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投稿コメント一覧 (29コメント)

  • 結論【邪馬台国は出雲国】
    『三國志』巻三十「魏書」三十東夷傳倭人の条より
    原文『倭人在帯方東南大海之中依山島爲國邑(略)』
    解釈『倭人は帯方郡の東南の大海の中にあって、山に囲まれ島を連ねて国を造っている。』
    冒頭に表記の『大海之中依山島爲國邑』が重要な意味をもっている。『大海之中』とは【日本海】の事。『依山島爲國邑』とは“山のある島を連ねて国とする”
    “山のある島を連ねて国とする”とは、日本海側から見た中国山脈と島根列島のこと。邪馬台国時代の現:島根半島は島根列島として四島が独立の島であった。
    即ち、朝鮮半島帯方郡西沿岸から日本海を対馬暖流に乗り、出航すると順次、鬱陵(うつりょう)島~竹島~隠岐国(投馬國)現在の隠岐郡都万港そして、対馬国・壱岐国へ行く航路がある。

    従って「魏書」東夷傳倭人条の『南至投馬國水行二十日』意は、朝鮮半島帯方郡西沿岸から【南】の表記は凡そ正しい。争点となる【投馬國】とは隠岐国こと隠岐島【都万港】に比定できる。
    投馬國から『水行二十日』で“大山”を目標に現鳥取砂丘に漂着。そして『陸行一月』をかけ
    出雲国意宇国こと【邪馬台国】に至る。「魏書」東夷傳倭人条の“句読点”を正確に判別のうえ倭人条の文脈構成を理解すると、【出雲邪馬台国】には蓋然性がある。
    因みに、東夷傳倭人条『東行至不彌國百里官曰多模副曰卑奴母離有千餘家。』迄の文脈は陸路距離を明記しており“不彌國”で一区切りである。
    そして【投馬國】への距離は水路のためその距離は朝鮮半島帯方郡を起点とした“日月”を以て表記している。帯方郡西沿岸や新羅國「迎日湾」から南下するリマン寒流と対馬海流に乗り人や馬が搬入されていたものと判断できる。
    2013年7月2日  小林 須佐男

  • >>No. 185489

    訂正
    <誤>朝鮮半島帯方郡西沿岸
    <正>朝鮮半島東沿岸

  • >>No. 185490

    結論:邪馬台国は出雲国
    <誤>投馬國から『水行二十日』
    <正>投馬國から『水行十日』

  • 『南至投馬國,水行二十日』とは“帯方郡”からの航行距離である。

    不彌國から “南”へ水行20日で【投馬國】へ行けると、日本の歴史家は、三国志「魏書」東夷傳倭人条の“句読点”を誤った解釈を犯したがゆえに、邪馬台国論争が依然と混乱のうえ展開されている。
    東夷傳倭人条の文脈構成を正しく解釈すると、東夷傳倭人条『東行至不彌國百里官曰多模副曰卑奴母離有千餘家。』迄が北九州諸国への陸路距離を明記しており“不彌國”を以て一区切りの文脈となっている。
    そして帯方郡(朝鮮半島東沿岸)から南・投馬國(隠岐国都万港)への距離は水路(出雲航路)のため、その距離は“日月”を以て表記していることに気が付くはずである。

