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投稿コメント一覧 (17354コメント)

  • >>No. 7672

    滅度 とは 今生往生 した 浄土涅槃界 の 虚空。

    この虚空に如来は生き生きとおわします。

    我はその浄土の大地にあって、如来と等し。

    浄土の大地は全てが崩れ去ってしまった娑婆の大地の岸にあり。

    弥陀の生起本末を聞いて疑いなし、信の一念 で瞬時に この歓喜地不退転の地 に生まれさせていただける。

    これ 親鸞聖人の南無阿弥陀仏 の 奥義。

    いまだ生まれざる者、この真実一如の浄土を知らず。

    なむふみだぶつ

  • No.7734

    願作仏心

    2013/01/13 16:27

    >>No. 7730

    この一行一心なるひとを摂取してすてたまはざれば阿弥陀となづけたてまつると光明寺の和尚はのたまへり。
    この一心は横超の信心なり。横はよこさまといふ、超はこえてといふ、よろづの法にすぐれて、すみやかにとく生死海をこえて、仏果にいたるがゆへに、超とまふすなり。これすなわち大悲誓願力なるがゆへなり。
    この信心は摂取のゆへに金剛心となれり。
    これは大経の本願の三信心なり。
    この真実信心を世親菩薩は、「願作仏心」とのたまへり。
    この信楽は仏にならんとねがふとまふすこヽろなり。
    この願作仏心はすなわち度衆生心なり。
    度衆生心とまふすは、すなわち衆生をして生死の大海をわたすこヽろなり。
    この信楽は衆生をして無上涅槃にいたらしむる心なり、この心すなわち大菩提心なり、大慈大悲心なり。
    この信心すなわち仏性なり、すなわち如来なり。
    この信心をうるを慶喜(うべきことをえてよろこぶこヽろなり)といふなり、慶喜するひとは諸仏とひとしきひととなづく。
    慶はよろこぶといふ、信心をえてのちによころぶなり、喜はこヽろのうちによろこぶこヽろたえずしてつねなるをいふ、うべきことをえてのちに、みにもこヽろにもよろこぶこヽろなり。
    (唯信抄文意)

