ここから本文です

投稿コメント一覧 (544コメント)

  • >>No. 5

    >秀吉以降の日本史は歴史の必然と言っても過言ではない。歴史の大きな流れを見ればこどもにでも理解できるはずだが、日本の学校教育は偏向していてあえて教えない。

    歴史において無数の意外と偶然があるが、すべて行いは人為的なもので、自然に起こったものなど何も無いのである


  • >初めは確かに領土拡大、関税自主権が目的だったかもしれません。
    >あの戦争はほぼ、自衛のための戦いだった、と思います。

    日本がバスに乗り遅れるといつまでも小日本で終わる。大日本となるためにはバスに乗らねばならぬ、バスに乗るためにはアメリカと一戦を辞せぬという覚悟が必要だ。問題は、独伊が最後に勝つから英米と敵対しても勝馬に賭けた方が得であり、このチャンスを逃すと日本は膨張の機会を失うからです。

  • >>No. 15

    >歴史の必然性を全否定してどうすんだ?

    歴史の必然性というものはない。歴史は要するに人間の所作の結果です。つまり、自然現象の必然性とちがって、人間の行動を通じてしか実現されんのじゃよ!

  • >>No. 5

    >おまえは何もわかっていない。日本が朝鮮を強制開国させたのは欧米にいじめられた鬱憤晴らしなどではない。日本の独立を守るため、つまり安全保障上絶対に必要だったからだ。

    維新を達成した若者たちの大先生である明治維新を陰でささえた大思想家、吉田松陰は、「欧米には従属しながらその代償を朝鮮・満州で得べしと」と教えています。若者たちは欧米に従属する道を選びます。そして、いろいろと指導してもらいながら、若者たちが自由に動かせる軍隊を作り、欧米列強に行われたものを同じように日本も海外に進出して国威を世界に示そうして、手始めは、弱い朝鮮を狙ったのです。

  • >>No. 11

    >それができなかった中国や朝鮮のその後を見れば、明治維新が必要であったことは明らかでしょう。
    当時の日本に、欧米のモノマネでなく、新たな資本主義の可能性を実現する実力があったと思いますか?

    ペリー (アメリカ東インド艦隊司令長官)は「実際的および機械的技術において、日本人は非常に巧緻を示している。日本人がひとたび文明世界の過去・現在の技術を有したならば、強力なライバルとして、機械工業の成功を目指す競争に参加することであろう」と述べています。また、鉄砲伝来をみても、日本はモノマネについては世界からみても素晴らしいところがあります。明治維新がなくても、西欧から文化との接点が多くなればそれなりに産業革命が行われたと思います。徳川慶喜は近代化を進めていましたので、工業が発展して、輸入国から輸出国に転化する時代が早まったと思う。明治の中央政府は徹頭徹尾、武力によってその「正統性」を確保しなければならなかったのです。結局彼らが作った権威だけでは、国内の不満を抑えることができず、その不満を対外にもって行く方向にしかならなかったのです。明治維新以来、対外膨張路線はその表れです。徳川慶喜主席の諸侯会議なら、「尾大の弊」の弊害もすくなく国内の不満も薩長体制ほどではなかったと思う。「尾大」とは討幕の挙兵を意気込む下級武士・農民・商人などをふくむ兵士大衆のエネルギーを指導者が統制しきれない情勢を意味しています。それに国際社会の荒波に乗り出したからには避けることのできない暴風に見舞われ、危機に臨むごとに、近代精神に逆行して、最後には天皇を神様に祭りあげてしまいます。徳川なら約700万石、全国の約四分一の石高を占めているぐらいの勢力をもっていたので、武力による「正統性」も必要も無いです。
    徳川慶喜の日本統一国家のプランは、西周助が考えます。政府の頂点に徳川慶喜が大君として就任する。政府は大阪に置く。議会は上院と下院のふたつで、上院には万石以上の大名を招集する。下院の方には有能な藩士を登用するというものです。実際当時においては、現実的な外交交渉を行いえることができたのは徳川幕府だけです。