    邪馬台国時代の航海はトモド(殿謄戸)舟・帆かけ舟・はにわ舟などにて航行しており、不彌國から “南至投馬國”へとの解釈に従って北九州沿岸から出航して、東廻りの航路にて南下するには、関門海峡と豊予海峡(豊後水道)を乗り切らなければならない。
    豊予海峡は、急流うずまく速吸瀬戸とも呼ばれ、大分県北海部郡佐賀関町佐賀関半島地蔵関崎と愛媛県宇和島郡三崎町佐田岬間の海域を言う。
    豊予海峡こと速吸瀬戸を南下航行するには逆潮流に向かう事であり現在でも至難という。
    当時のトモド舟・帆かけ舟・はにわ舟での航行は対馬海流に流され海流横断は危険であり不可能だったように推察する。
    不彌國から南投馬國に至るには水行20日。そして南へ女王の都・邪馬臺國に至るには水行10日さらに陸行一月かかる。など邪馬臺國へ行くには、水行20日+水行10日(合計水行30日)の航行がとれたとしても、舟は大隈半島を超えるだろう。そして陸行一月もかけて九州内陸を縦断すると九州南端の大隈・薩摩半島に到着するだろう。
    九州南端には邪馬臺國に該当するような遺跡が無いように思われる。
    従って、九州邪馬台国説には地理・物理的にも整合性が薄く不彌國からの『南至投馬國,水行二十日』の航行は現実的に成立しない。
    三国志「魏書」東夷傳倭人条の“句読点”を正確に判別(中国古典文学博士級に翻訳)のうえ三国志「魏書」東夷傳倭人条の文脈構成を解釈すると、帯方郡(現:朝鮮半島東沿岸)から投馬國へは水行20日(視達距離航法)で現:隠岐国(投馬國)に着き、さらに南へ水行10日をかけ伯耆大山(標高1711m)を物標に現在の鳥取砂丘に漂着する。そして陸行20日かけて東出雲国の女王卑弥呼の邪馬臺國に至る。
    当時の対馬暖流とリマン海流に乗った出雲航路によって【出雲邪馬台国説】には蓋然性がある。
    ※俾彌呼の鏡として三角縁神獣鏡(魏の年号:景初3年製)島根県「神原神社古墳」より発見されたのは1972年(昭和47年)8月。赤川(斐伊川支流)堤防改修工事の時、多数の副葬品の中から1枚発見された。この発屈は意宇出雲国が「邪馬臺國」である物的証拠の一つと云える。
    2013年7月14日
    小林 須佐男

  • >>No. 6045

    陳寿編纂の『三国志』の原本は存在していない。
    今日、我々が見ている「三国志」は、北宋第三代真宗の咸平五年(1002年)に
    初めて刊行されたもの。
    古来、中国では【避諱】の慣例があり、親や主君などの目上に当たる者の諱(本名)を
    呼ぶことは極めて無礼なことと考えられており(実名敬避)、特に皇帝および
    その祖先の諱については、時代によって厳しさは異なるが、あらゆる臣下が
    その諱あるいはそれに似た音の言葉を書いたり話したりすることを慎重に避けた。

    【臺】の文字は天子(皇帝)の宮殿の意。また天子直属の中央政庁。
    など、特別な意味を持つ文字であり、北宋時代は特に“文治主義”が一貫して行われていたため
    【避諱】を重視。

    『三國志』巻五十一「吴書」宗室傳第六の条に
    『孫賁字伯陽。父羌字(聖壹)〔聖臺〕,堅同産兄也。』と、記載がある。
    ここでも“聖臺”を(聖壹)と【避諱】を以て記載している。
    現に、北宋の咸平五年(1002年)以前の『三國志』中国正史「後漢書」「梁書」「隋書」においては、全て『邪馬台国』の表記に【臺】の文字を以て明記されている。

    後世の「中華書局」編集部において“聖臺”を(聖壹)と記載した文字を
    「續後漢書」巻五十三・郝經著「校記」の〔聖臺〕を根拠に採取している。
    即ち、誤りの(聖壹)を削り、そして正しい〔聖臺〕に訂正している。
    南宋の人は激しい「攘夷思想」を抱いたとする。
    「紹興・紹煕本」の校訂者がその攘夷思想の故に、「邪馬臺」「臺與」の「臺」という
    朝廷をも意味する文字を「壹」と書き改めたとしても不思議ではない・・・。

    唐の太宗のように避諱を免ずる詔を下す君主もいた(太宗の諱が「世民」であり、
    いずれも平易・頻用の字であったため。後述)が、このような例はまれである。
    2013年7月16日   須佐男

  • >>No. 185832

    正しい漢文のご説明に感銘です。

    『南至投馬國,水行二十日』とは“帯方郡”からの航行距離である。

    不彌國から “南”へ水行20日で【投馬國】へ行けると、
    日本の歴史家は、三国志「魏書」東夷傳倭人条の
    “句読点”を誤った解釈を犯したがゆえに、
    邪馬台国論争が依然と混乱のうえ展開されている。
    東夷傳倭人条の文脈構成を正しく解釈すると、
    東夷傳倭人条『東行至不彌國百里官曰多模副曰卑奴母離有千餘家。』迄が
    北九州諸国への陸路距離を明記しており“不彌國”を以て
    一区切りの文脈となっている。

