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投稿コメント一覧 (2682コメント)

  • >>No. 61490

    >皆さん

    >ありがとうございました!!!

    その通り、無量寿の仏は、無量(量り知れない)、無限大のお心ですね。
    その無量寿の光を信じるならば、

    テレゼさんにも「ありがとうございました!!」とご挨拶したらいかかですか。

    大人になることをお祈りしています。
    傲慢な逆風をありがとうございました。

    それでは、(^^)

  • >>No. 13898


    ●不二中道(此縁性の縁起)●

    >不二一元論は釈迦の教え仏教にあらず

    釈迦とは一族の名ですから抵抗を感じますので、
    釈迦族の尊者という「釈尊」と私は呼び名しています。

    そうですね。
    正覚後の釈尊が発見したのは「此縁性の縁起の連鎖」。
    この二支縁起を、後に、不二中道といっていますね。
    それは、普遍的真理です。

    「これがあればかれが成立し、これが生ずればかれが生じ、これがなければかれが成立せず、
    これが滅すればかれば滅する」(此縁性)

    ここから釈尊の旅は始まり、仏教が始まりました。

    “釈迦カルト”の穴から脱して、釈尊の学び直せることをお祈りいたします。
    お元気で。

  • テルゼさん、
    真っ直ぐに激しく対立しながら
    テルゼさん、
    貴女のおかげで、仏教学に邁進できました。
    テルゼさん、
    貴方は善きライバルでした
    テレゼさん
    弱い私は鍛えていただき
    ありがとうございました。

    心より感謝申し上げます。


  • ●「被爆の赤ちゃん」は何処にいったの?●

    >ショーシャンクさんの言う「ベトナムの赤ちゃんの爆弾」の話とは、
    >こういうことではないかと思いました。
    >自分に起こる現象の責任は自分にあるのではないかと。

    「無量の世界」を知らない、なんと無慈悲な話だろうか。
    この、生と死を量る「有量の命の世界」では、無数の縁によって“被爆し赤ちゃん”は死んでしまった。
    しかし、「無量の命の世界」において“被爆した赤ちゃん”は死んではいない。
    「有量の命の世界」の戦争の残酷さを、私たちに知らせるために、その身を犠牲にし、
    「無量の命の世界」に姿を隠しただけである。

    私たちに、慈しみの心を持たせるために姿を隠した。

    そして「無量の命の世界」に行った“被爆した赤ちゃん”は、
    「有量な命の世界」の私たちに、「戦争をしないでね」というメッセージを送りながら共に生きている。

    「無量の命の世界」に行った赤ちゃんは、「有量の命の世界」の私たちと共に生きている。


  • ●「無量の世界」と「有量の世界」の此縁性●

    >「無量」という言葉をショーシャンクさんが盛んに口にされるようになって……。

    「無量」とは、「量ることができない」という世界―――――無分別・平等の世界。
    しかし、「無量」というのは、「有量」との対立概念である。
    その「有量」とは、「量ることを有する」という世界――――分別・差別の世界。

    仏教的には世界は縁起で成立し、その基本的は、此縁性という二支縁起である。
    「無量」も「有量」との二支縁起によって存在し、独自には存在できない。
    「無量」への執着も、「有量」への執着の偏見で、正しい見解とは言えない。

    「無量の世界」に照らされて「有量の世界」を生きる。

    ――というのが正見というのが仏教――不二中道という。


  • ●「被爆の赤ちゃん」は何処にいったの?●

    >ショーシャンクさんの言う「ベトナムの赤ちゃんの爆弾」の話とは、
    >こういうことではないかと思いました。
    >自分に起こる現象の責任は自分にあるのではないかと。

    「無量の世界」を知らない、なんと無慈悲な話だろうか。
    この、生と死を量る「有量の命の世界」では、無数の縁によって“被爆し赤ちゃん”は死んでしまった。
    しかし、「無量の命の世界」において“被爆した赤ちゃん”は死んではいない。
    「有量の命の世界」の戦争の残酷さを、私たちに知らせるために、その身を犠牲にし、
    「無量の命の世界」に姿を隠しただけである。

    私たちに、慈しみの心を持たせるために姿を隠した。

    そして「無量の命の世界」に行った“被爆した赤ちゃん”は、
    「有量な命の世界」の私たちに、「戦争をしないでね」というメッセージを送りながら共に生きている。

    「無量の命の世界」に行った赤ちゃんは、「有量の命の世界」の私たちと共に生きている。


  • ●「無量の世界」と「有量の世界」の此縁性●

    >「無量」という言葉をショーシャンクさんが盛んに口にされるようになって……。

    「無量」とは、「量ることができない」という世界―――――無分別・平等の世界。
    しかし、「無量」というのは、「有量」との対立概念である。
    その「有量」とは、「量ることを有する」という世界――――分別・差別の世界。