    ≪大信海≫の信楽とはこういうものなんだな、ニセ菩薩くん。

    泥凡夫たるものは 他人がミロクボサツなどといったり、思ったりしたら

    真っ先に恥じ入り穴に潜るか、行ってそんなことは決して言わぬ、思わぬにしてくださいと土下座して頼むかだ。

    お前は 泥凡夫でも弥勒菩薩でもない ただの俗人。

    アメくんと同じ世界の住人なんだ。

    こんなところで出鱈目親鸞騙りなんぞしてないで、失せなされ。

    なむあみだぶつ

  • >>No. 7732

    何度言ってもわからんやつだ。

    常行大悲の現生利益がまさにこの還相。

    普賢の徳に遵う者の始まりの姿。

    この完全さとはこの普賢行の究極の姿。

    つまりは 阿弥陀様と同体の普賢行。

    始まりと究極を一緒にしてしまうところに 地獄・極楽の二元論の出鱈目親鸞が巣食ってしまう。

    みちおくん、キミがその典型で、蓮如のハマってしまった南無阿弥陀仏なんだ。

    わかりなさい、この偽ボサツが。

    なむあみだぶつ

  • No.7739

    泥凡夫

    2013/01/13 16:41

    >>No. 7737

    ゆえに 今生で 瓦礫が金へと ようよう酔いもさめゆき、大氷山のように氷かたまった心が徐々に溶けだしていくんだ、信後の億念の念仏に。

    わからんやつだ。

    即とはイコールではないんだ。

    「往生要集」にもはっきりと示されているから、わしの書くもの読んでいきなされ。

    なむあみだぶつ

  • >>No. 7737

    何度言ってもわからんやつだ。

    常行大悲の現生利益がまさにこの還相。

    普賢の徳に遵う者の始まりの姿。

    この完全さとはこの普賢行の究極の姿。

    つまりは 阿弥陀様と同体の普賢行。

    始まりと究極を一緒にしてしまうところに 地獄・極楽の二元論の出鱈目親鸞が巣食ってしまう。

    みちおくん、キミがその典型で、蓮如のハマってしまった南無阿弥陀仏なんだ。

    わかりなさい、この偽ボサツが。

    なむあみだぶつ

  • No.7778

    泥凡夫

    2013/01/14 00:11

    >>No. 7739

    ゆえに 今生で 瓦礫が金へと ようよう酔いもさめゆき、大氷山のように氷かたまった心が徐々に溶けだしていくんだ、信後の億念の念仏に。

    わからんやつだ。

    即とはイコールではないんだ。

    「往生要集」にもはっきりと示されているから、わしの書くもの読んでいきなされ。

    なむあみだぶつ

  • >>No. 7791

    全く 文字ずら評論家 の 増上慢 につける薬はないのかな?