    そして帯方郡(朝鮮半島東沿岸)から南・投馬國(隠岐国都万港)への
    距離は水路(出雲航路)のため、その距離は“日月”を以て表記。

    須佐男

  • 陳寿編纂の『三国志』の原本は現在なし。『臺』の漢文字は避諱。
    今日、我々が見ている「三国志」は、北宋第三代真宗の咸平五年(1002年)に初めて刊行されたもの。しかしこれも現存しません。現存する最古の版本は「紹興本」と呼ばれるもので、宋の南遷直後・紹興年間(1131年~1162年)のものと言われています。
    それに続いて「紹煕本」というものが刊行され、これが最もよく目にすることのできる、「三国志」の版本だと言われています。紹煕年間は1190年~1194年に刊行されたものです。
    古来、中国では【避諱】の慣習があり、親や主君などの目上に当たる者の諱(本名)を呼ぶことは極めて無礼なことと考えられており(実名敬避)、特に皇帝およびその祖先の諱については、時代によって厳しさは異なるが、あらゆる臣下がその諱あるいはそれに似た音の言葉を書いたり話したりすることを慎重に忌避していた。
    【臺】の文字は天子(皇帝)の宮殿の意。また天子直属の中央政庁。など、特別な意味を持つ文字であり、北宋時代は特に“文治主義”が一貫して行われていたため【避諱】を重視。
    『三國志』巻五十一「吴書」宗室傳第六の条に『孫賁字伯陽。父羌字(聖壹)〔聖臺〕,堅同産兄也。』と、記載がある。ここでも〔聖臺〕を(聖壹)と【避諱】を以て記載。
    北宋の咸平五年(1002年)以前の中国正史『三國志』の中「後漢書」「梁書」「隋書」「北史」に記載の『邪馬台国』の表記には全て【臺】の文字を以て明記されている。
    後世の「中華書局」編集部において、陳壽が“聖臺”を(聖壹)と記載した文字を「續後漢書」巻五十三・郝經著「校記」の〔聖臺〕を根拠に採取している。即ち、誤りの(聖壹)を削り、そして正しい〔聖臺〕に訂正している。
    南宋の人は「攘夷思想」を抱いたとする“北狄南蛮東夷西戎”をもって、「紹興・紹煕本」の校訂者がその攘夷思想の故に、「邪馬臺」「臺與」〔聖臺〕の【臺】という朝廷をも意味する文字を「壹」と書き改めたとしても不思議ではない・・・。
    唐の太宗のように避諱を免ずる詔を下す君主もいた(太宗の諱が「世民」であり、いずれも平易・頻用の字であったため。後述)が、このような例はまれである。
    2013年7月31日   小林 須佐男

  • 「日本書紀」巻第九 氣長足姫尊 神功皇后の条
    原文①『39年是年也。大歳己未。魏志云。明帝景初三年六月。倭女王遣大夫難斗米等。
    詣郡求詣天子朝献。太守鄧夏遣使將送詣京都也。』
    訳①『39年(中略)魏志に云ふ。明帝景初3年6月、倭女王大夫難斗米等を遣して郡に詣り、天子に詣りて
    朝献らむことを求めしむ。大守鄧夏吏を遣して、將送りて京都に詣る。』

    原文②『40年。魏志云。正始元年。遣建忠校尉梯携等奉詔書印授。倭國也。』
    訳②『40年。魏志に云ふ。正始元年、建忠校尉梯携等を遣して、詔書印授を奉じて倭國に詣らしむ。』

    原文③『43年。魏志云。正始4年。倭王復遣使大夫伊聲者掖耶約等八人上献。』
    訳③『43年。魏志に云ふ。正始4年、倭王復使大夫伊聲者掖耶約等八人を遣して上献る』
    〔〇以上三年の記事は後人の加へしものならむ〕と、記載がある。

    ※原文①②③は「新訂増補國史大系」第一巻上 「日本書紀」前編 発行者 林 英男 
     発行所「株式会社吉川弘文館」より引用。
    ※訳①②③は「日本古典全集」日本書紀(訓讀)上巻  正宗 敦夫 編纂校訂
     発行所 合資会社「日本古典全集刊行會」より引用。
    2013年8月3日 須佐男