    仏教的には世界は縁起で成立し、その基本的は、此縁性という二支縁起である。
    「無量」も「有量」との二支縁起によって存在し、独自には存在できない。
    「無量」への執着も、「有量」への執着の偏見で、正しい見解とは言えない。

    「無量の世界」に照らされて「有量の世界」を生きる。

    ――というのが正見というのが仏教――不二中道という。

  • >>No. 3352

    ●全宇宙の一切のものに生かされてる●

    >textreamに関わってる、関わった、すべての生命にありがとうございます。

    仏教哲学では、原因となる宇宙の一切のものを増上縁とか言いますが、
    私たちは、宇宙の一切のものに生かされているのでしょうね。
    しかも、無限の過去からの一切のものにも生かされている。

    ですから、見えるものでも見えないものでも、
    「すべての命にありがとう!」
    と言えたら、無上の幸福ではないでしょうか。

    「全宇宙の一切のものに、ありがとう!」
    と言えるように成られることをお祈りしています。

    お幸せに。

  • >>No. 61334

    >文章というものは、自分のために書くものなんだよ。

    ハイハイ (^^)
    貴方へのレスも、みんな自分のために書いているのですから、
    >バカじゃね?
    と悪魔にならないことですよ。

    さて、生活から考える仏教について、自分のためにレスしますね。


    ●われは生きている。ゆえにわれ有り●

    先ずは、中村元『自己の探求から』

    イスラーム世界の哲人アル・カザーリーは、自我の存在の問題を論じ、デカルトのいう「我は考える。
    ゆえに我あり」ということを発見した後に、この命題をさらに吟味して、
    「われは生きている。ゆえにわれ有り」
    と主張するようになったという。

    思えば両足尊と言われる釈尊も、抽象的思索の結果到達して知り得た結論ではなく、実際に極限状態
    に生きてみて自覚したのが縁起の自己である。

    私たちも、釈尊と同じように、「生きている」と自覚と反省から出発したいものである。
    それは、誰しもが日常生活において実感していることである。

    私たちは生きて行くためには働かなければならないという厳しい現実を、骨身に染みて実感している。
    生活するためには、私たちは食料、衣料、住居などを必要とする。
    それらのものは、無数の多くの他人が作ってくれたものである。
    私たちはそれらの人々に依存し、それらの人々に助けられて生活している。
    それが無我の内実であり、私たちは、人々と共にあり、人々の内にある。
    それだからこそ、人は、“人の間”という人間という漢字が適用する。

    ………

    釈尊は、正覚後に、無数の多く要因によって生かされている自己を、二支縁起の連鎖と形でまとめた。

    他に縁る“おかげ様の自己”である。
    それを知見するためには、釈尊がそうであったように、今ここに生きている自己を見つめることから
    出発したい。

    仏教とは何か――それは、日常生活を生きている現実の自己の自覚と反省であった。


  • ●われは生きている。ゆえにわれ有り●

    先ずは、中村元『自己の探求から』

    イスラーム世界の哲人アル・カザーリーは、自我の存在の問題を論じ、デカルトのいう「我は考える。
    ゆえに我あり」ということを発見した後に、この命題をさらに吟味して、
    「われは生きている。ゆえにわれ有り」
    と主張するようになったという。

    思えば両足尊と言われる釈尊も、抽象的思索の結果到達して知り得た結論ではなく、実際に極限状態
    に生きてみて自覚したのが縁起の自己である。

    私たちも、釈尊と同じように、「生きている」と自覚と反省から出発したいものである。
    それは、誰しもが日常生活において実感していることである。

    私たちは生きて行くためには働かなければならないという厳しい現実を、骨身に染みて実感している。
    生活するためには、私たちは食料、衣料、住居などを必要とする。
    それらのものは、無数の多くの他人が作ってくれたものである。
    私たちはそれらの人々に依存し、それらの人々に助けられて生活している。
    それが無我の内実であり、私たちは、人々と共にあり、人々の内にある。
    それだからこそ、人は、“人の間”という人間という漢字が適用する。

    ………

    釈尊は、正覚後に、無数の多く要因によって生かされている自己を、二支縁起の連鎖と形でまとめた。

    他に縁る“おかげ様の自己”である。
    それを知見するためには、釈尊がそうであったように、今ここに生きている自己を見つめることから
    出発したい。

    仏教とは何か――それは、日常生活を生きている現実の自己の自覚と反省であった。

  • >>No. 13492


    ●「修羅道に堕ちた他力僧」の話●

    倫夫さん、最後に「修羅道に堕ちた他力僧の話」を、贈る言葉として献上いたします。

    こんな話があります。
    「ある所に他力堅固に修行する坊さんがいた。この坊さんは、いまどき自分ほど他力堅固な者は
    いないと気負うところがあった。『それまたあいつは他力ではなく自力だ』『あれは仏の教えに背いた』
    と心の中で思っていただけで、その身が終ってから、生々世々修羅道に堕ちた」