  • >>No. 20

    前項の続き

    江戸後期になれば寺子屋や藩校が急増しはじめ、蘭学、医学、条理学、国学、絵画と多分野にわたって、新しい学問がおこります。よく外圧により、日本の近代化が始まったと考えるのが、普通になっています。しかし、近代化の要因が外圧にあるのなら、なぜ他のアジア諸国は外圧によって近代化しなかったか。なぜ日本のみが短期間に近代化に成功したのであろうかと思えば、明治になるまえに江戸時代に多くの近代的な動きがあらわれていたからだと思う。実際江戸後期た近代的統一国家への思想も全国に普及します。ところで、このように明治維新まえに近代化の萌芽があったから、急激に明治以降に近代化に成功した半面、維新以後も日本特有な封建的体質が根づよく残っていたという両面があったのです。

  • >>No. 5

    >欧米列強との不平等条約を改正するためには富国強兵の道を進むしかなかった。

    欧米列強に習って日本も他の国の土地や市場を奪うためには「強兵富国」の道を進むしかなかった。

  • >>No. 11

    >明治維新、富国強兵、日清・日露戦争という流れは、欧米列強から対等の国として扱われることを一大目標としていた明治政府の高官による懸命な働きの成果です。
    なぜ「欧米列強から対等の国として扱われることを一大目標としていた」のかは、既に述べましたが、「欧米列強との不平等条約を改正するため」です。
    なぜ「欧米列強との不平等条約を改正する必要があった」のかというと、「不平等条約により日本には関税自主権がなかったため富の蓄積ができなかった」からです。


    当時不平等はそんなに意識されておらんよ
    不平等を強調する教育に洗脳されているじゃないかい

  • >>No. 34

    前にいうておりますが、維新を達成したものらは、だいだいが田舎ものの若者たちであったのです。維新の若者たちは外国条約などの事は少しも分からないし、もとりより外国条約などは、研究したこともなければ、意見もなかった。だから条約改正の草稿などを示されても、維新の元勲はこれを持ち帰って自分の書記官に示し意見を尋ねるが、これらの書記官等は地位を作るのに汲々たる輩であったので、何か意見を呈せざれば、働きなきがごとく思われるのを恐れて、アカデミカルな論を持ちだすと、元勲らはこれを見る学識がなく、直ちにこれをもって自己の論として主張するのが常であったのです。だから長年に渡って改正されんかったのです。

  • >>No. 9

    >結局彼らが作った権威だけでは、国内の不満を抑えることができず、その不満を対外にもって行く方向にしかならなかった<

    >これは違うでしょう。
    対外に出たように見えるのは防衛のためです。
    殖民地化の阻止ですね。
    あえて国民の不満が有ったとすれば外国の脅威そのものでしょう。


    日清の開戦をめざして若者たちが努力したのは、彼らの野望によるところですが、結果的には、内政上の危機を外に転じ、その危機を回避します。つまり、議会の政府に対する攻撃により、最大の危機が訪れていたときに、豊島沖・成歓の勝報がつたわり、緒戦の勝利よって国民は熱狂します。国民の心はことごとく外に向い、もはや政府と議会の抗争もどこへやら、政府は議会のはげしい攻撃を恐れる必要は基本的にはなくなります。明治政府はただただ国内の不満を外に転ずるにとどまらず、あらゆる機会をのがさず、国民を軍事的勝利のうちに酔ひしいれさせて、政府のいっそうの強化を実現しょうとはかります。天皇を擁して本営をより戦地に近い広島に移動させたのは、国民がはじめて経験する対外戦争に、天皇が陣頭指揮するという形をとることによって、国民の距離をちぢめ、戦争を支持する世論と天皇さまを結びつけ、支配を強化しようという政府の思惑があったのです。さすが、維新を達成するほどの若者らのやることが違いますね!内政の危機を外に転じた見事な勝利です。日清の開戦をめざして若者たちが努力した理由は次のとおりです。世間は大事業の成敗をもって人を褒たり貶したりします。そして成敗の最も著しいのは戦争です。だから、英雄とか偉人になるためには、古今、政治家で国民の信用を得て大事業をなしたる者、門閥や世家の人を除く外は、皆戦争の勝利によるしかなかったのです。