    さんね が 如来直々の説法 を 親鸞聖人の南無阿弥陀仏 に見いだせた

    ような 信心会得 の 体験皆無 の人にどう伝えればいいのか。

    さんねの課題なのだが、いまだ出来ぬままでいます。

    しかしこれも何かのご縁。

    テルゼくんもわしとの会話の中で、幾分なりとも親鸞聖人の南無阿弥陀仏を知り、少なくともアメクンよりも 謙虚な物言いになってきたようだ。

    もう少し諦めずに続けていくから、よく聞いてくだされ。

    帰命不可思議光如来

    南無阿弥陀仏

  • >>No. 7827

    戯けが、このにせみちお。


    宗教とはそんなもの 一か二 白か黒 丁か半

    信か疑 こんなところがあるだろ

    他力はそんなところがあるんだよ

      【心のありようだがね】


    あのな、この間は 南無阿弥陀仏 は ただの言葉 とぬかし

    今度は 【心のありようだがね】 ときた。

    全く 如来廻向の南無阿弥陀仏 という 信心 が 無い。

    心のありようなぞ コロコロ変わって 頼る所などなし。

    阿弥陀様廻向の南無阿弥陀仏 だからこそ こんな カメレオン凡悪 でも

    永遠の変わらぬ真実 として 一依に御頼み申す事が出来るんだ。

    真の信には必ずこの弥陀廻向の念仏が有り申す。

    念仏を言わなかったきみの父上も、観念の信に堕ちてしまった人のようだ。

    心のありようだ などと迷ってないで ただ信じて南無阿弥陀仏称えなされ。

    憶念の南無阿弥陀仏 とは 信の一念 の相続なんだよ。

    わかっている人なら 【心のありようだがね】 なんて戯けたことは、

    どんなに口が滑っても 言いはしない。

    また偽だと自ら告白してしまったようだな。

    きみには アメくんレベル がちょうどよい。

    テルゼ以下だよ、似せボサツみちお。

    なむあみだぶつ

  • >>No. 7837

    お前は 既存の寺の僧の実態を そのまま正当化してるだけだ。

    聖人は高田門徒衆など金銭的な援助はあったが、恵信尼の所領もあり、今の檀家搾取の坊さんたちとは全く違う。

    僧の堕落は末法の常といえども、自ら毒を好めとは言ってはおらん。

    後は自分で考えなされ。

    キミは堕落してしまった真宗教団や寺の坊さんたちをそのまま肯定しようとしているだけ。

    そんなところには 親鸞聖人の南無阿弥陀仏 などありはしない。

    聖人を本当に観音菩薩と認めているなら、今生での還相を認めるのは当然。

    聖人を特殊扱いして祭り上げてしまうのは本願寺教団の常。

    それでいながら 現代人をごまかすため 平気で 親鸞さん などと言えてしまう軽薄さ。

    お前の 偽 が ボロボロ。

    やめなされ、

    失せなされ、

    こんな出鱈目 許されるものではありません。

  • >>No. 7838

    お前は 中世の蓮如の亡霊に取りつかれた 生けるシカバネ シーラカンスみちお。

    ただそれだけ。

    いい加減に消えなされ。

    もう寝るぞ。

    なむな

  • >>No. 7845

    お前には 信心獲得がないから 信前信後 めちゃくゃごった煮。

    しっかり ボサツ だなどと名乗る前に 如来の声に一対一で臨みなされ。

    なむあみだぶつ

  • >>No. 7846

    お前の素直さは 何でもかんでも 盲信しろ ということ。

    如来の前に一人ありて 大悲大願を我が身に聞くことができる。

    これを 素直 と呼ぶ

    やりなおしなさい。

    なむあみだぶつ

  • >>No. 7857

    評論家くんのお話は 東西本願寺の蓮如の教条の文字面だけの なむあみだぶつ。

    親鸞聖人の 「教行信証」 をしっかり読んでからでないと 無理 だと思うが、

    わしの 「教行信証ノート」があるので しばらくキミの為に載せていった方がよいかな。

    ちと今忙しいので 「往生要集」 と並行してになるけど 暇を見ながら挙げていくから 真の親鸞聖人にふれていってくだされ。

    なむあみだぶつ

  • >>No. 7885

    即身是仏 が 禅。

    即身成仏 が 真言密教

    即得往生 如来と等し が 親鸞の南無阿弥陀仏

    ミチオには この違いもわからない。

    つまりは この三つの 共通性 も 理解不能。

    もっと勉強しないとだめだな。

  • >>No. 8018

    {往生要集}を読んでみな。

    厭離穢土 欣求浄土 の本当の意味が説かれている。

    ニセには念仏なかったはずだが、この頃称えるようになったんかな???

    ちと変わってきたようだ。

    超石頭でも弥陀の計らいははたらいているんだな。

    なるほど。

  • >>No. 8043

    アメくん、おはよう。

    これよくよく読むこと。

    そして みちお が 「菩薩」 であるという根拠を 示しなさい。

    なむあみだぶつ

  • >>No. 8045

    間に一つ投稿がはいってしまった。

    アメくん、これだよ。

    ----------------------------------------------------------------

    いいですかな、きみのような 出会いがしら の 信の一念 というものはないんだな。

    信の一念の通り方 とは 唯一つ。

    阿弥陀如来が為し成された業をわが身に聞ききる。

    弥陀の生起本末を聞いて疑いなし になるまで わが身に聞いていく。

    ≪「聞」といふは

    しかるに経に
    「聞」と言ふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。
    「信心」と言ふは、則ち本願力廻向の信心なり。
    「歓喜」と言ふは、身心の悦予の皃を形すなり。
    「乃至」と言ふは、多少の言を摂するなり。
    「一念」といふは、信心二心なきが故に一念と曰ふ、これを一心となづく。
    一心は則ち清浄報土の真因なり。≫
    (信巻)

    そして何より大切なのは、ただ盲目的に信をとれではないということ。

    ≪信不具足

    「信にまた二種あり。一つには聞より生ず、〔二つには〕思〔より〕生ず。
    この人の信心、聞よりして生じて、思より生ぜざる、この故に信不具足とす。また二種あり。一つには道ありと信ず、二つには得者を信ず。
    この人の信心、ただ道ありと信じて、すべて得道の人ありと信ぜざらむ。
    これを名づけて信不具足とす」といへり 已上抄出
    (信巻)

    「善男子、信に二種あり。一つには信、二つには求なり。かくのごときの人、また信ありといえども、推求にあたはざる、このゆゑに名づけて信不具足とす。
    信にまた二種あり。一つには聞より生ず、〔二つには〕思〔より〕生ず。
    この人の信心、聞よりして生じて、思より生ぜざる、この故に信不具足とす。また二種あり。一つには道ありと信ず、二つには得者を信ず。
    この人の信心、ただ道ありと信じて、すべて得道の人ありと信ぜざらむ。
    これを名づけて信不具足とす。≫
    (化身土巻)



