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投稿コメント一覧 (568コメント)

  • 毎日、大量のパソコンやスマホが生産されている。その内の一台を使って、私はこの文を書いていて、またその内の一台を使って、訪問者がこれを読んでいる。

    そのパソコンには当然設計者がいて、そして(例えば商業的など意図など)明確な意志があり生産されたことを、誰も当たり前に理解していて、考えさえしないかもしれない。

    一方、現代科学では生命は作り出せない。それはパソコンやスマホよりも精緻だからだ。

    それなのに、進化論を信じる人達は、生命には設計者も無く、生命誕生は偶然であり、意図や意志が無いと考えている。

    上記を考慮した時、進化論は理に適っているでしょうか。何かが論理的でないと感じないでしょうか。

  • 私達の生活は、気の遠くなる様な大きな秩序の上に成立している。

    近隣の星との重力と遠心力の微妙なバランス、太陽との距離、地球の自転の速度、水の循環、食物連鎖、精緻な生命構造などなど、枚挙すればきりがない。

    仮に何かが少し異なるだけで、私達の生活にとって致命的な脅威となる。奇跡的な程に素晴らしい秩序、創造者の私達への大きな気遣いの上に、人類は生きることが出来る。

    そういった奇跡を、気遣いを毎瞬間受けて、全く目の当たりにしているが、それが続いているが故に驚きや感謝の念は薄れ、多くの人は神の明らかな証が見えなくなっている。

    創造者が正に知恵と愛を持って世界を造られた、と聖書の詩編136編では讃えられている。

  • ロボットを作ることが出来る技術者は、壊れたロボットを直すことが出来る。更に言えば、また新たに、全く同じロボットをゼロから作ることも出来る。

    神が人間を創造したと確信出来るならば、神がキリストを復活させることが出来た、また誰でも望む通りに復活させることが出来る、と同じく確信する事が出来る。

  • この世の支配者を神と呼ぶ人は多い。しかし、聖書によると、現在の世の支配者は悪魔サタンである。

    以下、参照聖句:
    ヨハネ第一5:19
    ヨハネ12:31
    ヨハネ14:30
    コリント第二4:4
    ルカ4:6

  • 旧約聖書時代に於いて、神の名においての戦争は存在した。イスラエルが神に選ばれた民であったからだ。

    しかし、イエスの教え以降、救われる対象は全人類に拡大された。

    参照聖句:
    使徒10:44-48
    マタイ28:19

    つまり、全国民が兄弟姉妹となれる様にされた。この時から、あらゆる戦争は聖書の教えに反する、反キリスト的な行為となる。

    参照聖句:
    マタイ5:43-44
    マタイ5:9
    マタイ26:52
    ガラ5:22
    ヤコブ3:18
    ヘブライ12:14
    ヨハネ13:34-35

    つまり一世紀以後、戦争を行う者はキリストの教えを知らない非キリスト者、或いは偽のキリスト教徒である。

    十字軍戦争などは、政治権力を求めた偽キリスト教徒の行いである。真のキリスト教は汚名という形で、むしろ被害を被った犠牲者である。

    時の有力な宗教がキリスト教でなければ、その有力な別の宗教の名で同じ戦争が行われたであろう。要は偽のキリスト教徒にとって教義などどうでもよく、単純に戦争の大義名分が欲しかっただけである。

    キリスト教がそれらの戦争を起こした、キリスト教はそれらの戦争の責任がある、と考えるのは間違っている。真のキリスト教は平和を教えており、戦争を行った偽のキリスト教徒に汚名を着せられたのである。

  • 全能の逆説というものがある。

    例えば、全能者は自分が越えられない壁を作れるか、といったものだ。作れないなら全能者ではない。越えられないなら、やはり全能者ではない。よって全能者は存在し得ない。

    これは哲学的なナンセンスだ。何故なら、答えは至極簡単だ。

    全能とは、全てを行う能力がある、ということだが、全てを行なわなければならない、ということではない。CANとDOは別物だ。何を行うか選択する基本的な能力が、全能者にも当然ある。全能者には意志がある。

    先の例で言えば、そんな壁は作らない、という判断で、逆説は解決する事が出来る。

    全能者の存在は可能だ。

    そして、この原則の理解は、創世記の正しい見方に不可欠だと思う。

  • 科学はHOWを考える。宗教はWHYを考える。科学と宗教は両立し、補完し合う。

    科学をどんなに突き詰めたところ、何故、宇宙が存在するのか、人は何故生きるのか、そういった答えは出てこないだろう。

    陶器をどんなに観察しても、何故、それが造られたのかは分からない。何故、それが造られたの、それは陶器師に訊けば良い。それが自然な道理だ。

    聖書の神は、その理由を与えている。何故、宇宙が、そして人が造られたのか。

    そして人はどう生きれば良いのか、それも聖書に書かれている。いわゆる人間の取扱説明書だ。人間を創られた方は、当然、人がどう生きるべきか、どう生きれば幸せになれるか、誰よりもご存知だ。機械を作ったエンジニアが、その機械がどう使われるべきか熟知しているのと同じだ。誤った使い方をすれば壊れる。

    人が知るべき事全てを、神は聖書に収めて残して下さった。とても愛情深い取り計らいだ。後は人がそれに気付くだけだ。神に近づく時、神は近付いて下さる、そう聖書に書かれている様に。