  • >>No. 46

    >少壮の志士が主役だったのは、安政期の幕末動乱の初期の頃。倒幕が現実の日程に上がる頃は、藩自体が動いていた。だから維新をもたらしたのは、若者ではなく、藩上層から中堅層ですな。

    「維新をもたらした」ものじゃなく「維新を達成したものら」というております。

    >不平等条約を結んだのは、幕府首脳ですよ。

    条約を結んだのは、幕府首脳ですが、「不平等条約を結んだ」という意識が当時は無かったと思うが。
    それに幕府首脳はこの時代あっては、不備はあるにしても、当時外国との折衝は上出来だったと思う。戦争に敗れて講和条約という形で国を開き、巨額の賠償を支払わされ、領土を奪われ、武力で驚かされ植民地のような条項を、飲まされたりするケースがほとんどです。そのなかにあっては、平和的な交渉によって不平等の少ない条約が締結されております。だいだい、 維新を達成した若者たちは条約の改正を目標にするほど余裕は無かったと思うが。

    >意識はあったはず。というか、意識という問題ではなく、現実の力関係で、明治初期は外国商人の力が国内商業資本を圧倒していた。
    明治7年における輸出入の取扱高は、どちらも99%が外資。

    明治維新、富国強兵、日清・日露戦争という流れは・・・・欧米列強との不平等条約を改正するため」と不平等条約を過剰に意識強調しているから、その理由を述べ「そんなに意識されておらんよ」というただけですが

    >この中で、明治政府はよくやったと思うよ。銀行、保険、海運と重点を絞って徐々にではあるが、確実に失地回復を主導した。

    その裏面を見んといかん!

    ところで、日本は明治維新から野蛮になっていったのは、なぜですか?

  • >>No. 50

    >それはわかっています。
    「田舎の若者」が反幕運動をやっていたころは、誰も倒幕を唱えていない。
    倒幕、維新が現実目標となったのは、大藩が組織として動くようになってから。

    薩摩藩の指導権を西郷隆盛が握ったときから、「倒幕、維新が現実目標」となったんだよ!

    >それはそうだ。交渉に当たった幕府には、外国との通商条約そのものの経験がない。外国貿易自体が全く未熟。長崎での対オランダ、対清の経験など全く参考にならない。

    幕府は、ペリーの危機に大規模な幕政改革と当時の時勢の変化に対応できる人材の登用を積極的に進めていました。それに西欧の文明を吸収するために、洋学所のちの開成所を設立します。そのような積極的な外交政策により、桃の節句の日に、平和的に不平等の少ない日米和親条約が調印されます。これにより二百年あまりの鎖国は破れ、開国の日を迎えます。

    >長州藩の尻拭いともいうべき下関戦争の講和条約がそれにちかい。もちろん、長州藩の外国船への砲撃は、幕府の命令によるけど。
    まあ、維新後は結局明治政府が、賠償金を払う羽目になったが。

    長州の血気盛んな後先をもたん若者らが藩政を把握したおかげで、幕府は苦労することになります。

    >幕府の結んだ条約は、立派な?不平等条約ですよ。その条件は、ほとんど「植民地にちかい。

    「そのなかにあっては」というておりますが!
    「植民地にちかい」とは大人が無いと思うが

  • >>No. 51

    >明治時代に入って、国家は客観的に見て破綻している。
    幕末の開国によって国際社会と繋がらざるをえなくなった。しかし、産業は未発達、貿易は外資に握られ、国内の資金が垂れ流しの状態だ。

