本に滞在した初代英国公使のラザフォード・オルコック 回想録『大君の都』)
    幕藩体制においては、将軍もまた自由な人格ではなかったのです。

  • >>No. 29780

    >これで友好関係が保てると思ったとしたら馬鹿そのも。

    六九年十一月五日、三条太政大臣部で、岩倉、沢 (外務卿)、大隙(大蔵大輔)らがパークスと会見、その助言と推薦により、同月十一日、おりから清国上海税関の総税務司をやめて帰国の途中、日本に立ちよったイギリス人レイと、日本政府との間に、東京より京都.大阪をへて兵庫に達する幹線と、東京・横浜間および琵琶湖.敦賀間の支線を布設すること、工事費は 概算三百万ポンド、そのうちさしあたり百万ポンドの外債を海関税及び鉄道純益を担保にして募り、その業務はレイに委任すること、技師・職工のやとい入れ、材料の購入についてもすべてこれをレイに委任することという契約が成立した。
    大隈や伊藤は政府内部の反対派を説きふせて右の契約をむすぶところまでこぎつけた。ところが、レイは日本政府とは公債の利率一割二分と契約し、ロンドンで募債するには九分の利とし、その差三分は彼が横取りしようとしていたことが、英国の新聞を見たわが外交官によって発見された。そこでいろいろの交渉があって、政府はようやくレイとの契約を解除し、一八七〇年四月、改めて英国東洋銀行と契約し、九分利付公債(担保は海関税)百万ポンド(四八〇万両)をロンドンで募集することとした。その発行価格は証書額面百ポンドにつき九八ポンド、まったく不利な条件であった。のみならずレイとの契約解除により、その賠償としてニ万ポンド余りをとられた。わが維新政府の高官らはイギリスの詐欺的商法に騙された。

  • >>No. 29778

    >政府は、何ら具体的な改正案をもっていないので、 抽象的に国内の政体大変ありたるにつき、新事態にとって不都合なてんを改正したいと答えるのみであったという。

    彼らは外国条約などの事は少しも分からない田舎漢の人達で、もとりより外国条約などは、研究したこともなければ、意見もなかった。だから条約改正の草稿などを示されても、元勲はこれを持ち帰って自分の書記官に示し意見を尋ねるが、これらの書記官等も地位を作るのに汲々たる輩であったので、何か意見を呈せざれば、働きなきがごとく思われるのを恐れて、アカデミカルな論を持ちだすと、元勲らはこれを見る学識がなく、直ちにこれをもって自己の論として主張するのが常であったのです。

  • >>No. 29773

    >ところが、維新政府の首脳らには、そのような外交経験が皆無なので、

    維新政府は徳川幕府が列国の圧力のもとに結ばせられた条約を、何らの留保もなしにそのまま継承した。国内に向っては、大隅重信は後年告白している「ありのままをいえば、余らは曾て堂々幕府の政策を非難せしに句らず、未だ安政条約の如何をも深く研究する所あらざりし」 (大隈伯昔日譚)。こんなありさまで外交上の知識などはまったくなかったから、スエーデン及びスペインと修交通商条約を先方が要求するままにむすび、翌年正月にはドイツとの条約をむすんだが、それらの条約は幕府がむすんだものよりもさらに日本に不利なもので、従来安政条約の不明確なために生じた彼我の争点は、これらの条約では、全然わが国に不利なように明白に定められた。外国のその利益は最恵国待遇により直ちに英米等にも及ほされることになる。
    六八年十二月、政府は外国官知事の名を以て各国公使に、我国が未曾有の制度改革をなしたる今日、条約は名実 不当のてんがあるから、未だ現行条約の有効期限がきれないけれども、今後数力月内に改正商議を開始したいと申し入れた。これに対してまっさきに英国公使パークスが回答をよせて、日本より改正希望条項につき具体的の申出がないから、こんなことは本国政府に進達するわけにいかないと、改正商議を拒否した。翌年正月オランダ公使は、どの条項を改めたいのかと照会してきたが、政府は、何ら具体的な改正案をもっていないので、 抽象的に国内の政体大変ありたるにつき、新事態にとって不都合なてんを改正したいと答えるのみであったという。

  • >>No. 29772

    >幕府の北の守りに対する警戒感は薄かったですね。

    フヴォストフ事件、シャナ事件など、ロシアとのトラブルが起きておりましたが、幕府は軍事強化して、必死に防戦しながら、北の守りに勤めます。その中で津軽藩士殉難事件などが起こります。ところが、維新政府の首脳らには、そのような外交経験が皆無なので、イギリスに日本はとうていロシアに対抗して樺太を確保する力がなく、樺太でぐずぐずするよりも、その力を北海道の経営に集中するがよいと勧告を受け、維新政府は早くも事実上ここをあきらめたのだ。維新政府は、イギリスに従属しながら国づくりをしていきます。だから、イギリスの為にロシアと戦うはめに陥るのだ。

  • >>No. 29770

    >開拓とは朝鮮ではなく北海道樺太では有りませんかね?