    このままだと、倫夫さんは、浄土へは行けずに、修羅道に堕ちるそうです。
    気をつけたいですね。

  • ●われは生きている。ゆえにわれ有り●

    イスラーム世界の哲人アル・カザーリーは、自我の存在の問題を論じ、デカルトのいう「我は考える。
    ゆえに我あり」ということを発見した後に、この命題をさらに吟味して、
    「われは生きている。ゆえにわれ有り」
    と主張するようになったという。

    思えば両足尊と言われる釈尊も、抽象的思索の結果到達して知り得た結論ではなく、実際に極限状態
    に生きてみて自覚したのが縁起の自己である。

    私たちも、釈尊と同じように、「生きている」と自覚と反省から出発したいものである。
    それは、誰しもが日常生活において実感していることである。

    私たちは生きて行くためには働かなければならないという厳しい現実を、骨身に染みて実感している。
    生活するためには、私たちは食料、衣料、住居などを必要とする。
    それらのものは、無数の多くの他人が作ってくれたものである。
    私たちはそれらの人々に依存し、それらの人々に助けられて生活している。
    それが無我の内実であり、私たちは、人々と共にあり、人々の内にある。
    それだからこそ、人は、“人の間”という人間という漢字が適用する。

    釈尊は、正覚後に、無数の多く要因によって生かされている自己を、二支縁起の連鎖と形でまとめた。

    他に縁る“おかげ様の自己”である。
    それを知見するためには、釈尊がそうであったように、今ここに生きている自己を見つめることから
    出発したい。

    仏教とは何?――それは、日常生活を生きている現実の自己の自覚と反省であった。

  • >>No. 199739

    >私はそうではない「正義」を目指します^^

    そういう”貴方の知恵”が愚かということです。

    「そはこの世の智慧は、神の前では愚かなればなり」(コリント前3の19)

    それでは、神の愛に抱かれている自己を発見できますようにお祈りいたします。

    さらば、メタトピ●

  • >>No. 199706

    ●正義は愚な知恵である●

    >なんか和ちゃんは以前の和ちゃんに戻っちゃっている感じ・・・?

    どうも思われても結構ですが、正義は人を苦しめます。
    「正義という阿修羅の自己」をやっと手離せましてね、次のことが自覚されました。

    人間の正義――自己中心正義の知恵は阿修羅。
    神の叡智―――自己を手離した無償の愛。

    さんね・倫夫コンビに分かっていただきかったのはそれだけですが、
    人は、分かってもらおうとしただけで阿修羅に陥るということを自覚しました。
    さんね=倫夫=ユリ=無依……それからこのトピにいる私……みんな阿修羅です。

    愚かな正義の人に、分かってもらおうとは思いませんが、
    『聖書』の言葉をお贈りしてお別れとしましょう。
    無依さんにも、正義の愚かさを教えていただきました。ありがとう。

    「そはこの世の智慧は、神の前では愚かなればなり」(コリント前3の19)


    それでは、写真道に邁進して下さい。 (^^)

  • >>No. 199700

    ●神の身元に立てば●

    >和弘さんは私たちとは違うところに
    >目がいくのですね。

    ハイ!
    神の「無償の愛」
    仏の「慈悲」
    の世界です。

    神の前に立てば、私たちは、他を攻める罪を犯す阿修羅です。
    仏の前に立てば、私たちは、慈悲なき阿修羅です。

    神のハカリの発見ですよ。

    神に前に佇む日が来ることをお祈りいたします。

  • >>No. 4828


    ●普遍者(梵)を具現する自己(我)●

    根本的な箇所なので横から失礼します。

    >ただ、私はどっちかいうとやはりアドヴァイタなので、「個人は実は存在しない」という考え方なので、
    >現象の変化もそれはあくまで「全体性の中でのもの」と思うのですね。


    そうか、赤い実さんは、アドヴァイダすなわち、ウパニシャッドの梵我一如思想を徹底した、
    「ブラフマンのみが実在する」という不二一元論者だったのですね。

    アメリカの知性とされるエマソンも、ウパニシャッドの梵(大我・the Self)と観念に引きつけられ
    大霊(Oversoul)説を唱え、大霊(梵)という“普遍者を具現する自己”の自覚を唱えたと言います。

