ここから本文です

投稿コメント一覧 (12コメント)

  • >>No. 2

    楽しみにしてるよ。 きみがプロの保護活動家(聖霊)となって帰って来る日を。

    オレはプロの里親(イエス・キリスト)として、そういう人脈を待ち望んでいる。

  • >>No. 1

    プロの保護活動家(聖霊)になれれば、プロの里親(イエス・キリスト)である彼に
    会えるかもな。

    もう、それに賭けるしかないだろう。それ以外の道が地獄へ通じている以上・・・・
    きみは、そうして自分自身を確立するしかないのだ。

  • アニメ好きな偽善者に限って、「アニメ作品への共感性」と「アニメキャラへの執着心」
    との区別を曖昧にし、アニメへの関与自体には何も問題がないかのように話を摩り替え
    ようとする。
    問題がないのは、共感性の部分だけである。
    執着心が明らかな状況がそこにあり、にもかかわらず当事者にアニメを提供し続けると
    いうことには言い逃れできない社会的責任が存在するのだ。
    それは言い方を換えるなら、動物虐待を遂行中の者に小動物を無条件に与えるようなも
    のだからである・・・・・。

  • ヒロミ&伊代を、これから芸能界の「ミニヒトラー」と呼ぼう。

    BPOは、この夫婦を要注意人物として監視対象にすべきだよな。=`ω´=) アタマオカシイデショ コイツラ!

  • なぜ、ヒロミはコンサートを止めなかったのか?

    「やっちゃっても大丈夫なんじゃない?」と、あのふてぶてしい顔でGOサインを出したのは、
    端的に言って「世の中をナメきってる」「一般人なんか何もできやしねーよ」という少年犯罪者
    特有の心理が働いたからと推定できる。

  • 客観性を重んじる社会的常識人の目から見た〝主観性〟が、常に胡散臭く思われるのは、この職業的に客観化
    した「薄汚れた主観性」を念頭においてしまうからだ。
    「薄汚れた主観性」が、メディアを通じ拡散した場合、爆発的な精神的感染力(サイキックアウトブレイク)を
    発生させることになる。この〝命〟への憎悪に満ちた精神作用は、酷たらしい事件や悲惨な出来事となって現象
    するのだが、われわれはその最たるものを「ホロコースト」によって経験しているのである。

    小さな「ホロコースト」は、今も続いている・・・・小さな「ヒトラー」という「薄汚れた主観性」の持ち主た
    ちの跳梁を許すかぎり、それを止めることはできないのだ・・・・・・・・・。

  • マスメディアという客観的方法で、おのれの主観性を撒き散らすタレントや芸能人という人種。
    一般大衆は、彼(彼女)らを好意に近い「特別な思い」で眺めている。
    まるで、ドイツ国民が「ヒトラー」をそうして見ていたように・・・・・・。

    しかし、彼(彼女)らは一種のキ○ガイなのだ。
    キ○ガイでもなければ、おのれの主観性を人前で晒け出そうとなどしないだろう。
    われわれは、彼(彼女)らへの眼差しを変える必要があるのかもしれない。

    タレントや芸能人、特に芸人などは、キ○ガイを眺めるように観察していれば、それでいいと
    思えるのである。

  • おのれの主観性を「職業として客観化している」少数のタレントや芸能人などという人間を、われわれはマス
    メディアを通じて日常的に見聞きしている。
    本来、主観性とは社会性を超越したところ(但し反社会性という意味ではない地点)において問われるとき、
    はじめて世界内に燦然とした輝きを放つのであるが、職業として客観化され色褪せてしまった主観性は、もは
    や社会的支配層の都合のいい道具としての意味しかもっていないのだ。
    そういう薄汚れた主観性は、本来の主観性を憎悪し排除しようとすることがある。

    このような事態を分かり易く説明するために、「ヒトラー」という最悪な主観性の持ち主に登場願おう。
    芸術家志望であった「ヒトラー」の主観性は、職業として客観化することはなかった。もしそうなっていたら
    彼の人生は少なくともあのような悲劇で終わることはなかっただろう。
    彼の主観性は、政治家として客観化されてしまったのである。
    しかし、この職業化された薄汚い主観性は、社会性を超越したところに不朽の価値を持ち続ける〝命〟を
    憎悪したのだ。 この芸術家崩れの穢れた怪物が憎悪し排除しようとしたものとは「異民族の〝命〟」と
    いう主観性が気づく、かけがえのない存在(ユダヤ民族)に向けれられてしまったのである。