    日本はとうていロシアに対抗して樺太を確保する力がなく、樺太でぐずぐずするよりも、その力を北海道の経営に集中するようになる。

  • >>No. 29764

    >領土獲得はともかく、賠償は軍事費から見て割りが合わない。
    そこまで馬鹿ではない。

    幕末に吉田松陰がロシアやアメリカには「信義」をまもりながら、「取り易い朝鮮満州」にて土地にて貿易に失う所を補うべしとのべている。松蔭の弟子たちが指導する新政府は、その師のコースを文字通り実践するのである。

    >開拓は必ずしも領土獲得ではないが、むしろ領土獲得意欲が少ないのではないか。

    木戸は本土の内乱が終わって間もなく彼の日記1868年12月14日の条には「今朝かねて志す所の征韓の一条を大村益次郎を相計る。征と雖もみだりに征するにあらず、宇内の条理を推さんと欲するなり」という。この宇内の条理とは、朝鮮の鎖国を改めて開国させるということです。彼が大村にあてた手紙には、「ひとえに朝廷の力えを以って主として兵力を以って釜山の境を開かせられたく、これ元により金銀物産の利益は之有まじく、却て御損失とは存候えども、皇国の大方向を立て臆万の目を内外に一変し、海陸の諸技芸をして着実に走らしめる」のだといい、またその実行は「干戈を交え候ときは必ず急迫に致さず凡そ年々の入費を定め、一地歩を占め候上とくと後来の掠了をたて、其力の続くべきものを以て倦怠なく尽力」するという。
    木戸はこうして三条・岩倉・木村・大木喬任・後藤象二郎らと当事在朝の大官連と征韓の謀議にふけっていた。「万里の波擣を開拓し、国威を四方に宣布せん」という明治天皇の詔勅は彼らによって作られたものであるので,「開拓」とは彼らの領土獲得意欲の表れで、つまりは領土獲得の意味である。そもそも、「開拓」するには領有が前提になるのでは。

  • >>No. 29762

    >市場を求めて軍国主義に成ったのではない。

    外貨は薩長財閥の懐に入っただけで、軍備は貧困国民の税で賄っていたのだ。それでも足らんから薩長政府は借金で戦争したのである。彼らの頭にあるのは、戦勝による賠償、領土獲得でバランスがとれるという感覚だった。軍事費はほとんどが消耗的経費であり、国民経済に再生産の寄与はしないから、国民が経済的な面でも払った犠牲は大きかった。

    >軍国主義に成ったのはロシアからの防衛のため。

    「旧来の陋習を破り」と開国を宣言した五カ条の御誓文の発布と同時に「万里の波擣を開拓し、国威を四方に宣布せん」という明治天皇の詔勅も発表されておる。「開拓」とは、領土獲得である。

  • >>No. 29759

    >1日12時間労働ですか。

    常時、生糸は13時間ないし15時間で、織物は多くは14時間ないし16時間ですが。

    >今はもっとヒドイのがありやしないか。

    ありゃせんよ!

    >看護婦さんなんかも超過勤務で夜業をしている。

    超過勤務はどこの企業でもあるんじゃないかい。

    >女の子ばかり間引いたとは初めて知った。

    日本の人口は十八世紀半頃まで3千万人ぐらいになって、その後明治のはじめまではほとんど増えなかった。村での生きてゆける人口の上限があったからだ。なるべく喰い口をへらすために子供を奉公に出すか、間引きするかどちらかであった。その子が男性なら「川遊びにやった」といい、女なら「よもぎつみにやった」という。