    ヤコブ4:8

  • 聖書は神話ではない。

    昔々あるところに、といったごまかしはない。例えばエデンの園の場所についても、明確な地理的参照がある。

    一方、真剣な研究をしなければ、何を言っているのか分からない箇所も聖書には多い。筆者や読者の理知、論理を超えた内容が書かれている。神話であれば、物語なので、そういったことは無い。

    そして想像の産物の物語であれば事柄に対する論理的説明も無い。神話では、何があったか語られるが、どの様に、何故といった説明は無い。しかし聖書の場合、深い研究をすると、一貫した論理的説明が見えてくる。

    遥か昔に書かれた聖書を使い、現代の哲学者、生物学者、天文学者、地理学者、歴史家などと対話する事は十分可能だ。聖書には時代の人知を先んじた知恵が書かれており、神話と異なり具体的な記述から逃げてもいないからだ。

  • >>No. 15

    あなたが述べたこと自体、矛盾している。全能者は全て出来ると前提しておきながら、全能者は論理に勝てないとしている。全て出来るのであれば、非論理的であることも出来るのではないか?

  • >>No. 19

    私はあなたの論理自体に矛盾を感じたので返信しました。

    全能者が成立しない、或いは全能者は非論理的である必要があるとは、私は感じていません。

    それでも全能者が非論理的とお考えであれば、この考えは如何ですか。全能者がいるのであれば、当然、私達人間の理知を超えている。私達人間の理解が付いていくと、何故確信が持てるのか。何故、一介の人間が全能者を判断出来るのか、と。

    かつて人間は地動説を愚かと考えなかったか。かつて人間は時間は伸び縮みしないと考えなかったか。しかし人間の理解は変わった。何故、今の人間の理解を超えていれば、非論理的であるのか。

    人は右と左に同時に行くことは出来るか。そんなことは非論理的で出来ないと言うだろう。しかし一条の光には同時に右と左に広がることが出来る。全能者であれば、尚更、あなたが思いもよらない様な方法で、全く論理的に、人には一見矛盾と思えることをこなせるのではないか。

    一介の人間の知恵には限界がある。人間の知恵より、謙遜さは宝です。

    しかし、答えは私の当初の投稿通り、もっと簡単で、こんな複雑な話ではない。

    聖書は何度も神が全能だと書いている。しかしテトス1:2では、神は偽ることが出来ない、と書いている。どう言うことか。

    神より下位の人間でも嘘は言える。当然、神にも嘘を言う能力はある。しかし、嘘は言わない。CANとDOは違いということです。出来る、と、しなければならない、は違う。しないということを選ぶことが出来なければ全能ではない。

  • >>No. 22

    もし私を説得したいのであれば、もっと論理的であって欲しい。

    常に聴く耳を持たない者がおり、その者が整えられるまでは真理を伝えても無駄だ、と聖書は教えている。信仰は説得するものではなく、誰もあなたに真理を強要はしない。あなたはあなたの信じることに責任を持てば良い。私としては言うべきことは伝えた。

    そして、只の野次であれば、これ以上は取り合わない。

  • 全能に対して正しい見方が持ててこそ、全知に対する正しい見方が持てる。

    全知とは全てを知っている、ではなく、望むなら全てを知る力がある、ということだ。

    聖書の神に於ける全知全能とは、全てを行う力、全てを知る力がある、ということであり、全てをする或いはした、ということや、全てを知っている或いは知っていた、ということではない。

  • >>No. 28

    ご興味を持って頂き、有難うございます。何かご参考になれば嬉しいです。

    ここのシステムは掲示板ですが、独り言の様に呟けば、それはブログ的な使い方も出来ます。このスレッドには、実際そういうところがあります。

    あの方は議論が出来ないようです。そもそも論理的な話にならない。只、他人の考えを否定したいだけの様です。何を言っても否定したいのみ。目的は議論でなく、暇潰しの否定です。そして自分自身の思想は無い。確かに参加は自由だが、築き上げず壊すだけが目的なら、それは場違いな只の迷惑行為です。自由をはき違えている。マナーがなっていない。

  • あなたが車に轢かれそうになった時、友が守り、身代わりとして轢かれて死んでしまった。

    あなたがナイフで刺されそうになった時、父が身代わりに刺されて死んでしまった。

    あなたは車やナイフのモチーフを大事に持ち歩いたり、友や父の記念の際に用いるだろうか。その様なことを、友や父は嬉しく思っただろうか。

    大切な人の処刑道具を崇拝に用いている現代のキリスト教は、何かがおかしいと思われませんか。

    これには歴史的な裏がありますが、先ずは疑問を持って欲しい。

  • >>No. 113335

    カトリックの方にマリア崇拝がおかしいというのが理解出来ないのと同様に、プロテスタントの方も三位一体がおかしいと理解出来なくなっていると思います。どんなに聖書から説明しても通じない。習慣は強力です。

    真っさらな気持ちで聖書に向かえば、分かると思います。

  • >>No. 113344

    だから私はクリスマスを引き合いに出しました。こんなにおかしな習慣をおかしいと気付かない。感覚が麻痺しているのではないか、と気付いて欲しかったからです。それに気付ければ、その他にもおかしいことが残っていないか、と自問出来るのではと願って。

  • >>No. 113343

    イエスはcreationとなっています。Createdであり、創造者が先にいたことになります。

  • >>No. 113342

    サンプルで良いので他の聖句もご紹介願えますか。

  • >>No. 113341

    私がハイライトしているのでは言葉はbornとcreatureです。Imageではないです。生まれた、のであれば生んだ者がおり、creatureは被造物なので、創造者を前提に要します。

  • refとles同一人物です。混乱させたらすみません。

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