  • この条文中『倭女王遣大夫難斗米』『建忠校尉梯携等』『伊聲者』
    『掖耶約』の記載に削除と誤転記がある。
    誤『大夫難斗米』・正『大夫は難升米。』
    ※倭女王俾彌呼と邪馬臺國が削除されている。
    誤『建忠校尉梯携等』・正『太守・弓遵と建忠校尉(官名)の梯儁等』(誤転写であろう。)
    誤『伊聲者』・正『伊聲耆』(誤転写であろう。)
    誤『掖耶約』・正『掖邪狗』(誤転写であろう。)
    ※転写の者は漢文字(梯儁・伊聲耆・掖邪狗)などを、余り認識していなかった様に思う。
    何れにしても、この「日本書紀」巻第九 氣長足姫尊 神功皇后の条を編纂・執筆者、若しくは後世にこの条文の改竄者は『三國志』巻三十「魏書」三十烏丸・鮮卑・東夷傳倭人条』を、見ている事が確かである。
    やはり「邪馬臺國」と「倭國女王卑彌呼」が削除され邪馬臺國の両隣国である斯馬國こと石見国(島根県西部)と已百支國こと伊聲耆国(鳥取県西部)が見当たらないのである。
    また、邪馬臺國の高官「伊支馬」こと「大国主命」と「奴佳鞮」こと「額田」などの登場も無い。
    しかし、日本古代史の解明するとき「古事記」「日本書紀」は不可欠な古代歴史書であり、総てを否定する訳にも行かない。

    須佐男

  • ※三国志「魏書」東夷傳倭人条の“句読点”を正確に判別のうえ倭人条の文脈構成を解釈すると
    東夷傳倭人条『東行至不彌國百里官曰多模副曰卑奴母離有千餘家。』迄の文脈では北九州諸国への陸路距離を明記しており“不彌國”までが一区切りとなっている。そして帯方郡(朝鮮半島東沿岸)から南【投馬國】への距離は海路のため、その距離は“日月”を以て表記している。投馬國(隠岐国都万港)から南へ水行10日をかけ伯耆大山を物標に現:鳥取砂丘に漂着する。そして陸行一月かけて東出雲国の女王卑弥呼の邪馬臺國に至る。従って【出雲邪馬台国】には蓋然性がある。
    ※俾彌呼の鏡として三角縁神獣鏡(魏の年号:景初3年製)島根県「神原神社古墳」より発見されたのは1972年(昭和47年)8月。赤川(斐伊川支流)堤防改修工事の時、多数の副葬品の中から1枚発見された。この、発屈は意宇出雲国が「邪馬臺國」である物的証拠の一つと云える。
    2013年8月4日
    須佐男

  • 「古代研究」第9号:1999年5・6月号

    そこで10年前、大阪の長原高廻りから出土した舟形埴輪を10倍の大きさにし、
    実際に木造船として作ってみました。
    現在の船の構造設計者によると、とても構造的に船にならない、ということ
    でしたが、直径2mの丸太をカナダから輸入し、埴輪を忠実に模することに
    より、全長12m、8人漕ぎの古代の準構造船を再現したのです。

    この船を”なみはや”と名づけ、実際に海に浮かべて漕いでみますと、非常に
    安定が悪く、そのうえなかなか進みません。50cmの高さの波がきただけでも
    バランスを失ってひっくり返りそうです。
    1mもの波がこようものなら漕ぎ出すのは到底無理なことです。また喫水が
    浅いため少しの風でも倒れそうになるので、天理の東殿塚古墳から出土した
    土器の絵のように、帆のようなものを立てるなどという事は、現実的に絶対に
    無理なことでした。
    結局、船を安定させるため何百キロという重りを底に入れて、大学のボート部
    の学生に、古代の人が渡ったであろうと思われるコースで、玄界灘を越えて
    韓国に向けて漕いでもらったわけですが、これが殆ど進みません。

    そのまま漕いで行っても、一体何日かかれば港に到着するのか、見当が
    つかないほど進みません。10年たった今だから言えるのですが、韓国の港では、
    学生達が古代の赤いたすきの衣装に着替えて、ずっと8人で漕いできたかの
    ように振る舞ってもらっていましたが、実のところは夜間、他の船に
    牽引してもらっていたのです。
    【財団法人 大阪市文化財協会 調査部長 永島暉臣慎氏】