    「汝自身を信頼せよ(Trut thyself)。どの心もその鉄の弦(つる)の調べにしたがって振動する」

    ブラマンという普遍者とアートマンという個の一体感といったところなのでしょうか。
    「全体のために働いて止まない個」という、真実の個人主義の出現と言われます。

    ということは、梵我一如という“普遍者を具現する自己”を自覚(直接体験)するためには、
    アートマン(我)の一切を否定し、ブラフマン(普遍者)に投げ入れなければなりません。
    我のすべてを普遍者に投げ入れば、普遍者と一体化した「普遍的な自己」を自覚できるという
    ことでしょうか。

    同じウパニシャッドでも、梵我一如の解釈が違うようですね。
    私は、「汝自身を信頼せよ(Trut thyself)」というエマソン説に魅かれるのですが、それは、
    その人の業縁によって違うのですから、赤い実さんの信じるアドヴァイダを知見する方向へと
    真っ直ぐ進まれたら良いのだと思います。

    私も最近になって漸く「我を手離す場」を発見したのですが、私の場合は、どうしても普遍者
    は知れず、「普遍者のはたらき」になら我を手離せることを自覚(直接経験)しまして、身が
    軽くなりました。

    その弱き私にとっての「普遍者のはたらき」の自覚は、真観・清浄観・広大智慧観・慈観・悲観」
    という観音の“成り切る観察行”の自己への滲入で、私にとっては、その観察の只中が寂静の涅槃
    であり、浄土であることを自覚しました。

    弛緩と集中の二元を超えた“おかげさま”の世界。
    ブラフマンとアートマンの二元を超えた“おかげさま”の世界。
    比量(論理)的には、
    釈尊が発見された此縁性という二支縁起の連鎖、超二元の連載ということになりましょうか。

    そうはいっても、此れは、弱き業縁を背負った、「善き生き方」への手段であり、人によってその
    手段は違うのでしょうね。

    アドヴァイダこそ直接体験です。
    赤い実さんは、赤い実さんの、アートマンが滅する道を真っ直ぐお進み下さい。
    掲示板が終るに当たって、アドヴァイダの成就をお祈りいたします。

  • >>No. 38848

    信仰の神秘は、理性では把握できませんから、
    神秘は、霊において直接体験する以外にないと思います。

    直接体験をされんことをお祈りしています。

    それでは、お世話になりました (^^)

  • >>No. 199657


    ●「修羅道に堕ちた他力僧」の話●

    私も「合掌する阿修羅」でしたが、このトピでみんな修羅道に堕ちてしましたね。
    そんな「修羅道に堕ちた自己」を、“仏のはたらき”に手離したら、“仏のはたらき”の中で
    救われています。

    最後の、「修羅道に堕ちた他力僧の話」を、贈る言葉として献上いたします。

    こんな話があります。
    「ある所に他力堅固に修行する坊さんがいた。この坊さんは、いまどき自分ほど他力堅固な者は
    いないと気負うところがあった。『それまたあいつは他力ではなく自力だ』『あれは仏の教えに背いた』
    と心の中で思っていただけで、その身が終ってから、少々世々修羅道に堕ちた」

    それでは、お世話になりました。
    無事を祈ります。

  • >>No. 199684

    ●敵も味方もなく、みな凡夫の人間●

    >和ちゃんは掲示板はものすごく不向きな気がします^^;
    >情緒不安定にみえますね(#^.^#)

    以前はそうでしたが、いまは、そんな自分の全てを仏のはたらきに手離して
    いますので、大丈夫ですよ。

    自己を仏にはたらきに手離しますと、敵が味方もなくまして、
    その人のために、その人に応じて姿を変えるから、情緒不安定に見えるのでしょうね。

    真実の世界では、皆凡夫です。
    さんね・倫夫コンビも、テルゼさんも、無依さんもユリさんも、私も、
    神仏という理想的人格からしたらみんな凡夫です。

    このトピで、凡夫という人間が阿修羅に落ちてしまっていたのです。
    ですから、沈黙して凡夫という人間に戻ったテレゼさんを、そっとしておきましょう。
    というお話です。

    テルゼさんを、人間として、このトピを浄めて終わりたいと思います。

    それでは (^^)

  • >>No. 199634

    ●過去ログは阿修羅●

    この頃のテルゼさんね。
    「お前は、宗教者として人格に問題がある」
    凡夫の弱みを突く阿修羅でした。

    しかし、今は、沈黙を守っているのだから、
    阿修羅から卒業され、人間としての宗教者に戻っているはずです。

    沈黙のテレゼさんは、再び阿修羅に貶めてはいけません。

    ユリさん自身が阿修羅に落ちていると思いますよ。

    沈黙のテルゼさんは、そっと見守ってくださいね。

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