    >無資源国、日本では外貨獲得のために産業を育成したのです。

    開港から幕末までの主要輸出品は生糸でその割合が明治以降にまして高いです。

    >軍国主義とは関係ないでしょう。

    国家予算の軍事費の割合を見れば軍国主義にならざるを得ない。

  • >>No. 29754

    >職工は、大部分が女性である。その女工が夜から朝まで働く。夜業は一週間から10日まで続いて、昼業と交代する。
    「これまで日本の女の職業で、夜なべはあったが徹夜労働はなかった」と村上信彦が述べている。まさに連日の徹夜労働は、女性にとってあまりにも過酷な仕事であった。

    参考
    石原修は九大医学部で衛生学を専攻した医学士であった。農商務省社会局に入り、紡績工場の監督官として各地を視察してまわった。各地を歩きまわり、数年の精査をへて綿密な基礎資料をつくり,一つを職務上の報告として内務省へ、一つを学位論文として大学へ提出した。しかし二つともタナ上げされてしまった。 「社会へ公表されると影響大なるにより」というのが理由であったが、しかし、大正ニ年十月、国家医学会例会席上で「女工と結核」と題する演説が行われた。

    ・・・労働時間は生糸では十三時間ないし十五時間、織物は十四時間ないし十六時間でありり・・・
    このような過重労働のために一般に女工の体格は悪く若くして女工になったものほど体格が悪い傾向にある。・・
    彼ら女工の体格を調べて見ますると一般に悪い、ことに二十歳未満の者の体格が目だって悪い。そうして長く仕事をやっておりますればおりまするほど,体格が悪くなる。十七歳の者の体格を見ると、十六歳ではいった者より十五歳ではいった者の方が悪い。十四歳ではいった者の体格は、なお劣ります。これらはまったく、労働の過激にすぎはせぬかということの反証であります。・・・・

  • >>No. 29739

    >長時間労働は不思議なことに今でも続いている。

    渋沢栄一はわが国の近代資本主義を築き上げた人物であり実業界の育ての親。彼が1883年大阪紡績を操業し、事業は大成功をおさめ、明治産業発展のため貢献した、と辞書を調べれば書いてある。
    しかし現実には、大阪紡績は、生産性を上げるために、先進国ではほとんどみられたくなりつつあった、昼夜に二交代による終夜業をとりいれた。
    職工は、大部分が女性である。その女工が夜から朝まで働く。夜業は一週間から10日まで続いて、昼業と交代する。
    「これまで日本の女の職業で、夜なべはあったが徹夜労働はなかった」と村上信彦が述べている。まさに連日の徹夜労働は、女性にとってあまりにも過酷な仕事であった。
    1900年(明治33)のある紡績会社の女工に関する恐るべきデータがここにある。
    女工は年間の年期契約で働く。親に支度金がわたされ、若い女工はその支度金にしぼられて数年間働かされることになる。
    繰り延べの数1246人、正当解雇者815人逃走除名828人事故請願退職394人病院帰休者118人死亡者7人、当年度雇用数1538人、正当解雇というのは、無事に年期が明けたものである。逃走除名者とは、仕事のつらさに耐えかねて逃亡した者の数である。
    こうして一年間に、1347名もの女工が、会社から去っていく。したがって、新しく1500名余の女工を、雇いいれなければならなくなる。
    つまり、明治・大正・昭和・現在いずれも国指導者の努力により発展したというよりも、見方をかえれば、弱者の血と汗で発展してきたということです。

  • >>No. 29747

    >明治になって、百姓は女の子を間引きするかわりに、それを娘にそだてて売ることになった。

    薩長政府は、この人身売買を近代化の名のもとに公然と行われていたのである。薩長企業は政府と一体化して、商品の過剰生産の悩みを最大の矛盾として内部に包みながら、一方農村の過剰人口の矛盾を餌食にして奴隷労働に吸収しながら肥大していった。子間引き、捨て子の風習と製糸女工、女中、酌婦、売春婦への身売りの実態とは根本において同じ条件でつながっている。それは薩長政府の農民支配の原理がいぜんとして前近代の農民支配と同質につづいていることをも意味しているといえよう。