    江戸後期になれば寺子屋や藩校が急増しはじめ、蘭学、医学、条理学、国学、絵画と多分野にわたって、新しい学問がおこります。江戸後期には近代的統一国家への思想も全国に普及しております。ペリー (アメリカ東インド艦隊司令長官)は「実際的および機械的技術において、日本人は非常に巧緻を示している。日本人がひとたび文明世界の過去・現在の技術を 有したならば、強力なライバルとして、機械工業の成功を目指す競争に参加することであろう」と述べています。また、鉄砲伝来をみても、日本はモノマネについては世界からみても素晴らしいところがあります。明治維新がなくても、西欧からの文化との接点が多くなればそれなりに産業革命が行われ、とくに徳川慶喜は近代化を進めていましたので、工業が発展して、輸入国から輸出国に転化する時代が早まったと思うが。

    >そこで明治政府は金融、保険、そして運輸の整備を進めたた。
    一方、先般世界遺産に登録された富岡製糸場に代表されるような産業の工業化先進化を進めた。
    もちろん、国内問題の処理も並行して進めた。江戸時代最大の政治課題は、士族問題処理だ。これには莫大な経費もかかるし、旧勢力との駆け引きも一筋縄ではいかない。
    国家運営は複雑だ。表に出たものをなでるのではなく、その裏面を見んといかん。

    まだまだ、表面しか見ておらんよ!

    >19世紀の国家としては普通の状態ですが、何か?

    明治維新当時、国家として「普通」とはどのような状態ですか?

  • >>No. 53

    >歴史小説ではね。
    しかし、西郷にしても、実態は薩摩藩の一幹部にすぎず、彼の権限は薩摩藩の一部しか及ばない。
    ま、ともかくも維新をもたらしたのは、田舎の若者ではなく、大藩を背景にした政界の実力者たちだよ。

    それでは、「倒幕、維新が現実目標」とならんじゃないかい

    >和親条約締結の前後も、ずっとハリスに主導権を握られていたけどな。
    そして、和親条約に続いて、日米約定、日米修好通商条約と、どんどん攻めこまれて、結局不平等条約を結んだのも幕府だけど。

    初めてだからあたりまえだ!平和的に開国したんだから、上出来だと思う。

    >その長州藩に攘夷の命令を下したのが、幕府だけど。
    ときに、この下関戦争時点での「血気盛んな後先を持たん若者ら」のほとんどは、蛤御門の変あたりで死に絶える。

    あのね~~~そこから若者らは逃げ帰り、のちに挙兵により長州藩の藩政を奪ってしまうんですよ

    >幕府が米英仏蘭露と結んだ条約は、日本にとって完全に不利。
    関税自主権がなく、また居留の外国人の裁判権もないという、植民地に等しい扱いだ。
    おまけに最恵国待遇までつけさせられたわけで、ハリスの完全勝利といっていい。経験不足、国力不足によって、まともな交渉とならなかった。

    関税自主権がなくても当時は結構喜んでおりますよ!

    >果たして、この条約締結後、政治的にも経済的にも大混乱となり、やがて安政の大獄となっていく。

    混乱を鎮めるためにやっておるんだから、仕方がないと思うがよ

  • >>No. 54

    >その話は、フランスが幕府に持ちかけた。しかし、この情報が他藩に流出し、一気に幕藩体制を崩壊に導いた。

    「幕藩体制を崩壊に導いた」のはイギリスが協力したからですが

    >明治初期の最大の政治問題である、廃藩置県はどうだね。上記の改革の根本はここにある。こういう裏面を見ずに上っ面だけであれこれ言っても、それは、三文時代小説でしかない。

    廃藩置県によって失業する40万人から50万人におよぶと推定される士族の不満のはけ口を探さんと、いかんようになるんだよ

    > 経済的にも政治的にも外国の介入を受けずに自立する状態だよ。要するに他国の植民地にならない国をいう。
    そのモデルは、19世紀の段階にあっては欧米諸国しかない。
    歴史は、それぞれの時代の現実を踏まえねばならん。表も裏も見て現実的思考をしないと、それはただの時代劇でしかない。

    なら今でも日本はアメリカの植民地ですね!