  • 社会関係の構築は、資本主義社会の中にあっては「金銭的価値体系への所属」を選択す
    ることに他ならない。
    それは徹頭徹尾「客観的に」行われることになる。
    なぜなら、それは有限な社会資本の割り当てを決めることに繋がり一切の主観性を排除
    しなければ社会それ自体が崩壊してしまうからである。

    いったい自分の希望ばかりいう人間が、社会的義務を果たせるだろうか?
    何らかの製品を製造しなければならない現場で、その工程に従わず自分のやり方でしか
    動かない人間が社会の中で役に立つ人材であると言えるだろうか?
    少なくとも社会関係を構築する段階では、すべての者は一人残らず「客観的」に物事を
    考えなければならないのである。

    〝主観性〟ということが重要な意義をもって現前するのは、そのあとでいいのだ。

    ここで、きわめて重要な問題が生じることとなる。
    20歳以前に自分の進路を誤らないように「その3」を選択する者が是非とも知って
    おかねばならないことなのだが・・・。
    「その3」の職業(のある分野)だけは、その選択の段階から〝主観的〟であり、
    所詮は変わり者というレッテルを貼られ最悪「嘲笑のフィナーレを迎える」運命でし
    かないということである。
    「その1」と「その2」の職業には、そういうリスクは存在しない。

    しかし、「その3」の職業(のある分野)を選択しようとする者の多くは、こう考え
    ているようなのだ。
    それは、先人の職業的成果を見過ぎているからなのかもしれないが、「自分の主観性
    はすでに客観的に価値があるのだ」と信じている。
    もし、一定数の主観的共感が客観的価値に転化するとでも思っているなら、それは
    大間違いだ。主観はあくまで主観でしかなく、社会関係を構築する大多数の人間たち
    の目からは、ただの主観という蔑称に近い外形でしかないのだから。

  • この分類を、どう利用するかは読者の自由である。
    願わくは、10代の学生諸君の目に止まることを祈るばかりだが・・・・。

    ここで若干、補足しておくことがある。
    その3の職業にあえてチャレンジしようとする者が勘違いし易いのは、その1やその2
    の職業との収入の格差だ。
    その3の職業は、もちろん有名になれば稼げるかもしれない。 しかし、その1やその
    2で有名な者に較べれば、その儲けは100分の1~1000分の1程度のものであるに
    過ぎないのである。
    その1やその2の職業であれば、無名であっても1千万円以上の年収を得ることは十分
    可能だが、その3の無名な者は年収10万円とかいうのもザラで必然的に、その4との
    掛け持ちにならざるを得なくなってしまうのだ。

    その3の職業を選ぼうとする者は、収入のことをあまり考えないでも生きられる性格か
    どうかを、まず自分に問う必要があるだろう。

  • 職業の種類その1・・・・「社会的認知度が高く志望者が多い職業」
                *一般のサラリーマンなど

    職業の種類その2・・・・「社会的認知度が高く志望者が少ない職業」
                *医療系法律系の専門職など

    職業の種類その3・・・・「社会的認知度が低く志望者が多い職業」
                *芸能人(芸人)、漫画家など

    職業の種類その4・・・・「社会的認知度が低く志望者が少ない職業」
                *フリーターなど

  • 20代以上のほとんどすべての男性と一部の女性たちは、自分自身のふつうであれば
    約40年、長ければ60年以上に及ぶ今後の社会関係の構築の仕方(すなわち職業)
    の選択を迫られることになる。
    ところで、およそ、この社会に存在する職業には4種類あることをご存知だろうか?

    この4種類の中から自分自身に最も合うと確信する職業を選べる者は、それだけで、
    ほぼ人生の勝者と言っていいのである。
    なぜなら、ここで選択のステップを踏めなかった者のその後の人生には、常に不本意
    さや徒労感、環境との違和感といった敗者特有の精神状態が付き纏うからだ。

本文はここまでです このページの先頭へ