    以上、邪馬台国時代の古代船も対馬海峡の渡航至難であり、対馬海流と潮流によって、隠岐島や山陰沿岸に漂着する。したがって、最も安全で難破遭難の少ない自然航路を航行する。
    朝鮮半島東沿岸の迎日湾あたりから南下するリマン海流と対馬海流・潮流そして季節風に乗って‘出雲航路’で投馬国(隠岐国都万港)を経由のうえ伯耆大山を物標に現鳥取砂丘に漂着する。そして陸路一月をかけ東出雲・邪馬台国に到達する。
    須佐男


  • 俾彌呼こと天照大神は「古事記」上巻・序・神代の条、天の安河原にて、須佐之男命と誓約の儀式を行ったのだが、この時天照大神は、髪形を角髪・美豆羅(みづら)なる男子の髪型に結い直している。【高句麗種族こと高天原族の角髪(みずら)結い】角髪・美豆羅(みずら)とは、髪を左右に分けて耳のところで輪状に束ね垂らした男子の髪型をいう。
    この、髪型民族の特徴は「古事記」・「日本書紀」で言う所の天津神系海人族と高句麗種族との混合文化圏にみられる。
    「日本書紀」巻第9 氣長足姫尊 神功皇后の条にも『即入海洗之。髪自分也。皇后便結分髪而爲髻。(略)』とある。
    訳『即ち「海」に入って「髪」を「自分」バラバラにして「洗」い。神功皇后「便」ち「分髪」ミグシを「結」い「髻」ミズラに爲す。(略)』と、神功皇后(天皇)が『男貌』ますらおノかたちに装っているのである。
    「古事記」条文には重大な記載がある。『(略)我が國を奪はむと欲(おも)へらくのみ。』と、天照大御神の我が國を、須佐之男命に奪われると考え、男子の髪型角髪に結い直していることである。
    我が國とは、地上の國都であり、都郭を戈(カ・ほこ)を以って守ることなのである。

  • 【俾彌呼時代と遣使名】
    西暦238年(景初2年)6月、邪馬臺國女王俾彌呼の 遣使難升米(ダン・スンミ)こと檀・蘇民(タン・ソミン)別名・須佐之男命と都市牛利(トヒゴリ)2名が登場する。帯方郡太守の劉夏に魏國への朝献申請を行う為である。
    西暦238年(景初2年)12月、難升米(須佐之男命)たちは 申請許可が下りたので、太守劉夏と共に魏國洛陽へ上献。
    ※西暦239年(景初3年)正月明帝崩御。
    『三國志』巻四「魏書」三少帝紀第四条原文『景初3年十二月詔曰「烈祖明皇帝以正月棄背天下」』と 明皇帝が景初3年正月に棄背天下(崩御)との公布日は崩後の‘景初3年12月’の事である。
    明皇帝が崩御してから、約一年間も秘密裡とした事情には、激動乱世であった三国鼎立がその所以であろう

  • 陳寿編纂の『三国志』の原本は現在なし。「三国志」は北宋第三代真宗の咸平五年(1002年)に初めて刊行されたが、現存しません。現存する最古の版本は「紹興本」と呼ばれるもので、印刷技術が始まった、宋の南遷直後・紹興年間(1131年~1162年)のものと言われています。
    それに続いて「紹煕本」というものが刊行され、これが最もよく目にすることのできる、「三国志」の版本だと言われています。紹煕年間は1190年~1194年に刊行されたものです。
    古来、中国では【避諱】の慣習があり、親や主君などの目上に当たる者の諱(本名)を呼ぶことは極めて無礼なことと考えられており(実名敬避)、特に皇帝およびその祖先の諱については、あらゆる臣下がその諱あるいはそれに似た音の言葉を書いたり話したりすることを慎重に忌避していた。
    【臺】の文字は天子(皇帝)の宮殿の意。また天子直属の中央政庁。など、特別な意味を持つ文字であり、北宋時代は特に“文治主義”が一貫して行われていたため【避諱】を重視。
    『三國志』巻五十一「吴書」宗室傳第六の条に『孫賁字伯陽。父羌字(聖壹)〔聖臺〕,堅同産兄也。』と、記載がある。ここでも〔聖臺〕を(聖壹)と【避諱】を以て記載。
    北宋の咸平五年(1002年)『三國志』以前の中国正史の中「後漢書」「梁書」「隋書」「北史」に記載の『邪馬台国』の表記には全て【臺】の文字を以て明記されている。
    後世の「中華書局」編集部において、〔聖臺〕を(聖壹)と改訂した文字を「續後漢書」巻五十三・郝經著「校記」の〔聖臺〕を根拠に採取している。
    即ち、誤りの(聖壹)を削り、そして正しい〔聖臺〕に訂正している。
    南宋の人は「攘夷思想」を抱いたとする“北狄南蛮東夷西戎”をもって、「紹興・紹煕本」の校訂者がその攘夷思想の故に、「邪馬臺」「臺與」〔聖臺〕の【臺】という朝廷をも意味する文字を「壹」と書き改めたとしたと言える。
    唐の太宗のように避諱を免ずる詔を下す君主もいた(太宗の諱が「世民」であり、いずれも平易・頻用の字であったため。)が、このような例はまれである。