  • >>No. 58

    >おいおい、倒幕は、西郷一人がしたわけではない。薩摩藩が組織的にうごき、他の藩も動き、その他の社会的変動も加わって地滑り的に発生したものだ。そこが時代小説と現実の歴史の違いだよ。

    「その他の社会的変動も加わって地滑り的」とは、具体的になんですか?討幕ですか?
    「倒幕、維新が現実目標」となったのは何時ですか?

    >戦争が起きなかったのは、一方的に幕府が妥協したから。ハリスにすれば、外交交渉で必要なものは確保したから、戦争に訴える必要がなかった。

    「一方的に幕府が妥協したから」じゃなく、中国にこりて、本国から平和的交渉するように指示されていたんだよ

    >ときに、この下関戦争時点での「血気盛んな後先を持たん若者ら」のほとんどは、蛤御門の変あたりで死に絶える。

    若者らは外にもおりますが

    >外国はね。

    幕府側も喜んでおるよ!

    >果たして、この条約締結後、政治的にも経済的にも大混乱となり、やがて安政の大獄となっていく。

    討幕側がその混乱を大いに利用するから。どっちもどっちだね!

  • >>No. 59

    >結果として、江戸幕府は徐々に自分の首を絞めた。

    完全に「首を絞めた」のは、王政復古のクーデターですが

    >それに、この不平等条約によって被った被害は、明治政府に引き継がれた。
    ここで明治政府が清国、朝鮮、インドあたりのレベルであれば、日本はジエンドだった。

    明治以来、日本は、アジアで最初の名実ともに完全に独立した国となり、小さな島国からたちまちにして欧米先進諸国の水準にせまる産業と、世界のどの国にもおとらぬまでに普及した国民教育、 世界一流の大軍備をもつ、大日本帝国になります。その裏面では、国民は、「インド以下」という極端な表現をされた例もあるほどの貧窮を強いられ、民主的な諸権利と自由はほとんど与えられず、不断の海外戦争にかりたてられつづけ、最後には「ジエンド」になりましたよ!

    >徳川慶喜の頃には、幕府財政は破綻している。
    開港以後の混乱で、幕府の支出は急増した。長州征伐、将軍上洛の経費や、軍備整備費等だが。それを賄っていたのは貨幣改鋳と御用金だ。しかし、第二次長州 征伐の1866年には、それも手詰まり。第二次長州征伐の1866年には、370万両の収入に対して470万両の支出だ。

    今の日本も毎年赤字ですが、破綻しておりません!
    関税収入のノビを忘れていませんか?

    >士族は明治になって、いきなり無祿で放り出されたわけではない。それまで各藩が雇用していた人員の人件費を、明治政府が負担するのだが。これが実に重い。しかし、その人件費を、江戸時代は藩が負担していたわけだ。
    歳入の多くを士族という一階級(人口の約一割)に使って、国の近代化ができるはずがない。

    明治政府が最初に直面した問題は、「尾大の弊」をどうするかですよ!

    >幕藩体制は、すでに限界だった。

    そうとも限らんよ!

  • >>No. 66

    >そもしもの下地は、安政の大獄の反動による雄藩の発言力の増大だが。
    時期的には、第一次長州征伐から第二次長州征伐の間。この間は、君の大好きな裏面の動きが活発になる。この間に起こったあらゆる事件だよ。これが幕府を追い詰めていった。

    君が言うておる、私の「大好きな裏面」とはなんですか?

    「その他の社会的変動も加わって地滑り的」ように歴史は自然におこらんよ!

    強いていえばそのへんは単なる政治闘争です。

    >薩長の六ヶ条盟約だろうな。慶応二年のことだ。

    若者らは密貿易でイギリスから武器を調達して倒幕に邁進します

    >例えば、誰?

    吉田松陰の残った弟子らですが

    >幕府が何を喜んだって?