  • >>No. 29745

    >麻縄で子どもたちを数珠つなぎにして、ひっぱっていた。

    明治六年に地租改正があり、いままで物納だった税が金納になった。税を金で納めることは、日ごろ金をつかうことのない農村ではじつに大きい負担であったので、村では百姓がばかくさいといって土地を捨てる者が多かった。兄弟が田んぼをゆずりあい、角力をとって負けた方が田んぼをとることにしたという角力取田や、酒一升つけて引きとってもらうという樽田が続出するほど、離農があいついだ。このような状態が明治十七、八年ごろまでつづくのである。そのころ、いままで通用していた太政官札が、日本銀行券にきりかえられ、それがまざまな末端の貨幣流通をはげみ、さまざまの迷惑を庶民にあたえた。
     このような現象はほとんど全国的であったといっていい。おなじころの丹波山中の話であるが、税金が納められなくて郡役所から村々へ督促がきた。百姓たちはみんなでそれをことわりにいくことにしたが、羽織を着ていくと、「その羽織を売って税金をおさめよ」といわれるかも知れないとて、みな蓑笠をつけて出かけていった。
    「税金をおさめない者は国賊であるぞ、どんなに無理算段をしても納めよ」といいうておったから、村の商人から高利の金を借りて田畑を取られた者は少なくなかった。 そうなるとみな働く意欲はなくなって、どこでもばくちが流行した。。ばくちにまけた者で首をくくったという。
    「この村で生きていけるのは、九〇戸までばい。少し増えたと思えば、村を出て行くもん」
    親父のいう九〇戸は、百姓で暮らしていける、村の人口の上限やったっじゃな。百姓だけなら、親父の生まれた西郷戦争のときから明治末までの間に、村はもう伸びきってしまったっじゃな。明治末は九一戸で、すでに定数を二戸オーバーしてるもんな。昭和のはじめ、村の農業戸数は八七戸だったから、九〇戸から逆に三戸減少している。しかし、地主の長野さんの田園が二町歩だから、四戸ぶん寄せていると考えれば、やはり九〇戸。いろいろ変化はあっても、九〇戸は守られているもんな。
     明治時代、分家できなかった百姓の次、三男は、どうしたのか。これだけは、調べてみても分からんかった。他村に出た形跡も、あまりないもんなぁ。子供のとき間引いたのか、子供が分家する年頃に当たらなかったのか一生家を持てずに、下男などして終えたのか。・・・(西川登)

  • >>No. 29739

    >明治になって人口も増え識字率も上がった。

    明治になって、百姓は女の子を間引きするかわりに、それを娘にそだてて売ることになった。
    紡績女工の歌に「うちが貧乏のそのために、幼いそのときに、株式会社へ身を売ちれ」というが、彼女たちの身を買うものが現われたからでしょう。当時の薩長政府は、日本の軍事化のための産業工業化にはその安い労働力が必要だったから、農民の暮らしに余裕を与える政策は行わなかった。

    認識率はもともと高かったようです。

    薩長政府は、労働者や農民の運動を迫害した。こうして全人口の九〇%以上の働らく人々が、極端に貧乏で物を買えないから工業化した製品を国内で売ることができず、日本資本主義はやっと機械を使って大量生産をはじめと、もう恐慌におちいったのである。恐慌はこの後もたびたびおこる。そして薩長企業は、国内ではさばけぬ品を外国の市場が必要になる海外進出の動機が生まれてくる。この国家企業(薩長企業)と地主の要求が、軍人や役人の要求と一致することになる。そこで薩長政府やその企業はますます軍国主義になった。それがまた財閥を肥らせた。地主は政治上にも経済上にも絶大のカをもち、また地主と薩長企業家の利害も根本では一致し、日本では資本主義の発達とならんで封建的な農業があいかわらず重要であったのです。

  • >>No. 29738

    >台湾、樺太、朝鮮などとは条約が結ばれたりして、海外に派遣する必要性が殆どなくなってしまった。
    残るは北海道の屯田兵ぐらいなのだが、そう活用できなかったところが無念。

    西鄕はそうだとしても、血気盛んな若者に活躍する場がなければ、政府にたいする反抗意識が高まるのは当然であろう。

  • >>No. 29732

    >江戸時代も貧しかったですよ。

    西洋人で明治初頭に初めて東北、北海道を旅行したイギリス人女性イザベラ・バードは、女性が一人で旅しても、無礼な目にも強奪にも盗みにもあわないと証言し、新潟から山形へ峠を越えて見た風景を東洋のアルカディアと讃嘆した。