  • >>No. 6094

    『三国志』魏書東夷伝倭人条の文脈・句読点を中国の「北京大学」古典文学博士級に
    ‘正解釈’を依頼されてはいかがでしょうか?
    即、結論がでます。

  • 【乍南乍東】「魏書」東夷・倭人条「乍南乍東」についての記載。
    「乍南乍東」とは、忽(たちまち・にわかなさま)の意味である。ここでは舟の揺れ動く「状態」をあらわしており、文脈的には「循海岸水行」を受けている。日本では「あるいは南し、あるいは東し、」とか「たちまち南し、たちまち東し、」など、読み下しているが、陳寿はそのどちらにも読んでいない。
    ※「邪馬台国 中国人はこう読む」  謝 銘仁 著 より。

  • “日本海ル-ト伝来か”【オルド式中国華北式銅剣鋳型】が滋賀県高島市の上御殿遺跡より出土。
    このオルド式中国華北式銅剣鋳型は弥生中期-古墳時代前期(BC350年~AD300年頃)
    「静岡新聞」2013年8月9日(金)朝刊より
    滋賀県高島市には古墳時代中期に“継体天皇”ゆかりの三尾別業(なりどころ)『 高島宮』が造営。
    継体天皇は母の“振姫”を越前三国より迎えている。
    また、高句麗・渤海など遣使の多くは東大海こと日本海の“出雲航路”にて来日している。
    隋文帝の開皇20年(西暦600年)の「隋書」原文『都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也』には『俀國の都は“邪靡堆”ヤマタイにある。「魏志」魏書東夷傳倭人条には邪馬臺ヤマタイ(呼称記載)がある。』そして俀國の都の風土については原文『氣候温暖、草木冬青、土地膏腴、水多陸少 』と記載。
    訳『「氣候温暖」氣候は温暖であり「草木冬青」草木は冬でも青い。「土地」地形は「膏腴」女性の体線のように豊かで高い山並みであり「水多陸少」水(湖)が多く陸地が少ない』と、琵琶湖と山並(近江八景)など淡海・近江国こと滋賀県琵琶湖周囲の地形環境を説明している。
    ※「水多陸少」とは“湖と陸”と対比して表記する用語であり海と陸では無い。
    湖南地域に於いては、瀬戸内気候であり、琵琶湖南地域の温暖な風土を説明している。
    そして、琵琶湖畔には四十数社の出雲系祭神の神社が多く出雲邪馬台国系の王族が政治の首都を“邪靡堆”に遷都したと言える。
    【出雲系祭神】
    伊邪那岐命・伊邪那美命、須佐之男命(素戔嗚尊)、櫛稲田比売命、大己貴命(大国主命)少彦名命、猿田彦命、天之御影命、そして、迦毛大御神(賀茂・鴨大御神)である味耜高彦根命と俀國王・阿輩雞彌(アペヒミ・火君)の祖神・天火明命。などが都・邪靡堆の近江国琵琶湖岸全域に渡って祭祀されている。
    都・邪靡堆の近江国に於いて祭祀されている大半の大神は、意宇出雲・邪馬臺國の大神でもあり
    「隋書」列傳東夷俀國条の原文『都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也』に合致する。
    【小野妹子は近江国出生】
    遣隋使の小野妹子は、近江国滋賀郡滋賀町小野村出身であり、小野妹子の墓は大阪府南河内郡磯長村と滋賀県志賀郡志賀町小野水明の2箇所にある。小野妹子(隋国名・蘇因高:ソインコ。アイヌ語では大使の意:ソンコ・エムコ)。「小野神社」の祭神は小野妹子と、息子の小野毛人命であり、小野毛人命(天武朝の刑部大卿)の
    「毛人:ケヒト」は狗奴國系の名前と思われる。
    鎮座地は滋賀県滋賀郡志賀町小野1961。「日本書紀」によると小野一族は、大和和邇(やまとわに)の祖とも表記されている。大和朝廷成立以前に小野一族は邪靡堆の淡海・近江国の地において、現在の大阪府・京都府・
    奈良県・三重県・愛知県などの広大な地域を統治していた王族である。