    『聞よりして生じて、思より生ぜざる、この故に信不具足とす。』

    にせくんの ただ信心 というにせ説法とは 全く違う。


    ≪二つには得者を信ず。
    この人の信心、ただ道ありと信じて、すべて得道の人ありと信ぜざらむ。
    これを名づけて信不具足とす。≫

    親鸞聖人だけを還相の菩薩と別格に祭り上げ、我ら衆生はこの世では【因だけ】とただ道だけがあって、成就できることはいないと邪信に沈んでしまってる、ニセみちお。

    よくよく 親鸞聖人の直言に耳を傾け、真実信心を獲得しなされ。

    なむあみだぶつ

  • >>No. 8042

    アメくんこれが親鸞聖人の南無阿弥陀仏の奥義ですぞ。

    よくよく文字ずらではなく、文脈・行間に流れる 親鸞聖人の血脈を読み取ってくだされ。

    --------------------------------------------------------------
    末燈鈔

    [五]
    自然といふは、自はをのづからといふ。行者のはからひにあらず、然といふはしからしむることばなり。しからしむといふは行者のはからひにあらず、如来のちかひにてあるがゆへに法爾といふ。
    法爾といふはこの如来の御ちかひなるがゆえにしからしむるを法爾といふなり。法爾はこの御ちかひなりけるゆへに、おほよす行者のはからひのなきをもて、この法の徳のゆへにしからしむといふなり。すべてのひとのはじめてはからわざるなり。このゆえに義なきを義とす、としるべしとなり。
    自然といふは、もとよりしからしむるといふことばなり。
    弥陀仏の御ちかひの、もとより行者のはからひにあらずして、南无阿弥陀仏とたのませたまひて、むかへんとはからせたまひたるによりて、行者のよからんとも、あしからんともおもはぬを、自然とはまふすぞ、とききてさふろふ。
    ちかひのやうは、无上仏にならしめんとちかひたまへるなり。
    无上仏とまふすは、かたちもなくまします。かたちのましまさぬゆへに自然とはもふすなり。かたちましますとしめすときには、无上涅槃とはまふさず。
    かたちもましまさぬやうをしらせんとて、はじめて弥陀仏とまふす、とぞききならひてそふろふ。
    弥陀仏は自然のやうをしらせんれうなり。この道理をこゝろえつるのちには、この自然のことはつねにさたすべきにはあらざるなり。つねに自然をさたせば、義なきを義とすといふことは、なを義のあるになるべし。これは仏智の不思議にてあるなり。
    石田瑞麿 親鸞全集より

    ------------------------------------------------------------

    ちょっと ヒント。

    親鸞聖人の成仏観だね。

    聖人は 往生という言葉を 即得往生住不退転 つまりは 今生にて如来と等しい者とされる 往生 と

    そして 如来廻向の義なきを義とする信楽 に 自然法爾 に かたちなき 无上仏 にならせていただける。即ちこの肉体がなくなって 成仏する。

    この二つに分けて説法されてる。

    この使い分けの 妙 が読み取れるようになると 面白いように聖人の息吹が感じ取れるようになる。

    帰命不可思議光如来

  • >>No. 8049

    きみは 十八願原理主義 なんだ。

    十九願にも信心決定があり、二十願にもまたありなんだ。

    一度だけの廻心。

    これはね、これらの 道を通過して初めて如来に廻向していただけるもの。

    最初から 一度だけの廻心 なんてことは 泥凡夫 にはありえない。

    禅の「大死一番」みたいなことではないの。

    こんなことをいってるから きみはまだ通過してないのが バレバレ にってしまう。

    それぞれの願のにおいても信心決定という思いはあるんだが、なかなか 如来廻向の一度だけの廻心にはいたれない。

    難中の難、これに過ぎたるはなし。

    聞不具足 信不具足 を繰り返しやっといただけた 如来の信心 でした。

    さんねにおいては、四十年の歳月を要してしまいました。

    なむあみだぶつ

  • >>No. 88418

    こんなテルゼの神の合一妄想と親鸞の南無阿弥陀仏をごった煮にしない。

    【神のはたらきを頂けば、必ずそのはたらきは他者へと向かうはずですね。】

    その結果、人格捏造までして誹謗中傷繰り返し、多くの方々の非難の渦に抗しようもなく、蒸籠の逃亡者をやっているネット人生。

    みんな神の働きのせいにして、自らを省みることも、懺悔することもない。

    いい加減にこんなもの載せて、自己満足するのは ヤメナサレ。

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