    一般的に年貢は、村全体の石高に対してかけられるので、村役人が農家各戸に分担を割り当てて徴仅し、それを領主におさめていました。その年貢率は通常「五公五民」「四公六民」などといわれ、生産物の40~50%が搾取されていたとするが、それはあくまで建前です。検地はあまり行なわず、一方で農業技術の発達により生産力は年々向上していったので、結果として実質的な税の負担は軽くなっていったのです。一説によれば、実際に支払う率は多くても20%を超えなかったらしい。また、 新田開発がすすみ、耕地は急増した。このため、比較的生活に余裕があったようです。また、一年中重労働をしていたわけでもなく、農閑期はかなり暇だったようです。だが、農村18世紀を境に変貌します。貨幣経済の波に飲まれ、当然、暮らしも変わります。お金の便利さを知った農民たちは、米のかわりに茶、漆、桑といった換金作物を栽培してお金をためるようになる。金で土地を買った者は地主となり、高利貸を始めた者は豪農となり、なかには、貯金で苗字帯刀の権利を買う農民も出た。が、ためた以上に浪費した農民は、土地を手放し、水呑百姓や流浪者に転落します。貧窮化した彼らの多くは家族を扶養できなくなり、堕胎や間引きがさかんに行なわれ、18世紀半ば、人ロは大きく減少した。一気に農民の階層分化が進んだのである。19世紀前半になると、天保の飢饉がこうした状況にますます拍車をかけます。そのうち、農村に流れ込む貨幣に目をつけて、各地から行商人がやってくるようになった。軽業.猿回し、獅子舞を、銭を取って披露する芸人も訪れる。相撲取り. 能役者、歌舞伎役者まで下ってきて興業を行なった。こうして娯楽がにわかに増え、農村に居ながら文化的生活が味わえるようになったのである。しかし、同時に 博打や犯罪も激増し、治安も乱れていきます。そもそも、維新政府は、この臣民の貴重な米を、明治32年まで日本米を輸出して維新高官らの野望である海外進出のために外貨を稼いでいます。

  • >>No. 29732

    >それでも明治以後、絹などを輸出して軍艦も持てた。

    欧米との通商開始以降、最大の輸出品となった生糸は、「生糸と軍艦」といわれたように、生糸の貿易収入で日本は軍艦を購入し、軍備を拡大した。世界から称賛され、当時のパリのファッションを支えた日本の生糸の品質は、江戸時代に準備された。江戸時代初期の生糸は低品質で、高級品は中国から輸入していたことを思い起こせば、江戸時代を通じて日本の製糸業は大きく成長したことになる。

  • >>No. 29731

    >西南戦争は政府の転覆を企てた訳ではないと思います。
    私学校を武力で潰そうとする大久保に対してやむを得ず立ち上がったもの。

    西鄕の一党らも政府に対する反乱のうまい名目がみつからず日を送っていたのでしょう。

  • >>No. 29732

    >江戸時代も貧しかったですよ。
    それでも明治以後、絹などを輸出して軍艦も持てた。
    民主化も昭和には普選が行なわれるようになった。
    諸権利も拡大したと社会主義者も言っておる。

    維新後の薩長政府は、急速に強国を建設することをめざした。そのために多大な資本が必要であった。その必要資金は第一に国民の大半を占める農民の税によってまかなわれていた。維新以後もそれ以前と同じく、農民の負担のもとに成立していたことにかわりなかった。
    江戸時代には隠田や縄のび地とかよばれる、無税地があったが、明治になると、所有の田畑にことごとく課税されたので、農民の暮らしはよくならなかった。さらに近代の産業の労働力は、重圧に苦しむ小農から供出され、低賃金、長時間労働を強制されていた。収奪はより近代的になっただけで、農民を徹底的に犠牲にしていた。そのうえ兵役の義務が加わったのだ。

    参考
    私のじいさんが語りよりましたが、いま市の採石場になっとる所が、兎山というて浜村の株場の草切り場だったそうです。明治になって政府が、一人一人に割ってくれたそうですたい。それでみんな開墾してカライモを一年か二年か作りましたところが、税金をかけたで。ただで作ってよかっじゃろうで思っとったところに、税金が来たもんだから、みんなびっくりして戻してしまったそうです。政府にまた押し戻したもんやっで、政府が松を植えてしまったてな。政府の税金はだんだん高うなってな。百姓は、税金分の作物を作りださん。それで、酒一升でも二升でもつけて、「田園もろうてくれろ」 て頼んで回りよったそうです。「こりゃ税金分は働きださん。汗水垂らして働くよりもう遊んで打ち置け」ていいよったこともそりゃあったんです。(中村藤之吉)

  • >>No. 29727

    >大久保→→→昭和軍閥・・・之にて滅んだ。

     明治維新後、日本臣民は「インド以下」という極端な表現をされた例もあるほどの貧窮を強いられ、民主的な諸権利と自由はほとんど与えられておらんかった。

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