    独占貿易と関税収入ですが

    だからみんな条約に反対したんですよ!
    中には単純なものもいましたが

    >慶応の初め頃までは、公武合体、朝幕二重構造が大成を占めていたのにね。薩摩でさえ。

    これではいつまでたっても若者らの出番がこんから密貿易で武器を仕入れ倒幕の準備をしたんじゃないかい

    >王政復古のクーデターは、幕府が自壊していった結果。

    政治闘争の典型的な例ですよ
    大政奉還よる徳川慶喜の日本統一国家のプランで良かったと思うがね!
    結局王政復古のクーデターで日本はすっかりおかしくなりました。結局彼らの権威だけでは、国をまとめることができなかったので、対外戦争を繰り返すことによって国をまとめていかなければならなかったのです。そして、勝利よって国民は熱狂して、差別意識が増幅され、最後には「ジエンド」になります。

    >明治政府が 、他の印亜の政府並みだったなら、植民地だったわけで。

    明治政府とは関係がない
    日本人はそんなにやわじゃない
    民族意識が単一で純粋だからね

  • >>No. 67

    >徳川慶喜の頃には、幕府財政は破綻している。
    開港以後の混乱で、幕府の支出は急増した。長州征伐、将軍上洛の経費や、軍備整備費等だが。それを賄っていたのは貨幣改鋳と御用金だ。しかし、第二次長州 征伐の1866年には、それも手詰まり。第二次長州征伐の1866年には、370万両の収入に対して470万両の支出だ。

    貿易で立国に専念すれば、そのぐらいは微々たるものです。日本人は鉄砲伝来をみてもモノマネについては世界でも一番得意とするところです。西欧との接点が多くなれば輸入国から輸出国に転化するのは目に見えている。

    >現代の日本と、江戸時代の日本とでは条件が違いすぎる。

    なんとかなるということですよ!

    > 不平等条約の結果、日本は関税自主権を失った。日本は、経済的後進性を自ら保護する手段を持たなかった。いや、幕府の交渉担当者の未熟により、そういう発想さえなかった。

    君はわかっておらん
    幕府は開国前から研究して、また後人のためにその経過を綿密に残しておる
    その経過は次の言葉で確認ができます。「海防掛・外国奉行・遣米特使派遣・通信全覧」など
    幕府は欧米列強の外圧を主体的に受け止め、歴史を学び外交折衝に学んで近代外交を切り開くために外交資料集や外交文書を編纂して真剣に取り組んでいたんだよ!
    この辺は維新を達成したなにも分からん若者らとはだいぶ違う

    >士族は明治になって、いきなり無祿で放り出されたわけではない。それまで各藩が雇用していた人員の人件費を、明治政府が負担するのだが。これが実に重い。しかし、その人件費を、江戸時代は藩が負担していたわけだ。
    歳入の多くを士族という一階級(人口の約一割)に使って、国の近代化ができるはずがない。

    近代化の素地は日本人ならみんな持っておる!
    ペリー 「実際的および機械的技術において、日本人は非常に巧緻を示している。日本人がひとたび文明世界の過去・現在の技術を有したならば、強力なライバルとして、機械工業の成功を目指す競争に参加することであろう」と述べておるよ

  • >>No. 70

    >ところが、これは以外に早く片付いている。というのも、不穏な動きは薩長の一部にとどまったからだ。

    ??????

    「不穏な動きは」西郷が率いる薩摩の士族の全軍隊ですが

    >それ以外の、日本国のほとんどの藩では、幕藩体制の清算がどんどん進んでいる。明治政府に対して、の旧官軍主力藩地で反政府活動が連続したにもかかわらず、散発的で他に波及しなかった。政府はこれを各個撃破し乗り切っている。

    それは、明治政府がんばったからじゃないよ!
    ほとんどの藩の台所が火の車だったからです
    それで喜んでいる藩主はたくさん居たと思うよ!

本文はここまでです このページの先頭へ