  • >>No. 186436

    古代中国漢文の句読点はかなり教養レベルの高い大学教授でも誤ることがあると聞いています。
    現在、中国の下記“日本学研究機関”にて日本の歴史を研究中です。
    『三国志』魏書東夷伝倭人条の正確な翻訳が今後期待できます。
    【日本学研究機関一覧】
    [大学]浙江工商大学日本文化研究所。南開大学日本研究院。(台湾)淡江大学日本研究所。山西大学日本研究中心。遼寧大学日本研究所。山東大学日本研究中心。南京大学中日文化研究中心。復旦大学日本研究中心。北京外国語大学日本学研究中心。(台湾)開南管理学院日本研究中心。河北大学日本研究所。華東師範大学日本中日関係研究中心。大連大学日本語言文化学院。中国農業大学中日食品研究中心。吉林大学東北亜研究院。東北師範大学日本研究所。(香港)中文大学日本研究学系。湖南大学日本文化研究所 。湖南大学亜太研究中心。中国人民大学日本研究中心。北京大学日本文化研究所。北第二外国語学院日本研究所。延辺大学中朝韓日文化比較研究中心。大連民族学院日本研究所。大連大学日本言語文化研究中心。華東師範大学日本研究中心。上海音楽学院中日音楽研究中心。吉林大学日本研究所。河南大学日本研究所。華東師範大学日本教育研究所。上海外国語大学日本研究中心。同済大学日本学研究所。広州中山大学日本研究中心。広州中山大学華南日本研究所。青島大学日本研究中心。南京師範大学南京大虐殺研究中心。
    [学会] 中国中日関係史学会。中華日本学会。浙江省中日関係史学会。東北地区中日関係史学会。中国日本史学会。北京市中日関係史学会。中国日本文学研究会。中国日本哲学研究会。中国日本経済学会。上海市日本学会 。
    [社会科学院] 中国社会科学院日本研究所。天津社会科学院亜太研究所。中国社会科学院日本歴史與文化研究中心。中国社会科学院中日経済研究中心。上海社会科学院亜太研究所。上海国際問題研究所。天津現代日本研究所。吉林省社会科学院日本研究所。黒龍江省社会科学院日本問題研究中心。
    [その他]日本文化網(浙江工商大学)。(台湾)日本総合研究所。人民日報「日本網」。中日歴史網(南京師範大学)。日本学関係HPガイド。918事変記念館。中日関係論壇(時事BBS)。国務院発展中心亜非発展研究所。
    作成:中国・浙江工商大学日本文化研究所

  • 倭人条原文「自女王國以北,特置一大率, 検察諸國, 諸國畏憚之」

    正訳「女王國の北に、特に一つ大率を置いて、諸国を監督、検査させる。
    諸国は皆この“大率”を畏怖する。

    翻訳者:超方任「北京大学」学士 優秀卒業生 専攻:中国古典文学、中国言語、中国文学学部、「東京都立大学」文学博士 専攻:中国語学、茶文化

  • 倭人条原文「常治伊都國,於國中有如刺史。」
    正訳「常にその(大率)役所を伊都國に置く。諸国に対して、刺史(中国の地方長官です。今の知事のような官職です。)のような存在です。

    翻訳者:超方任「北京大学」学士 優秀卒業生 専攻:中国古典文学、中国言語、中国文学学部、「東京都立大学」文学博士 専攻:中国語学、茶文化

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